第九章 紅き衝突、黒き再会
『召霊石』がすでに完成している。
話し合いの冒頭、アウィンは厳しい表情でそう口にした。
『グラステッド山脈』の麓、『カラレア』で情報収集を行なっていた際、住民が目撃したと言っていた強い光の正体は、やはりその出現の明かしだったようだ。
予想していた事とはいえ、『精霊』召喚がいよいよ現実味を帯びてきた事態に、自然と気分が重くなる。
だが万策尽きてしまった訳じゃない。その証拠に、再び語り手となったアウィンの瞳は、決して暗く沈んだ色をしていない。
揺らめくような蒼い光が浮かぶ隠し洞窟の内部に、彼女の清んだ声が反響する中、『蒼司』一族の集落での一件を思い返していて、今更ながらにふと気付く。あの時俺は、セルティス・ブラッカーの介入によって退席を余儀なくされ、結局『対極召喚』の核心部分に触れる機会はなかったのだ。
あの後リネとアウィンは拐われてしまい、俺の方もゆっくり考える余裕を失ってたからな。ようやく本来の目的を達成出来るって訳だ。
「『対極召喚』を行う為に必要となるのは、『精霊』の力を引き出す為の器となるもの。『寄代』と呼ばれる存在です」
神殿の中央に輪を描く形で集まっている俺達の視線を、アウィンは一人の少女へと促す。
「今回の場合だと、『寄代』となる資格を持つのは必然的にリネさんになります。彼女は『精霊術』の力を持っていて、尚且つ我々が呼び出そうとしている『ホーリー・ディバイン』と同じ『光属性』をその身に宿している。現状、我々の側の『寄代』となれる人間は、彼女を於いて他にはいないでしょう」
「けど確か、『対極召喚』には『代償』が必要になるって言ってなかったか?」
『蒼司』一族の集落での朧げな記憶を思い出しつつ、アウィンに視線を送る。
すると彼女は、俺達の輪の中心に進み出ながら口を開いた。
「その通りです。ですが、『代償』として求められるものは必ずしも同一とは限らないと、先祖から伝え聞いています。つまり――」
「リネさん本人が『精霊』との対話に成功して、契約を結ぶ段階にならないと、何を要求されるかはわからないって事ね」
「ええ。全てはリネさん自身と、『精霊』との対話に掛かっています」
アウィンがそう締め括ると、全員の視線が自然とリネに集中した。
俺達一人一人に視線を送り返した後、躊躇いがちな表情を浮かべて、少女はやや俯いてしまう。
「あの、あたし――」
「なぁ、みんな。少しだけ、リネに考える時間をやってくれないか?」
リネが何かを言い掛けた瞬間、俺は無意識に彼女を庇うように一歩前へ進み出ていた。
思わずとはいえ、みんなの視線を引き受ける形になった俺に対し、背後でリネが申し訳なさそうに身動ぎした。
「一刻を争う事態だって事はわかってる。けど今回ばかりは、こいつに無理強いをするような真似、したくないんだ」
「おーおー、妬けるねぇこりゃ。嬢ちゃんの為に身を挺するとは、なかなか健気じゃねぇか弟子。いやー素晴らしきかな青春!」
「燃やすぞ眼帯野郎」
余計な事言わなくていいんだよ。話が脱線するだろうが。
透かさず苦言を呈してみたが、ランザは愉快げに笑うだけで反省の色を全く見せない。
横槍を入れる隻眼野郎に恨めしい念を送っていると、ミレーナが咳払いを一つ挟んできた。
「まぁランザの戯れ言はともかく、無理強い出来ないのは私達も同じよ。どうするかを決めるのは、リネさん本人なんだから」
「ミレーナさん……」
「それに話を聞いた感じだと、『対極召喚』ってのは今すぐに始められるような代物でもないんでしょ?」
腕組みしつつ、ミレーナは金色の瞳をアウィンに向ける。
冷静な視線で問われ、アウィンは僅かに頷く。
「下準備に関しては、術式を知っている私が全て行ないますので、多少の時間は掛かります。それに私の術式が完成しても、肝心のリネさんが『精霊』との対話を成功させておかなければなりませんから……」
「片方だけ出来上がってても意味がないって事ね。だったら尚更、焦る必要はないわ。冷静さを欠いたら、余計に考えがまとまらなくなるだけよ」
リネの肩に手を置き、ミレーナは気遣わしげに微笑んだ。
そうだ。俺達の中にリネを責めようと考える奴なんていない。乱暴に決断を迫る奴なんていないんだ。
全員の顔を見回し、最後に俺を見つめるリネ。
ミレーナと同じように、俺も微笑みながら頷くと、一瞬リネはまた泣き出しそうな顔になった。
彼女は涙を堪えるかのように、やけに行儀良く頭を下げる。
「みんな、ありがとう。……それから、ごめんなさい」
顔を上げたリネの表情は、光と影が混ざりあったような複雑さを孕んでいた。その様子から察するに、やはりまだ完全に気持ちの整理がついていないんだろう。
……まぁ、無理もない事だ。きっかけを作ったのが『精霊』だったとはいえ、彼女は自分自身の心の闇と向き合ってしまったんだ。
十数年抱き続けた柵を取り除くのは、決して容易な事ではないだろう。況してそれが、俺達人間に対する憎しみなら尚更だ。
俺は結局、みんなに詳しい事情を話していない。神殿内に戻るとすぐにアウィンが説明を始めた為、話す暇がなかったというのもあるが、正直な所それは言い訳に近い。
恐らく俺自身、自分で思っている以上にリネの告白に衝撃を受けているんだ。
彼女の本心を聞けて安堵している反面、やはりそうだったのかと落ち込んでいる自分がいる。どこかで何かを変えられなかったのかと、後悔している自分がいる。
リネと同様に、俺も気持ちの整理がついていない。そんな状態であの暗く重い告白を誰かに話してしまえば、リネの傷口を悪戯に広げてしまうような気がした。
だからこそ、みんなの気遣いには感謝してる。俺の葛藤が見抜かれているのかはわからないが、少なくともリネの心情に関しては、概ね察してくれているに違いないのだから。
「まぁ、嬢ちゃんに時間をやるのはやぶさかじゃねぇが、その間俺らはどうすんだ? 『対極召喚』とやらの準備が整うまで大人しくしてりゃいいのか?」
「まさか。時間をあげる相手はリネさんであって奴らじゃない。『対極召喚』はあくまで保険。『精霊』の召喚そのものを潰せるなら、それに越した事はない。でしょ、馬鹿弟子?」
「ああ。ジェイガとノイエだってまだ戦ってるんだ。人任せにしておくつもりはねぇよ」
賛同を求めるかのように意地の悪そうな笑みを浮かべるミレーナに、俺は即座に頷き返した。
大人しくしているつもりなんて毛頭ない。あいつらの計画なんて、誰に言われるまでもなく邪魔してやる。
「なら話は早いわ。ジェイガの事はノイエに任せて、私達は本命を叩きに行こうじゃない」
物々しい口調で発せられた言霊によって、全員の視線がミレーナに集まった。
彼女の金色の瞳は、いつになく強い光を放っているように思う。
「本命って……ボルガの事か?」
「他に誰がいるってのよ。リネさん達の話やこれまでの戦闘を踏まえると、『精霊指揮者』のメンバーも散り散りに行動してる可能性が高いわ。そう考えると、ボルガ自身の護衛は手薄になってるはず。敵方の大将を狙うには絶好の機会だと思わない?」
一瞬、また冗談を言い始めたのかと呆れそうになったが、我が師匠の顔付きは至って真面目なものだった。
割と温厚な性格の彼女らしからぬ好戦的な意見に、内心首を捻る。が、無茶な戦法だと否定する材料がないのも事実だ。
よって、取るべき行動は一つ。
「よし、それならチーム分けだ。侵攻組は俺とミレーナ、それからランザ。残りの三人は待機組って事でいいだろ」
「えっ、アタシも?」
仲間外れは嫌だとばかりに、不服そうな声を上げたのはルーシィだった。
まぁ確かに、リネやアウィンに比べれば戦い慣れてはいるようだが、俺や『英雄』の二人に付いて来られる程とはお世辞にも言い難い。
とはいえ、それを馬鹿正直に口にするのは気が引ける。こんな危険な所まで付いて来てくれた彼女に対して、それはあまりにも無礼が過ぎる。
「不満そうな顔すんなって。お前にもちゃんとした役割があるんだからさ」
「役割って、どんな?」
「俺達が離れてる間に、ここを察知したシグード達が攻めてくるかも知れないだろ? そしたら俺達と入れ違いになる可能性だってなくはない。だからルーシィにはここに残ってもらって、リネ達の護衛をしてほしいんだ。シグードの『魔剣』の気配を感じたら、二人を連れてすぐに逃げられるように」
「むー……、そういう事なら仕方ないかなぁ」
「物わかりが良くて助かるよ」
若干むくれているルーシィに労いを入れつつ、内心で安堵の溜め息を吐く。
『どこかの誰かさん』みたいに頑なになられない分、言葉は悪いがルーシィは扱いやすい。彼女の気分が変わらない内に、さっさと出発してしまった方が良さそうだ。
「待ってディーン」
傍らのミレーナとランザに移動を促そうとしたその時。現状で一番呼び止められたくなかった少女から声を掛けられてしまった。
無視する訳にもいかず、やや憂鬱な気分で振り返る。
「何だよ。付いて行きたいとかいう話だったら即座に却下するからな」
「……本当はそうしたいけど、今回は我慢する。そうじゃなくて、『精霊指揮者』の事で気になる事があるの」
「気になる事?」
前半部分は何を言っているのかさっぱりだったが、聞き返すと話が拗れるだけなので黙殺しておいた。
相変わらず、『どこかの誰かさん』は『精霊指揮者』以上に強敵である。
「『召霊石』の前でボルガ達が集まってた時にね、今まで見知ったメンバーの中に、見覚えのない人が混ざってたの」
「見覚えのないって、どんな人相の奴だ? 男か? それとも女?」
「それが、わからないの。その人、全然喋らなかった上にフードを被ってたから……」
首を捻り、思わずミレーナやランザと顔を見合わせる。
確かに気になる話だ。これまで『精霊指揮者』とは嫌という程遭遇と戦闘を繰り返してきた。なのに今更敵の数が増えるだなんて、厄介過ぎて笑えない。
唯一考えられる可能性として『内通者』の存在が挙げられるが、そいつは今現在『首都』に潜伏中のはずだ。分身でもしない限り、遠く離れた場所に同時に居座るのは不可能だ。
という事は、全く別の未知なる敵、なのだろうか?
「……わかった。教えてくれてありがとな、リネ。何者かはわかんねぇけど、とりあえず警戒しとくよ」
「うん。……気を付けてね」
前言通り、同行したい思いを我慢しているらしい。複雑そうな表情を浮かべるリネの肩に手を置き、俺は微笑みながら頷いた。
神殿の出入り口へと先に歩き出しているミレーナとランザに倣い、俺も歩みを進める。
見送るリネ達の視線は、神殿を出るその時までずっと、背中越しに感じられた。
◆ ◆ ◆
「――で、実際の所どうなんだ?」
神殿が隠されていた泉から、枯れ木の多い雑木林を北に向かって五分程進んだ頃。ほぼ並走している状態で、徐ろにランザが声を上げた。
それが自身に対する問いだと気付いたのだろう。傍らのミレーナが、ほとんど無表情のままランザの方を振り向いた。
「何の話?」
「おいおい、俺相手にまで惚ける必要ねぇだろ。ボルガの護衛が本当に手薄なのかって聞いてんだ」
真っ向から指摘されて押し黙るミレーナを他所に、ランザは少々乱暴な口調で続ける。
「俺が言うならともかく、お前みたいに慎重な奴が敵の大将を狙おうなんて言い出すとは、何かの冗談としか思えねぇ。でなきゃ相応の理由があると考えるのが妥当だ。――違うか弟子?」
話を振られ、俺はミレーナの横顔に焦点を合わせた。
勘や推測で話しているランザと違って、俺には確信が持てる。あの場面でミレーナがあんな台詞を吐いた理由は、一つしか考えられない。
「リネやルーシィの為、なんだろ? 相手の数が少ないって事は、それだけ俺達に及ぶ危険が減る。そうなれば大人数で行動しなくても平気だってあの二人に暗に伝える事で、俺達に付いて来ないようにしてくれたんだよな?」
問い掛けても、ミレーナはすぐに答えようとはしなかった。何となくその横顔は、俺達に悟られていた事を悔しがっているように見える。
やがてミレーナは、不服そうな表情のまま口を開いた。
「あの二人の性格からして、黙ってたらそのまま付いて来そうだったからね。面と向かって足手纏いだって言われるよりは、気分が落ち込まなくて済むでしょ。あのアウィンって娘は、その辺の事情も察してくれてたみたいだけど」
神殿内でのそれぞれの反応を思い出すかのように、ミレーナはやや遠い眼をして語る。
「それにしても、馬鹿弟子はともかく、あんたがそこまで敏感に察してるとは思わなかったわ。一体どういう風の吹き回し?」
やはり見破られた相手がランザだった事が気に喰わないらしい。彼に向ける眼差しが、それを露骨に表している。
今度は指摘される側になったランザは、そんな事などお構い無しといった様子で、豪快な笑い声を上げてから応じる。
「いや何。あの嬢ちゃん達には、俺も色々と思う所があるからな。他人事だってのに珍しく気に掛かっちまったってだけだ」
「安心しなさい。自分で珍しくなんて口にする辺りは、いつも通りのランザ・ダルベスだから」
「応ともさ。ついでに言わせてもらうと――」
ガシャッと、ランザは徐ろに背中の大斧の柄に手を掛けた瞬間、前方に向かって大きく跳躍し、大斧を地面目掛けて勢い良く振り下ろした。
直後。轟音と共に捲れ上がった無数の岩盤が、まるで生き物のように飛翔し、ランザよりさらに前方の茂みに向かって激突した。
突然の行動に驚き、俺はミレーナと共に脚を止めた。濛々と舞う大量の砂塵が、その破壊力を物語っている。
「こいつらの相手は俺に任せな」
地面から大斧を引き抜きながら、ランザは荒々しい口調でそう言い放った。
そこで俺は漸く気が付いた。徐々に晴れ始めた砂塵の向こうに、何者かの気配がある事に。
だが驚きはしない。寧ろ必然だと捉えるべきだ。
俺達が先へ進もうとする以上、敵方がそれを阻もうとするのは当たり前の事なのだから。
「予想より随分早いご登場ね。正直、あんた達を見縊ってたわ」
シグード、ラズネス、パーニャ。再び現れた『精霊指揮者』の面々を見据え、不敵な笑みを浮かべるミレーナ。と同時に彼女は、俺達に背中を向けたままのランザに声を掛ける。
「……三人相手よ。それでも任せて平気なのね?」
「当たり前だろ。むしろ俺にとっちゃ、これでもまだ足りねぇくらいだぜ」
どこか楽しげに大斧を振って返事をするランザに、ミレーナは呆れたように苦笑を漏らした。
止めても無駄だ。言外にそう告げているのがわかる。
「だってさ。行くわよ馬鹿弟子」
俺の返事を待たずに先行し始めるミレーナ。彼女の歩みに迷いが無いのは、ランザに対する信頼が厚いからに他ならない。
ならば、俺なんかが心配事を口にするのは野暮というものだろう。『英雄』と呼ばれる『魔術師』の力量を知っているなら尚更だ。
ミレーナに倣い、シグード達を避けるようにして走り出す。
直後、鼓膜を突き刺すかのような爆音が鳴り響き、吹き抜ける爆風が俺達の背中を後押しした。
◆ ◆ ◆
「やっぱり気になる? あいつらが追って来ない事」
またしばらく雑木林を進んだ頃、背後を一瞥した俺に、並走しているミレーナがそう言い放った。
視線を前に戻しつつ、俺はふと胸中に湧き上がった疑問を口にする。
「少しも気にならないって言えば嘘になる。相手がランザだからとはいえ、向こうは三人掛かりだったんだ。俺達の行く手を阻む手段なんていくらでもあったはずなのに、あの三人からは足止めする気概がまるで感じられなかった。って事は――」
「何か別の策を仕掛けてくる。そう考えるのが妥当ね」
俺の推測に賛同しつつ、煩わしげな表情を浮かべるミレーナ。やはり彼女も、俺と同じ懸念を抱いていたらしい。
だが、だとしたら奴らが仕掛けてくる別の策とは、一体何だろう?
思考開始と同時に、真っ先に脳裏を過ったのは、あの場にいなかったガイザックだった。あいつなら、俺やミレーナに執着して襲い掛かってくる様子が容易に想像出来る。
しかし、あの男は先の戦闘でミレーナに右腕を負傷させられている。奴らがそんな手負いの状態の人間に、俺達二人の相手を任せるとはさすがに思えない。
ならば残る可能性とは何か。
そこでふと思い出したのは、リネが口にしていた人物の事だ。
顔も名前も、性別すらわからなかったそうだが、『召霊石』の前でボルガが呼び掛けた時、確かにその人物は『精霊指揮者』の面々と肩を並べていたらしい。
もしかしたら、そいつが俺達の足止め要員、なのか……?
深まっていく疑問によって、思わず視線を落とし掛けた、その時だった。
前方十数メートルの位置で、突如として地面から紅緋色の炎が燃え上がったのだ。
「――ッ! ミレーナ!」
行く手を阻む炎の壁を前にして、俺はすぐさまミレーナを制止した。
周囲を明るく照らし出す紅緋色の炎は、まるでこの先にある何かを取り囲むかのように、緩く弧を描く形で燃え盛っている。
押し寄せる熱風に顔を顰めながら、ミレーナは視線を交わさぬまま口を開く。
「馬鹿弟子。もしかして『これ』が……?」
「……」
問い掛けられたにも拘らず、俺は言葉を返す事が出来なかった。
なぜここで『あの炎』に遭遇するんだとか、『あいつ』と戦っていたはずのジェイガはどうしたんだとか、疑問は次々と湧き上がってくるのに、何一つ言葉に変換する事が出来ない。
この相当な規模と熱量を持った炎。
勘違いでもなければ、夢でも幻でもない。
『これはこれは。いつの間にやら懐かしい奴が加わってるじゃねぇか』
ややくぐもったその声は、雷鳴の如く上空から降り注いできた。
未だ現実を受け入れられない俺を嘲笑うかのように、鋭く響き渡る風切り音。皮膜付きの翼によって生じるそれは、地上の俺達を薙ぎ倒さんばかりの力強さを持っている。
やがて大地に降り立つ、巨大な影。ただ着地しただけだというのに、それだけで土煙が濛々と舞い上がり、地面に蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
ガラム・ドラゴドム。
竜の化身となった男は、再び俺の前に立ちはだかった。
『久しぶりだな、ミレーナ・イアルフス。どうだぁ? ノイエと接触して記憶を取り戻した気分は』
まるで世間話に興じるかのような陽気な口調で、ガラムは眼光鋭く話し掛けてきた。
圧倒的な威圧感を持った存在と相対しているというのに、しかしミレーナは一歩も引かなかった。不敵に笑い、強い闘気を感じさせる瞳でガラムを見据えている。
「おかげ様でそこそこいいわよ。あんたの方こそ、しばらく見ない間に随分と様変わりしてるじゃない。仮装趣味があったなんて知らなかったわ」
『ッハハァ。記憶を取り戻すと口まで上手く回るようになるんだなぁ。俺としては、大人しかった頃のお前さんの方が断然好みだぜ?』
「悪いけど、『動物擬き』を相手にする趣味はないの。人間に戻って出直してきなさい」
軽口を叩き合う両者の間に生じているのは、凄まじいまでの敵意。不可視のはずのそれは、発生し続ける熱波も相俟って激しく渦巻いているように感じられる。
それこそ、いつ戦闘が始まっても可笑しくない程に。
そうだ、ここで俺が呑まれる訳にはいかない。師匠に遅れを取るような腑抜けに成り下がる訳には、いかないんだ。
「何でてめぇがここにいる。ジェイガはどうしたんだ……!」
『おやおや、こりゃ意外だな。まさかお前さんの口からアイツを心配する台詞が聞けるとはねぇ。さすがの「炎を操る者」様も、知らない内に篭絡されちまったって訳かい?』
「てめぇの戯れ言に付き合う気分じゃねぇんだよ。いいからさっさと答えろ」
にべなく突き放してやると、ガラムは弱り切った様子で軽く頭を掻いた。
『……ったく、師弟揃って連れない奴らだなぁ。そう気を回す必要はねぇ。確かに少々痛めつけはしたが、命まで奪ってはいねぇよ。……とはいえ、それも時間の問題かも知れねぇがな」
「何だと……?」
『ウチのメンバーに一人、どうしてもアイツと話したいって奴がいたもんでな。丁度良い具合にお前さん達が分かれてくれたから、気絶させてここまで連れて来てやったんだよ。今頃あの中で感動のご対面を果たしてるはずだ。……悪いが水を注さねぇでもらえるか?』
親指で背後の炎の壁を差しつつ、ガラムは愉快げな笑みを零す。
感動の対面と称する割には、奴の笑みからは否応なく悪意が感じられる。録な事を考えていないのは間違いないだろう。
「今度は何を企んでやがる」
『心外な物言いだな。俺は何も企んじゃいねぇ。ただあいつらの邪魔をしてほしくねぇってだけさ』
「私達がそれに黙って従うとでも?」
隣のミレーナがより一層、敵意を鋭く尖らせていくのを感じる。無論、標的はガラムのはずだが、会話する毎に増していくそれが、俺も含めた周囲全てに対して発せられているような錯覚に陥りそうだ。
だというのに、ガラムは意に介した様子を見せない。
直に臨界点を迎えるであろうミレーナの凄まじい感情に、気付いているにも拘らず、だ。
『ッハハァ! もちろん思ってねぇよ。戦わずに済むともな。そうでなけりゃあ、俺がこうして待ち構えてる訳ねぇだろ』
バンッ! という轟音を響かせたのは、ガラム自身の左掌に打ち付けられた右拳だ。
灼熱の炎そのものと化したかのような竜人は、狂喜と呼ぶべき笑みをその顔に貼り付ける。
『いやー、それにしても感慨深いねぇ! 今自分の眼の前に、「倒王戦争」を終結させた「金色紅蓮」と、その弟子である「炎を操る者」が敵として立ちはだかってんだ。相手にとって不足はねぇ……! 初っぱなの戦闘以上の高揚感がある! こんな感覚は久しぶりだ!!』
言葉と共に皮膜付きの両翼を広げ、紅緋色の炎をその身に纏い始めるガラム。ただでさえ熱風が暴れ回っていた周囲に、更なる灼熱が注ぎ込まれていく。
最早吸い込む息さえ熱いと感じる状況の中、傍らのミレーナが口を開く。
「……馬鹿弟子。ジェイガの事は一旦忘れなさい。一度戦ったんだからわかってると思うけど、他所に気を回したまま相手に出来る程、生温い敵じゃないわよ」
灼熱に支配されていく眼の前の状況とは正反対の、冷静な師匠の言葉が鼓膜を通過する。油断するなと諭されているにも拘らず、一瞬俺は他人事のような感想を胸に抱いてしまった。
まるでこの景色は、人間が創造した『地獄』と呼ばれる異界のようだ、と。
「確かに、こいつはさっきよりもヤバそうだ……!」
首筋を伝う汗を拭い、右掌に炎を発生させる。
それを開始の合図と決めたのだろう。地面を鋭く踏み砕きながら、ガラムが吠える。
『行くぜ、「深紅魔法」の使い手共。頼むから、一撃二撃で灰にならねぇでくれよなぁッ!!』
◆ ◆ ◆
眼が覚めて始めに感じ取ったのは、肌を突き刺すかのような容赦のない熱波だった。
草がほとんど生えていない平地に、自分が仰向けに倒れている事を遅れて知覚し、ゆっくりと身体を起こす。
全身に粘り着く疲労感が、記憶を遡ろうとする俺の邪魔をする。
一体何がどォなった? 紅髪達を先に行かせて、俺はガラムの野郎と戦って、それから……。
……そォだ、思い出した。奴が放った極大の炎の塊を『魔術』で相殺しようとして、発生した爆風に煽られたんだ。その後の記憶がはっきりしねェって事は、多分吹き飛ばされた拍子に頭を打ったんだろォ。
どれくらい気絶してたかわからねぇが、どうやらガラムの奴はいねェみてェだ。
それに気を失ってる間に、どこか別の場所に運ばれちまったらしい。相変わらず炎に囲まれてはいるが、地形が明らかに違う上、軍人共の死体や詰め所の瓦礫が見当たらない。
あの野郎……。俺を殺さずに一体どこへ連れて来やがった? 『グラステッド山脈』が見えてるって事ァ、それ程長い距離を移動させられてる訳じゃねェよォだが……。
やや気怠い感覚のまま立ち上がり、もう一度四肢を確認する。
打撲や擦過傷が身体中に見受けられるが、腕も脚もまだ繋がっている。あの紅髪同様、俺の悪運も中々に強いらしい。
さて、意識が戻ったのは良いとして、これからどォするかだが……。紅髪達と合流しようにも、現在地がわからねェんじゃどうしようもない。それに何より、ガラムの目的がわからねェままだ。
今までの経験上、こうして生かされてるのは何か録でもない事に俺を付き合わせる為だ、ってのは大体察しがつく。
だが、だとしたらそれは一体――。
「……!」
周囲への警戒を怠ってた訳じゃあねェ。事実俺は、近付いてくる何者かの気配を瞬時に察知する事が出来た。
ただ問題は、感じ取った気配そのものにあった。
拍子抜けする程に、相手の気配から感情が読み取れない。俺を真っ直ぐ捉えているのは間違いねェのに、敵意も殺意も害意も、何一つ向けられていない。
まるで蝋人形か何かに見つめられてるみてェな、薄気味悪ィ視線だけが、品定めするかのように向けられているのを感じる。
やがてその視線の主は、肌身を焼き付ける熱波が吹き抜けてくる、雑木林の奥から姿を現した。
茶色いローブを纏ったその人物は、フードを目深に被り、顔も性別も判別出来ないようにしている。意図的なのかどうかはわからねェが、さっきの視線といい、気色の悪ィ奴なのは間違いないよォだ。
「何者だてめェ。『精霊指揮者』の差し金か?」
いつでも『魔術』を発動出来るように、意識の半分を右手に向ける。黒い大鎌を出現させるには、一秒あれば充分だ。
と、相対するフードの人物の両肩が、僅かに上下している。何が面白いのか知らねェが、声を潜めて笑ってやがる。
「……突然現れて笑い始めるとは、随分と酔狂な真似しやがる。気でも狂れたのか?」
「いや何、実に今更な問いだなと思ってね。現状に於いて、一体我々以外の誰が介入すると言うんだ。眼が覚めたばかりとはいえ、少々間抜けが過ぎるのではないか? なぁ、ジェイガよ」
「――ッ!?」
瞬間、俺は自分の聴覚が狂ったのではないかと疑った。吹き抜ける熱波によるものとは別の、嫌な汗が滲み出てくる。
身体が微かに震えている。
呼吸が僅かに乱れている。
原因は眼の前に佇むフードの『男』だ。男が放った口調と声色だ。
知っている。俺はこの男の事を。
覚えている。この男と過ごした平穏な日々を。
だが違う。そんなはずはない。有り得る訳がない。
なぜなら『あの男』は俺の眼の前で――!
「殺されたはず、か?」
俺の心情を、思考を、隅から隅まで観察し尽くしたとでも言うように、男はフードから覗く口許に薄い笑みを湛えてみせる。
左胸の鼓動が耳障りな程強く鳴り響く。震えが治まる代わりに、徐々に硬直していく身体は、『魔術』を発動するどころか指一本すら動かす事が出来なくなっていく。
今奴は、明確な答えを口にした。
俺の全てを見抜き、嘲笑った。
そうだ。いつだって俺の考えは、この男には見抜かれていた。
出し抜けた事なんて一度もない。騙し通せた事だって皆無だった。
「こうして直接、お前と言葉を交わすのは何年振りかな……。嬉しいよ、またお前と語り合う事が出来て。ボルガノイドに感謝しなければならんな」
フードの端に掛けられた両手が、ゆっくりと男の素顔を晒していく。
灰色に近い黒髪をオールバックにした、どこか紳士的な雰囲気を放つ人物。すでに四十は超えているであろう独特な渋みを持った端正な顔。右眼に掛けられた片眼鏡が、男の思慮深かさを否応なく感じさせる。
繰り返しになるが、俺はこの男を知っている。
遠い過去。復讐者となる前の幼い自分が、『父さん』と呼んでいた存在。
ヴェグナ・ブラッドリー。
それが奴の、彼の名前だ。




