第八章 憎悪の在り処
姿なきアウィンの声に導かれ、川の流れに逆らう事三十分程。ようやく俺達の前に、小川の源となる清らかな泉が姿を現した。
高鳴る鼓動を沈めつつ、額に浮いた汗を拭って、泉の畔へと歩み寄る。
駆け抜けてきた無彩色の強い雑木林と違って、泉の周辺は緑に満ちていた。岩壁に出来た滝からは止めどなく水が流れ落ち、清涼な微風と共に重々しい音を周囲に振り撒いている。
さて、辿り着きはしたものの、肝心のアウィン達が見当たらない。確か、泉の傍の洞窟に隠れてるとか言ってなかったか?
「……で、その洞窟はどこにあるんだよ」
注意深く周囲を見回してみても、それらしき穴は見つからない。泉の傍、と言うからには、それ程離れていないはずなんだけど……。
「おいアウィン、聞こえるか? お前が言ってた場所って、本当にここで合ってるのか?」
『ええ、合ってますよ』
試しにと思い、泉に向かって声を掛けると、すぐさまアウィンから返答があった。
まるで周囲に木霊すかのように、どこからともなく響いてきたアウィンの声。するとそれに続いて、泉の水底から精巧な造りの石橋が音もなく現れた。と同時に、正面にある滝が左右に大きく割れ、奥に隠れていた岩肌が露わになった。注視すると、内部へと続く入口ような穴が開いている。
一体どういう仕組みで動いているのかわからないが、なるほどこれなら、ちょっとやそっとで見つかる事はないだろう。
『この中です。入ってきてください』
しばらく惚けていた俺は、アウィンの声に従って石橋を渡り始めた。ミレーナ達にも視線で促し、隠されていた洞窟の中へと足を踏み入れる。
少し肌寒さを感じる内部は、広間のような空間になっていた。入口の仕掛けと同じで原理はわからないが、光源らしき物が見当たらないはずの内部は、端まで見渡せる程明るく照らし出されている。四方の壁には、想像上の生物を模したと思われる彫刻が配置されていて、広間中央の床には、直径三十メートル程の巨大な魔法陣らしき模様が描かれている。
数字とも記号とも取れる不思議な形のそれらに囲まれた、正円の陣。その中心点に、アウィンは佇んでいた。
ある人物を、伴う形で。
「ランザ……!?」
両刃の巨斧を担ぐ、やたらと体格の良い男を眼にして、俺は思わずその名を叫んでしまった。
『英雄』の一人、ランザ・ダルベス。
短い萱草色の髪と、右眼を覆う黒い眼帯。筋骨隆々としたその容貌からは、『魔術師』という単語が連想し難い。ミレーナ同様、会うのは久しぶりだが、相変わらず見た目の迫力が半端なく強い男だ。
「よぉ紅髪――って、おいおい。誰かと思えばミレーナじゃねぇか。また行方不明になったって聞いてたが、一体いつの間に弟子に引っ付いて来てたんだ?」
「それはこっちの台詞よ。あんたの方こそこんな所で何してる訳?」
邂逅早々、不思議そうにミレーナを見つめるランザ。彼女が発したやや乱暴な言葉から何かを感じ取ったのか、ランザは単眼を細めながら僅かに首を捻った。
「んん? 何かお前、前に会った時と雰囲気が変わってねぇか?」
「おかげ様で、一応記憶を取り戻したからね。あんたの事もちゃんと思い出したわよ。馬鹿が付く程戦闘大好きなランザ・ダルベスさん」
遠慮した様子もなく憎まれ口を叩くミレーナに、しばし呆気に取られたような表情を見せるランザ。だが次の瞬間には、彼の日焼けした顔には豪快な笑みが浮かんでいた。
「がっはっはっはっ! こいつぁ良い! その振る舞いあってこそのミレーナ・イアルフスってもんだ! こりゃ早いとこバルベラ嬢にも引き合わせてやんねぇとなぁ!」
「死ぬ程勘弁してもらいたいわね、それだけは」
旧友同士、軽口を叩き合っている二人の横で、俺は現状を出来るだけ簡潔にアウィンに説明した。
彼女の方も、ここに至るまでの経緯を話してくれたが、やはり俺と違って話をまとめるのが上手い。聞いた限りじゃ結構大変な眼に遭っているはずなのに、説明に要した時間が俺の半分以下だった。
自分で言うのも何だけど、ホント色々不甲斐ないよなぁ、俺……。
「――それで、リネは?」
内心で落ち込むのもそこそこにして、俺は本題である少女の事を問い掛けた。すると、アウィンは無言のまま俺の視線をある方向へと促す。
神殿の中央付近で固まっている俺達から随分離れた壁際に、膝を抱えて蹲る人影がある。
いつもなら天真爛漫な笑顔が貼り付いているはずのその顔には、暗雲のような陰が差し、覇気が抜け落ちてしまっている。俺やミレーナが現れた事にも気付いていないのか、まるで人形のように黙り込んで、一点を見つめたまま動く気配がない。
アウィンの言っていた通り、明らかに様子がおかしい。しかも想像していた状態より、かなり重症のようだ。
全く以て理由はわからないが、とにかく会話しない事には始まらない。
前情報通り、拒絶される事も覚悟しながら、俺は慎重にリネとの距離を縮めていく。
「よう、リネ。久しぶりだな。怪我はしてねぇみたいだけど、大丈夫だったか?」
「……」
近付いて、決まり文句を言ってみたが、リネは黙ったまま反応しない。どうやら俺が眼の前にいる事すら、知覚出来ていないらしい。
「遅くなって悪い。色々あったけど、迎えに来たぜ」
「……」
「……えーっと、ほら。ここでジッとしてるのもなんだし、外の空気でも吸いに行かないか? 俺も説明したい事あるし、お前の事も聞かせてくれよ」
「……」
……マジかよ。ここまで無反応とか信じられねぇ。眼の前にいるのは、本当にあのリネ・レディアなのか?
焦点が合っていないと言うか、俺を視界に捉えていないと言うか。とにかくこのままでは埒が明かない。
ならばと思い、俺はリネの正面に屈んで、自らの膝を抱えている彼女の手を、右手でゆっくりと握ってみた。
触れた瞬間、僅かに筋肉が強張る気配がしたが、俺は構わずリネに声を掛ける。
「おい、リネ。こっちを見ろ。怖がらなくていい。何も心配しなくていいから」
正直、ミレーナ達に見られているという気恥ずかしさはあったが、俺は出来るだけ優しい口調を紡ぐ事に努めた。
すると、ようやくリネの様子に変化が起こった。
まるで夜が明け始めた空のように、彼女の表情に少しずつ覇気が戻り始めたのだ。
「………………ディー、ン………………?」
虚ろだった瞳に光が宿り、今になってやっと俺を認識したのか、リネは随分ゆっくりと言葉を発した。
とりあえず虚脱状態からは抜け出したらしいリネに、俺は口調をいつも通りのものに戻して話し掛ける。
「よう、久しぶりだな。……って、この台詞二回目だぜ? 何回言わせる気なんだよ」
「………………うっ」
「まぁとにかく、こうして合流出来たんだ。お互い何があったか一から説明――」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんッ!!」
思わぬ不意打ちだった。握っていた手を離して立ち上がろうとした瞬間、リネが全く躊躇う様子を見せずに抱き付いてきたのだ。
結構な衝撃を喰らい尻餅をつく俺に構わず、リネは黒真珠のような双鉾から大粒の涙を流し、癇癪を起こしたかのように泣きじゃくっている。
「おっ、おいリネ。どうしたんだよ一体?」
「ディーン……っ! あたし……、あたしぃ……っ」
溢れ出る感情の強さを表すかのように、背中に回された両手には目一杯、力が込められている。
『精霊指揮者』に拉致され、長い時間不安を強いられた影響から動揺を抑え切れないのかとも思ったが、違う。今までにも似たような事は何度かあったが、ここまで取り乱すリネの姿を見たのは恐らく初めてだ。
「ディーン」
リネを無理矢理引き剥がす訳にもいかず、尻餅をついたまま途方に暮れていたその時。背後から、眼の前の少女とは対照的な落ち着き払った声が聞こえてきた。
肩越しに振り向くと、やや神妙な面持ちのミレーナと眼が合う。
「リネさんが落ち着くまで傍にいてあげなさい。私達は外で待機してるから」
「……ああ。悪いな、ミレーナ」
素直に労うと、ミレーナは「気にするな」と言いたげな微笑みを浮かべてから背を向け、傍らにいたルーシィ達に移動を促した。
鍛冶職人の少女も今回はさすがに空気を読んだのか、リネに抱き付かれている俺を茶化す事なく、ミレーナに従って歩き出す。
「――――――――――」
ミレーナ達が去り、静けさに包まれた神殿内に響き渡る、リネの嗚咽。
抱き付かれたまま動けなかった俺は、黙って彼女が落ち着くのを待つ事にした。
頭を撫でるなり声を掛けるなり、やれる事はいくつかあっただろう。だが今は、どれも逆効果になるような気がして、結局俺は微動だに出来なかった。
そうして、どれくらい経過した頃だろう。少しずつ小さくなっていったリネの嗚咽は、やがて聞こえなくなっていた。
声を掛けるならそろそろかと思っていると、リネが鼻を啜りながら身体を離した。
やや俯いている彼女の眼は、泣き腫らしたせいで紅くなっている。
「落ち着いたか?」
「…………………………うん。急にごめんね」
「気にすんなって」
そう言って快活に笑い返してやっても、リネは複雑そうな顔を浮かべるだけで、いつもの明るさが戻る気配はない。
ほんの一瞬、優しく抱き締めてやりたいという衝動に駆られたが、両手を握り拳にしてそれを押さえつけた。
今俺が自分の感情を露わにする訳にはいかない。リネの為を思うなら尚更だ。
「何があったのか、聞いても平気か?」
あまり今までには感じた事のない葛藤を抱えながら、俺は慎重に言葉を選んだ。
リネはしばらく黙り込んでいたが、やがて小さく頷くと、弱々しい声で語り始めた。
◆ ◆ ◆
「――己の闇を知らない者に、光を持つ資格はない、か……」
神殿の壁に背を預けて話を聞く事、すでに十分は経過しただろう。
俺は蒼い光の浮かぶ空間を見つめながら、先程リネが口にした言葉を反芻した。
意図せぬ『精霊』との接触と、それに連なる過去の記憶の追体験。想像を絶するそれらの衝撃が、リネをここまで追い込んだ原因だった。
一体なぜ、突然『精霊』と対話する状況に陥ってしまったのか。それは恐らく、この神殿が『そういう場所』だからだろう。詳しい事はアウィンに聞いてみないとわからないが、どうやら『精霊』は、リネがここを訪れた瞬間を狙って一方的な対話を持ち掛けてきたようだ。
しかもよりによって、リネの過去の記憶を無理矢理呼び覚ますという、残酷極まりない手段まで取るとは……。
やはり彼らは、あくまでも『世界』の『均衡者』であって、必ずしも俺達――いや、人間の味方という訳じゃなさそうだ。
「結構難しい事を要求してくるじゃねぇか。それって要するに、自分自身の負の感情を受け入れろって事だろ? ……言葉にするのは簡単だけど、実行するのはキツイよな、やっぱ」
天井を仰ぎつつ、俺は横目でリネの様子を窺ってみた。
膝を抱えて座っているリネは、覇気が抜け落ちたような表情で虚空を見つめている。
「話はわかった。けど、何でそんなに落ち込んでんだよ、お前」
何があったのかは理解出来たが、彼女がここまで憔悴する理由が俺にはわからなかった。
壮絶な体験を強いられたのは確かだろう。だがそれにしたって、こんなにも塞ぎ込んでしまうのは彼女らしくない。
そう思って、問い掛けた時だった。
「……見透かされてたの」
「えっ?」
弱々しく紡がれた言葉に、俺は尚も首を捻った。
リネは視線を交わさないまま、懺悔するかのように呟き始める。
「お前は『人間』を憎んでるんだろ、恨んでるんだろって言われて……あたし、必死で言い返したの。そんな事ありません、って。……でも」
「でも?」
「過去の記憶を見せられた途端、全然否定出来なくなったの。ずっと隠して、抑え込んでた感情が溢れ出てきそうになって、黙り込む事しか出来なかったの」
「……! もしかして、お前……」
嫌な予感がした。抑え込んでいた感情、と彼女が口にした瞬間、想像したくない懸念が脳裏を過った。
思わず言い淀んでしまった俺の予想を肯定するかのように、リネはゆっくりと、ほんの少しだけ頷いた。
「……あたしずっと、心の底でみんなの事を憎んでた。みんなと笑ったり、はしゃいだりしながら……本当はずっと、恨み続けてた。どうしてあたしの一族が殺されなきゃいけなかったの? どうしてあたしは独りにならなきゃいけなかったの? って……」
「……それは……、お前がそう思うのは、仕方がない事だろ。お前が体験させられた事を思えば、至極当たり前の感情だ」
慰めや同情などではない。彼女と同じ体験をすれば、大小の差はあれど、誰だって負の感情を抱くに違いない。恐らくそれが、感情を持つ人間という生物なんだから。
そう思っているから、告げた言葉だった。
だが。
「……優しいね、ディーンは。あたしを責めようとは思わないの?」
「……っ!?」
リネはまるで、その答えは間違っていると断じるかのように、俺に冷やかな視線を向けながらそう言った。
暗い感情の浮かぶ瞳で問われ、俺は一瞬言葉に詰まった。どうしてリネは、そんな台詞を口にするんだろう?
「何言ってんだよ。何で俺がお前を責めなきゃいけねぇんだ」
「言ったでしょ。あたし、みんなの事を憎んでるんだよ? 恨んで、呪って、嫌ってるくせに、それを隠してみんなと平然と笑い合ってたんだよ? ……こんな信用出来ない奴、責めない方がおかしいと思わない?」
「それは……」
「笑えるよね。こんな、負の感情の塊みたいな奴が、正義の味方のフリして、この世界のみんなを守りたいなんてさ。一体どの口がほざくんだって話だよ」
確かに、リネの言う事が一部も理解出来ない訳ではない。しかしだからと言って、彼女の事を責める気になんてなれる訳がない。
だってお前は、もう充分過ぎるくらいに苦しんだはずだろ?
「……止めろよ、リネ。何もそこまで自分を貶めなくてもいい。俺も、他のみんなも、そんな事望んじゃいない」
「だから、どうして?」
制止に対する問い。この時程、言葉が意味を成さないと痛感させられた瞬間はなかった。
リネは明らかに憤慨した様子で、真っ向から俺を見つめ返してきた。
「どうしてディーンはあたしの事責めないの? 何でこんな……ッ、あたしみたいな最低の奴に、そんな優しく出来るの!? 責めればいいじゃない! お前は最低だって! お前みたいな奴信用出来ないって! 罵れば! 否定すればいいじゃないッ!!」
「……」
「あたし、ずっと自分の気持ちに嘘をついてた! みんなと仲良くするフリをして、本当は怒りを感じてたんだ! 不満を抱えて、憤りを覚えてたんだ! あたしの家族を、一族を皆殺しにした人間が! 守ってくれなかった人間が! 愚かで傲慢で醜いあなた達人間が、憎くて憎くて堪らなかったんだよ!!」
俺達人間が憎い。憎くて憎くて堪らない。
怨嗟の言霊を吐き出す少女の顔には、瞳には、しかし同時に、深い悲しみの色が混ざっていた。
彼女はきっと、葛藤している。悩み苦しんでいる。なぜなら知っているからだ。
自分の中に存在する感情が、憎しみや怒りだけではない事を。
「……それが、お前の本心なのか?」
「そうだよ……っ! ホラね、最低でしょ? あたしはみんなに、ディーンに優しくしてもらえるような人間じゃない。憎しみを抱えてるくせに、独りになるのを怖がって本心を隠してた、汚らしくて嫌らしい、最低の人間なんだよ。だから、だからあたしには、光を持つ資格なんてない……ッ! 最初から心に闇を抱えて、それを隠し続けてたあたしなんかに、みんなを守る資格なんてないんだよ!!」
自らの思いを吐露し、両手で顔を覆って俯くリネ。その姿は、彼女が生きてきた十何年分の絶望全てを、内包しているように感じられた。
「……そうか」
重く暗い独白。悲痛過ぎる言霊を正面からぶつけられ、俺は静かに呟くしかなかった。
そして続け様に、彼女に対する思いを一言付け加えた。
「安心した」
「…………………………えっ?」
ほんの少しだけ笑みを湛えて告げた瞬間、リネは顔を覆っていた両手を下ろし、まるで信じられないものでも目撃したかのような顔で、食い入るように俺を見つめてきた。
その様子が、何だかいつものリネに巻き戻ってしまったように感じられて、思わず苦笑してしまう。
「何だよ、もしかして聞こえなかったのか? 安心したって言ったんだ」
「……何で……そんな……」
複雑そうな表情で呟くリネは、俺の言葉の意味を計りかねている様子だ。
もちろん、彼女を突き放す為に言った訳でも、況して茶化そうと思って告げた訳でもない。彼女が思いを吐露してくれたのなら、今度は俺が告げる番だ。
彼女がそうしていたのと同じように、俺自身も心の奥底で、ずっと抱いてきた思いを。
「……俺さ。お前と旅をしてて、正直ずっと不安だったんだ。お前は『人間』に、一族を皆殺しにされた。俺を含めた『人間』全てを恨んでも仕方がない程の思いを、心の内に抱えてる。……そう思ってたんだ」
今まで彼女と行動を共にしてきたからこそ、俺は幾度となく感じる事があった。
それは不安であり、同時に恐怖でもあった純粋な疑問。
どうしてお前は、そんな風に俺達と笑い合う事が出来るのか、と。
「なのにお前は、一度もその思いを俺にぶつけなかっただろ? お前はいつでも明るくて、人懐っこくて、好奇心旺盛でさ。不満を、怒りを、嘆きを、一切吐き出さなかっただろ? だからそんなお前を見る度に、どんどん不安になっていったんだ。ああ、もしかしたらこいつの心は、それが出来ないくらいに壊れちまってるんじゃないか、って」
「……」
「だから安心したって言ったんだ。今になって、ようやくお前が本心を晒してくれたからさ」
それはつまり、人並みの感情を抱く心が、彼女にもあるという事。決して、彼女の心が壊れている訳ではないという事。それらの証明に他ならない。
そして、さらに付け加えておくべき事がある。
「確かにお前は、俺達人間を憎んでるんだろう。でも、それが全てじゃないって事は、お前自身がこれまでの旅の中で証明してきたはずだろ?」
例えば『テルノアリス』で、俺を助けてくれた時。
例えば『ゴルムダル大森林』で。
例えば『紺碧の泉』で。
『ワーズナル』で、『サランドロ』で、『ブラウズナー渓谷』で、様々な場所で。
彼女はいつだって全力で、色んな人達を助けてきた。それは紛れもない事実であり、誰一人嘘だと否定する事の出来ない真実のはずだ。
「憎むななんて言わない。恨むなとも言わない。そもそも俺には、そんな台詞を吐く資格がない。だからいいんだ。本心を隠してたからって、自分を責める必要なんてない」
快活に笑って、そう締め括る。そんな俺を、リネは呆気に取られたように見つめ続けていた。
こんな安っぽい言葉で、彼女の憂いが晴れたかどうかは定かではない。だが、それでも伝えるべき事はきちんと伝えられたと思う。
「……ねぇ、ディーン」
「何だ?」
「こんなあたしでもいいのかな……? みんなの事、憎んでるあたしでも……。みんなを守りたいって思っても、いいのかな?」
「当然だろ。誰に何を言われたって関係ねぇ。お前が本気でそう思うなら、それがお前の本当の想いなら、貫き通せばいいんだ」
「……」
リネはしばらく無言で俺を見つめた後、考え込むかのように視線を逸らした。その表情から察するに、幾分か落ち着きを取り戻す事には成功したらしい。
ただ、迷いが全て消え去った訳ではないだろう。冷静に自分の心と向き合い、決着をつけるのはこれからだ。
「すぐに答えを出さなくてもいい。時間がないのは確かだけど、今回ばかりは闇雲にぶつかっても駄目だろうからな。思いっ切り悩んで、思いっ切り考えて、そうやって見つければいい。お前が一番納得出来る答えをな」
「……うん」
ここに辿り着いた直後に話した時よりも、リネの返事には覇気が感じられた。僅かな変化ではあるだろうが、それでも前進しているのは確かだ。
決意を新たにしたらしいリネの横顔を見つつ、俺はゆっくりと立ち上がる。
「さて、これからどうするか、いい加減話し合わないとな。みんなを呼んでくるから、お前はもう少し休んでろよ」
「ううん、あたしも一緒に行く。迷惑掛けちゃった事、謝らないといけないし……」
「……そうか」
神殿の外へ歩き出そうとする俺に倣い、リネは静かに立ち上がる。
その様子を見届け、先に歩き始めた時だった。
突然後ろから軽い衝撃があり、俺はほんの少し前のめりになった。どうにか踏み止まって肩越しに振り返ると、リネが俺の背中に顔を埋めていた。
「お、おい。何だよ急に……」
照れ臭くて思わず言い淀んでしまう俺を尻目に、リネは両腕をゆっくりと俺の腰に回してきた。
その途端、彼女の身体から発せられた淡い光が、俺の全身を包み込んでいく。どうやら俺が怪我を負っている事に気付いて、治療を始めてくれたようだ。
何だか久しぶりに『治癒』の光を浴びた気がする。……って言うか、傷を治してくれるのは有り難いんだが、わざわざ抱き付く必要があるんだろうか。
リネの心地良い体温やら、肌の柔らかさやらにどきまぎしていると、背中越しに優しげな声が掛かる。
「ありがとね、ディーン。一緒にいてくれて、話を聞いてくれて。凄く嬉しかった。本当に本当に、ありがとう」
「……別に、礼を言われる程の事じゃねぇよ」
「フフッ。そうかもね」
気恥ずかしさから素直な受け答えの出来ない俺を、リネはまるで見抜いているかのように、静かに言葉を返してきた。
腰に回された彼女の腕に、ほんの少しだけ力が籠る。
「……ねぇ。ちょっとだけ、こうしててもいい?」
「あ、ああ……」
ぎこちなく返事をすると、背後でリネが嬉しそうに微笑んだ。
そんな気がした。
◆ ◆ ◆
「――あら、もういいの? 遠慮しないでゆっくり慰めてあげればよかったのに」
まるで神殿内での出来事を見ていたかのように、我が師匠はしたり顔で開口一番にそう言い放った。
あれから結局、五分くらいリネに抱き付かれたままだった俺は、動き回る訳にもいかず、石像のように屹立し続けていた。正直、途中で誰かが様子を見に来ていたら、羞恥心のあまり発狂していた自信がある。
明らかにふざけているミレーナに無言で抗議すると、彼女は可笑しそうにクスッと笑みを零した。
「冗談よ。……それで、実際どうなの? リネさんの様子は」
表情を真剣なものに変え、ミレーナは小声で俺に尋ねてきた。
今更な感想だが、我が師匠は真面目と不真面目の切り替えが絶妙である。思い立ったら即始めるくせに、かと言ってやり過ぎる事もない。この辺りは、彼女独特の会話術なのだろうか。
「一応、区切りはついたって感じかな。これから先、どう転ぶかはあいつ次第だけど、きっと大丈夫だ」
「……そう。良い信頼関係ね。師匠として、正直妬けるわ」
「……冗談だろ?」
「さぁ? どうかしらねー」
嘘か真か判断しかねる表情で、ミレーナは鼻歌を歌いながら離れていく。まぁ、どっちにしろ遊ばれてますよね、俺……。
「あれっ? ミ、ミレーナさん……!? 戻ってきてたんですか!?」
「ええ、おかげさまでね。久しぶり、リネさん。またあなたに会えて嬉しいわ」
少し遅れて神殿内から出てきたリネは、ミレーナの顔を見るなり随分驚いた様子で眼を瞬かせる。
ってか、やっぱ気付いてなかったのか。仕方なかったとはいえ、どんだけ上の空だったんだよ。
「初めましてリネさん! やっとお話出来て嬉しいですー!」
という言葉通りの雰囲気を発しながら、リネに思い切り抱き付いたのはルーシィだった。リネが幾分立ち直った事を即座に察したのか、鍛冶職人の少女は待ってましたと言わんばかりに、随分積極的な自己紹介を行っている。
出会い頭に抱き付かれ、さすがのリネも戸惑ったらしく、
「……この娘は?」
と、ルーシィに抱き付かれたまま、俺に助けを求めてきた。
自分で引き剥がそうとしない辺りに、リネらしい優しさを感じ、俺は思わず苦笑してしまう。
「そうだな。それも含めて、まずは状況を整理しよう。――アウィン。とりあえず、この中なら安全なんだよな?」
「ええ、そのはずです。この神殿の存在自体、まだ『精霊指揮者』には探知されていないでしょうから」
「よし。なら会談の場所はここで決まりだな」
今後の方針を話し合う場所として、身を隠す事に適しているこの神殿は、まさにうってつけだ。
リネとアウィンを『精霊指揮者』の手から取り戻す事は出来たが、それで全てが解決した訳じゃない。『精霊』の召喚はもちろんの事、竜の化身となったガラムと戦い続けているであろう、ジェイガの安否も気に掛かる。
ミレーナの話では、ノイエが援護に向かったと言っていたが……。それを聞いた時から、俺の中で何かが引っ掛かっていた。
一体なぜ、こんな気分になってしまうんだろう?
戦力として申し分ない『魔術師』が、ジェイガの許に向かったというのに。
俺の胸の内に湧き上がるのは、粘り付くかのような不安だった。