第六章 闇に惑うは少女の心
「――なるほどね。随分と危ねぇ眼に遭ってきたんだなぁ、嬢ちゃん達は」
「はい……。でも助かりました。偶然とはいえ、ランザさんが来てくれて」
「あーまぁ、全部が全部偶然って訳でもねぇんだがな」
先導しているアウィンさんと、その後を追うあたしの間で、ランザさんはどこか面倒臭そうに頭を掻いた。太い両刃の巨斧を軽々と肩に担いで歩くその姿は、『魔術師』と言うより猟師に見える。
パーニャとラズネスの襲撃から、既に十数分。どうにか彼女達を躱したあたし達は、助けてくれたランザさんに事情を説明しながら、枯れ木の多い雑木林を歩いている。近くに川があるのか、一歩進む毎に水の流れる音が少しずつ大きくなっていく。
それにしても、今のは一体どういう意味だろう?
「偶然じゃないって、あたし達がここに来る事がわかってたんですか?」
「いや、そりゃ買い被りだ。俺ァただ、リーシャからの依頼でこの周辺を探ってただけだ」
「! それって、バルベラさんが言ってた……」
「ああ。俺達が個別に受けた依頼の事だよ」
頷きながら、ランザさんは周囲をやや警戒するような素振りを見せた。彼もやっぱり、『内通者』の存在が気になってるんだと思う。
「嬢ちゃんも聞いてると思うが、グラステッド山脈はかつて『精霊召喚』の舞台になった因縁の場所だ。リーシャが言うには、『そういう場所だからこそ、現状に於ける重要な土地として眼を光らせておきたい』んだとよ。何か異常があった時に、すぐに対処出来るようにな」
「それでリーシャ様は、その役目をランザさんに?」
「ああ。最初は退屈な仕事を押し付けられたもんだと悲嘆に暮れてたんだが、嬢ちゃん達に会えたおかげで事情が変わった。『精霊指揮者』の連中が彷徨いてるってんなら丁度良い。今まで退屈してた分、思いっ切り暴れられそうだ」
「何か……楽しそうですね、ランザさん」
思わず苦笑いしてしまったあたしに対し、ランザさんは「おうよ!」と元気良く切り返してきた。こうやって否定しない所が、この人らしいと言うか何と言うか……。
まぁ何にしても、これでまた一人『英雄』の行方がわかったんだから、喜ぶべき事だよね。
あと行方知れずになっているのは、ミレーナさんとノイエさんを除くと……。
「あの……ランザさんは、フォードさんがどこにいるのか知ってますか?」
リーシャ様から依頼を受けた『英雄』の内、未だに行方がわからないのは彼だけだ。もしかしたらと思い、尋ねてみるあたしに対して、ランザさんは首を横に振る。
「いーや全く。ただ俺の記憶じゃあ、フォードの奴は一番熱心にリーシャと話し込んでたはずだ。あの様子から察するに、余程重要な依頼を請け負ったんじゃねぇのかなぁ」
重要な依頼か……。一体何だろう? リーシャ様と真剣に話し込むくらいなんだから、ランザさんの言う通り、並大抵の依頼じゃないはずだよね。
もしかして、『内通者』に関係する事かな?
以前から内部調査をしてたのはリーシャ様なんだし、繊細な判断と行動が要求されそうな案件だから、フォードさんに頼んだとしてもおかしくない。……って言うか、単独行動が過ぎるバルベラさんやランザさんには頼めないよね、きっと。
でも、だとしたら益々フォードさんの行方が気になってくる。彼は今どこにいて、何をしているんだろう?
「――到着しましたよ、お二人共」
考え込みながら歩いていたあたしは、透き通るようなアウィンさんの声でようやく気が付いた。
いつの間にか雑木林を抜け出して、眼の前には清らかな水を湛える泉が現れている。枯れ葉の付いた木が多かった雑木林と比べて、泉の周囲には緑が多く、すぐ傍の岩壁の上からは水が絶え間なく流れ落ちてきている。泉の端には川への入口があり、流動し続ける水が何処かへと旅立っていく。
今が非常時でさえなければ、憩いの場にしてしまいたくなる景観だった。
「ここが目的地である『儀式場』、『蒼き精霊殿』です」
しばらく見蕩れていたあたしの傍らで、軽く深呼吸していたランザさんが、アウィンさんの台詞に訝しげな顔付きで言葉を返す。
「『儀式場』って、ここがか? ……ただの泉にしか見えねぇが……」
「まぁ見ていてください」
微笑みながら言うと、アウィンさんは泉の畔まで歩いていく。そしてその場で片膝をつき、右手で僅かに波打つ水面に触れた。
「我、蒼き力を司る者なり。盟約に従い、聖なる扉をここに開かん」
まるで『魔術師』のような言霊を、アウィンさんが口にした瞬間だった。
泉の水底から精巧な造りの石橋が現れるのと同時に、崖の上から流れ落ちてくる水が左右に大きく割れ、その奥に隠れていた岩肌が露わになった。すると今度は、岩肌の一部が重たい音を響かせながら上に擦れていき、更に奥へと続く道が現れた。
眼の前で起こる現象に惚けていると、波打ち際に佇むアウィンさんが、あたし達を促すかのように微笑みかけてくる。
「さぁ、行きましょう」
あたしが返事をするより早く、アウィンさんは軽やかな足取りで石橋を渡り始めた。すると、傍らにいたランザさんが、あたしに目配せしつつ、アウィンさんの後に続いて歩き出す。
二人の迷いのなさに少しだけ困惑しながら、あたしもその後に続いた。
◆ ◆ ◆
岩肌に現れた入口を抜けると、内部は人工的に造り込まれた広間のようになっていた。
天井までの高さは十五メートルくらいだろうか。松明が灯っている訳でもないのに、内部は端から端まで見渡せる程明るい。どこか青白く感じるその明るさのせいか、少しヒヤリとする空気が周囲に満ちているように思う。
四方の壁には神話に出て来そうな神々しい姿の生物が、彫刻として規則正しく設置され、あたし達を無言で見下ろしていて、その中央となる広間の床には、直径三十メートルはありそうな巨大な魔法陣のような物が描かれている。
数字なのか記号なのかわからない、複雑怪奇な文字がいくつも刻まれていて、ジッと見ていると何だか目眩を起こしそうになってくる。
「何つーか、偉く厳かな雰囲気だな……」
「この『蒼き精霊殿』は、『精霊』召喚の要となる場所ですからね。当然と言えば当然なのかも知れません」
見蕩れるように呟くランザさんに微笑みかけながら、アウィンさんは広間の中をゆっくりと見回した。
「……どうやらまだ、『精霊指揮者』には見つかっていないようですね。とりあえず、安全なのは確かなようです」
確かに入口にも広間にも、強引に押し入ったような痕跡は見当たらなかったから、それは間違いないと思う。対策を立てるなら今の内だ。
「これからどうするんですか?」
「もちろん、『対極召喚』を行う為の準備をするんです。……ただその前に少し、私にはやるべき事があるので」
「やるべき事?」
「ああ、気にしないでください、個人的な用事です。リネさんは休んでいて構いませんよ。準備が出来たらまた声を掛けますから」
「あ……、はい……」
生返事を返してしばらく佇んだ後、あたしは広間の中を見回して、座れそうな場所を探してみた。
とりあえず壁を背にして座ろうと思い、二人から距離を取って広間の端まで歩いてから、適当な所に腰を下ろす。
ふと前方を見ると、広間の中央に描かれた魔法陣の中心で、屈んで何かを行っているアウィンさんの姿があった。少し視線を右に移すと、ランザさんは斧を片手で担いだまま、壁に設置されている彫像を物珍しそうに眺めている。
静けさに包まれた、蒼い光が浮かぶ空間。何だかようやく落ち着けた気がして、思わずあたしは溜め息を吐いた。
土壇場でランザさんが現れてくれたおかげで助かったけど、まだ安心は出来ないよね。パーニャ達が引き返してくるのも時間の問題だろうし……。
ディーン……今頃どうしてるのかなぁ? パーニャは、『あたし達を助ける為に頑張ってる』って言ってたけど、それってつまり、ディーンがまた危ない眼に遭ってるって事だよね……。
「……大丈夫、なのかな」
無意識の内に、膝を抱えている力が強くなる。
早くディーンに会いたい。声が聞きたい。顔が見たい。話がしたい。
お願いディーン。どうか無事でいて――。
『よく来たな、「妖魔」の民』
「!?」
膝に顔を埋めて、眼を瞑った瞬間だった。
突然、耳許で囁くような声が聞こえて、思わずあたしは立ち上がり、背後を振り返った。だけどもちろん、そこには誰もいない。背を預けようとしていた広間の壁があるだけだ。
「……ねぇ、二人共。今、何か言いました?」
アウィンさんとランザさんに確かめてみようと思い、二人がいる方向に振り向いた、その瞬間。
眼の前の景色が、全く別のものへと変化していた。
「えっ……?」
あまりの出来事に、思考が十秒以上停止した。視界に捉えていたはずのもの全てが、悉く一変していた。
見渡す限り白、白、白。
どこまでも果てしなく白に染め上げられた、何もない空間。
そんな不可思議な世界の中心に、あたし一人だけが取り残されている。白一色しかないせいで天地の境が曖昧な為、自分が宙に浮いているかのような錯覚を起こしそうだ。
「アウィンさん? ランザさん! どこ……? どこに行っちゃったの?」
ついさっきまで、すぐ近くにいたはずの二人の姿が見当たらない。
一体何がどうなって――。
「おい、小娘」
突然、背後から響いてきた聴き覚えのない声に、あたしは思いっ切り肩を震わせてしまった。我ながら叫び声を上げなかったのが不思議なくらいだよ……。
恐る恐る振り返ってみると、声の主は思ったよりもすぐ近くに佇んでいた。
相手を目視してまず最初に思った事は、幼い頃に読んだ絵本に出てきた王女様みたいだなぁ、だった。
ミレーナさんに負けず劣らずの優美な輝きを放つ金色の髪は、腰を通り越して脹ら脛の辺りまで伸びている。吸い寄せられそうな天色の瞳は、澄んだ輝きを放っていて、いつまでも見つめていたくなってしまう。
その身に纏う純白のワンピースは、爪先が隠れてしまいそうな程、裾が長い。周囲の景色が白一色のせいで、存在そのものが同化してしまいそうだ。
「これはこれは。それだけ驚いてもらえると、わざわざ後ろから声を掛けた甲斐があったというものだ。いやー実に良い反応だったよ、ありがとう」
意地の悪そうな笑みを浮かべて、楽しそうに感想を述べる金髪の女性。
本当なら、からかっているような台詞を口にするこの女性に、不満の一つでもぶつけるべきだったのかも知れない。
でもあたしには、それが出来なかった。
すぐ眼の前に佇んでいる女性の立ち姿に、存在感に、見蕩れてしまっていたから。
「あの……、あなたは……?」
相手の不可思議な雰囲気に呑み込まれそうになりながらも、あたしはどうにか声を絞り出した。
すると金髪の女性は、若干不服そうに眉根を寄せ、喰い入るようにあたしの顔を覗き込む。
「んん? 何を言ってる。自己紹介は必要ないだろう、リネ・レディア。貴様は私を知ってるはずだ」
「! どうしてあたしの名前を……!?」
上品そうな見た目に反して、やや粗暴な言葉遣いの女性の台詞に、あたしは耳を疑った。
自己紹介なんかしていないはずなのに、女性はまるで当然のようにあたしの名前を呼んだ。その得体の知れなさに、自然と警戒心が強くなる。
対して女性の方は、あたしを見つめながらやや首を傾げた。
「ふむ……。どうやら覚悟の上での行動、という訳ではないようだな。こちらから声を掛けるのは、些か早計だったか……」
「?」
「まぁいい。どちらにせよ手間が掛かるのは同じ事だ。――よしわかった。自己紹介をしよう」
困惑しているあたしを置き去りにして、金髪の女性は話を先へ進めてしまう。
何であたしの名前を知ってるのか謎だし、ぶつぶつ喋っていた独り言の内容も、何についての推察だったのかわからない。……って言うかあなたは誰で、ここは一体どこなの?
情報が複雑過ぎて処理し切れない。何だかあたし、頭から湯気が出始めてる気がするんだけど……。
「あーそう難しい顔をするな。今説明してやるから」
随分投げ遣りな口調であたしを制してから、金髪の女性は突然こう切り出した。
「私は、貴様ら人間が『光』と呼ぶもの。或いは『天使』。或いは『精霊』。……ああ、『ホーリー・ディバイン』なんて呼び方もされていたな、確か。ともかくそういう存在だ。――わかったか?」
「……………………………………………………はい?」
「……ある程度予想していた反応ではあるが、安易過ぎて面白味に欠けるな」
期待外れだと言わんばかりに、呆れたような表情を見せる女性。
いきなり突拍子もない事を言われて十秒ぐらい硬直していたあたしの脳が、漸く言葉の意味を理解し始める。
「ちょっと待ってください……。あなたが、『精霊』……!?」
「驚いてくれるのは有難いが、何もそこまで眼を瞠る程の事でもないだろう。特に貴様の場合、あのディーン・イアルフスと行動を共にしているんだ。トラブル続きのあの小僧の傍にいれば、この程度の驚きなど高が知れているんじゃないのか?」
「それとこれとは訳が……」
なぜか不服そうな様子のこの人(という表現が正しいのかわからないけど)が、以前アウィンさんが言っていた『光属性』の象徴たる『精霊』、『ホーリー・ディバイン』……。
あまりにも突然の事で、全然実感が湧かない。って言うか、『精霊』って呼ばれてるくらいだからもっと人間離れした姿を想像してたんだけど、意外と普通の姿なんだ……。
まぁ、それはいいとして。
「あの……『精霊』さん。ここは一体、どこなんですか?」
さっきからずっと気になっている事を改めて聞いてみると、『精霊』は数秒考え込むような仕草を見せた。
「どこ、と聞かれても返答に困るな。強いて言うなら『無意識下の世界』、とでも表現するべきか。ここは貴様の無意識下に存在する場所でもあるし、全く別の人間の無意識下に存在する場所でもある。見える風景や情景は、人によって様々だがね」
「……えーっと……」
「……難しいようなら無理に理解する必要はない。一種の夢だとでも思っておけ」
辟易した様子で溜め息を吐かれたせいで、何だか少しだけ落ち込んでしまう。別にあたしが悪い訳じゃないと思うんだけどなぁ……。
「とにかくだ。一応歓迎しておくよ、リネ・レディア。自らの意志でここへ来た訳ではないようだが、私も貴様とは一度話してみたいと思っていたからな」
「……? どうしてそんな風に思ったんですか?」
「ずっと見ていたからだよ、貴様の事を。……いや、感じ取っていたと言うべきかな。貴様の両手に刻まれている、『煌翼』の力を介して」
「『煌……、翼』……?」
聞き慣れない単語を耳にして首を傾げるあたしに、『精霊』は訝しげに眉を顰めた。そして何かに気付いた様子で、やや呆れの混じった声を出す。
「まさか貴様、自分の力の名前を知らなかったのか?」
「名前? じゃあその『煌翼』って言葉があたしの……『治癒』の力の名前なんですか?」
「やれやれ、質問に質問で返されるとはな。本当に『妖魔』一族の末裔なのか疑わしく思えてくるぞ」
「そんな事言われたって……」
何だか馬鹿にされたような気がして、思わずムッとしてしまう。知らないものは知らないんだもん、仕方ないでしょ?
でもそっか。ディーンやアウィンさんの『精霊術』にだって固有の名前があるんだから、あたしの力に名前があったっておかしくはないよね。
『煌翼』――。
初めて聞いたはずの言葉なのに、改めて繰り返してみると、何だか凄く懐かしい感じがする。もしかしたらあたしが覚えていないだけで、小さい頃に聞いた事があったのかも知れない。
お父さんや、お母さんから……。
「どうした? 妙に浮かない顔をしているが」
まるで耳許で囁いているかのような静かな声で指摘されて、我に返る。ほんの数秒だけ、ぼんやりと考え込んでしまっていたみたいだ。
軽く頭を振って、意識を切り替える。
今は余計な事を考えてる時じゃない。こんな簡単に『精霊』と対面出来たのは予想外だけど、この機会を無駄にする訳にはいかないよね!
「何でもありません。それより、あなたが『精霊』だって言うなら、お願いしたい事があるんです」
「『デス・ベリアル』の召喚と、世界の崩壊。それらを止める為に力を貸せ、と言いたいのだろう?」
「!」
その程度の要求、予想の範囲内だ。
……と、少々呆れた様子で『精霊』はそう言った。
何だか出端を挫かれてしまった気分になりながらも、あたしはどうにか言葉を紡ぐ。
「このままにしておいたら、取り返しのつかない事になるんです。あたしは、世界の崩壊を止めたい。だからお願いします。この世界のみんなを守る為には、『対極召喚』の力が――」
「身の程知らずな小娘だな」
あたしの言葉を最後まで聞かず、『精霊』は突き放すかのようにそう言い放った。
ついさっきまで、あたしをからかうような態度を取っていたのに、『精霊』の雰囲気が急激に変わり始める。
天色の瞳に宿る冷たい光。それに気圧され、自然と足が竦んでしまう。
「大した覚悟も持ち合わせていないというのに、我が力を望む訳か。……まぁいい。ならば一つ、貴様に問おう、リネ・レディア」
ゆっくりとした歩調であたしの背後に回り込みながら、『精霊』は抑揚のない口調でそう言った。
思わず身構えると、丁度真後ろの辺りから囁くような声で、彼女は告げる。
「なぜ貴様が、世界の崩壊を止めなければならないと思うのだ?」
「? あの……」
「なぜ貴様が『止める側』なのかと聞いているんだ」
問い返すあたしに、『精霊』は少々苛立ったような口調で切り返してきた。
彼女は相変わらずゆっくりとした歩調で、まるで正円を描こうとするかのように、あたしの周りを歩き始める。
「貴様は今、『この世界のみんなを守る為』とほざいたが、果たしてこの世界に、人に、守ろうと思えるだけの価値があるのか?」
「あるに決まってます! だからあたしはこうして――」
「我が力に縋っている、か? それは確かにそうだろうさ。……だが考えてもみろ」
再度あたしの言葉を遮り、『精霊』は語り続ける。
どこまでも平淡で、感情の掴み難い口調で。
「貴様が守ろうとする人という存在は、一体どれだけの間、愚かでくだらぬ所業に手を染めてきた? どれだけの間、他者を傷付け、踏み躙り、怒りと哀しみを連鎖させてきた?」
「……それは……」
「人は争いを止められぬ。人は戦いを避けられぬ。どれだけ時代を築こうと、それが人の本質。永劫変わらない、愚かな姿なのだ」
「確かにそうかも知れません……。けど、そんな人達ばっかりじゃありません! 人は誰だって変わる事が出来る。誰だって、優しい存在になれるんです!」
「ふむ……、これは面白い。まさか貴様の口からそんな言葉を聞けるとはな。正直意外だよ」
その時漸く、『精霊』の様子に変化が現れた。
まるであたしの発言を嘲笑うかのように、薄く笑みを浮かべて、正面に立ち止まる。
「……どういう意味ですか」
天色の瞳を見据えて問い掛けると、『精霊』は更に愉快そうな表情になり、口を開く。
「問い返さなければわからないのか? そんなはずはないだろう。人間がいかに残酷で醜悪な存在なのかを誰よりも理解しているのは、貴様自身のはずだ。違うか? 人間の手によって滅亡させられた一族の末裔、リネ・レディアよ」
「!」
指摘され、思わず眼を見開くあたしに、『精霊』は尚も詰め寄ってくる。
光の使者と呼ぶには相応しくない、冷たい微笑を浮かべながら。
「どんなに綺麗事を並べて眼を逸らそうとも、所詮は無駄な事だ。……私にはわかる。貴様は人間に対して、心の奥底で憎しみを抱いているとな」
「そんな……。違います! あたしは――」
「正直に認めて楽になれ、『妖魔』の民よ。貴様は怒りを感じているはずだ。不満を抱えているはずだ。憤りを覚えているはずだ。何の罪もない一族を抹殺した人間が、守ろうとしなかった人間が、愚かで傲慢で醜い人間達が、憎くて憎くて堪らない。そうだろう?」
「違う……違います! あたしは……あたしはそんな事、思ってない!」
「ふっ……、はははっ。はははははははははははははははっ!」
語気を強めて否定したにも拘わらず、『精霊』は全く動じないどころか、鼓膜を突き抜けるかのような甲高い笑い声を上げた。まるであたしの言葉なんか、初めから聞いていなかったみたいに。
何が……何がそんなに面白いの!? あたしは自分の気持ちに嘘なんてついてない!
「見え透いた虚勢だな。滑稽にも程があるぞ」
「虚勢なんかじゃありません! あたしは……憎しみなんて抱いてない!」
「ほう。あくまでも認めないという訳か。……ならば仕方がない。無理矢理にでも見せてもらうとしよう。貴様の内なる思いを。その心の奥底に秘めたる、漆黒の闇を」
「……!?」
何をするつもりなのかわからない。けれどあたしは、『精霊』の言葉に漠然とした畏怖を感じた。
自然と後退るあたしを尻目に、『精霊』はゆっくりと両腕を広げながら告げる。
「我は如何なる闇をも照らし出す、光の存在。――『妖魔』一族の末裔、リネ・レディアよ。我が光を受け入れたければ、自らの闇を知る事だ」
異変が起きたのは、その瞬間だった。
白しか存在していないはずの周囲の景色が、波打つ水面のように揺らぎ始める。
歪な変化をもたらした光の存在は、これが最後だと示すかの如く、あたしを見据えて言い放った。
「己の闇を知らぬ者に、光を持つ資格はない」
「――!」
誰かに呼ばれた気がして、あたしは跳ね起きるかのように眼を開けた。
少しだけ意識がぼんやりとする。前後の記憶がハッキリしない。あたし、さっきまで何してたんだっけ……?
額に手を当てて、意識を奮い立たせる。そうする事で、あたしは初めて気が付いた。
自分が今、呆然と佇んでいる場所が、どこかの屋内だという事に。
四角い間取りの、あまり広くない木造の部屋。左右の壁に設けられた窓から射し込む、優しく穏やかな陽光。傍らには木製の机が置かれていて、それを挟む形で四つの椅子が並んでいる。机の上には、朝食らしき料理が三人分用意されていて、温かな湯気と香ばしい匂いが、部屋の中に漂っている。
生活臭を感じさせる、民家の朝の風景。
それなのに、人の気配が全くしない。
湯気の立つ料理だけが置かれている、不気味さにも似た寂寥感。窓から射し込む太陽の光すら、寒々しいものに見えてくる。
一体ここは……。
「……?」
しばらく室内を観察していたあたしは、その時ふと気が付いた。
何だかやけに、部屋の外が騒がしい。誰かが何かを叫んでいるような、慌ただしい声。しかも声の主は一人じゃないみたいだ。
とりあえず、外の様子を窺ってみようと思い、窓辺に近付いてみる。
ところがそこで、変な事が起きた。
窓の向こうの景色が見えない。射し込んでくる暖かな陽光は感じられるのに、窓の向こうはなぜか真っ白に染め上げられている。
商店が立ち並ぶ街の通りが見える訳でも、緑に覆われた雄大な山並みや、陽射しを乱反射する小川が見える訳でもない。まるで見えないカーテンにでも遮られているみたいだ。
仕方無く、室内を見渡して玄関を探す。何が起きているのか確かめるには、外に出てみるしかないみたいだ。
部屋の隅にある玄関と思しき扉に近付き、ノブを回して押し開ける。
その瞬間――。
景色が、一変した。
青空を覆い尽くす程、高々と昇っていく黒煙。辺り一面には火の粉が舞い、民家という民家が紅い炎に撒かれ、焼け崩れていく。
容赦なく肌を刺す熱波。
どこからともなく響いてくる轟音と、逃げ惑う人達の悲鳴。
「……これ、は……。そんな……」
あたしはこの光景を知っている。吐き気を覚えるくらいに強く、記憶に刻み込まれている。
ここは『妖魔』一族の集落。
そしてこの光景は、集落が襲撃された時の光景だ。
あの日……、『倒王戦争』と呼ばれる争いの最中に。
何が起きているのかわからない。どうして昔の記憶が、出来事が、今また現実のものとして眼の前で繰り広げられているのか。夢や幻にしたって、吹き抜ける熱風や響き渡る怒号、微かに鼻を刺す血の臭いは、どこまでも現実味を帯びている。
自然と足が蹌踉めいて、その場に膝をついてしまいそうになった、その時。右に数歩移動した足が、何かにぶつかって止まった。
あたしは、その理由を深く考えもせず、疑問をただの疑問として捉え、足許に視線を落とした。
その瞬間、息が干上がりそうになった。自分の行動の浅はかさを呪いさえした。
いつの間にか、あたしの足許には赤黒い血溜まりが出来ていて、その上に数人の、息絶えた人が転がっている。
すぐ傍の民家の壁には、飛び散ったばかりの生々しい血痕が。
地面の至る所には、夥しい量の血溜まりが。
眼に映る全てが紅く、どこまでも紅く染まっている。
「……あ……、ああ……」
嫌だ……、嫌だ嫌だ嫌だ! ここに……こんな所にいたくない!
声にならない悲鳴を上げて、気付けばあたしは走り出していた。
でも、どこに? どこに向かって走ればいいの?
助けを求められる人なんて、場所なんて、どれだけ走っても見つけられっこない。何をどうすればいいのかなんて、あたしにはわからない。
「あッ――!」
一目散に駆けていたあたしはその時、前方にある民家の陰から出てきた誰かに、思い切りぶつかってしまった。
踏み留まる暇もなく、地面に尻餅をつく。
しばらく鈍痛に悶えていたあたしは、前方に視線を移して、今更のように息を呑んだ。
あたしがぶつかってしまったのは、全身に傷を負い、血塗れになった男の人だった。
「……ッ! 大丈夫ですか!?」
うつ伏せに倒れたまま微動だにしない男の人の体勢を、転がすように仰向けに変える。
重傷なのは、一目瞭然だった。身に付けている服は至る所が切り裂かれていて、その切れ目から夥しい量の血が流れ出し、男の人の身体を赤黒く染めている。
あたしは即座に手袋を外して、両手を男の人の身体の上に翳した。その瞬間、『治癒』の光が掌から溢れ出し、男の人の全身を覆っていく。
それなのに――。
「……どうして……。どうして血が止まらないの……!?」
あたしはちゃんと、『治癒』の力を発動しているはずのなのに。『治癒』の光は、男の人を包み込んでいるはずなのに。傷口は一向に塞がらず、紅い血は溢れて、流れて、止まろうとしない。
「ダメ……、ダメ! 死んじゃダメ!!」
必死に叫んで、必死に力を使い続けながら、両掌を男の人の身体に押し当てた。
お願い、治って――!
「――――――――――――――――――――」
一体どれくらい、そうやっていただろう。
気付けばあたしは、固く両眼を瞑って、無我夢中で力を使い続けていた。
傷は塞がっただろうか? 男の人は元気になっただろうか? 悲劇は、悪夢は終わっただろうか?
力を使うのを止め、そっと瞼を開いてみる。そうする事で、あたしは地面に横になっている男の人と眼が合った。
生気を失くし、どことも知れない虚空を見つめる、闇の深淵のような双眸と。
「…………あ…………」
ただただ虚ろで、焦点が合っていないはずの瞳。それなのに、まるであたしを呑み込もうとしているかのように、男の人の視線はこっちを向いている。
慄いて、思わず地面に手をついてしまった、その瞬間だった。
ヌルっと、不快な感触があたしの五感を刺激した。
震えながら、恐る恐る自分の右手を裏返したあたしは、気が狂いそうになった。
必死になって男の人の身体を押さえ付けていたせいか、あたしの掌は、『妖魔』の証である痣が隠れる程、鮮血で紅く染まっていて――。
「――ッ! いやぁぁあぁぁぁああぁあぁぁぁぁああああああぁッ!!」
考えるのも限界で、現実を捉えるのも限界だった。
闇雲に走って、走って走って走り続けて、それでもどこにも逃げ場なんてなくて……。
『どんなに眼を逸らした所で無駄な事だ』
振り下ろされる。無慈悲な凶刃が。
『……私にはわかる。貴様は人間に対して、心の奥底で憎しみを抱いている』
舞い散る。鮮やかな色の液体が。
『怒りを、不満を、憤りを覚えている』
倒れ伏す。顔馴染みの人達が。
『自分の一族を抹殺した人間が、守ろうとしなかった人間が』
息絶える。大好きだった人達が。
『愚かで』
その光景は。
『傲慢で』
どこまでも紅くて。
『醜い人間達が』
紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて紅くて――。
『憎くて憎くて堪らないのだ』
「いやぁあぁあぁああぁああぁあぁぁあぁぁぁあああぁーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」
一体ドレクライ、走リ続ケタダロウ。一体ドレクライ、逃ゲ続ケタダロウ。
誰モ助ケテクレナカッタ。誰モ守ッテクレナカッタ。アタシハズット、一人ダッタ。
……ソウ。ダカラキット、『彼女』ノ言ウ通リナンダ。
アタシハ、心ノ奥デ憎ンデイル。心ノ奥デ、恨ミ続ケテイル。
アタシカラ全テヲ奪ッタ奴ラヲ。愚カデ、傲慢デ、醜イ人間達ヲ。
許ス事ガ、出来ナインダ――!!
「――ッ!」
気付くといつの間にか、周囲の景色は元に戻っていた。
真っ白な空間の中心で膝を折ったあたしは、立ち上がる事が出来ずにいる。
そんな……。今のが、あたしの心の闇? 眼を逸らし続けてきた本心だって言うの? ディーンやジン、アルフレッドさんやシャルミナ、ミレーナさん達と旅をしながら……みんなと笑い合いながら、あたしは心の奥底で、ずっと憎しみを抱いてたの……?
考えれば考える程、自分の事が恐ろしくなっていく。向き合おうとすればする程、自分の事が嫌いになっていく。
あたしは……。あたし、は……。
「――どうだ小娘。身の程は弁えられたか?」
降り注ぐ雨のように容赦のない声が、頭上から響いてくる。
顔を上げなくても、何となくわかる。『精霊』が今、どんな表情を浮かべているのかは。
「一度負の感情に支配されてしまえば、容易く修羅へと堕ちる。それが貴様も含めた、『人間』というものの本質だ。どんなに綺麗事を並べようと、心に闇を抱えぬ人間などいないのは事実。だからこそ、今一度問おう、リネ・レディア」
頭の上から降ってきた追い打ちを掛けるかのような言葉に、思わず肩を震わせる。
自分への嫌悪感と悲壮感から、顔を上げられない。上げる事が、出来ない。
「人間に憎しみを抱いている貴様が、なぜ世界崩壊を『止める側』にいる?」
「……」
声が、言葉が、答えが出て来ない。どれだけ脳を働かせても、考えが上手くまとまらない。
あたしが、世界崩壊を『止める側』にいる理由。世界を守ろうとする理由。
「……あたしは……」
「……やはり、所詮は人の子か」
嘆息するかのように呟くと、『精霊』は不満げに背を向けた。
冷たく、凍り付いた無慈悲な声だけが、あたしの耳に響き渡ってくる。
「我が問いに答えられぬのならば……、己の闇を受け入れられぬのならば、貴様に『寄代』となる資格はない。早々に、ここを立ち去れ」
視界が揺らぎ、急速に意識が遠退いていく。
まるで身体が浮遊しているかのような感覚に囚われた瞬間、あたしの意識は完全に遮断された。
◆ ◆ ◆
「――リネさん!? しっかりしてください! リネさん!」
誰かが自分に呼び掛けてくれてる。そう認識した瞬間、急激にあたしの意識は覚醒した。
眼を開けて声の主を確認してみると、そこには心配そうな表情を浮かべたアウィンさんがいた。彼女の傍らには、やや深刻そうな顔をしたランザさんもいる。
「良かった、気が付いたんですね。急に意識を失って倒れたので心配していたんです。気分はどうです? 立てますか?」
「……」
「? リネさ――」
「触らないで!」
アウィンさんの手が肩に伸びてきた瞬間、あたしは反射的に、彼女の手を払い除けてしまった。
驚いて眼を瞠るアウィンさんと、訝しげな表情を浮かべるランザさん。二人は明らかに、あたしの行動に戸惑っている。
「ごめんなさい……。ごめん、なさい……」
彼女の……『ホーリー・ディバイン』の言う通りだ。
自分の心を偽り、認めようとしないあたしには。
光を持つ資格なんて、求める資格なんて、ない。
皆様お久しぶりです!
どんだけ休むんだってくらい更新が途絶えてましたが、ようやく続きを投稿出来ました!
長く休み過ぎたせいでどんな話だったか忘れちまったよって方も多々おられるかと思いますが、またお付き合い頂ければ幸いです。
という訳で、今回はリネさん中心のお話でしたが、いかがでしたでしょうか。
この話もだいぶ前から考えてて、いつかどこかで入れられたらいいなぁなんて思ってたんですが。
やはり一族滅亡という衝撃的な出来事があれば、誰だって心に闇を抱えてしまうはずですよね……。
今後リネさんがどうやって自分自身の闇と折り合いをつけていくのかが、グラステッド山脈編の読み所の一つとなる、はずですw
ってな訳で続きをお楽しみに!
それでは!ノシ