ヒトデは0、コウモリは1
「生き物を触ったら石鹸で手を洗いましょう」
よく聞く言葉だ。
幼いころの私はその言葉を知っていた。
でも、ヒトデを触っても私は手を洗わなかった。
けど、コウモリを触ったときには石鹸で手を洗った。
この行動の差って不思議じゃない?
なんで、コウモリを触ったときには手を洗ったのか。
その理由を考えてみる。
私は幼い頃、生き物が大好きな人間だった。ヤゴやミズスマシ、ミミズにオケラ、ムカデにトンボ。
ヒトデにフナムシ。
ハンミョウにバッタ。
ニホントカゲにヤモリ。
まだまだ、触ったことのある生物がいる。
全部あげたらキリがないので割愛する。
――か、割愛⋯しな⋯する⋯しない!!(^q^)
うぉぉー!!!カナブン!ハナムグリ!クマバチ!スズメバチ!アブ!ナナフシ!ウシガエル!ドジョウ!変な魚!!
――か、割愛⋯しな⋯する!!!(´・ω・`)長くなる。
◇
とにかく。私は生き物をたくさん触ってきた。しかし、それらを触っても、私は石鹸で手を洗った記憶がない。
――けど、「コウモリを触ったときだけ」は、自分の意思で、石鹸を使って手を洗った。
なぜ「コウモリだけ」なのだろう?
当時を振り返ってみると、幼い頃の私は「生き物を触ったら手を洗う」という、決まりがあることは知っていた。
ただ、手を洗うことの重要性までは理解していなかったように思う。
いつも見ていた動物番組や、水族館の注意書きには、「生き物を触ったら、必ず手を洗いましょう!」と書かれていたが、その理由は語られていなかった。
だから、幼い私の中では「生き物を触ったら手を洗う→なぜなら土が付いたりして手が汚れるから」という表面的な解釈になっていたのだろう。
「手が汚れる=汚い」ということになるはずだが⋯⋯、この「汚い」という基準は、社会の通念や個人の感覚・経験に依存している。
まだ幼い子供であった私には、社会の通念を理解する体験や「汚くて自分に不都合が起きた」といった経験が圧倒的に不足していた。
そのため、どれだけ生き物を触っても「汚い」と感じなかったのだろう。そこら辺の葉っぱやズボンで、手に付いた土や水を拭いた記憶はあれど、水や石鹸を使って自主的に洗おうとした記憶はない。
しかし、コウモリだけは「洗わないといけない」と思い、自主的に手を洗った。
通念の理解や経験の少ない幼い子供の、汚いセンサーにコウモリだけが触れていた。
これは不思議なことだ。
当時はよく『どうぶつ奇想天外!』というテレビ番組を見ていた。その番組内で、「コウモリは糞まみれで不衛生」という情報を知ったと記憶している。
つまり私は、コウモリは「汚い」という情報を知っていた。
その情報を「生き物を触ったら手を洗う→なぜなら汚いから」というルールに当てはめ、「コウモリは汚いから手を洗う」という考えに至ったのだと思う。
◇
数字の「0」は無いことを意味し、数字の「1」は有ることを意味するらしい。
ヒトデを触って、手を洗った回数は0回だ。
コウモリを触って手を洗った回数は1回だ。
――もし私がコウモリを触っているのに、手を洗った回数が「0」回だったならば、私も「0」。
つまり、死んでいたかもしれない。なぜなら、コウモリは病原菌をたくさん持っているからだ。
コウモリが起源とされる「コロナウイルス(COVID-19)」は記憶に新しいが、コウモリは他にも、致死率100%の狂犬病ウイルスや危険なウイルスを媒介するとされている。
幸い、日本国内のコウモリから狂犬病ウイルスが確認されたことは無いようだが⋯⋯、コウモリの生態を考えると、「未知の危険なウイルス」を持っていてもおかしくはない。
そう考えると、ルールの意味や意義の理解、自然と付き合うための心得を知ることは、とても大切なことだと思う。
このエッセイの話を踏まえると、子供はルールの意義を理解できていない可能性があると思った。
たとえば、子供の考え方として、
「赤信号で止まる」というルールは分かった。
両親も「車が来て危ないから赤信号で止まる。」と言っていた。
だから、「車が来ていないなら渡ってもいい」。
といった誤った再解釈を行うことがありそうだ。
親として理由を述べるのは、とても誠実な行動だが、物によっては「赤信号は止まる。そういう決まりだから」といった解釈の余地がない言い方も必要なのかもしれない。




