雪娘の恋は大人になってから
目を覚ますと、あたしの周りには昨日とは違うひんやりとした空気が漂っていた。
耳を澄ますとざわざわと騒ぐ木々の声。
あたしは急いで支度をして外へと飛び出す。
どこまでも高い空。冷たい空気。木々の葉は色づき、風に巻き上げられた落ち葉が足元でカサカサ踊る。
これは、これは……待ちに待った秋が来た!
一番高い樹を見上げたあたしは枝が北風に揺られているのを確かめると、思い切り息を吸い込み、大声で叫んだ。
「カンちゃーん、、……カンちゃーん!!」
びゅん、と一段と激しい北風が顔を打ち付け、あたしは思わず目をつぶった。
「よう、紗雪、久しぶり」
その声に、あたしはパチッと目を開けた。あたしの顔よりも高い、少し見上げた場所に、笑顔のカンちゃんがいた。
「カンちゃん!久しぶり!元気だった?」
久しぶりに会えたカンちゃんに嬉しくて嬉しくて、自然とあたしの声は大きくなる。
「おう、一年ぶりだな。もちろん、元気さ。おまえも元気そうだな」
「うん、あたしも元気だよ!」
笑顔のカンちゃんに、あたしも笑顔を返した。
カンちゃんはあたしの昔からの馴染みで、本当の名前は寒太郎。いつもこの季節になると北から北風を運んでくる。
カンちゃんがやって来ると秋が来て、そのあとすぐに冬になる。
雪娘のあたしはいつでも冬が待ち遠しいけれど、冬が来る前、秋を運んでくるカンちゃんに会えるのが一年のうちでの何よりもの楽しみだった。
「今年はちょっと来るのが遅かったね」
「ん?ああ……暑さが強くて押し返すのが大変だったんだ」
「暑さ?火の神の?」
あたしは何となく空を見上げた。その瞬間、ちょうどいいタイミングで火の神が空を駆け抜けていく。
火の神は空を走り回りながら、名前の通り、火の熱を振りまいているのだ。よくこの辺りの空の上も走り回っている。
「うわ、噂をすれば……っていうやつ」
「あはは、まあ、火の神が頑張っているせいもあるだろうけど、それだけじゃないさ」
「そうなの?」
「まあな。生き物が多い所には熱が籠るもんだ」
「ふうん?」
カンちゃんの言う事はよくわからないけど、きっと空の上のカンちゃんからは、あたしとは違うものが見えるんだろう。
「それに火の神がいなくなったら、大変だろ。この星は凍る」
「あたしはそれでもいいけどね」
「まあ、おいらも困るわけじゃないけどな」
顔を合わせてうふふ、と笑う。
北風小僧と雪娘。どちらも冬の世界で生きていける。
「ねえねえ、ここにはいつまでいるの?いろんな話聞きたいな」
「うん、ああ」
わくわくしながらあたしは聞いた。カンちゃんはいつも何日かは同じ場所にいて、十分に北風を振りまいてから南へと飛んでいく。
雪娘でこどものあたしはこの場所からは動けない。だからいつもカンちゃんが教えてくれる、遠い所の話を楽しみにしていた。いつか大人になって自由にどこにでも行けるようになったら、カンちゃんが話してくれた場所にもきっと行ってみるつもりだ。
期待の籠ったあたしの言葉に、でも、カンちゃんは少しだけ考える。
「ごめん。今年は来るのが遅くなったから、もう、先に行くつもりだ」
「え、もう行っちゃうの?来たばっかりなのに」
「ああ、悪いな」
そう言いながらカンちゃんはあたしの傍まで降りてきてくれた。
「これ、土産」
カンちゃんはわたしに小さな包みを渡す。
「北の国の氷菓子」
「え、お土産?あたしに?いいの?ありがとう」
カンちゃんからのプレゼント。嬉しくないわけがない。
「うん、あと、さ」
「うん?」
にまにまと喜んでるあたしから、カンちゃんはちょっと目をそらす。
「……来年は、おいら、たぶんここには来ない」
「え?」
思いもよらない言葉に、あたしは驚いた。
「なに?なんで?だって……カンちゃんが来ないと秋が来ないよ!」
「いや、おいらは来ないけど、おいらの弟たちの誰かが来る」
「弟?なんで?カンちゃんは?」
驚き慌てるあたしにカンちゃんは説明する。
「うーん、実はさ、おいら、嫁を貰うことになったんだ」
「え……ヨメ?」
ヨメ?ヨメ……嫁?
「……………………カンちゃん、結婚する、の?」
「ああ」
照れたようにカンちゃんは頷く。
「それでさ、北の国の方にいる時間が長くなるだろうから、こっちの方は弟たちに任せる予定だ」
「………………そう、なんだ」
言葉が出てこない。あたしは頷くことしかできなかった。
「あー、驚かしちまったな」
呆然とするあたしの頭を、ぽんぽん、とカンちゃんは叩く。いつもならきっと飛び上がるぐらい嬉しいだろうに、やっぱりあたしは動けなかった。
「というわけで、しばらく会えないだろうけど、元気でな」
カンちゃんがあたしに優しく声をかける。
「じゃあな、紗雪」
ふわり、とカンちゃんが浮き上がった。ざざっと足元の落ち葉が騒ぐ。
「大人になったら遊びに来い!待ってるからな!絶対来いよ!」
「……カンちゃん!」
「じゃあ、またな!」
手を振ったカンちゃんは、あっという間に空へと昇っていく。北風が木々を揺らした。
ふわり、と何かがおでこに当たった。いつの間にか座り込んでいたみたいだ。あたしはのろのろと顔を上げ、空を見る。
あんなに晴れていた空はいつの間にかどんよりと鉛色の雲が広がり、雪がゆっくりと舞い降りてくる。
冬が来ていた。
本当にカンちゃんは行ってしまったのだ。
だんだんと雪が強く降り始める中、あたしはとぼとぼと部屋へと戻る。
小さな洞窟に氷を貼って過ごしやすくしてあるのがあたしの住む部屋。まだ雪娘でこどものあたしには十分な広さもある。
冬になってに雪女の姉さんたちが遊びに来ると、ちょっと狭くは感じるけれど。
部屋に入ったあたしは、カンちゃんからもらったお土産を握りしめていたことに気が付いた。
袋を開けてみる。そこにはほわほわとした氷のお菓子。
ひとつつまんで口に入れる。口に入れるとほわり、と溶けた。
「…………………………おいしい」
ぽろり、と涙が零れた。
もうひとつ取って口に入れる。ぽろぽろと涙が零れる。
「…………おいし………………うっ、ぐすっ…………うっ、ひっく」
カンちゃん、大好き。大人になったらちゃんと気持ちを伝えようと思っていたのに。
「うっ、うっ……ぐずっ」
大人になったらカンちゃんと一緒にいろんなところに行きたかったのに。
「…………ひっく、うえーん」
とってもとっても悲しくて、あたしは声をあげて泣いた。
泣きながら、カンちゃんにもらったお菓子を口に運ぶ。こんなにこんなに悲しいのに、お菓子はこんなに美味しいんだ。
それが不思議で、あたしはまた泣いた。
そういえば姉さんたちが言ってたっけ。
『何かつらいことがあったら、美味しいものをいっぱい食べて』
それって今みたいな時のことなのかな。そう思いながら、食べ物を取り出す。
『悲しかったら思い切り泣いて』
うんうんと頷きながらあたしは泣く。
『そのあと、眠れるだけ眠るのよ』
姉さんたちを思い出して、あたしはまた泣いた。
雪が降り続いている。もう外はすっかり白くなっているだろう。
辺りがすっかり雪に埋もれれば、そう、冬になればいつもみたいに姉さんたちが来てくれる。そうしたら、姉さんたちにカンちゃんの事を聞いてもらおう。きっと姉さんたちはあたしを抱きしめて、頭をなでてくれるはず。
あたしはぽろぽろと涙をこぼしながら目を閉じた。
「…………あら?」
いつの間にか眠ってしまったみたい。ゆっくり起き上がると、髪がさらりと流れる。
「………………え?」
肩までだった髪が伸びている。
「………………え?」
髪を触る指が長い。
「………………え?え?」
慌てて立ち上がる。昨日よりも視界が高い。腕も足も体も大きくなっている。
「わたし、大人になってる!」
すぐには信じられなくて、わたしは自分の体を確かめる。
あんなにいつも大人になりたいと思っていたのに、実際に大人になってみると嬉しいよりも驚きの方が大きい。
そしてわたしは昨日の事を思い出した。
「……ああ、カンちゃんが結婚するって聞いたんだっけ」
昨日ほどの悲しさは感じなかった。もう何年も前のことみたい。カンちゃんのことが大好きだった気持ちは本当だとわかるのに。
「大人になったから?」
雪女になると、子供だった雪娘の頃は遠い昔になってしまうのかもしれない。
「だから姉さんたちはいつも、大人になってからねって言ってたのかな」
冬の気配に、わたしは外に出てみる。
青い空。真っ白に積もった雪が眩しく輝く。
「……?」
部屋の前に、半分雪に埋もれてしまっている大きな岩があった。昨日まではこんな大きな岩、なかった。
わたしは岩に近づく。わたしの背の倍以上はありそうな大きな岩。
手を伸ばして触れようとしたら、岩が動いた。
上に積もった雪がざざっと落ちる。
岩の目がぱちり、と開き、赤い目がわたしを見た。
「………………」
わたしは驚いて声を出すこともできなかった。
「……雪の娘?」
岩の声?思いのほか、優しい声が聞こえた。岩は立ち上がってわたしの方に向き直る。その姿には見覚えがあった。そう、空を見上げると、たまに見かけることがあった、あの……。
「あなたは、火、の神?」
わたしの問いに相手は首を傾げる。
「火の神?ここの星の者たちは俺たちを火の神と呼ぶのか?」
「は、い」
姉さんたちとカンちゃんが火の神と呼んでいたから、わたしもそう呼んでいた。たまに見かけた火の神は、獅子のような姿で、炎と同じ色をしていた。目の前の火の神は、姿は同じでも炎の色を残しながらどちらかというと土に近い色をしている。
「神、なんて大層なものじゃない。ああ、そうか、少し離れろ」
目の前の火の神はがそう言うのでわたしは数歩後ずさり、火の神から離れる。
かすかな熱と共にふわりと光が舞った。
茶色がかった赤い髪に燃えるような赤い瞳。わたしとは正反対の浅黒い肌。
火の神のいた場所に、男性が一人立っていた。
「これなら、君たちと同じに見えるだろうか?」
「火の神、じゃないんですか?」
男性は首を振る。
「俺たちが神と呼ぶのは、あれだ」
そう言って男性は空を見上げる。眩しいほどの青空、そして……。
「太陽。あそこに俺たちの神がいる。俺たちはあそこで生まれて、この星まで熱を届けに来た」
太陽からの熱を届ける?
「俺たちは神ではなく、太陽の使い、だ」
「太陽の、使い……」
そう聞いて、わたしははっとする。
「熱くない!」
そうだ、火の神……太陽の使いは熱を振り撒いているから熱いって、姉さんたちが言っていた。
「ああ、もう俺の熱は届けたからな。この星にも次の太陽の使いが来ている」
目の前の男性が笑う。
「熱を届ければ、俺の仕事は終わる。あとは太陽に戻ってもいいし、どこか別の場所で過ごしてもいい」
赤い目がわたしを見る。その目はやっぱり炎の色。
「で……だ、が、どうするか決める前に、雪の娘に会ってみたかった」
「……わたしに?」
わたし、に会いたかった?
「空を走っていてこの辺りを通ると、いつも、空気が澄んでいると感じるんだ」
わたしは黙って彼の言葉を聞いた。
「それでここに何があるのか聞いてまわって、雪の娘がいると知った」
「上を通った時に、ちらりとだが、姿が見えたこともある」
言われてみればわたしも空を走る火の神を何度か見たことがあった。そうだ、こちらから見えるのなら当然向こうからも見えているはず。
「ずっと会ってみたいと思っていた」
じっと赤い瞳に見つめられた、わたしは戸惑う。え、こんな時はどうすればいいの?
「思った通り、雪の娘の周りは空気が澄んでいる」
そういえば、カンちゃん以外の男の人に会うのは今日が初めてだ。
「俺の名前はイルソル。名前を教えてもらえるか?」
「え、あ……紗雪、です」
反射的にわたしは答えた。
「紗雪、よければもう少し話がしたい。雪女になったら自由にどこでも行けるのだろう?行きたい所に送ろう。俺の背に乗るといい」
ありがたい申し出に思えるけれど、簡単について行ってもいいのだろうか。それに雪女になった今、雪のない所に行くことは出来ない。
「あの、わたし……」
何と言っていいのかわからず、戸惑っていると彼が言う。
「いや、突然で困らせただろうか。すまない。俺は雪の娘の話を聞いていたから、知った気になっていたようだ」
その様子は悪い人には見えない。姉さんたちは火の神の事を、なんて言っていたかしら。
そう、あの時は“火”という言葉を聞いただけで、なんだか怖いと思ってしまった。でも姉さんたちは怖がるわたしを笑っていた。
『そんなに怖がらなくても大丈夫』
そう、怖がらなくても大丈夫って言って笑っていたんだったわ。姉さんたちはきっと悪い人を神なんて呼ばない。
「わたし、もう雪娘じゃありません。大人になったので、雪女です」
「ああ」
イルソルが頷く。
「雪女になったので雪のない所には行けないんです」
「知っている、が、俺はどこまでも高く飛ぶことができる」
「え?」
「雪女は雪を纏うのだろう?空の高い場所なら雪を纏っても誰にも見えない。どこにでも行くことができる」
ああ、とわたしは思う。イルソルは雪女の事をきっとちゃんと知っているのだ。そしてわたしがどこへ行きたいのかも。
わたしはまっすぐに彼を見た。大人になった日に思いがけないお迎えだけど、提案に乗ってみるのもいいかもしれない。
「…………送ってもらってもいいですか?」
そう、大人になったのだから、これからはやりたいことをしてもいいのだ。
その後イルソルは火の神の姿になると、わたしを背中に乗せて空へと舞いあがった。イルソルの背の毛皮は滑らかで手触りが良くてとても落ち着く。
わたしは今まで住んでいた場所を見下ろした。そこは真っ白な雪で覆われていた。




