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その赫眼、最恐につき  作者: 語彙力皆無マン
第1章 【龍神村の忌み子】
9/12

第九話   『土下座』

 

 葬儀から三日が経った。


 その間、父上は毎日、稽古の時間に来た。

 木刀を持って、いつも通り庭に立つ。

 私も構えを取る。

 打ち合いが始まる。


 何も変わらないように見えた。

 ただ、父上の踏み込みが以前より浅く、打ち込みの力が僅かに鈍い。

 気づいていないふりをした。

 父上も何も言わなかった。

 互いに、剣を合わせることだけで繋がっていた。


 四日目の朝、父上は木刀を持ってこなかった。


 部屋に入ってくる足音が、いつもと違う。

 重く、引きずるような音。

 縁側から朝の光が差し込んでいて、父上の影が畳の上に細く伸びた。


 父上は私の前に正座し、そのまま深く頭を下げた。

 畳に額がつくほど、深く。


 私は何も言えなかった。

 父上が頭を下げている。

 あの父上が。


 剣を持てば誰より厳しく、言葉は常に短く、感情を表に出すことをしない人が、畳に額をつけて頭を下げている。

 その背中から、目が離せなかった。


 長い沈黙だ。


 外で鳥が鳴いた。

 風が吹いて、縁側の向こうで木の葉が揺れた。

 朝の空気は冷たく、線香の残り香がまだどこかに漂っていた。


「……お前に、謝らなければならないことがある」


 くぐもった声だった。

 畳に押しつけた顔から、絞り出すように。


「美心と葵を守れなかった。それだけじゃない。お前をずっと、この部屋に閉じ込めてきた。外にも出せず、誰とも会わせず、掟の名のもとに縛りつけてきた。剣を教えることしかできなかった。父親として、それが俺の精一杯だった。それでも足りなかった」


 言葉が続く。

 普段は多くを語らない人が、一つずつ、確かめるように言葉を置いていく。


「お前が生まれた夜、俺は何もできなかった。掟に抗えず、お前を守り切れなかった。それからずっと、お前に詫び続けながら生きてきた。今も、詫びる言葉しか持っていない」


 父上の背中が、小刻みに震えていた。

 幾つもの剣胝が刻まれた手が、畳をぎゅっと押さえている。長年剣を握り続けた、傷だらけの手が。


「……顔を上げてください」


 父上は動かなかった。


「──父上」


 もう一度呼ぶと、ゆっくりと顔が上がった。


 目が赤い。


 泣いていた。

 父上が泣いている。

 生まれて初めて見た。

 見てはいけないものを見た気がして、私は視線を逸らした。何か言おうとしたが、言葉が喉の手前で詰まった。



「俺に、お前を旅に送り出す資格はない。だが」



 父上が膝の上で拳を握った。


「お前が行きたいなら、止めない。止める権利が、俺にはない」


 一度言葉が途切れた。

 父上は畳の一点を見つめたまま、しばらく動かなかった。




「……頼みがある」




 低く、絞り出すような声だった。


「美心と葵の仇を、討ってくれ。俺の妻と娘の仇を。俺にはもう、剣を持って追う力が残っていない。情けない話だが、それが今の俺の限界だ。だからお前に、頼む」


 父上がもう一度、深く頭を下げた。


 私は何も言わなかった。

 言う必要がなかった。


 あの男を追うことは、最初から決めていた。

 父上に頼まれるまでもなく。

 ただ、この人の口からその言葉を聞いた瞬間、胸の中の何かがより深く、より静かに固まった気がした。

 怒りではなく、誓いのようなものが。






「……必ず」






 それだけ言った。

 父上はゆっくりと顔を上げ、私を見た。

 何も言わなかった。

 それでよかった。


 父上が目元を拭い、静かに居住まいを正した。

 一度大きく息を吸い、吐く。

 白い息が、朝の冷たい空気に溶けた。


「……長老は」

「俺が話をつける」

「どうやって」

「それはお前が心配することじゃない」


 いつもの硬い声だった。

 私は少しだけ、安堵した。

 この人はまだ、ここにいる。


 ---


 出発の日取りは、半年後に決まった。


 長老衆への説得がどれほど難航したのか、父上の口から一切語られなかった。

 許可が下りた朝、「決まった」と短く告げた時の顔に、深い疲労の色があった。

 何度頭を下げたのか、何を差し出したのか。

 私には分からない。分からないままにした。


 稽古は以前にも増して激しくなった。

 夜明け前から始まり、日が傾くまで続く日もある。

 木刀同士がぶつかる乾いた音が、朝の空気に響く。

 汗が地面に滴る。


 父上は何も言わないが、技だけでなく、折れない何かを叩き込もうとしているのが伝わってきた。


 ある夜、稽古の後に父上が珍しく縁側に腰を下ろしていた。

 私も隣に座った。


 夕風が吹いて、庭の草がさわさわと揺れる。

 虫が鳴き始めていた。

 空が橙から紺へと変わっていく。

 二人とも、まだ汗が乾いていなかった。


「強くなったな」


 前を向いたまま、父上は静かにそう言った。


「まだまだです」


「そうだな。だがお前は、俺が教えられることは全部持っていった」


 少し間があった。

 風が吹いて、庭の草が揺れた。


「……美心がな」


 父上が、ぽつりと言った。


「稽古のたびに俺に聞いてきた。今日はどうだったか、どこまで上手くなったか、って。話す度に嬉しそうにしてた」


 父上の口元が、わずかに緩んだ。


「あまり厳しくしないでやってくれって、何度言われたことか」


 私は少し、俯いた。

 母上がそんなことを言っていたとは、知らなかった。

 読み書きの稽古の時も、そんなそぶりは一度も見せなかった。

 あの人は、そういうことを私には言わなかった。


 それきり、また黙った。

 虫の声と、風の音だけが続く。

 父上の横顔を、横目で盗み見た。


 老けた、と思った。

 この数日で一気に老けた気がした。

 目の下に影があり、頬がこけ、髪にも白いものが増えた。


 何か言おうとして、やめた。

 礼でも詫びでもなく、ただここに並んでいることだけが、今の二人にできることだった。


 風が吹いた。

 父上の白髪交じりの髪が、僅かに揺れた。

 同じ風が、私の頬を撫でていく。

 遠くで、名も知らない鳥が一声鳴いた。その声が夜の空気に溶けて、静かに消えた。

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