第九話 『土下座』
葬儀から三日が経った。
その間、父上は毎日、稽古の時間に来た。
木刀を持って、いつも通り庭に立つ。
私も構えを取る。
打ち合いが始まる。
何も変わらないように見えた。
ただ、父上の踏み込みが以前より浅く、打ち込みの力が僅かに鈍い。
気づいていないふりをした。
父上も何も言わなかった。
互いに、剣を合わせることだけで繋がっていた。
四日目の朝、父上は木刀を持ってこなかった。
部屋に入ってくる足音が、いつもと違う。
重く、引きずるような音。
縁側から朝の光が差し込んでいて、父上の影が畳の上に細く伸びた。
父上は私の前に正座し、そのまま深く頭を下げた。
畳に額がつくほど、深く。
私は何も言えなかった。
父上が頭を下げている。
あの父上が。
剣を持てば誰より厳しく、言葉は常に短く、感情を表に出すことをしない人が、畳に額をつけて頭を下げている。
その背中から、目が離せなかった。
長い沈黙だ。
外で鳥が鳴いた。
風が吹いて、縁側の向こうで木の葉が揺れた。
朝の空気は冷たく、線香の残り香がまだどこかに漂っていた。
「……お前に、謝らなければならないことがある」
くぐもった声だった。
畳に押しつけた顔から、絞り出すように。
「美心と葵を守れなかった。それだけじゃない。お前をずっと、この部屋に閉じ込めてきた。外にも出せず、誰とも会わせず、掟の名のもとに縛りつけてきた。剣を教えることしかできなかった。父親として、それが俺の精一杯だった。それでも足りなかった」
言葉が続く。
普段は多くを語らない人が、一つずつ、確かめるように言葉を置いていく。
「お前が生まれた夜、俺は何もできなかった。掟に抗えず、お前を守り切れなかった。それからずっと、お前に詫び続けながら生きてきた。今も、詫びる言葉しか持っていない」
父上の背中が、小刻みに震えていた。
幾つもの剣胝が刻まれた手が、畳をぎゅっと押さえている。長年剣を握り続けた、傷だらけの手が。
「……顔を上げてください」
父上は動かなかった。
「──父上」
もう一度呼ぶと、ゆっくりと顔が上がった。
目が赤い。
泣いていた。
父上が泣いている。
生まれて初めて見た。
見てはいけないものを見た気がして、私は視線を逸らした。何か言おうとしたが、言葉が喉の手前で詰まった。
「俺に、お前を旅に送り出す資格はない。だが」
父上が膝の上で拳を握った。
「お前が行きたいなら、止めない。止める権利が、俺にはない」
一度言葉が途切れた。
父上は畳の一点を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……頼みがある」
低く、絞り出すような声だった。
「美心と葵の仇を、討ってくれ。俺の妻と娘の仇を。俺にはもう、剣を持って追う力が残っていない。情けない話だが、それが今の俺の限界だ。だからお前に、頼む」
父上がもう一度、深く頭を下げた。
私は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
あの男を追うことは、最初から決めていた。
父上に頼まれるまでもなく。
ただ、この人の口からその言葉を聞いた瞬間、胸の中の何かがより深く、より静かに固まった気がした。
怒りではなく、誓いのようなものが。
「……必ず」
それだけ言った。
父上はゆっくりと顔を上げ、私を見た。
何も言わなかった。
それでよかった。
父上が目元を拭い、静かに居住まいを正した。
一度大きく息を吸い、吐く。
白い息が、朝の冷たい空気に溶けた。
「……長老は」
「俺が話をつける」
「どうやって」
「それはお前が心配することじゃない」
いつもの硬い声だった。
私は少しだけ、安堵した。
この人はまだ、ここにいる。
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出発の日取りは、半年後に決まった。
長老衆への説得がどれほど難航したのか、父上の口から一切語られなかった。
許可が下りた朝、「決まった」と短く告げた時の顔に、深い疲労の色があった。
何度頭を下げたのか、何を差し出したのか。
私には分からない。分からないままにした。
稽古は以前にも増して激しくなった。
夜明け前から始まり、日が傾くまで続く日もある。
木刀同士がぶつかる乾いた音が、朝の空気に響く。
汗が地面に滴る。
父上は何も言わないが、技だけでなく、折れない何かを叩き込もうとしているのが伝わってきた。
ある夜、稽古の後に父上が珍しく縁側に腰を下ろしていた。
私も隣に座った。
夕風が吹いて、庭の草がさわさわと揺れる。
虫が鳴き始めていた。
空が橙から紺へと変わっていく。
二人とも、まだ汗が乾いていなかった。
「強くなったな」
前を向いたまま、父上は静かにそう言った。
「まだまだです」
「そうだな。だがお前は、俺が教えられることは全部持っていった」
少し間があった。
風が吹いて、庭の草が揺れた。
「……美心がな」
父上が、ぽつりと言った。
「稽古のたびに俺に聞いてきた。今日はどうだったか、どこまで上手くなったか、って。話す度に嬉しそうにしてた」
父上の口元が、わずかに緩んだ。
「あまり厳しくしないでやってくれって、何度言われたことか」
私は少し、俯いた。
母上がそんなことを言っていたとは、知らなかった。
読み書きの稽古の時も、そんなそぶりは一度も見せなかった。
あの人は、そういうことを私には言わなかった。
それきり、また黙った。
虫の声と、風の音だけが続く。
父上の横顔を、横目で盗み見た。
老けた、と思った。
この数日で一気に老けた気がした。
目の下に影があり、頬がこけ、髪にも白いものが増えた。
何か言おうとして、やめた。
礼でも詫びでもなく、ただここに並んでいることだけが、今の二人にできることだった。
風が吹いた。
父上の白髪交じりの髪が、僅かに揺れた。
同じ風が、私の頬を撫でていく。
遠くで、名も知らない鳥が一声鳴いた。その声が夜の空気に溶けて、静かに消えた。




