第八話 『血と怒り』
翌朝、宵が来なかった。
夜明けとともに起こしに来るのが常なのに、その日は日が高くなっても扉が開かない。
朝餉も来ない。
外が静かすぎる。
いつもなら聞こえる鳥の声も、どこか遠く感じた。
昨夜の人影のことが頭をよぎり、私は扉を叩いた。
返事がない。
もう一度、強く叩く。
錠が外れる音がした。
扉を開けたのは宵ではなく、父上だった。
一目見て、何かが起きたと分かった。
父上の顔から色が消えている。
いつも無表情に近い人だが、今日は違う。
何かを必死に抑え込んでいるような、そういう顔だった。
「父上、何が──」
「来い」
父上は遮るように短く言い、踵を返した。
その声に、いつもの硬さがなかった。
私はその背を追った。
母屋へ向かう廊下を歩く。
朝の空気が、妙に冷たい。
足元の板張りが軋む音だけが静寂に響く。
父上の背中が、いつもより小さく見えた。
そんなはずはないのに。
廊下の端に、宵が壁に背を預けて立っていた。
こちらを見ていたが、何も言わなかった。
部屋の前で、父上が立ち止まった。
「……覚悟しろ」
引き戸を開ける。
最初に鼻を突いたのは、鉄の匂いだった。
次に目に入ったのは、赤だった。
畳が赤い。
白い小袖が赤く染まっている。
壁に、赤い飛沫の跡がある。
その中に、母上が横たわっていた。
葵を抱いたまま、動かない。
二人とも、動かない。
声が出なかった。
どれくらいそこに立っていたのか、分からない。
父上が何か言っていたかもしれないが、耳に届かなかった。ただ、母上の顔だけが見えた。
目を閉じていた。
苦しそうではなかった。
二人とも、眠っているようだった。
小さな手が、母上の小袖をぎゅっと握ったまま、離れていない。
膝から力が抜けた。
畳に手をついた時、その冷たさと湿り気で初めて現実に引き戻された。
「……誰が」
声が出た。
自分の声とは思えないほど低く、かすれていた。
「誰がやったんですか」
父上は答えなかった。その沈黙が、答えだった。
何かが、胸の中で燃え上がった。
泣いてはいなかった。
泣く気にもなれなかった。
ただ、燃えていた。
昨夜の黒い装束の男。
あの面。
音もなくこの屋敷に入り込み、母上と葵の命を奪い、夜の闇へと消えていった男。
その男の首を、この手で落としたいと思った。
生まれて初めて、そう思った。
---
葬儀は静かに行われた。
私は離れ屋敷から出ることを許されなかった。
父上が「せめて見送りたい」と長老衆に掛け合ってくれたが、認められなかった。
外に出ることは掟に反する。
格子の向こうで、白い煙が空へ伸びていた。
秋の風に揺れながら、薄く、細く、やがて青空に溶けていく。
どこかで火の爆ぜる小さな音がした。
私はその煙を、ずっと見ていた。
母上と葵が空へ昇っていくように見えた。
そう思うことにした。
部屋の中に、線香の匂いが漂ってきた。
誰かが気を利かせたのか、宵が持ってきたのか。
甘く、静かな匂いだった。
怒りは消えていなかった。
むしろ、静かになった分だけ深く根を張っていた。
あの男を追う。
それだけが、今の私の中にある確かなものだった。
---竜祐視点---
長老宅を出たのは、夜明け前だった。
村の水利の件で長老衆の意見が割れ、仲裁役として呼び出された。
美心の腹が大きくなってからは、できれば側にいてやりたかった。
だが断れない。
いつもそうだ。
家のことは後回しで、村のことが先になる。
美心はそれを一度も責めなかった。
ありがとう、と言えたこともほとんどない。
それが余計に、胸に引っかかっていた。
出かける前、美心が珍しく袖を引いてきた。
どうせ遅くなるなら泊まってきなさいと言ったのに、と後から言われるかもしれない。
苦笑しながら、歩いていた。
帰り道、東の空が白み始めていた。
今日の稽古は少し遅らせよう、美心にも顔を見せてやろう、などと考えながら歩いていた。
いつもと変わらない朝のつもりだった。
屋敷の門をくぐった時、何かが違うと感じた。
冷たく、重く、静かすぎる。
朝はいつも静かなのに、今朝はその静けさの種類が違った。足を速めた。
母屋の引き戸が、半分開いていた。
閉め忘れたのか。
そう思いかけた瞬間、鼻を突いた。
鉄の匂い。
体が先に動いた。
引き戸を大きく開ける。
一瞬、何を見ているのか分からなかった。
畳が赤い。
白い小袖が、赤く染まっている。
美心が倒れていた。
葵を抱いたまま、動かない。
「……美心」
傍に寄り、肩に手を置く。
冷たかった。
もうずっと前から冷たかったのだと、その感触が告げていた。
自分が長老宅で延々と話し合いを続けている間に、とっくに。
葵の小さな手が、美心の小袖を握ったまま離れていない。三つになったばかりの手が。
その手にそっと手を重ねた。
冷たかった。
それでも、しばらく離せなかった。
膝をついた。
声は出なかった。
出せなかった。
朝の光が障子を透かして部屋に差し込んでくる。
その光の中で、美心の顔は眠っているようだった。
穏やかだ。
風雅の稽古の話をするといつも嬉しそうにしていた顔が、そのままそこにある。
最後にちゃんと顔を見たかどうかも、もう定かではなかった。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
鳥の声が増えた。
遠くで誰かが起き出す気配がした。
朝が、容赦なく明けていく。
やがて立ち上がった。
膝が震えていた。
手も震えていた。
それでも立った。
風雅に知らせなければならない。
宵を呼ばなければならない。
やらなければならないことが、まだある。
だが足が、すぐには動かなかった。
もう一度、二人を見た。
葵はまだ美心の腕の中にいる。
どちらにしても、二人は一緒にいた。
それだけは分かった。
自分には、それが精一杯の救いだった。
引き戸の方へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
美心と葵が、朝の光の中で眠っている。
何も言わなかった。
言葉など、何一つ出てこなかった。
ただ一度、深く頭を下げ、手を合わせた。
それだけして、重い足を動かした。
離れ屋敷へ向かう廊下が、今日はひどく長く感じた。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




