表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その赫眼、最恐につき  作者: 語彙力皆無マン
第1章 【龍神村の忌み子】
8/12

第八話   『血と怒り』

 

 翌朝、宵が来なかった。


 夜明けとともに起こしに来るのが常なのに、その日は日が高くなっても扉が開かない。

 朝餉も来ない。

 外が静かすぎる。


 いつもなら聞こえる鳥の声も、どこか遠く感じた。

 昨夜の人影のことが頭をよぎり、私は扉を叩いた。

 返事がない。


 もう一度、強く叩く。


 錠が外れる音がした。


 扉を開けたのは宵ではなく、父上だった。


 一目見て、何かが起きたと分かった。

 父上の顔から色が消えている。

 いつも無表情に近い人だが、今日は違う。

 何かを必死に抑え込んでいるような、そういう顔だった。


「父上、何が──」

「来い」


 父上は遮るように短く言い、踵を返した。

 その声に、いつもの硬さがなかった。

 私はその背を追った。


 母屋へ向かう廊下を歩く。

 朝の空気が、妙に冷たい。

 足元の板張りが軋む音だけが静寂に響く。

 父上の背中が、いつもより小さく見えた。

 そんなはずはないのに。

 廊下の端に、宵が壁に背を預けて立っていた。

 こちらを見ていたが、何も言わなかった。


 部屋の前で、父上が立ち止まった。


「……覚悟しろ」


 引き戸を開ける。


 最初に鼻を突いたのは、鉄の匂いだった。


 次に目に入ったのは、赤だった。

 畳が赤い。

 白い小袖が赤く染まっている。

 壁に、赤い飛沫の跡がある。

 その中に、母上が横たわっていた。

 葵を抱いたまま、動かない。

 二人とも、動かない。


 声が出なかった。


 どれくらいそこに立っていたのか、分からない。

 父上が何か言っていたかもしれないが、耳に届かなかった。ただ、母上の顔だけが見えた。

 目を閉じていた。

 苦しそうではなかった。

 二人とも、眠っているようだった。

 小さな手が、母上の小袖をぎゅっと握ったまま、離れていない。


 膝から力が抜けた。

 畳に手をついた時、その冷たさと湿り気で初めて現実に引き戻された。



「……誰が」



 声が出た。

 自分の声とは思えないほど低く、かすれていた。


「誰がやったんですか」


 父上は答えなかった。その沈黙が、答えだった。


 何かが、胸の中で燃え上がった。


 泣いてはいなかった。

 泣く気にもなれなかった。

 ただ、燃えていた。

 昨夜の黒い装束の男。

 あの面。

 音もなくこの屋敷に入り込み、母上と葵の命を奪い、夜の闇へと消えていった男。

 その男の首を、この手で落としたいと思った。

 生まれて初めて、そう思った。


 ---


 葬儀は静かに行われた。


 私は離れ屋敷から出ることを許されなかった。

 父上が「せめて見送りたい」と長老衆に掛け合ってくれたが、認められなかった。

 外に出ることは掟に反する。


 格子の向こうで、白い煙が空へ伸びていた。

 秋の風に揺れながら、薄く、細く、やがて青空に溶けていく。

 どこかで火の爆ぜる小さな音がした。


 私はその煙を、ずっと見ていた。

 母上と葵が空へ昇っていくように見えた。

 そう思うことにした。


 部屋の中に、線香の匂いが漂ってきた。

 誰かが気を利かせたのか、宵が持ってきたのか。

 甘く、静かな匂いだった。


 怒りは消えていなかった。

 むしろ、静かになった分だけ深く根を張っていた。


 あの男を追う。


 それだけが、今の私の中にある確かなものだった。






 ---竜祐視点---





 長老宅を出たのは、夜明け前だった。


 村の水利の件で長老衆の意見が割れ、仲裁役として呼び出された。

 美心の腹が大きくなってからは、できれば側にいてやりたかった。

 だが断れない。

 いつもそうだ。

 家のことは後回しで、村のことが先になる。


 美心はそれを一度も責めなかった。

 ありがとう、と言えたこともほとんどない。

 それが余計に、胸に引っかかっていた。


 出かける前、美心が珍しく袖を引いてきた。

 どうせ遅くなるなら泊まってきなさいと言ったのに、と後から言われるかもしれない。

 苦笑しながら、歩いていた。


 帰り道、東の空が白み始めていた。

 今日の稽古は少し遅らせよう、美心にも顔を見せてやろう、などと考えながら歩いていた。

 いつもと変わらない朝のつもりだった。


 屋敷の門をくぐった時、何かが違うと感じた。


 冷たく、重く、静かすぎる。

 朝はいつも静かなのに、今朝はその静けさの種類が違った。足を速めた。


 母屋の引き戸が、半分開いていた。


 閉め忘れたのか。

 そう思いかけた瞬間、鼻を突いた。


 鉄の匂い。


 体が先に動いた。

 引き戸を大きく開ける。


 一瞬、何を見ているのか分からなかった。


 畳が赤い。

 白い小袖が、赤く染まっている。

 美心が倒れていた。

 葵を抱いたまま、動かない。



「……美心」



 傍に寄り、肩に手を置く。

 冷たかった。

 もうずっと前から冷たかったのだと、その感触が告げていた。

 自分が長老宅で延々と話し合いを続けている間に、とっくに。


 葵の小さな手が、美心の小袖を握ったまま離れていない。三つになったばかりの手が。

 その手にそっと手を重ねた。

 冷たかった。

 それでも、しばらく離せなかった。


 膝をついた。

 声は出なかった。

 出せなかった。


 朝の光が障子を透かして部屋に差し込んでくる。

 その光の中で、美心の顔は眠っているようだった。

 穏やかだ。

 風雅の稽古の話をするといつも嬉しそうにしていた顔が、そのままそこにある。

 最後にちゃんと顔を見たかどうかも、もう定かではなかった。


 どれくらいそうしていたのか、分からない。

 鳥の声が増えた。

 遠くで誰かが起き出す気配がした。

 朝が、容赦なく明けていく。


 やがて立ち上がった。

 膝が震えていた。

 手も震えていた。

 それでも立った。

 風雅に知らせなければならない。

 宵を呼ばなければならない。

 やらなければならないことが、まだある。


 だが足が、すぐには動かなかった。

 もう一度、二人を見た。

 葵はまだ美心の腕の中にいる。

 どちらにしても、二人は一緒にいた。

 それだけは分かった。

 自分には、それが精一杯の救いだった。


 引き戸の方へ向かいかけて、一度だけ振り返った。


 美心と葵が、朝の光の中で眠っている。


 何も言わなかった。

 言葉など、何一つ出てこなかった。

 ただ一度、深く頭を下げ、手を合わせた。

 それだけして、重い足を動かした。

 離れ屋敷へ向かう廊下が、今日はひどく長く感じた。

ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!

面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!


ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ