第六話 『葵』
読み書きの稽古を始めて、一年ほどが経っていた。
いろはから始まり、簡単な文章が読めるようになり、算術も足し引きなら難なくこなせるようになっていた。
父上から渡された新陰流の書も、全てとはいかないが、大意は掴めるようになってきた。
母上は「随分上達しましたね」と言ってくれたが、私にはまだ読めない字も多く、満足とは程遠かった。
それでも、あの頃びっしりと並んだ文字が解読不能の壁に見えていたことを思えば、確かに世界は広がっていた。
「美心様に、お子様が生まれるそうです」
母上のお腹が大きくなっていることには、とっくに気づいていた。
聞けなかっただけだ。
だから宵から告げられた時も、驚きはなかった。
私は筆を置き、宵を見た。
嬉しいのかと問われれば、そうだと思う。
ただそれ以上に、その子のことが心配だった。
赤い瞳で生まれてこなければいいと、何度も思った。
父上との稽古の最中に、一度だけその話になった。
「母上に子が生まれると聞きました」
「ああ」
それだけだった。
父上はすぐに構えを取り直し、稽古を続けた。
私もそれ以上は聞かなかった。
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葵が生まれたのは、十一月の冷え込んだ夜のことだ。
知らせを受けたのは翌朝だった。
宵が部屋に入ってきて、「昨夜、お子様が生まれました」とだけ言った。
私は「男か女か」と聞いた。
「女の子です」と返ってくる。
「瞳の色は」と聞いた。
宵は一瞬だけ間を置いてから、「黒です」と答えた。
良かった、と思った。
心底から、そう思った。
葵に会えたのは、それから随分後のことだ。
母上が稽古に来た日、珍しく赤子を抱いて現れた。
長老衆が許したのか、あるいは母上が押し切ったのか。
どちらでもいい。
初めて見る妹の顔は、丸くて小さくて、どこが父上に似ていてどこが母上に似ているのかも分からないほど赤子らしい顔をしていた。
「抱いてみますか」
「……落としたら困ります」
「大丈夫よ。こうして、頭を支えてあげれば」
母上に促されるまま腕を差し出すと、ずっしりと温かい重さが乗ってきた。
思っていたより重い。
そして思っていたより柔らかい。
葵は眠そうに目を動かし、私の顔をぼんやりと見た。
黒い瞳だった。
何の色にも染まっていない、静かな黒。
私は何も言わなかった。
言葉が出てこなかった。
「……葵」
名前を呼んでみた。
葵は小さく口を開けて、あくびをした。
母上が笑った。
私も、少し笑った。
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葵が生まれてから、何かが変わった気がした。
うまく言葉にできないが、強いて言えば、この先のことを考えるようになった。
今まではただ日々をやり過ごすだけだったのに、あの小さな命が産まれてからというもの、自分がこれからどうなるのかということを、時々考えるようになった。
葵は普通の子だ。
赤い瞳ではなく、この村で普通に生きていける。
そのことが、純粋に嬉しかった。
同時に、自分とのあまりの違いに、少しだけ可笑しい気持ちにもなった。
同じ両親から生まれて、片方は生まれた瞬間から死を宣告され、もう片方は何の咎もなく村に迎えられる。
不公平だとは思わなかった。
葵のせいではないし、葵に羨む気持ちもなかった。
ただ、この村の掟というものが、改めて理不尽なものだと感じた。
分かってはいた。
ずっと前から分かっていた。
ただ葵を抱いた時の、あの温かさを知ってしまってから、その理不尽さが以前より少しだけ重く感じるようになった。
合わせてもらえたのは、あの一度きりだった。
その後、葵とは会えていない。
母上も来なくなった。
読み書きの稽古も、自然とそれきりになった。
格子の向こうで、夜風が木々を揺らしている。
どこかで虫が鳴いていた。
葵は今頃、温かい母屋で眠っているだろう。
そのことだけは、良かったと思った。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




