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その赫眼、最恐につき  作者: 語彙力皆無マン
第1章 【龍神村の忌み子】
5/12

第五話   『母』

 

 10歳の初夏、父上が稽古の後に一冊の書を差し出した。


「これに目を通しておけ。新陰流の根幹が書かれている。剣の動きだけ覚えても、理を理解せぬ者の剣は所詮真似事だ」


 受け取った瞬間、嫌な予感がした。

 表紙に細かい文字が並んでいる。

 開いてみれば、びっしりと墨で書き込まれた文章と図解。


(……読めない)


 一文字も。

 文字というものを、私はまだ習っていなかった。

 字の形は知っている。

 それが何を意味するかは分からない。

 父上の前でそれを言い出せず、その日は書を抱えたまま部屋に戻った。


 夜、行燈の灯りで改めて開いてみる。

 図解の部分だけは何となく剣の形が読み取れる気がしたが、それがどういう意味の動きなのかを説明する文章が、まるで解読できない。

 宵に聞いてみたが「私の仕事ではありません」と一言で切り捨てられた。


 三日ほど悩んだ末に、私は稽古の後、父上に正直に告げた。


「あの書、読めません」


 父上は動きを止め、私を見た。


「読み書きを、習っていないのか」


「はい」


 しばらく沈黙が続いた。

 父上の顔が、何とも言えない表情になった。

 怒っているのではない。

 気まずそうな、あるいは自分を責めているような、そういう顔だった。


「……分かった」


 それだけ言って、父上はその日の稽古を終わりにした。


 数日後の夕方、錠を開けて宵が部屋に入ってきた。


「明日の午後、お客様がいらっしゃいます」

「客?」

「それ以上は申し上げられません」


 宵は一礼してすぐに出ていった。

 客などという言葉は、この離れ屋敷では聞いたことがない。長老衆の誰かだろうか。


 私は少し身構えながらその夜を過ごした。


 ---


 翌日の午後、扉の外に足音がした。

 宵の足音とは違う。

 もっと柔らかく、躊躇いがちな踏み出し方。


 扉が開いた。


 母上だった。



「風雅」



 声が出ない。

 最後に顔を見たのは、離れ屋敷に移る日だ。

 あの時の母上の赤い目が、脳裏に焼き付いている。

 それから三年以上、一度も会えていなかった。


 母上は部屋に入り、私の前に座った。

 三年以上ぶりに同じ空間にいるのに、どう顔を見ればいいか、私には分からなかった。


 母上の目が潤んでいる。

 私は視線を畳に落とした。


「……随分、大きくなりましたね」

「……はい」

「ご飯はちゃんと食べていますか」

「食べています」

「夜は冷えるでしょう。身体は大丈夫ですか」

「大丈夫です」


 他愛のない言葉ばかりだった。

 それでも声が震えそうになった。

 堪えた。泣いたところでどうにもならない。


 そう思ったが、母上が私の頭にそっと手を置いた瞬間、喉の奥が熱くなった。


「……会いに来てくれたんですか」


「お父様が、長老様方に何度も頭を下げてくださったのよ。私も一緒に。何度も、何度も」


 母上の声が僅かに揺れた。


「やっと、許していただけたの」


 何度も。


 その言葉が胸に刺さった。

 父上が頭を下げる姿など、想像したことがなかった。

 あの不器用で寡黙な人が、長老衆に何度も頭を下げた。

 母上も一緒に。

 私に会わせてもらうためだけに。

 しばらく何も言えなかった。


 ---


 その日から、母上は週に一度、昼間に来るようになった。


 長老衆が許可したのは「読み書き算術を教えること」という名目の面会だったらしい。


 父上が「剣術の上達に読み書きが必要だ」と説き伏せたのだという。宵から後で聞いた話だ。


 最初の日、母上は筆と硯と和紙を持ってきた。


「まず、いろはから始めましょう」

「いろは?」

「ええ。焦らなくていいのよ。一緒にゆっくり覚えていきましょう」


 母上の手が私の手を取り、筆の持ち方から教えてくれた。慣れない筆はうまく動かず、最初の「い」の字が蛇がのたうったような形になった。


 母上が笑った。


 声を上げて笑うのを初めて聞いた気がして、私も思わず笑った。


「……下手……ですね」

「最初はみんなそうよ」

「父上も?」

「お父様も昔はひどかったのよ。筆よりも剣術の方がずっと早く上手くなったって、よく言っていたわ」


 それを聞いて、少し気が楽になった。


 読み書きの稽古は、剣の稽古とはまるで違った。

 父上との稽古は厳しく、無口で、ひたすら身体を動かし続ける。

 母上との時間は静かで、穏やかで、時々笑いが混じる。

 どちらも好きだったが、質が違う。

 剣の稽古は自分を削り出す感覚で、読み書きの時間は何かが積み上がっていく感覚だ。

 字を覚えるほどに、世界が少し広がっていく気がした。


 何度目かの稽古の日、筆を握り続けて手が痛くなった頃、母上が「少し休みましょう」と言って一冊の古い絵本を取り出した。

 表紙には龍の絵が描かれている。

 薄く色褪せた墨絵で、鱗の一枚一枚まで丁寧に描かれていた。


「これを読んであげるわ。この村に古くから伝わるお話なのよ」


 母上は表紙をそっと開き、静かに読み始めた。



「むかし、むかし。ある村に、突然龍が現れました」



 おとぎ話の始まりだ。

 私は筆を置き、膝の上で手を組んだ。



「炎を纏い、嵐を呼び、赤い瞳で天を睨むその龍は、山を砕き、家を焼き、村をほとんど壊してしまいました。村人たちは逃げることも戦うこともできず、ただ地に伏して震えるばかりでした」


 赤い瞳。

 私はさりげなく視線を落とした。


「そこへ、どこからともなく、もう一頭の龍が現れました。青く澄んだ瞳を持つ、静かな龍です。その龍は音もなく邪龍の前に降り立ち、一声も上げずに戦いを挑みました」


 母上の声は穏やかで、読み聞かせというより語りかけるようだった。


「激しい戦いの末、青い龍は邪龍を倒しました。しかし青い龍は勝利を誇ることもなく、村人たちに礼を求めることもなく、ただ静かに、空の彼方へと消えていきました。まるで風のように」



「村人たちは感謝と畏れを込めて、青い龍を守護龍と呼ぶようになりました。そして代々、誓いを受け継いでいきました。青い瞳で生まれた子は守護龍の生まれ変わり。赤い瞳で生まれた子は、邪龍の生まれ変わりとして」



 母上が本を閉じた。

 部屋がしんと静まり返る。



「……それが、この村の掟の始まりなのよ」

 


 私はしばらく黙っていた。


 赤い瞳。


 邪龍の生まれ変わり。

 それが私のことだと、言葉にしなくても分かった。

 分かった上で、どう受け取ればいいのかが分からなかった。怒る気にもなれず、悲しむ気にもなれず、ただその言葉が頭の中でゆっくりと沈んでいく。


 母上の顔を見ると、彼女は膝の上の絵本をじっと見下ろしていた。

 その横顔が、どこか苦しそうに見えた。



「……母上は、信じているんですか。」



 少し間があった。



「信じているかどうかより……あなたに知っておいてほしかったのよ。この村の人たちが、何を信じて生きているか」



 それだけ言って、母上は静かに筆を手渡してきた。


「さあ、続けましょう」


 私は何も言わずに筆を受け取った。

 格子から差し込む午後の光が、畳の上に細い縞模様を作っている。


 邪龍の生まれ変わり。


 その言葉を頭の中で転がしながら、私はまた文字を書き始めた。


 ある日の稽古の終わりに、母上が例の書物を取り出した。父上が渡してきたあの書だ。


「これを読めるようになりましょう。それが目標ね」

「……読めるようになりますか」

「なれるわよ」


 母上は迷いなく言った。

 その目が父上に似ていた。

 厳しさではなく、揺るぎなさが。


 私は筆を握り直した。

 格子から差し込む午後の光が、畳の上に細い縞模様を作っていた。

 その光の中で、母上が隣に座っている。

 この部屋がいつもより広く感じた。

ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!

面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!


ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!

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