第五話 『母』
10歳の初夏、父上が稽古の後に一冊の書を差し出した。
「これに目を通しておけ。新陰流の根幹が書かれている。剣の動きだけ覚えても、理を理解せぬ者の剣は所詮真似事だ」
受け取った瞬間、嫌な予感がした。
表紙に細かい文字が並んでいる。
開いてみれば、びっしりと墨で書き込まれた文章と図解。
(……読めない)
一文字も。
文字というものを、私はまだ習っていなかった。
字の形は知っている。
それが何を意味するかは分からない。
父上の前でそれを言い出せず、その日は書を抱えたまま部屋に戻った。
夜、行燈の灯りで改めて開いてみる。
図解の部分だけは何となく剣の形が読み取れる気がしたが、それがどういう意味の動きなのかを説明する文章が、まるで解読できない。
宵に聞いてみたが「私の仕事ではありません」と一言で切り捨てられた。
三日ほど悩んだ末に、私は稽古の後、父上に正直に告げた。
「あの書、読めません」
父上は動きを止め、私を見た。
「読み書きを、習っていないのか」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
父上の顔が、何とも言えない表情になった。
怒っているのではない。
気まずそうな、あるいは自分を責めているような、そういう顔だった。
「……分かった」
それだけ言って、父上はその日の稽古を終わりにした。
数日後の夕方、錠を開けて宵が部屋に入ってきた。
「明日の午後、お客様がいらっしゃいます」
「客?」
「それ以上は申し上げられません」
宵は一礼してすぐに出ていった。
客などという言葉は、この離れ屋敷では聞いたことがない。長老衆の誰かだろうか。
私は少し身構えながらその夜を過ごした。
---
翌日の午後、扉の外に足音がした。
宵の足音とは違う。
もっと柔らかく、躊躇いがちな踏み出し方。
扉が開いた。
母上だった。
「風雅」
声が出ない。
最後に顔を見たのは、離れ屋敷に移る日だ。
あの時の母上の赤い目が、脳裏に焼き付いている。
それから三年以上、一度も会えていなかった。
母上は部屋に入り、私の前に座った。
三年以上ぶりに同じ空間にいるのに、どう顔を見ればいいか、私には分からなかった。
母上の目が潤んでいる。
私は視線を畳に落とした。
「……随分、大きくなりましたね」
「……はい」
「ご飯はちゃんと食べていますか」
「食べています」
「夜は冷えるでしょう。身体は大丈夫ですか」
「大丈夫です」
他愛のない言葉ばかりだった。
それでも声が震えそうになった。
堪えた。泣いたところでどうにもならない。
そう思ったが、母上が私の頭にそっと手を置いた瞬間、喉の奥が熱くなった。
「……会いに来てくれたんですか」
「お父様が、長老様方に何度も頭を下げてくださったのよ。私も一緒に。何度も、何度も」
母上の声が僅かに揺れた。
「やっと、許していただけたの」
何度も。
その言葉が胸に刺さった。
父上が頭を下げる姿など、想像したことがなかった。
あの不器用で寡黙な人が、長老衆に何度も頭を下げた。
母上も一緒に。
私に会わせてもらうためだけに。
しばらく何も言えなかった。
---
その日から、母上は週に一度、昼間に来るようになった。
長老衆が許可したのは「読み書き算術を教えること」という名目の面会だったらしい。
父上が「剣術の上達に読み書きが必要だ」と説き伏せたのだという。宵から後で聞いた話だ。
最初の日、母上は筆と硯と和紙を持ってきた。
「まず、いろはから始めましょう」
「いろは?」
「ええ。焦らなくていいのよ。一緒にゆっくり覚えていきましょう」
母上の手が私の手を取り、筆の持ち方から教えてくれた。慣れない筆はうまく動かず、最初の「い」の字が蛇がのたうったような形になった。
母上が笑った。
声を上げて笑うのを初めて聞いた気がして、私も思わず笑った。
「……下手……ですね」
「最初はみんなそうよ」
「父上も?」
「お父様も昔はひどかったのよ。筆よりも剣術の方がずっと早く上手くなったって、よく言っていたわ」
それを聞いて、少し気が楽になった。
読み書きの稽古は、剣の稽古とはまるで違った。
父上との稽古は厳しく、無口で、ひたすら身体を動かし続ける。
母上との時間は静かで、穏やかで、時々笑いが混じる。
どちらも好きだったが、質が違う。
剣の稽古は自分を削り出す感覚で、読み書きの時間は何かが積み上がっていく感覚だ。
字を覚えるほどに、世界が少し広がっていく気がした。
何度目かの稽古の日、筆を握り続けて手が痛くなった頃、母上が「少し休みましょう」と言って一冊の古い絵本を取り出した。
表紙には龍の絵が描かれている。
薄く色褪せた墨絵で、鱗の一枚一枚まで丁寧に描かれていた。
「これを読んであげるわ。この村に古くから伝わるお話なのよ」
母上は表紙をそっと開き、静かに読み始めた。
「むかし、むかし。ある村に、突然龍が現れました」
おとぎ話の始まりだ。
私は筆を置き、膝の上で手を組んだ。
「炎を纏い、嵐を呼び、赤い瞳で天を睨むその龍は、山を砕き、家を焼き、村をほとんど壊してしまいました。村人たちは逃げることも戦うこともできず、ただ地に伏して震えるばかりでした」
赤い瞳。
私はさりげなく視線を落とした。
「そこへ、どこからともなく、もう一頭の龍が現れました。青く澄んだ瞳を持つ、静かな龍です。その龍は音もなく邪龍の前に降り立ち、一声も上げずに戦いを挑みました」
母上の声は穏やかで、読み聞かせというより語りかけるようだった。
「激しい戦いの末、青い龍は邪龍を倒しました。しかし青い龍は勝利を誇ることもなく、村人たちに礼を求めることもなく、ただ静かに、空の彼方へと消えていきました。まるで風のように」
「村人たちは感謝と畏れを込めて、青い龍を守護龍と呼ぶようになりました。そして代々、誓いを受け継いでいきました。青い瞳で生まれた子は守護龍の生まれ変わり。赤い瞳で生まれた子は、邪龍の生まれ変わりとして」
母上が本を閉じた。
部屋がしんと静まり返る。
「……それが、この村の掟の始まりなのよ」
私はしばらく黙っていた。
赤い瞳。
邪龍の生まれ変わり。
それが私のことだと、言葉にしなくても分かった。
分かった上で、どう受け取ればいいのかが分からなかった。怒る気にもなれず、悲しむ気にもなれず、ただその言葉が頭の中でゆっくりと沈んでいく。
母上の顔を見ると、彼女は膝の上の絵本をじっと見下ろしていた。
その横顔が、どこか苦しそうに見えた。
「……母上は、信じているんですか。」
少し間があった。
「信じているかどうかより……あなたに知っておいてほしかったのよ。この村の人たちが、何を信じて生きているか」
それだけ言って、母上は静かに筆を手渡してきた。
「さあ、続けましょう」
私は何も言わずに筆を受け取った。
格子から差し込む午後の光が、畳の上に細い縞模様を作っている。
邪龍の生まれ変わり。
その言葉を頭の中で転がしながら、私はまた文字を書き始めた。
ある日の稽古の終わりに、母上が例の書物を取り出した。父上が渡してきたあの書だ。
「これを読めるようになりましょう。それが目標ね」
「……読めるようになりますか」
「なれるわよ」
母上は迷いなく言った。
その目が父上に似ていた。
厳しさではなく、揺るぎなさが。
私は筆を握り直した。
格子から差し込む午後の光が、畳の上に細い縞模様を作っていた。
その光の中で、母上が隣に座っている。
この部屋がいつもより広く感じた。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




