第四話 『離れ屋敷』
離れ屋敷は、母屋から見て敷地の最奥にあった。
背後は山の斜面がそのまま迫り、左右を古い板塀が囲んでいる。
建物自体は小さくはないが、手入れが行き届いておらず、柱の節が浮き上がり、雨の日には軒のどこかから必ず雫が落ちた。
昼間でも日当たりが悪く、夏でも朝方は冷える。
そういう場所だ。
私が初めてここに連れてこられたのは、七歳の梅雨の終わり頃だ。
父上に手を引かれ、母屋を出た。
母上は来なかった。
見送りに出てきた母上の目が赤かったのを、今も覚えている。
何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
ただ、繋がれた父上の手だけを握り返した。
離れ屋敷の前で、父上は立ち止まった。
「ここがお前の部屋だ。不便はないようにする」
「……母上には……会えますか」
父上はしばらく黙っていた。
「なるべく、そうできるように努める」
なるべく。
その言葉の重さを、七歳の私はまだ量れなかった。
部屋に入ると、すでに布団と小さな文机が置かれていた。窓には太い鉄格子。
扉の外には、見知らぬ女が立っていた。
付き人、と呼ばれているが、その実態が監視役であることは子供でも分かる。
父上が簡単に引き合わせ、女は私に向かって一礼した。
名を「宵」という。
それ以上の説明はなかった。
宵は寡黙な女だ。
食事を運ぶ時も、掃除をする時も、必要なこと以外は一切口を開かない。
感情が顔に出ない。
怒っているのか穏やかなのか、そもそも何かを感じているのか、まったく読めない。
ただひとつだけ確かなのは、彼女が常に私から一定の距離を保っているということだ。
遠すぎず、近すぎず。
いざとなれば間合いに入れる距離。
その精度が恐ろしいほど正確で、私が動くたびに彼女の重心がわずかに変わる。
最初の頃、私は何度か試した。
急に振り返る。
素早く立ち上がる。
走るふりをする。
そのたびに宵の右手が、無意識のように腰の刀に触れた。
抜くつもりはないのだろう。
それでも手が動く。
身体に染み込んだ反射だ。
三度目に試した時、宵が初めて口を開いた。
「次にそれをしたら、報告します」
それだけだった。
表情は動かない。
私はそれ以降、試すのをやめた。
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離れ屋敷での一日は、単調だ。
夜明けとともに宵に起こされ、顔を洗い、朝餉を食う。
午前中は父上との剣術の稽古。
昼餉を挟み、午後は部屋で過ごす。
夕餉を食い、日が落ちれば外から錠が下ろされる。
午後の時間が、一番長く感じた。
することがない。
本は読めない。
読み書きができないから当然だ。
外に出られない。
話し相手もいない。
宵はそこにいるが、会話にならない。
仕方なく木刀を素振りするか、天井の木目を数えるか、格子越しに空を眺めるかのどちらかで時間を潰した。
ある日の午後、あまりにも手持ち無沙汰で、私は宵に声をかけた。
「なにか、話せることはないか」
「ありません」
「なんでもいい。天気の話でも」
「……今日は曇りです」
「……それだけか」
「はい」
会話にならない。
それでも私は懲りずに話しかけ続けた。
三日に一度、四日に一度。
宵の返答は常に最小限で、表情も変わらない。
しかし少しずつ、返事が来るまでの間が短くなっていった。それに気づいた時、私は妙な達成感を覚えた。
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母上に会えない日々が続く。
長老衆が面会を禁じていた。
忌み子に情を持たせるな、という理屈なのだろう。
冷たい話だが、長老衆にとっては当然の判断なのかもしれない。
父上が「なるべく、そうできるように努める」と言っていた言葉の意味が、ここへ来てようやく分かった。
なるべく、というのは、簡単にはできない、ということだったのだ。
格子越しに夜風が吹き込んでくる。
行燈の炎が揺れ、影が壁に踊る。
母屋はここから目と鼻の先なのに、そこにいる人間に会えない。
その理不尽さを、私はどこへぶつければいいのか分からなかった。
怒る気にもなれず、ただ格子に手を当て、風の通り道をじっと感じていた。
この離れ屋敷での日々が、あとどれくらい続くのか。
私には想像もできなかった。
ただ、風だけは毎晩格子をすり抜けてきた。
どこから来るのかも、どこへ向かうのかも分からない風が、変わらず頬を撫でていった。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




