第十二話 『すれ違い』
龍神村を出て、五日が経った。
わらじを二足履き潰した。
三足目を今朝買い替えたが、新しいわらじの固さにも、もう慣れてきた。
その日の昼過ぎ、街道が川に突き当たった。
幅の広い、茶色く濁った川だ。
前日の雨で増水したらしく、流れが速い。
渡し船の船頭が岸辺に立っていて、腕を組んで川を眺めていた。
「渡れますか」
「今日は無理だな。水が引くまで待ってもらうしかない」
「どのくらいかかりますか」
「早くて明日の夕方。雨がまた降るようなら、もう一日二日はかかる」
川止めだ。
確かに速い。
これでは船を出せない。
岸辺には俺以外にも旅人が何人かいて、みんな一様に困った顔をしていた。
少し前に通ってきた宿場町に戻り、宿を取った。
宿場は小さかった。
それでも、布団がある。
街道沿いに宿屋が二軒と、茶屋と荒物屋が一軒ずつ。
川止めの連中が同じように戻ってきたのか、食事処にはすでに旅人が何人かいた。
みんな川の方に目をやって、また前を向く。
同じことを考えているのだろう。
宿は、こぢんまりとした造りだった。
廊下の板が軋む音と、どこかから飯の炊ける匂いがした。
二階の部屋に荷を下ろすと、窓から川が見えた。
流れの速さはここからでも分かった。
明日の夕方か、あるいはもう一日か。
旅に出てから、ちゃんと布団で眠ったのは今日が初めてだ。
横になった瞬間、背中にかかる重さがまるで違った。
──俺、結構疲れていたんだな。
そのまま昼近くまで眠った。
一階の食事処に下りると、行商人らしい男が二人、向かい合って話していた。
川止めはよくあることらしい。
この時期は雨が多いから、一週間に一度くらいは足止めを食らうと言っていた。
「慣れればどうってことない」
一人がそう言って、汁を飲み干した。
声のトーンが明るい。
川止めで足止めを食らっているのに、困った様子がない。
午後、宿場町を少し歩いた。
川止めのせいか、旅人の姿が多い。
みんな手持ち無沙汰な様子で、縁台に腰掛けていたり、川の方をぼんやり眺めていたりしていた。
荒物屋の前を通ると、わらじが軒先に並んでいた。
今のわらじはまだ使えるが、次に履き潰したらここで買えばいい。
そういうことが、少しずつ分かってきた。
川のそばに戻ると、宿で見かけた行商人が隣に腰を下ろした。
四十がらみの、がっしりした男だ。
男は何も聞かなかった。
ただ川を眺めながら、行商の道のこと、季節によって川の水量がどう変わるかといったことをぽつぽつと話した。
河川の氾濫で橋が流されたこと、去年は三日も足止めを食らったこと、そういうことを特に感情なく話す。
俺はほとんど聞いているだけだったが、男は特に気にする様子もなかった。
言葉を交わさなくても、隣に人がいる。
それだけで、何かが満たされる気がした。
しばらく経って、男が立ち上がった。
「まあ気をつけてな」
男は宿の方へ歩いていった。
俺も宿に戻ると、食事処の隅で行商人の二人が花札をやっていた。
もう一人、笠を被った旅人も混じっている。
「あんたもやるか」
片方が顔を上げて言った。
断る理由もなかった。
「ルールは分かるか」
「……分かりません」
「そうか。教えてやるよ」
一通り説明を受けたが、半分も分からなかった。
とりあえず出せと言われたので出した。
「違う違う、そこで出す札じゃない」
「すみません」
「いや、謝らなくていい。ほら、こっちだ」
教わった通りにやっても、どんどん負けた。
二回戦、三回戦と続けたが、一度も勝てなかった。
「強くなるな、あんた」
行商人の一人が笑いながら言った。
褒め言葉ではないのは分かる。
「才能がないようです」
「まあそういうもんだ。剣は強そうなのにな」
「関係ないですね」
「ははは、そりゃそうだ」
男はそう言って、また札を切り始めた。
四回戦で、ようやく俺は「もう結構です」と言った。
完敗だった。
縁台の外に出ると、空が夕暮れ色に変わっていた。
負け続けても、なぜか嫌な気分にはならなかった。
川のそばへ行って、船頭に声をかけると、首を振った。
「今夜また雨が降るらしい。もう一日は無理だろうな」
──もう一日か
宿に戻り、夕飯まで少し読み書きの練習をした。
母上に教わった文字を、和紙に繰り返し書く。
読み書きを教えてくれたのは、母上だった。
毎週一度、長老衆の許可を得て離れ屋敷に来てくれた。
小さな文机を挟んで、向かい合って座る。
母上は俺の書いた字を見て、よく笑った。
「風雅、ここの払いが違うわ。こう書くのよ」
そう言いながら手を取って、一緒に筆を動かしてくれた。
手が温かかった。
書きかけの文字をじっと見た。
まだ不格好だ。
でも、母上が教えてくれた字だ。
夕飯を食い終え、布団に横になった。
川の音が聞こえる。
今夜また雨が降るらしい。
明日もここにいることになる。
目を閉じると、すぐに眠れた。
翌日も、川は引かなかった。
朝から小雨が降っていた。
縁台に腰掛けて雨を眺めた。
細かい雨が、街道の土を叩いている。
屋根の軒から雫が落ちて、水路に小さな波紋を作る。
ずっと眺めていられる。
宿の他の旅人たちは、思い思いに過ごしていた。
行商人の二人は荷の整理をしていた。
川止めの間は、道具を手入れする時間にするらしい。
俺も刀の手入れをすることにした。
旅に出てから、まだ一度もしていなかった。
父上から受け取った刀だ。
大切にしなければならない。
油を引いて、鞘の具合を確認する。
鞘の口金が少し緩んでいた。
次の宿場で直せるかどうか、聞いてみよう。
刀を磨きながら、父上のことを思った。
この刀を差した父上が、庭で稽古をつけてくれた。
口が少ない人だったが、剣を教える時は違った。
俺の足の運びの癖、太刀筋のわずかなぶれ、そういうことを細かく指摘した。
無駄のない稽古だった。
鞘に収め直すと、重さが手に馴染んだ。
昼頃、雨が上がった。
川のそばへ行くと、水かさが少し落ちていた。
岸辺に腰を下ろして、しばらく川を眺めた。
上流から流れてきた木の枝が、流れに乗ってあっという間に通り過ぎた。
船頭が「明日の朝には渡れる」と言った。
縁台に腰掛けていると、老人が隣に座った。
白い髭の、のんびりした雰囲気の男だ。
「川止めは、これが初めてですか」
「はい」
「慣れると、これはこれで悪くないもんですよ。歩いている時にはできないことが、全部できる」
老人はしばらくして「もう年だから、帰るのが待ち遠しい」とぽつりと言った。
家に帰るのが待ち遠しい。
その言葉が、なぜか胸に引っかかった。
俺には──帰る場所があるのだろうか。
播磨に行って、風吹という人に会って、その先はどうなるか、まだ分からない。
まあ、着いてから考えればいい。
今はただひたすらに歩くだけだ。
「気をつけて帰ってください」
老人は「ありがとう」と言い、立ち上がった。
しばらく一人で川を眺めた。
昨日より水かさが落ちているのが分かった。
明日には渡れる。
---
夕暮れが近くなった頃、川のそばから街道へ出た。
夕日が西の空を赤く染めていた。
旅人の往来が少し増えていた。
俺は街道を歩いた。
夕暮れの街道は赤く染まって、行き交う旅人の影が長く伸びていた。
野宿を終えて宿場に入ってきた旅人、逆に宿場を出て先へ進もうとする旅人、みんなそれぞれ急いでいる。
その流れに混じって、俺も歩いた。
向こうから、旅人が一人歩いてきた。
すれ違いざまに、男が立ち止まった。
「……いい目を持ってるな」
低い、静かな声だった。
俺は思わず足を止めた。
振り返ると、夕日を背にした男の顔がよく見えない。
逆光の中に黒い輪郭だけがある。
「大切にしろよ」
それだけ言って、男は歩き去った。
俺はしばらくその場に立っていた。
いい目だと、言われた。
生まれてからずっと、この目のせいで死にかけた。
この目があるから閉じ込められた。
この目が、邪龍の印だと言われ続けた。
それなのに──
いい目だと、言われた。
胸の中に、じわりと温かいものが広がっていく。
悔しいような、恥ずかしいような、それでいて嬉しいような。
そんな気持ちになったのは、久しぶりだった。
何か言わなければ、と思った時には、もう男は歩き出していた。
男の姿は、もう街道の向こうに消えていた。
やがて踵を返し、また歩き出す。
夕風が、頬を撫でた。
夕日が沈んでいく。
街道の人の流れが、少しずつ途切れていく。
宿場の提灯に、ぽつりぽつりと火が入り始めた。
宿に戻り、夕飯を食った後、二階に上がり布団に横になった。
目を閉じると、さっきの男の声が蘇った。
低く、静かで、なぜかひどく落ち着いた声だった。
母上だけが、俺の目を見て「きれいな目ね」と言ったことがある。
あの言葉を聞いた時も、こんな気持ちになった気がする。
嬉しいのに、うまく言葉が出てこなかった。
あの男には、ありがとうとも言えなかった。
ただ立っていた。
もし次に会う機会があったら、ちゃんと言いたい。
次に会う機会など、きっとない。
そう分かっていながら、そんなことを思った。
どこへ行くのかも、名前も、何も分からない。
ただ声だけが残っている。
その言葉が、眠りに落ちる直前まで、ずっと頭の中にあった。
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翌朝、川が引いていた。
二日ぶりに見る、動き出した宿場町だ。
みんな荷を背負い直して、足早に川の方へ向かっていく。
まだ水かさは多いが、船頭が「今日なら渡れる」と言った。
昨日まで手持ち無沙汰だった旅人たちが、一斉に動き出している。
朝の早い時間から、渡し船に旅人が列を作っていた。
俺も列に並んだ。
前には行商人らしい男が二人、後ろには笠を被った旅人が一人いた。
みんな無言で川を見ている。
船は小さく、一度に五、六人しか乗れない。
ようやく俺の番が来た。
乗り込むと、船が大きく揺れた。
川の流れは思ったより速く、船頭が力強く棹を差して進む。
川の真ん中から見る景色は、岸辺とは全然違った。
水面が近く、流れの速さが体で分かる。
船底を流れが叩く。
ずいぶん速い。
少し怖かった。
泳げるかどうかは、試したことがない。
もし川に落ちたらどうなるのか、考え始めてやめた。
考えても仕方ない。
しばらくすると、対岸が近づいてきた。
船が岸に着くと、待っていた旅人が乗り込んでくる。
もう次の便が始まっている。
無事に対岸に着いた時、思わず小さく息を吐いた。
「初めての渡しか」
「はい」
「慣れれば平気だ。気をつけてな」
「ありがとうございます」
頭を下げて、対岸の道を歩き始めた。
街道の両脇に田んぼや畑が広がっていて、稲穂が風に揺れていた。
秋の空は高く、雲が少なかった。
川を渡る前と後で、空の色は変わらない。
変わったのは、俺がどちら側にいるかだけだ。
でも、それで十分だ。
いい目を持ってるな。
その言葉は、対岸の道を歩いても、まだ胸の中にあった。
この目は、邪龍の印じゃないかもしれない。
そう思うのは早いかもしれないが、誰かにそう言われたという事実は変わらない。
その事実だけが、今の俺には十分だった。
わらじが乾いた土を踏む。
川の向こうから、ここまで来た。
秋の街道は、歩いていて気持ちがいい。
暑くも寒くもなく、空が高い。
足元のわらじが、乾いた土を踏む音がする。
播磨はまだ遠い。
川止めで二日遅れた。
でも、別に構わない。
あの男の声が、まだどこかに残っている。
俺は歩き続けた。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




