第十一話 『峠の夜』
龍神村を出て、半刻が過ぎた頃だった。
霧はまだ深く、道の輪郭がぼんやりとしている。
腰の刀がずっしりと重い。
父上の刀だ。
この重さだけが、今の俺に繋がっている確かなものだった。
しばらく歩いてから振り返った。
霧の向こうに、もう人影はなかった。
龍神村が、消えた。
十五年間過ごした場所が、霧の向こうに溶けていく。
格子窓、行燈の光、木刀の感触、母上の声、宵の視線。
全部、あの霧の中に置いてきた。
消えた、というより溶けた、という感じだ。
それでいいのかもしれない。
あの村は、静かに始まって静かに終わる。
俺の十五年も、そういうものだった。
播磨へ向かえ。
父上にそう言われた。
風吹淑人という老剣客がいる。
風の異能を持つ、俺と同じ力を持つ人間が。
姫路藩に、俺を分かってくれる者がいる。
それだけが、今の羅針盤だ。
ただ、道が分からない。
父上は「街道を行け」とだけ言った。
麓の町まで出れば人に聞けると言っていたが、麓の町がどの方角にあるかも、はっきりとは知らない。
地図もない。
なんで地図を用意しなかったのか、父上よ。
まあいい。
山を下りれば町に出るだろう。
俺は腰の刀の重さを確かめるように右手で鞘をつかみ、また歩き出した。
山道は、思ったより険しかった。
岩が剥き出しになった急斜面、根が地面から浮き上がった木の間の細道、膝まで草が生い茂った獣道。
それをひたすら歩く。
体は動く。
剣の稽古で鍛えてきた足腰は、この程度の道で音を上げない。
ただ、外はにおいが多い。
土の匂い、草の匂い、腐った葉の匂い、どこかから漂う獣の気配。
左右から木々が迫り、枝が顔に当たる。
足元は常に凸凹していて、油断すると躓く。
俺、外が苦手かもしれない。
剣は強い。
異能もあるらしい。
対人戦闘なら負けない自信がある。
けど外の道は、別の話だ。
一刻ほど歩いた頃、足元が滑った。
わらじの底が湿った苔を踏んで、右足が横に流れた。
体が傾き、とっさに近くの木の幹を掴んで何とかこらえた。
ぬかった。
腰の刀が揺れ、鞘の先が地面に当たった。
父上の刀を傷つけるわけにはいかない。
俺は刀の位置を直し、今度は慎重に足を置きながら歩き直した。
昼過ぎ、ようやく山を下りた。
麓に小さな集落があった。
子供が数人、水路のそばで遊んでいた。
俺が近づいた瞬間、子供たちが一斉に動きを止めた。
「……目、赤い」
「うわ、ほんとだ」
「なんで赤いの?」
「病気?」
次々に声が飛んでくる。
逃げるわけでもなく、子供たちはぐいぐいと俺に近づいてくる。
俺は思わず一歩下がった。
「え、あの、別に病気では……」
「刀持ってる!」
「侍だ!」
「強い?」
「めちゃくちゃ強そう」
「名前は?」
「歳いくつ?」
「その目、ずっと赤いの?」
矢継ぎ早に来る。
俺は何から答えればいいのか分からず、口を開けたまま固まった。
その時、近くの畑から太い声が飛んできた。
「こらこら、旅の方に失礼だろう」
腰の曲がった老人が鍬を持って歩いてきた。
子供たちが「じいちゃん」と言って散り散りになる。
「すみませんねえ、うちの孫たちが」
「いえ、構いません」
「どちらへ行かれますか?」
「街道を探しているんですが」
「ああ、それなら。この道をまっすぐ行って、突き当たりを右に曲がれば出ますよ。半刻もかかりません」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、老人は「気をつけて」と言い、また畑に戻っていった。
子供たちがまだこちらを見ていた。
一人が手を振った。
俺は少し迷ってから、小さく手を振り返した。
「振った!」と騒ぎ始めた声を背中に聞きながら、俺は歩き出した。
龍神村の人間が俺の目を見る時の、あの恐れのまじった目ではなかった。
ただ、珍しいものを見る子供の目だった。
あの眼差しと、長老衆の目は、全然違う。
同じ赤い目を見ているのに。
街道に出たのは、夕暮れが近い頃だった。
行き交う人もそれなりにいる。
旅人らしい男、行商人らしい荷を背負った者、農作業帰りの百姓。
誰も特に気にしない。
屋敷に閉じ込められていた十五年間、外に出たら化け物扱いされるんじゃないかと思っていた。
けど現実は、そんな大げさなものでもなかった。
胸のどこかが、軽くなった気がした。
しばらく行くと、街道沿いに小さな茶屋があった。
竈の煙が漂い、温かいものを煮ている匂いがした。
俺は迷わず暖簾をくぐった。
「握り飯と、あれば梅干しを」
「ありますよ」
一口食べると、強い塩気と酸味が口に広がった。
旨い。
単純に、旨い。
隣に座っていた旅人の男が、「どちらへ」と気さくに声をかけてきた。
「播磨の方へ」
「そりゃ遠い。気をつけてな」
龍神村にいた頃、誰かにそんなことを言われたことがあっただろうか。
宵は「お気をつけて」と言ってくれたが、あれは別の意味合いだ。
見ず知らずの旅人が、通りすがりに、何でもないように言う。
そういう言葉が、外の世界にはあるのか、と思った。
日が傾いてきた頃、野宿にしよう、と決めた。
道から少し外れた林の端に、岩が風よけになっているいい場所があった。
俺は荷を下ろし、岩に背を預けて座った。
初めての野宿だ。
屋敷では毎晩布団があった。宵が夕餉を運んできて、行燈に火を灯してくれた。
今夜からは、全部自分でやる。
枯れ枝を集め、火打ち石で火を熾した。
三度ほど試してようやく小さな炎が立った。
炎が揺れる。暗い中に一点だけ光があって、その周囲だけが見える。
ここだけは、安全だと思える。
旅の荷に、宵が黙って入れておいてくれた乾飯があった。
戻して食った。本当に味がしないが、腹に入ればいい。
宵め、こういうことだけはちゃんとする。
俺は炎を眺めながら、母上のことを思った。
葵のことを、思った。
一度だけ抱いた。
あの時、葵は眠そうに目を動かして、俺の顔をぼんやりと見た。
黒い瞳だった。
名前を呼んだら、小さくあくびをした。
それだけしか知らない。
格子の向こうで、子供の声が聞こえることがあった。
遠くて、よく分からなかったけれど、それが葵の声だと思っていた。
笑い声のような、甲高い声だった。
確かめようがない。
母上の膝の上で、何を見て笑っていたんだろう。
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夜明けとともに目が覚めた。
岩に背を預けたまま眠っていた。
体のあちこちが固い。
当たり前だ。
朝の空気は冷たく、澄んでいた。
昨日とは打って変わって、霧がない。
林の向こうに、街道が見える。
もう旅人が歩き始めていた。
水筒の水を一口飲み、荷を背負い直して、腰の刀の位置を確かめる。
今日は峠越えだ。
峠道に差し掛かる前、水場で顔を洗った。
水場の石に腰掛けた老人が一人、煙草を吸いながら川の流れを眺めていた。
「旅か」
「はい。播磨の方へ」
老人は「ほう」とだけ言い、また川の方を向いた。
そういう距離感が、今は心地よかった。
悪くない朝だと思った。
峠の中腹で、荷を担いだ男が道の脇で腰を下ろしていた。
肩で息をしている。
「少し持ちましょうか」
男は「すまんのう」と言って、荷の一部を俺に渡した。
布を何枚も重ねたもので、かなりの重量だった。
二人で黙って登り続けた。
頂上近くで男が「ここからは下りだから」と言い、俺は荷を返した。
「助かった。達者でな」
「ありがとうございます」
男は笑って歩いていった。
名前も知らない人間と、少しだけ関わって、別れる。
それだけのことが、なぜか悪くない。
峠の頂上に着いた時、視界が一気に開けた。
山並みが、遠くまで続いている。
その向こうに、自分が行くべき場所がある。
俺を分かってくれる人間が、この世界にいる。
それだけで、足が少し軽くなった気がした。
風が吹いた。
山の上からの風は、麓とは違う。
冷たく、強く、迷いがない。
俺は目を細め、その風を全身で受け止めた。
俺の中に、風を操る力がある。
十五年間、封じてきた力が。
格子越しに感じていた風が、いつも俺を外へ引っ張っていた。
今俺はその外にいる。
行くか。
踏み出した足が、峠の向こうへと続く道を踏んだ。
遠くに、街道が白く光って見える。
まだ名前も知らない町が、その先にある。
俺はわらじで道を踏みしめ、一歩ずつ下りていった。
宿場町は、思ったより賑やかだった。
人が話している。
笑っている。
怒鳴り合っている。
何でもない、日常の喧騒だ。
みんな、俺がいてもいなくても関係ない。
十歳の時に母上から話を聞いて、自分の目の意味を知った。
それから五年、外に出れば指を差されると思っていた。
だが現実は、誰も俺を中心に回ってはいない。
梅干しを食い、わらじを三足買い、宿屋には泊まらなかった。
昨夜の野宿が、思ったより悪くなかったから。
宿場の外れで、橋のたもとに老婆が一人、小さな台を出して座っていた。
俺が立ち止まると、茶を一椀差し出した。
「旅の人に一椀、私の気持ちだから」
温かい茶だった。ほんのり甘い。
見ず知らずの老婆から茶をもらう。
そんなことが起きる。
俺は橋を渡り、その先の道を歩き続けた。
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川沿いの岩陰で火を熾した。
今日は二度で炎が立った。
空を見上げると、星が出ていた。
屋敷の格子窓から見えた星より、ずっと多い。
格子に切り取られていた四角い空ではなく、どこまでも続く空だ。
俺は仰向けに寝転がり、その空を眺めた。
旅に出て、まだ二日だ。
播磨まで、ここからまだ何十里もある。
どうなっても、行くだけだ。
母上と葵の仇を討つために。
それだけが今の俺の目的で、それ以外は全部、行きがかりだ。
今日出会った人間は、誰一人俺を追い払おうとしなかった。
それが当たり前のことなのかどうか、まだ分からない。
でも今日は、そうだった。
刀を鞘ごと抱えて、俺は目を閉じた。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




