第十話 『龍神村を出る日』
出発の朝は、霧が深かった。
十五歳の秋。
荷物は小さな風呂敷一つだ。
着替えが二枚と、母上に教わった時の和紙が数枚、それから父上から渡された路銀。
それだけで十分だった。
この屋敷に、持ち出したいものはそれほどない。
宵が朝餉を持ってきた。
いつも通りの無表情で、膳を置いた。
「今日が最後ですね」
珍しく、自分から口を開いた。
私は箸を置き、宵を見た。
「……そうだな」
「お気をつけて」
それだけ言って、宵は部屋を出ていった。
振り返らなかった。
扉が閉まる音がした。
八年間、この部屋で向き合い続けた女が、それだけ言って去っていった。
あっけないといえばあっけないが、宵らしいとも思った。
朝餉を食い終え、風呂敷を背負って扉を開ける。
外に出た。
当たり前のことなのに、妙な感覚だった。
朝の空気が、顔に当たる。
霧が白く漂い、庭の輪郭がぼんやりとしている。
足元の土が、しっとりと濡れていた。
父上が庭に立っていた。
木刀を持っていない。
ただ、立っている。
霧の中に、大きな黒い影のように。
「行く前に、話がある」
いつもと違う口調だった。
私は父上の前に立った。
「お前は生まれた夜、異能を使った。風を起こしたんだ。お前自身に記憶はないだろうが、その場にいた全員が見た」
異能。その言葉が、胸の奥に落ちた。
「お前の中に、風を操る力がある。二十歳まで使うことを禁じてきたが、旅に出れば何が起きるか分からん。いざという時、自分の中にその力があることを忘れるな」
父上の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「……なぜ、今まで言わなかったんですか」
「言えば、使いたくなる。お前が掟を破れば、長老衆が黙っていなかった」
私は黙った。
長年の問いに、今になって答えが来た。
「これを持っていけ」
父上が腰の刀を外し、差し出した。
鞘は古いが、手入れの行き届いた、見覚えのある刀だ。
父上がずっと腰に差していたものだった。
「父上の刀じゃないですか」
「俺の代わりに、連れていってくれ。……できれば、俺も共に行ってやりたかった」
短い沈黙が落ちた。
「美心と葵の仇を、必ず討ってくれ」
何も言えなかった。
ただ、両手でしっかりと受け取った。
父上は頷き、踵を返した。
私もその背を追う。
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屋敷の門を出ると、初めて見る景色が広がっていた。
この十五年、敷地の外に一歩も出たことがない。
塀の向こうにどんな道があるのか、どんな家が並んでいるのか、何も知らなかった。
霧に包まれた朝の道は静かで、遠くで鶏が鳴いていた。
父上は村を避けるように、人気のない道を選んで歩いた。私の存在を最後まで村人に知らせないために。
掟は、出ていく朝まで続いた。
村の境、古い石碑の前で父上が立ち止まった。
ここから先は、私が一度も踏んだことのない土地になる。
「播磨に、風吹淑人という剣客がいる。俺の古い知人だ。その者を訪ねろ。話はつけてある」
「……分かりました」
「その者も、風の異能を持つ。お前のことを分かってくれる数少ない人間だ」
思わず、父上の顔を見た。
自分と同じ異能を持つ者がいる。
この世界に、自分以外にも。
それだけで、行き先に初めて確かな輪郭が生まれた気がした。
「道中、気をつけろ」
また、沈黙が落ちた。
霧が少しずつ晴れ始めていた。
遠くの山の稜線が、うっすらと見え始める。
父上が何か言いかけて、やめた。
その口が一度開いて、また閉じる。
「父上」
私から呼んだ。父上が目を向ける。
「必ず戻ります」
父上は少しの間、私を見ていた。
それから、短く頷いた。それだけだった。
私は石碑を越えた。
振り返らなかった。
振り返れば、足が止まる気がした。
風が吹いた。
山の向こうから来る、知らない風だった。
頬を撫で、髪を揺らし、どこかへと抜けていく。
母上、葵。必ず、仇を取る。
ここまで読んでくださり、圧倒的感謝です…!本当にありがとうございます!
面白かった、ここがツッコミどころだ等々、皆様からの感想をドシドシお待ちしております!
ちなみに名前の通り『語彙力皆無マン』がお送りしておりますので、語彙力の無さはデフォルト仕様です。どうかご容赦くださいませ…!次話も頑張ります!




