第一章 「春の匂いと、暗い瞳」
春の風が、大学の正門の上で揺れる
校旗をふわりと持ち上げていた。
人の波に飲まれないよう、
春野澄は肩にかけたバッグをぎゅっと握りしめる。
初めての大学。
知らない人ばかりの広い景色。
胸の奥で、小さな心臓が控えめに跳ね続けていた。
(迷わないようにしないと……)
地図アプリと校舎を見比べながら立ち止まっていると、
すぐ横で小さな泣き声がした。
視線を向ければ、五歳くらいの男の子がひとり、
しゃがみこんで鼻をすすっている。
「……だいじょうぶ?」
澄が膝を折って声をかけると、
男の子は涙で顔ぐしゃぐしゃのまま首を横に振った。
「ママがいない……」
そのとき。
すこし荒めの息が近づいてくる気配がした。
顔を上げると、黒髪の青年が駆け寄ってくる。
「いた……。よかった……」
低い声。
やわらかいのに、どこか深い海底の冷たさみたいな
響き。
青年は男の子の手をとり、ほっと息を落とした。
「迷子になってた。ありがとう、見ててくれたんだな」
「あ、いえ……」
澄が手を振ろうとした瞬間、青年がこちらを向いた。
その瞳が、澄の呼吸をひとつ止める。
黒なのに、ほんの少しだけ
光を吸い込んだような暗さ。
見つめ返したら、足元から静かに
沈んでいきそうな深さだった。
「……あの、あなたは?」
邪気のない問いなのに、妙に距離を感じさせる声。
問いかけられた澄は、かすかに喉がひっかかる。
「は、春野澄です。今日から、大学で……」
「そうか。俺も」
青年は短く言った。
その横で、泣き止んだ男の子が青年の袖をつまむ。
「なぎ、おにいちゃん」
(なぎ……?)
青年──
深海凪は、澄の視線に気づくと少しだけ眉を下げた。
「弟を探してて……入学初日からバタバタだな」
そう言いながら、胸ポケットから目薬を取り出し、
癖のような自然さで差し込む。
澄はほんの一瞬、それを不思議そうに見つめた。
「ありがとう、春野さん。助かった」
凪は軽く頭を下げると、弟の手を握って歩き出す。
春の光の中、背中だけが静かに離れていく。
名前を呼ばれたわけでも、
特別な言葉があったわけでもない。
それでも、澄の胸に残ったのは、
ただの新入生とは違う、
どこか“孤独を抱えた人”の気配だった。
(……あの人、深い海みたいだ)
澄はぽつりと胸の奥でそうつぶやく。
それが、自分の春の始まりだと気づくのは、
もう少し先のことだった。




