第一話 OLは辛い
へるぴょんと申します。
初めてのファンタジー小説です。
くすっと笑えるような話を書いていこうと思っています。
宜しくお願い致します。
「ツリュックケーアーン」
低く響く呪文とともに、足元の魔法陣が淡い光を放ち、空気が震えた。
光の輪郭が揺らぎ、周囲の空間が水面のように波打つ。
「……やっと、帰れるんだ」
ローブをまとった女性は、小さく、しかし確かな声でつぶやいた。
ウェーブがかった長い髪が肩に落ち、額にはうっすらと汗。
その表情には、長い旅路を終えた者だけが持つ安堵と疲労が入り混じっている。
「長かったなぁ……」
その瞳は、これから戻る世界をまっすぐに見据えていた。
光が弾け、八重子の姿は魔法陣とともに消えた――。
「……暑い! なんで毎日こんなに満員なのよ、この電車は」
押し寄せる人波に押しつぶされながら、八重子は心の中で叫んだ。
湿った夏の空気と人いきれが混ざり合い、息苦しさが増す。
吊革をつかむ腕にも、じっとりと汗がにじむ。
獅子堂 八重子、二十七歳、独身。
いわゆる普通のOL――のはずだが、ただ一つだけ普通じゃないことがある。
彼女は、つい半年前まで異世界で「賢者」と呼ばれていたのだ。
彼氏はいない。
その理由を、八重子は本気で「苗字のせい」だと思っている。
確かに「獅子堂」という苗字は強そうだ。
だからプライベートで苗字で呼ばれることを、八重子はひどく嫌っていた。
小学生のころ、同級生の男の子に「ライオン」とあだ名をつけられ、からかわれた。
当時は天然パーマで、長い髪が邪魔だとショートカットにした結果、髪は爆発状態。
苗字と髪型が相まって、そのあだ名が定着してしまったのだ。
性格も負けず嫌いで、よく男子の胸ぐらをつかんでは言い返していた。
そのせいで、好きな男子に近づくこともできなかった――そんな過去を、今も少し引きずっている。
今はストレートパーマをかけ、艶やかに落ち着いた髪。
顔立ちは悪くなく、どちらかといえば「中の上」といったところだ。
「おはよう」
同期の水野 沙也が、軽やかな声で挨拶してきた。
沙也は、十人中八人が美人と答えるであろう容姿の持ち主。
その笑顔は、男性に困ったことがないと顔に書いてあるようだ。
「おはよう」
八重子も笑顔で返す。
二人で会社のエレベーターに乗り、扉が閉まると同時に二人きりになった。
「沙也~、誰か紹介してよ~」
八重子は沙也の両肩に手を置き、頭を下げる。
「またぁ? もう紹介できる人いないよ~」
沙也は少し面倒くさそうに答える。
「なんでよ~。沙也は美人だから、男の知り合いいっぱいいるでしょ」
「この半年で何回紹介したと思ってるのよ。飲み会のたびにわけのわからない絡みするから、もてないんでしょ」
「だって~、イケメン前にして飲むと、つい浮かれちゃうんだもん!」
八重子は「しょうがないでしょ」と言わんばかりの顔をする。
「も~、面倒くさ。朝からダル絡みしないでよ」
沙也は少し疲れたようにため息をついた。
エレベーターの扉が開き、人が乗ってくる。
「おはようございます、部長」
二人そろって挨拶し、頭を下げる。
「おはよう。朝から元気だね」
笑顔で答えるのは、営業課の部長・矢野。
二人はエレベーターの端に移動する。
「お願いね」
八重子が小声で沙也にささやく。
八重子の階に着くと、彼女はそそくさと部長の後を追うように降りていった。
後から降りる沙也は、またため息をつく。
八重子は、部長の矢野のことが少し気になっていた。
好き嫌いという意味ではなく、向こうの世界で出会った勇者にどことなく似ているからだ。
勇者とは恋愛感情はなく、友人、仲間といった関係だった。
そもそも勇者は男性が好きだったので、八重子のことは仲間以上には見ていなかっただろう。
八重子にとっても、異世界で初めて出会った「同性が好きな人」というだけのことだった。
そして矢野部長も、社内では同性が好きだと噂されている。
時折見せる、鼻の頭をかく仕草が勇者とよく似ていた。
年齢も違うし、勇者は異世界ですでに亡くなっている。
もちろん別人だとわかっているが、「異世界に行ってましたか?」なんて聞けるはずもない。
そんなことを言えば、自分のほうが頭がおかしいと思われるだろう。
さて、今日も仕事を頑張るか。
電話対応、見積作成、書類確認……やることは山ほどある。
毎日が無理な納期調整や価格交渉ばかり。
「もういや。なんなの? メーカーがそんなに偉いわけ? 全くこっちの言い分、聞いてくれないじゃん」
メールを見て、八重子は小声で愚痴る。
納期調整のメールを送って、十分もしないうちに返事が来た。
「ほんとに工場に確認したの? 自分たちばかり楽しようとしてない?」
怒りがこみ上げる。
「トラブルかい?」
矢野部長が顔をのぞかせた。
「いえ、なんでもないです。大丈夫です」
愚痴を上司にぶつけるわけにはいかない。
給与査定に響くかもしれないからだ。
「そうか。ならいいけど。トラブルがあったらすぐ報告してね」
矢野部長は鼻をかきながら席に戻っていった。
定時になり、八重子は会社を後にする。
異世界から帰ってきて半年。
電車から見る景色が、以前よりもいとおしく感じられる。
以前はこの景色が嫌いだった。
だが今は、日々移り変わる街並みが、異世界の旅のように思える。
帰りにスーパーに寄り、晩御飯の食材を買い足す。
「さて、今日は何をつまみにしようかな♪」
鼻歌交じりに総菜を選び、ビールも忘れずカゴに入れる。
家に帰ると、まずは玄関で靴を脱ぎ、軽くため息をつく。
一日中張り詰めていた肩の力が、ふっと抜ける瞬間だ。
バッグをソファに置き、リモコンを手にテレビをつけると、部屋に人の声とBGMが流れ込み、静まり返っていた空間が一気に生活の匂いを取り戻す。
キッチンに向かい、晩酌の準備を始める。
帰りに買ったポテトサラダ、ゲソ唐揚げ、スモークチーズ――どれも八重子の“お疲れさまセット”だ。
パックから皿に移すとき、唐揚げの衣がカリッと小さく音を立て、チーズからは燻製の香りがふわりと漂う。
グラスを冷凍庫から取り出すと、表面にうっすらと霜がついている。
そこにビールを注ぐと、黄金色の液体と白い泡がゆっくりと層を作り、耳元で小さくパチパチと弾ける音がする。
「いただきま~す」
ひと口飲めば、冷たさと苦みが喉を駆け抜け、全身にじんわりと解放感が広がる。
「ぷはぁ~」
やっぱり仕事終わりの一杯は格別だ。
テレビではクイズ番組が始まっていた。
司会者の軽妙なトークをBGMに、八重子は箸を動かす。
ポテトサラダのまろやかさ、唐揚げのジューシーさ、チーズの深い香り――どれもビールと相性抜群だ。
「今日は特別に、あれを出そうかな」
八重子はにやりと笑い、目の前の何もない空間に手を伸ばす。
彼女手は目の前の空間に吸い込まれる。“亜空間収納”だ。
手を差し入れると、ひんやりとした亜空間の空気が指先を包み、保存しておいた食材の感触が伝わってくる。
取り出したのは、サンドブラックフィッシュの切り身。
砂漠を泳ぐ巨大魚で、異世界では遭遇すれば厄介なモンスターだが、食べれば絶品。
「向こうで初めて食べたときは、本当に驚いたなぁ」
懐かしい記憶がよみがえる。
切り身を刺身のように薄くスライスし、皿に並べる。
醤油を小皿に注ぎ、一切れをそっとくぐらせて口に運ぶ。
「……うまっ!」
淡白な白身に、ほんのりと甘みのある脂がのっていて、噛むほどに旨味が広がる。
ビールをひと口流し込み、思わず目を細めた。
食後の片付けは、もちろん魔法の出番だ。
空中で指先をくるくると回すと、食器がふわりと浮かび上がり、シンクへと飛んでいく。
水が自動で流れ、泡立ち、すすぎ、乾燥まで一気に終わる。
はたから見れば完全にポルターガイスト現象だが、八重子にとっては日常の一部だ。
グラスを片手にソファへ戻り、テレビの音量を少し下げる。
窓の外では、夜風がカーテンを揺らしている。
「……こういう時間が、一番幸せかも」
異世界での冒険も悪くなかったが、今はこの静かな晩酌こそが、八重子にとってのご褒美だった。
最後まで読んで頂き誠にありがとうございます。
今後も続きを書いていこうと思いますので、宜しくお願い致します。
もしよろしければ、感想などを頂けると幸いです。