第3話 冷厳な兎
あれから、どれくらいの時間が流れたのだろう。
ふと、柔らかくて温かな光に包まれていることに気づき、桜夜は眉間に皺を寄せつつ花瞼をゆっくりと持ち上げる。
ぼんやりとした眼に映るのは、汚れ一つない白亜の天井。朽ち果てた薄暗い木造家屋のそれとは異なる景色と右手から差しこむ陽光に、桜夜は大きく目を見開いて飛び起きた。
「目が覚めましたか」
ふと、聞き覚えの無い玲瓏な声が鼓膜を震わせ、すぐさま桜夜は自身の左側に顔を向ける。そこには木製椅子に腰かけてこちらを真っ直ぐに見据えている清麗な女性がいた。
年はおそらく二十代。簪で一纏めにされた長い銀髪に細渕眼鏡をかけている。また漆黒の親兵服を着用しており、彼女が伊織たちの仲間だということは一目瞭然だった。
「うちの馬鹿が手荒な真似をしたうえに、強引にここまで連れてきてしまったようで申し訳ありません。あの愚者に代わって非礼をお詫びします」
「あなたは……」
警戒心を剥き出しにして誰何する桜夜に対し、女性は眉一つ動かさず慇懃かつ淡々とした声調で答える。
「私は兎月額。親兵局の副長を務めています。以後、お見知りおきを」
兎月――。烏賀陽家と同勢力を誇る、もう一つの輪皇側近家。かの大家も輪国で知らぬ者はいない。
だが、それよりも気になるのは――
「副長……。確かあの男も」
「ええ。癪ですが、伊織は私の同僚でして。親兵局の副長は二人体制なんです」
額と名乗った親兵を注視する限り、伊織とは違って明らかな敵意はない。
壁には彼女の専用武器が入っているらしい真白の弓袋が立てかけられており、強力な神力が感じられた。おそらく彼女も神器所有者なのだろう。それでもなお体を強張らせたまま、桜夜は自分がおかれた状況を把握すべく視線をあちこちに彷徨わせる。
赤い絨毯に硝子製の豪奢な室内灯。この時代には珍しい大陸風の内装になっており、見たこともない調度品が置かれている。
「ここは……」
「輪央にある親兵局の客室です」
「輪央⁉」
桜夜は目を瞠る。
確か、先ほどまで自分は輪南にいたはずだ。
気を失ってから一体どれくらい経ってしまったのかと表情で語る桜夜に、心意を察した額が口を開く。
「まだ半日しか経っていませんよ。伊織が神技を使って、あなたと蓮夜さんをここまで連れてきたので」
「神技……。〈風〉の力か」
「はい」
だが、今はその当の本人の姿が見当たらない。それに蓮夜の姿も。
「蓮夜はどこにっ」
「ご安心を。隣の部屋で私の付き人が見ています」
額の言葉に嘘はないのだろう。しかし、実際にこの目で確認しないと気が済まず、桜夜は額が言い終えたと同時に寝台を降り、弾かれたように部屋を後にした。額もそれをわかっていたからか、追いかけずに桜夜の背を見つめるに留まった。
「蓮夜!」
扉を叩いて入室許可を得ることも忘れ、勢いよく隣室に踏み入れる。
部屋の中央には円卓があり、そこにある椅子に蓮夜は腰かけていた。彼のそばには親兵服をまとった少女が佇んでおり、蓮夜に湯呑みを手渡しているところだった。
両者は驚愕の面持ちで桜夜をとらえる。
「蓮夜……。良かった」
桜夜が安堵の息をつくと、蓮夜もまた立ち上がって姉のもとに駆け寄る。
「姉ちゃん!」
蓮夜は桜夜の両手を握りしめる。桜夜も彼の手を優しく握り返した。
「目を覚ましたんだね。大丈夫? 怪我とかしてない?」
「大丈夫。ごめん。私が不甲斐ないばかりに……」
「ううん。姉ちゃんが謝る必要はないよ」
「蓮夜こそ大丈夫? あの後、何かされたりしなかった?」
「大丈夫だよ。むしろ、すごく親切にしてくれたから」
蓮夜は後方にいた少女を見やる。
弟と同じ方向に顔を向け、少女と視線が合わさった瞬間、彼女は丁寧にお辞儀した。
「初めまして。望月佳弥と申します。額様から蓮夜さんのお世話を仰せつかりました」
透き通った白皙の肌に、肩までに切り揃えられた白茶の髪。後髪は赤いリボンで一部結わえられていた。その立ち居振る舞いは可憐で、まるで公家の令嬢のよう。どうやら彼女こそが額が言っていた付き人らしい。
「お、桜夜ちゃん気ぃついたんやな」
ふと、開け放っていた扉のほうから聞き覚えのある声が背を打った。
敵が奇襲をしかけてきたかの如く、桜夜は反射的に後ろを振り返り、剣呑な眼差しでかの者を睨み据える。
扉の前には、つくづく癇に障るにやにやとした笑みを浮かべた伊織が。
「もう、そんな怖い顔せんといてよ。せっかくの美人顔が台無しや」
伊織のちゃらけた言葉には耳を貸さず、桜夜は思案する。
――何とかしてここから脱出しなければ……。
逃げるとしたら一番後ろにある窓からかと、室内を隈なく注視していると――
「無駄無駄」
伊織が突破口の探索を制止する。
「ここは親兵局。桜夜ちゃんと同じ影の住人しかおらへんとこや」
そう簡単には逃がさへんで。
腹の底が知れない紫瞳をぎらつかせる伊織。桜夜は不覚にも気圧されて、奥歯を噛み締めることしかできない。
「な、額ちゃん♪」
伊織が視線を横に流す。水を向けた先から額が姿を現わした。いつも肌身離さず持ち歩いているのか、弓袋を肩にかけている。
――いつの間に……!
伊織の時もそうだが、彼女もまたこちらへ向かってくる気配や足音が一切しなかった。
流石は親兵局の二番手。桜夜でさえ気づかないその隠密能力は伊達ではない。
額は眉間に皺を寄せて答える。
「いい加減その呼び方はやめてください。不愉快極まりない」
「えー、なんで」
「その腹立たしい笑顔でそう呼ばれることに強烈な嫌悪感を覚えるんです。私だけじゃなく、他の方々もお前の言動を胡散臭く思っているはずですよ」
「言ってくれるなあ。ぴょんぴょん跳ねることしかできん憐れな兎さんのくせに」
「人を見下すことで悦に浸り、自惚れることしか能のない烏には言われたくありません」
両者の間に激しい火花が散る。
なるほど、慇懃な額が伊織のことを『馬鹿』『愚者』呼ばわりしていたことにも頷ける。これは犬猿の仲というより、烏兎の仲といったほうがいいのかもしれない。
「あの、喧嘩は……」
桜夜がそんなことを考えている一方で、蓮夜がおろおろしながら制止を試みようとしていると、額が咳払いして「失礼しました」と姉弟に向き直る。
「桜夜さんが目を覚めたら、ご姉弟を連れて皇宮へ赴くよう寧子様から申しつけられています。どうか、今は敵意を収めて我々と一緒に来ていただけませんか」
自分の敵意というより、まずは烏兎双方の敵意を収めたほうが良いのではないか。
そう思いつつ、桜夜はひとまず額の切願に従って蓮夜とともに客室を後にした。