第24話 苦悶の勅令
真っ暗な闇のなかに、小さな希望があった。
愛する弟が目の前にいる。桜夜は必死に両足を動かして闇路を駆けては手を伸ばす。
「蓮夜!」
何度呼んでも、彼は自身に背を向けたままだった。
どうしてこちらを向いてくれないのか。だが、そんな理由はどうでもいいことだった。今はただ、唯一の家族をこの手で強く抱擁したい。大切な人の温もりを感じたかった。
「蓮夜!」
温もりを求める手がもう少しで届きそうなところで、彼はゆっくりと振り返った。刹那、桜夜は思わず手を引っ込めてしまい、戦慄した。
蓮夜の両の目からは赤々とした血涙が流れていた。
「姉ちゃん」
傷愴に沈んだ稚き声が桜夜の胸を締めつける。
「ごめんね」
薄弱とした謝罪を呟くや否や、蓮夜は瞬く間に黒龍へと変貌を遂げた。弟の急変に桜夜は茫然自失とする。
黒龍は痛苦を滲ませた咆哮を轟かせては、業火を帯びた牙を桜夜に差し向けた。
夢のなかの死によって、桜夜は荒い呼吸とともに飛び起きた。額や頬からは滂沱の汗が流れ、激しい鼓動によって高まった体温が全身を鉛のように重くさせていた。
――夢か……。
夢であって良かったと思うと同時に、あまりにも鮮明な悪夢に桜夜は思わず二の腕を掻き抱いた。
「起きた?」
聞き慣れた声に、桜夜は息を整えながらかの青年に目を向ける。
自室の椅子に深く腰掛けていた彼に、いつもの飄逸な笑みはない。あるのはただ、底知れぬ怨恨と瞋恚だけ。
これまで以上の凄絶な顔色に、桜夜はさらに戦慄いた。
「起きてそうそうごめんやけど、すぐにここ出るで。黄央殿で寧子様が待ってる」
「……わかった」
桜夜は小さく首肯し、寝台から降り立って先導する伊織の後に続いた。
謁見の間に足を踏み入れるのは、初めて寧子と相まみえた時以来だった。彼女との対面も二度目であり、桜夜は眼前で沈痛な面差しを浮かべている女皇に叩頭する。
「平介からすべて聞きました」
寧子が玉音を発すると同時に、桜夜と伊織、それから同席していた平介が顔を上げる。
皇宮に赴く際、伊織から平介の紹介を受けて彼とはすでに既知の仲となっていた。
「あなたたちが命がけで戦っている間、わたしは何の力にもなることができなかった。謝罪の言葉だけで済むような問題ではないことは重々承知しているけれど、改めて言わせてください」
本当にごめんなさい。
この国の至尊が深々と首を垂れたことに、三者の間で衝撃が走る。
「頭をお上げください、寧子様。貴女様が謝罪することは何一つありません」
「むしろボクらが謝るべきや。皇宮に賊徒の侵入を許してしまったんやから」
「いいえ。すぐにあなたたちの援助に加われなかったわたしにも非があります。わたしがもう少し早く駆けつけていれば、額と増長は……」
寧子の悔恨に伴い、伊織も面伏せて両の拳を強く握りしめる。
額と増長は瀕死の重傷を負い、その後、寧子たちによって救出された。
今は皇宮にある医局で集中治療を受けており、医師いわく、あともう少し救助が遅れていれば助からなかったそうだ。
「寧子様」
伊織の呼声に、寧子だけでなく桜夜と平介の視線も彼に集まる。
「これでもまだ殺生をするなってゆうつもりですか」
「伊織……」
「額ちゃんとマスだけじゃない。多くの親兵が今回の奇襲で犠牲になった。ボクは寧子様みたいに心が綺麗じゃないから、人非人殺しても何も思わへん。心が痛まへん。むしろ死んで当然やって死体に唾棄するくらいや」
伊織の心を蝕む憎悪が、彼の残酷な闘争心を焚きつける。
「やからボクは、絶対にあいつらを八つ裂きにして地獄に突き落とさんと気がすまへん」
寧子はあふれそうになったものを強く瞑目することで押さえ、丹唇を震わせた。
「その後、ボクはどうなってもいい。やからどうかお願いします」
ボクらに――国賊討伐の勅令を。
最終的には桜夜と平介も同意し、額を畳につけた。
寧子は断腸の思いで、呻くように令した。
「……親兵局に勅令を下す」
国賊、沈丁花を征討し、清水蓮夜を奪還せよ。




