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龍蛇ノ双紙  作者: 海山 紺
第三段
23/30

第23話 美しき蛇の娘

「なんで君がここに……!」


 唖然とする増美の声が聞こえ、蓮夜はおずおずと顔を持ち上げた。

 眼前には、弓と刀を携えた麗しい少女。ずっと心配していた友人がそこにいた。


「佳弥!」


 無事でよかったと、蓮夜は立ち上がって彼女に駆け寄ろうとする。


「待って蓮夜くん!」


 咄嗟に増美が彼の腕を掴み、背後に庇った。


「増美さん? どうしたの?」


 困惑する蓮夜をよそに、増美は最悪の事態に苦悶を滲ませる。


「ねえ、どうして佳弥に銃を向けているの?」


 蓮夜が増美の肩を揺さぶる。その声音は震えを帯び、今にも彼は泣きだしそうだった。


「増美さん! 銃を下ろして!」

「蓮夜くん」


 ふと、たおやかな響きが耳朶をくすぐった。


「わたしと一緒に来て」


 佳弥が打刀を落とし、弓弦に手をかけようとした時、増美は彼女の頭に狙いを定めて引き金を引こうとする。


「やめて!」


 だが、蓮夜が佳弥を庇うように銃口の標的となった。

 増美は目を剥いてすぐさま銃口を逸らす。その瞬間、ぱぁんと鳴弦が両者の鼓膜をつんざく。


「〈細雪ささめゆき〉」


 どこからともなく繊麗な雪華が舞い落ち、蓮夜と増美に降り注ぐ。〈細雪〉が両者に染み入ると、彼らはぷつりと糸が切れたように意識を失い、その場に伏した。


「ごめんね。蓮夜くん」


 謝罪の言葉を囁きながら〈緑爪〉を広い、腰に差す。そのまま弓を肩にかけ、蓮夜を両腕で抱えた。同時に役目を終えたかのように〈細雪〉は降り止む。

 氷矢で撃ち砕いた窓から出ようとすると、勢いよく扉が開かれる音がした。おもむろに振り返ると、紅葉と囚われの身になっていた同僚たちが目に入った。


「先を越されたか」


 見えぬ口から低く玲瓏な声が発せられ、佳弥は花笑む。


「そちらも無事に救出できたようで良かったです」

「ああ。桐南は?」

「先に『ねじれ』で待っていると思います」


 佳弥が答えた時を同じくして、回廊から足音が響く。

 一行が扉を振り返ると、桜夜と伊織が部屋に足を踏み入れた。


「流石は異端の剣士たち。足が速いな」


 紅葉が淡然と言ってのけるも、桜夜の意識は佳弥の腕の中で眠る蓮夜に注がれた。


「蓮夜っ!」

「増美!」


 桜夜は掌中の珠へと伸ばし、伊織は倒れていた増美に駆け寄る。

 紅葉は桜夜に狙いを定めて抜刀し、目に見えない速度で間合いを詰めて桜夜の組紐を断ち斬った。


「桜夜ちゃん!」

「しばし蛇女とのたわむれを愉しむがいい」


 伊織は舌打ちし、片翼を引き抜いて一閃する。だが、紅葉は易々とそれをかわした。


「先ほどより太刀筋が乱れているな」

「うるさいわ!」

「それでは蛇女にすぐ喰い殺されてしまうぞ」


 紅葉の冷徹な言葉を皮切りに、背後から空を裂く鋭利な音がした。

 反射的に首を横に捻ると、すぐ隣を異形の爪が駆けた。


「ちっ!」


 金切り声に近い蛇女の咆哮が耳朶を打つ。同時に爪と翼が交じり合い、苛烈な余響が室内を揺らした。

 伊織が蛇女に刀を向けたのを確認し、紅葉たちは窓から撤退した。


「くっそ!」


 蛇女の猛攻を捌きながら、伊織は苛立ちを含ませて叫ぶ。


「こんな時に内輪揉めしてる暇ないねん桜夜ちゃん!」


 はよ邪神を斬れ!




 意図せず引きずりこまれた濃藍の淵底では、桜夜も焦燥を落ち着かせる余力がないまま荒御魂と交戦していた。


 ――ここでケリをつける!


 桜夜は腰を落とし、柄に手をかけた。


 ――思い出せ。


 師の手本を想起し、桜夜は深呼吸する。


 ――明鏡止水。心は凪のようにあれ。


 父の教えを反芻し、何度も脳内で抜刀の瞬間を思い描く。


 ――刀身に宿る神力の流れを感じろ。敵をよく見て、ぎりぎりまで引きつけろ。


 邪神の強靭な顎が迫る。


 ――その時が来たら、一思いに斬れ。


 柄を強く握りしめ、桜夜は素早く抜刀した。


「〈鯉跳〉」


 流麗な水を纏った刃が閃き、邪神を穿つ。

 だが斬撃が浅く、首をねるまでには至らなかった。


 ――力が足りなかった……!


 速度や時機を意識しすぎて、振り薙ぐ膂力が刀身に乗っていなかった。

 邪神は痛苦に悶えながらも、桜夜に向けて業火を吹く。

 桜夜はそれを回避し、体勢を整え直して邪神が突進してくるのを待った。


 ――今度は必ず斬る!


 こんなところで躓いている時間はない。

 大切な人たちを守るために、私は強くならなければいけない。


 もう、自分の弱さには嘆かない。


 邪悪な神籟が深淵に轟く。

 桜夜は再び呼吸を整え、右足を軸として左足を後ろに下げる。


 ――父上。


 どうか、力をお貸しください。

 長年、己が身に巣食ってきた赤黒の龍蛇が襲い来る。

 桜夜は『守護』の信念を盾に、『破壊』の化身を迎え撃った。




「〈鯉跳〉」




 鯉口を切り、加速する神力の流れを掴んだまま抜刀する。

 流水一閃。堅い鱗と肉を抉る生々しい感触は刹那に過ぎ去り、桜夜は己が牙を振り下ろした。

 ぼとりと首が落ちる鈍い音が残響する。桜夜は血振りして静かに納刀すると、深淵の中心から霊妙な光が煌めいてやがて自身の視界を覆った。






 蛇女の鋭爪を受け流し、伊織は〈銀旋風〉を繰り出す。

 数多の裂傷を受けながらも、蛇女は〈銀旋風〉のなかから水弾を撃った。


「〈風切羽〉!」


 苦無の如き漆黒の羽が水弾を穿ち、霧雨が降る。

 伊織は〈無双〉の構えをとり、蛇女に切っ先を向けた。


「そろそろ眠ってもらおか」


 が、伊織の予想に反して、蛇女の艶美な双眸が見開かれる。


「ア……」


 両膝をついて頽れる蛇女に伊織は驚愕した。


「え、まだ三十分経ってないはずやけど」


 おそるおそる蛇女に近づき、伏せられた顔を覗きこむ。


「もしかして、桜夜ちゃん邪神やっつけた?」


 わずかな沈黙の後、鎌首をもたげるように蛇女が顔を持ち上げる。

 伊織は身構えるが、すぐに拍子抜けして唖然とした。


「伊織」


 そこには濃藍の静謐な光をたたえた少女の姿があった。


「桜夜ちゃん……!」

「すまない。手間をかけた」


 依然として瞳孔は細長く、蛇鱗もはっきりと残っている。うねる黒髪も健在で、蛇女としての姿形は保たれたままだが、眼前にいるのは悍ましい妖姫ではない。間違いなく清水桜夜という清冽な美しさをもつ少女だった。

 伊織は喜色を浮かべて言う。


「邪神に勝ったんやな!」

「ああ、やっとだ」

「じゃあ、これからはずっと自我を保てるってこと?」

「そうだと思う。お前のおかげだ」


 差し伸べられた伊織の手を握り、桜夜は立ち上がる。


「改めて礼を言う。ありがとう、伊織」


 柔和に細められた碧瞳と緩やかな弧を描いた花唇。

 出会ったなかで最も美しく優しい微笑に惹きつけられる。漆黒の烏は暗夜に咲き誇る桜花に見蕩れる。


 ああ、なんて彼女は凛々しく、これほどまでに美しいのだろう。耽美な物事に一切感心を抱かなかったというのに、今はただ、己と向き合っている一人の少女に心奪われた。


「伊織?」


 桜夜が首を傾げたことで、伊織ははっとする。


「いや、何でもない」


 かぶりを振って、伊織は朗笑する。


「どういたしまして」


 桜夜と伊織が微笑み合ったところで、ふと桜夜の花瞼が閉ざされて伊織のほうへと倒れこむ。


「桜夜ちゃん!」


 咄嗟に伊織が彼女を抱きとめる。すると漆黒の髪は水縹へと移り変わり、鱗も消失していった。


「蛇女を制御できるようになっても、気絶することに変わりはないんやな」


 伊織は苦笑し、頬にかかった瑞々しい長髪を撫でる。だが、すぐに表情を険しくし、隣で規則正しい寝息を立てている増美を見やった。


「寝てるだけみたいやから良かったけど」


 状況としてはかなり深刻だ。すべて敵の思うままに事が運んでしまっている。蓮夜さえ彼らの手に渡ってしまった。


「額ちゃんとマスは無事やろか」


 桜夜と増美を連れて部屋を後にしようと思ったその時、複数の足音がして伊織は〈黒翼〉の柄に手をかける。しかし、すぐに警戒心を解いた。


「平さん……!」

「伊織、無事だったか」


 大勢の部下を引き連れてやってきたのは、親兵局局長――千手平介だった。

 焦げ茶の刈り上げられた頭髪に、隆々とした大柄な体躯。整えられた無精髭。彼がその場に佇んでいるだけで空気が張りつめるような、そんな気迫を放っていた。


「彼女が桜夜さんか。増美も……今は眠らされているだけか」

「はい。平さん、すいません。蓮夜くんと〈緑爪〉を奴らに」

「ああ、わかっている。いま第二、第四部隊が追跡している。お前たちはひとまず体を休めろ」

「額ちゃんとマスは……」


 平介は眉間に深い皺を刻み、重々しく彼女たちの状況を告げた。

 酷薄な現実に、伊織は鈍器で頭を殴られたような錯覚がした。


「え……」


 魂が抜けたかのように、伊織はしばらくその場から動くことができなかった。

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