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蛇女双紙  作者: 海山 紺
第一段
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第2話 妖美な烏

 輪国――。東西南北、そして中央に位置する五つの大きな島々と、それらの周辺に群がる数多の小島から成るかの皇国は、かつて数百年にも及ぶ花川幕府の統治のもと、太平の世が長く続いていた。しかし、度重なる天災と飢饉、それによる幕府の内政の乱れにより、民衆の一揆や士族内乱が各地で勃発。ついには幕府軍と輪皇による治政を推進する輪皇軍の皇幕こうばく戦争に発展した。


 皇幕戦争の火種となった央都決戦では、輪皇軍の勢力に適うことなく幕府軍は一時退却。その後いくつかの交戦を経て、栄耀栄華を極めた花川幕府は終焉を迎えた。代わりに中央政府が樹立し、輪皇中心の新政が始まりつつあった。


 そんな血で血を洗う決戦から四か月が経った頃。

 南島である輪南の最南地域にして、清水一門ゆかりの地と言われている紀和きわ。そのとある山中で、桜夜は茂みに身を潜めて獲物に狙いをすませていた。少し離れたところにいる猪は、こちらの存在に気づかず黙々と野草をんでいる。


 警戒していない今が好機だと、桜夜は右手の人差し指に小さな水玉を創成し、それを標的に向けた。そのまま水玉を発射させる。音速で空を切る水弾は見事、猪の急所に命中した。猪が地面に倒れたのを確認すると、桜夜はすぐに獲物のもとへ向かった。


「良かった。一発で仕留められた」


 急所に当てられなかったら、今頃この猪はもがき苦しんでいたことだろう。桜夜は安堵の息をついて、猪を大きな泡玉で覆う。

 空を見上げると、春茜はるあかねを背に一羽の烏が鳴きながら滑翔していた。


「帰るか」


 桜夜が家路を辿れば、泡玉も意志をもった生物のように彼女の後を追い始める。

 開けた場所にひっそりと建っている山小屋。さびれた古屋だが、雨風を凌ぎながら寝食するには十分な造りになっている。


 新鮮なうちに猪を捌いておこうと、桜夜が小屋の裏側に足を向けた瞬間――


「姉ちゃん、おかえり!」


 勢いよく戸口が開くとともに、溌溂とした少年の声が飛び込んできた。


「ただいま。蓮夜」


 明朗な笑みで出迎えてくれた弟に、桜夜は口元をほころばせる。

 同じ水縹の髪に、自分と瓜二つの端整な面立ち。右手首には桜夜の組紐と同じまじないがこめられた数珠型の腕輪がはめられていた。


 桜夜と異なるのは瞳の色だった。桜夜は濃藍だが、五つ下の弟――蓮夜は真紅だった。

 まさに紅蓮の形容が相応しい赤瞳。それは、先祖である龍蛇神が邪神となった際に発現した〈業火〉の神力を宿している証。


 蓮夜は一族のなかでも特に珍しい、〈水〉と〈業火〉二つの神力を生まれ持つ稀有な存在だった。また、その存在は総じて完全変化することができるほどの濃い神血を受け継ぐと伝えられている。それゆえ、その強大な力が幕府に悪用されることのないよう、蓮夜は生まれた時から父の手によって周囲から秘匿され、息を潜めるように生き続けてきた。


「わ、猪だ!」


 蓮夜は桜夜の背後に浮かぶ猪を見るや否や、喜々とした表情で言う。


「夕餉はこれでお願いできる?」

「わかった。こっちもいっぱい山菜ときのこが取れたから、今日は猪鍋にしよう」

「猪鍋か。いいね」


 楽しみにしてる、と桜夜が笑むと、蓮夜も上機嫌に頷いて夕餉の支度に取りかかった。蓮夜が準備している間、桜夜は猪肉を用意しに裏手にある作業台へ向かう。

 毛皮を剥いだ後、慣れた手つきで猪を丁寧にさばいていき、一口大に肉を切っていく。二人だけではすべて食べきれないので、世話になっている猟師に肉をお裾分けした。


 山での生き方を教えてくれた恩義ある寡黙な老翁は、桜夜たちが住んでいる小屋から少し離れたところに居を構えている。この山小屋もその猟師が貸してくれたものだ。

 桜夜が帰宅する頃には火輪かりんが姿を消して、代わりに氷輪ひょうりんが闇夜を照らしていた。天を仰げば無数の星彩が瞬き、幻想的な佳景をその目に映し出す。


「綺麗……」


 今日は快晴だったので、夜空が一段と輝いている。人工的な明かりが多い都市部では見られない美しい夜天を見納め、桜夜は小屋に入った。

 ぱちぱちと粗朶そだが燃える音が耳をくすぐり、食欲をそそる芳香が胃の腑を刺激する。


「いい匂い」

「あ、姉ちゃん。ちょうど今、鍋ができたところだよ」


 蓮夜の向かい側に腰を下ろすと、お椀が差し出された。桜夜は礼を言って受け取る。


『いただきます』


 両手を合わせて、二人はほろほろに柔らかくなった猪肉や野菜を口に運ぶ。

 噛めば噛むほど旨味が染み出て両者は舌鼓を打った。これは無限にいけると、双方の箸は一向に止まる気配がない。


「おかわり」

「はやっ! また最速記録更新したんじゃない? ちゃんと味わって食べてる?」

「食べてるよ。なにせ、自慢の弟が作った絶品料理なんだからね」

「それは買い被り過ぎ」


 他愛ない話に花を咲かせながら鍋をつついていると、あっという間に鍋は空になった。

 皿洗いなどの後片付けを済ませてしばらく談笑に耽った後、姉弟は継ぎ接ぎだらけの古ぼけた布団を並べて横たわる。


「おやすみ。姉ちゃん」

「おやすみ」


 山菜を採るために山道を練り歩いていたせいか、蓮夜はすぐにすやすやと規則正しい寝息を立て始める。桜夜も仰向けになって睡魔に誘われようとした刹那、突如いくつかの足音が鼓膜を掠めた。

 桜夜が勢いよく上体を起こすと、蓮夜も目を覚まして顔を持ち上げる。


「姉ちゃん……!」

「蓮夜はここで待ってて」


 冷静な声音でそう言いつけ、桜夜は戸口まで駆け寄った。

 人ならざるものの血が流れているがゆえに、姉弟には鋭敏な五感が備わっている。通常の人間であればまず気づかない微音でさえ、彼女たちは明瞭に聞き取ることができた。


「気をつけて」


 蓮夜が言うと、桜夜は頷いて小屋を出た。

 夜風に揺れる葉擦れの音と夜禽やきんの囁きが冴え渡る。しかし、今宵は聞いたことのない雑音が夜陰に紛れていた。


 ――三……いや、四人か。


 微かな足音の数からして複数人、こちらに近づいてきている。

 桜夜は〈水牙〉を手元に収め、足音がするほうへ穂先を向けた。


「へえ、すごいなぁ」


 すると、輪南特有の訛りを含んだ男性の声が暗闇から忍び出る。


「気配消して、なるべく足音も立てんようにしたんやけど」


 明朗かつ飄々とした声音。声色からして、自分と同世代くらいの若い男性だろう。

 雲間に隠れていた春月が覗き、静謐せいひつな月光が桜夜たちに注がれる。


「やっぱり、その異常な聴覚は神様の血からきてんのかな」


 烏夜から出でしその者は、奇特な風体をした青年だった。

 襟足が伸びた紫黒の髪に切れ長の濃紫の双眸。両耳には金色の耳飾り(ピアス)。さらには輪国の伝統衣装と大陸由来の軍服が折衷した珍妙な衣に身を包み、帯刀もしている。


 彼の背後には、同じ装束を纏った男性たちが控えていた。漆黒の基調も相まって、その出で立ちは桜夜がかつて在籍していた御庭番と同じ影の存在を彷彿とさせる。

 輪南弁を話す青年は端整な相貌をしているが、淡い怪光を放つ紫瞳と吊り上げられた口の端がより不気味に感じられる。


 ――しかもこの男、まったく隙がない。


 立ち姿から相当な手練れであることが窺え、桜夜は警戒心を強くする。


 ――それに、あの打刀と脇差。まさか、この男は……。


 佩刀された二刀を一瞥し、改めて青年に視線を戻すと彼は滔々(とうとう)と口説き立てた。


「噂には聞いてたけど、まさかここまで別嬪べっぴんさんやとは思わんかったわ。龍蛇の一族はみんな浮世離れした見た目してるっていうけど、桜夜ちゃんはそのなかでも別格なんとちゃう? こんな綺麗な女の子見たことないわ。お人形さんみたい」

「御託はいい。お前は誰だ。なぜ私の名を知っている」

「まあまあ、そう警戒せんといてよ」


 へらりと笑う青年にますます胡散臭さと苛立ちを覚え、桜夜は凍てついた眼光で彼を射抜く。が、当の本人は表情一つ変えずに素性を明かした。


「ボクは烏賀陽うがや伊織いおり。これでも一応、親兵局の副長なんやでー」


 聞き覚えのある単語がいくつかあり、桜夜はわずかに片眉を持ち上げる。

 烏賀陽家といえば、輪皇に仕えている二大側近家の一つだ。皇家の親戚筋にもあたる由緒正しい家柄で、文武双方において多くの優秀な人材を輩出していると聞く。


 ――要するに、この男は同業者というわけか。


 親兵局は皇族の護衛部隊にして輪皇直属の諜報機関。将軍にとってのそれが、桜夜が以前まで身を置いていた御庭番であり、同じような立場だと言えた。


「将軍お抱えの龍蛇の一族は界隈で有名やし、こっちも伊達に御上の耳と目やってるんとちゃうからな。ちなみに、桜夜ちゃんが弟君を溺愛してるのも把握済み~」


 茶目っ気に衝撃的な事実を口にする伊織に、桜夜は大きく碧眼を見開く。


「どうして蓮夜のことを……。嵐慶らんけいたちにだってまだ知られてないはずだ」

「お、やっとおもろい顔見せてくれたな。やっぱりこの手の話題は桜夜ちゃんに効果覿面(てきめん)やったか」

「質問にだけ答えろ」


 凄みをきかせる桜夜に、伊織は「はいはい」と仰々しく肩を竦める。


「今、桜夜ちゃんらは猟師のおじいさんにお世話になってるやろ?」

「……まさか」

「察しが良くて助かる。あの人、ボクの親友のお師匠さんでな。今は隠居してるけど、昔は親兵局におったんや。烏賀陽と少なからず繋がりもあって、いろいろ協力してもらってる。まあ繋がりなんかなくても、紀和の南方が烏賀陽の領域である以上、その気になれば土地の人間全員を懐柔できるけど」


 紀和は清水家ゆかりの地であると同時に、昔から烏賀陽が統治してきた土地でもある。とはいえ、まさかこんな深山幽谷にまで烏賀陽の息がかかった人間がいたとは思いもしなかった。


 ――長居は禁物。明日の夜にはここを発とうと思っていたのに。


 時機の悪さと己の浅慮に舌打ちせざるを得ない。


「……お前たちの目的は何だ」


 声を落として柄を握りしめる桜夜に、伊織は不敵な笑みを深める。


「単刀直入に言うと、キミら二人を保護しに来た」

「保護?」

「そ。嵐慶率いる幕府軍はつい先月、倒幕した。でも、嵐慶は生き残った部下や佐幕派の連中をかき集めて、沈丁花っていう反輪皇組織の首魁しゅかいになった。また輪国を自分の統治下におこうと往生際悪く戦機をうかがってるわけ」

「沈丁花……」


 かつて花川家の家紋に用いられていた花。将軍だった嵐慶の屋敷にある広大な庭園には、数多の沈丁花が咲き誇っていた。


「もっとも、その沈丁花の本拠地がどこにあるんか、まだ掴めてないんやけど」


 親兵局でさえ沈丁花の居所が掴めていないということは、おそらく御庭番の力が大きい。将軍の影は隠密に特化しているので、潜伏や情報封鎖においては群を抜く。


「で、嵐慶は央都決戦で桜夜ちゃんが死んだと思ってる。なんせ、変化したキミのお父さんがあたり一面焼け野原にしたからな。神器所有者ならともかく、一般兵で生き残ってる人はまずおらんやろ」


 龍の姿で暴乱する父が脳裏を過る。

 桜夜は花唇を噛んで、両の拳を握りしめた。


「やから、ボクらは桜夜ちゃんと蓮夜くんの存在が嵐慶に知れ渡る前に保護しようと迎えに来たんや。これは輪皇陛下の勅命でもある」

「勅命だと?」

寧子ねいこ様が桜夜ちゃんと蓮夜くんを見つけ次第、保護するようにって」


 寧子――。かの御名は現輪皇を指し示す。

 そういえば、央都決戦の最中に先代輪皇が持病の悪化により崩御し、代わりに第一皇女が即位していたはずだ。彼女は自分と年が近く、二十歳になったばかりと聞く。


 ――どうせ、私たちをいいように利用するに決まっている。


 桜夜が眉根を寄せていると、伊織がにっこりと笑んで両手を広げた。


「というわけで桜夜ちゃん。こんな陰気臭くてかなわん山から抜け出して、ボクらと一緒に央都に行こ!」

「断る」


 即答したところで、伊織は「そっか、それは残念」とわざとらしく嘆息した。


「じゃあここは大人しく撤退しますーってわけにもいかへんねよな。ほんまにボクらと来る気ないん?」

「何度も言わせるな」

「んー、そっか」


 伊織は柄に手をかけて抜刀し、切っ先を桜夜に向ける。


「しゃあない。こうなったら、強行突破するしかなさそうや」


 不吉な紫光が闇夜に閃く。

 突如として放たれた冷厳な覇気に桜夜は思わず慄いた。自然と柄を握る手も震える。


「キミらは下がっといて。ここはボク一人だけでいい」

「し、しかし……」

「相手はあの龍蛇の一族やで。キミらみたいな凡人兵には到底敵わん。あとさ、ボクを誰やと思ってんの」


 邪魔やから早く下がって。


 有無を言わさぬ声色に、背後に控えていた部下たちは畏縮して大人しく引き下がった。


 ――やはり、あの刀は神器。


 桜夜は伊織が携えている特殊な打刀を注視する。

 刀身は濡羽色、乱れ刃の刃文は仄白い。通常の打刀とは配色が正反対になっている。

 桜夜の視線に「ああ、これ?」と伊織が黒刀を掲げて見せる。


「お察しの通り、これは神器〈黒翼こくよく〉。神力は…………まあ、戦ってからのお楽しみってことで」


 またもや胡散臭い笑みを向けられ、桜夜は鼻白んだ。


「さて、龍蛇の一族のお手並み拝見や」


 伊織の声音が一段と低くなり、切れ長の紫瞳も底知れぬ闇を纏う。

 一変した彼の気迫に桜夜が改めて柄を握る手を強めた途端、伊織が勢いよく地を蹴って目にも止まらぬ速さで接近した。


 ――速い……!


 まるで瞬間移動したかのように一瞬で間合いを詰められ、桜夜が目を瞠るのも束の間、鋭利な黒刃が自身の喉元に肉薄した。

 久しく感じていなかった死という恐怖に身の毛がよだちながらも、何とか伊織の逆袈裟斬りを寸前でかわし、すぐさま体勢を整える。嫌な冷や汗が背筋を静かに伝った。


「へえ、流石の反射神経やな。ボクの一太刀かわすのは熟練の剣士でもできんで」


 余裕綽々とした笑みをたたえたまま、伊織は間断おかずに猛攻をしかけてくる。

 ぎん、と重い剣戟が闇夜の深山に幾度も冴え渡った。

 蒼白と黒漆の二刀がぎりぎりと十字になってせめぎ合う。伊織の部下たちも、その激しい攻防に息を呑んでいた。


「観念する気になった?」

「そんなわけ、ないだろう……!」


 正確な太刀筋と速度、それから少しでも気を抜けば押しつぶされてしまいそうな刀の重さに、桜夜は苦心する。

 辛くも伊織の刀を押し返し、反撃と言わんばかりに大きく一歩踏み込んだ瞬間――


「姉ちゃん!」


 家屋から稚さの残る少年の声がした。

 その場にいた全員が彼のほうへ視線を向ける。戸口の前には、困惑と焦りを隠せない蓮夜の姿があった。きっと騒ぎを聞いて心配し、様子を見に出てきてしまったのだろう。


「逃げて蓮夜!」


 桜夜が叫ぶと同時に、伊織が後方の部下たちを一瞥する。彼らは頷いて、すぐに蓮夜の捕捉に向かった。

 桜夜は舌打ちし、親兵たちを追おうとする。だが――


「〈銀旋風ぎんせんぷう〉」


 伊織が大きく〈黒翼〉を振り薙いだ。創出された白銀の旋風が桜夜の足を阻む。


「〈懸河けんが〉!」


 神技には神技で対抗するしかない。桜夜は青白い水の神力をまとった〈水牙〉をもって、神速で斬り込む。瞬きする間に強靭な風は細やかに斬り刻まれ、飛沫しぶきとともに散開した。


「ボクを無視せんといてほしいな」


 渾身の神技を相殺されたことに臆する素振りを見せず、伊織は愛刀の峰を肩に当てたまま口角を持ち上げる。


「……殺されたくなければそこをどけ」

「おお、こわ。でも、そうは言うけど桜夜ちゃん」



 人、殺せんやろ?



 濃紫の双眸が怪しく光り、濃藍の明眸が大きく揺らぐ。


「桜夜ちゃんには殺気がない」


 目に見えて動揺する桜夜に、伊織は目をすがめて続けた。


「キミの目にはまだ光がある。理性を保った人としての光が」


 桜夜は奥歯を嚙み締め、柄を握りしめる手を震わせた。


「まあ、その光が蛇女になった時、保ってられるんかは知らんけど」


 伊織は整った唇を弧に吊り上げて笑う。


 押しこめていたはずの記憶が鮮明に浮かび上がった。

 初めて蛇女になった時。それは自分が初めて人を殺した瞬間でもあった。蛇女になれば理性を失い、ただただ狂乱する異形となって虐殺する。


 体力が底をついて意識を失い、人間に戻って瞼を持ち上げた時には、屍山しざん血河けつがの惨状が広がっていた。


 憎悪と瞋恚しんいを宿した瞳でこちらを睨み据える亡者たち。少なくとも、当時の桜夜には亡者の怨恨を一身に浴びせられているように感じ、悍ましさが全身にまとわりついていた。同時に彼らが恐怖に顔を歪ませて声をあげる暇もなく絶命する瞬間が蘇ってきて、嘔吐おうとしてしまっていた。それ以来、数多の命を無作為に奪ってしまったという罪責が振るう刃を鈍らせてしまい、どうしても人である時は殺めることができなくなってしまった。


 だが、それでも人命を刈り取ろうと必死にもがくのは――

 


(雑草)すら殺せない(間引けない)御庭番は要らない』



 すべては、清水家を庇護下においてくれた花川家――その主に報いるため。

 人でありながら圧倒的な心身の強さを誇る花川嵐慶という男のしがらみから、まだ抜け出せないでいるからだ。そして――


『所詮、貴様は化け物にでもならなければ人一人殺せない腰抜けだ』

『惨めで哀れなものだ。かわいそうに』


 己を弱者として嘲笑し、侮蔑したかつての同僚たちを見返すためでもある。

 桜夜は伊織の頸動脈めがけて〈水牙〉を差し向けた。今の自分に持ち得る気力をすべて乗せて、苛烈な一刀を見舞おうとする。だが――


「ほらな。やっぱり殺せん」

「っ……!」


 〈水牙〉は自身の意に反して寸止めに留まってしまっていた。


「副長」


 呼ばれて、伊織は部下たちに片目だけ視線を寄越した。彼に続いて桜夜も目を向けると、蓮夜は親兵たちに拘束されていた。


「姉ちゃんっ!」

「蓮夜!」

「じゃあ、そういうことで」


 突如、首元に刹那の衝撃が走った。


 ――しまった……!


 自身の呻き声が鼓膜を掠めたと同時に、視界が瞬く間に暗転していく。


「ごめんやけど、ちょっとの間おねんねしといてな」


 意識がなくなるその時まで、自身に囁く伊織の声音と――


「姉ちゃん! 姉ちゃ……! ねえ……――」


 何度も必死に呼ぶ弟の叫びが木霊する。


 ――蓮、夜……。


 そこで桜夜の記憶はぷつりと途絶えた。

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