第18話 決裂の時
「佳弥」
突として降りかかった呼声に、少女は振り返る。
「額様」
「こんなところで何をしているのですか」
親兵局を囲う鬱蒼とした森林。寧子の神技によって外界から隔絶された特殊な空間に位置するここは、一か所だけ外界に繋がる『ねじれ』が存在する。佳弥の背後には岩壁があり、黄金色の小さい渦輪があった。
「あなたはいま任務中のはずですが」
弓袋を肩に下げた才色兼備の麗人が言う。自身の師匠にして姉のような存在でもある兎月額その人だ。
普段は謹厳実直で、彼女に見つめられるたびに背筋がぴんと伸びるような冷厳な面差しをしているが、今は輪をかけて険しく、他の親兵なら震え上がるような凄絶な表情を向けていた。
「申し訳ありません。お手洗いに行って戻ろうとした際、親兵の一人がここへ向かっているのを目撃しまして。沈丁花に与している内通者のこともありますし、怪しいと思い後をつけたのです」
「わざわざ〈銀跳〉を自分の部屋まで取りに行ってですか」
額の視線が佳弥の手元に寄せられる。彼女の手には弓型神器〈銀跳〉があった。
「ええ。万が一のことがあってはいけないと思い、〈銀跳〉をとってすぐにこちらへ戻ったのですが、その者はどうやらすでに外界に出てしまっていたようで。わたしとしたことが、詰めが甘かったです」
「見え透いた嘘をつくのはやめなさい」
佳弥の陳状を突っぱねるように額はぴしゃりと言い放つ。
「本当は、あなたの仲間を手引きするためにここへ来たのでしょう」
額の指摘をもってしても、佳弥の天女のような微笑みが崩れることはなかった。
「出ていった親兵をわざわざ招き入れる必要なんか――」
「そういう意味ではありません」
あなたの本当の仲間は、沈丁花でしょう?
少し強い風が木々を揺らし、ざわざわと枝葉がざわめく。
佳弥の瞳から穏やかな光が消え、たおやかな笑みも吹きつけた春風によって攫われる。
「何をおっしゃっているのですか」
透き通った玲瓏な声色もいくぶんか低くなり、険しさが増す。その反面、これまで峻厳な顔つきを維持していた額が一抹の痛嘆を滲ませて言った。
「あなたが桜夜さんと蓮夜さんの情報を密告した沈丁花の間者。そうですね?」
「わたしが? ご冗談を。証拠はどこにあるというのです」
「先ほどの親兵一人が『ねじれ』から外へ通じたという事実を証明できないのがその証拠です。それに、手塩にかけて育てた弟子が敵からいったん目を離すなんていう愚行をするはずがありません」
「…………」
冷ややかな沈黙が垂れこめ、周囲の気温がわずかに下がったような錯覚がした。
いまだかつて眼前の少女の射殺すような眼差しを見たことがなかった。脳内を席巻するのは、幼い頃から『額様』と呼んで慕ってくれた笑顔の眩しい佳弥の姿。
「どうして」
悲愴が濃くなり、沈着とした声音も乱れる。
「どうしてですか佳弥……!」
依然として佳弥は開口せず、剣呑な視線を突きつけるだけだった。
「伊織からあなたが内通者かもしれないと聞いた時はありえない、そんなことあるはずがないと反論しました。けれど、彼の憶測とあなたの過去が結びついた瞬間、そうかもしれないと思ってしまった」
一週間前、額が執務室に籠って平介の書類仕事を半分肩代わりしていた時。伊織が来訪を告げるや否や、話したいことがあるといつになく真剣な面差しで切り出してきた。
『内通者のことなんやけど、ボクは佳弥ちゃんやと思ってる』
『は?』
突拍子もない発言に額は不覚にも間の抜けた声を漏らした。だが瞬時に青筋を立てて地を這うような低声を発する。
『よくもまあぬけぬけとそのような戯言を吐けますね』
『ボクでもちゃんと冗談と本気の分別くらい弁えてるよ』
滅多に見せない真顔で言う同僚に、額は動揺の色を滲ませた。
『……佳弥が沈丁花と手を組んでいる? そんなこと、あるわけがないでしょう』
『じゃあ聞くけど、額ちゃんは内通者に目星ついてんの?』
『それは……』
言い淀む額を諭すように、伊織は滔々と続けた。
『これはあくまでボクの憶測に過ぎん。現に佳弥ちゃんが内通者っていう証拠もないし。でも、あの子以外に沈丁花側に寝返る人間が他に思いつかへん』
『言い方を変えれば、佳弥にはこちらを裏切る理由があるということですか』
『そう。ていうか、額ちゃんが一番よくわかってるんとちゃう? あの子が親兵局――皇族側に立つボクらに背を向けて将軍側に走った大義名分が』
伊織の指摘はまるで矢のように額の胸に深く突き刺さった。
『額ちゃん。しばらくは佳弥ちゃんをよく見といたほうがいい。ボクと同じように、佳弥ちゃんもずっと蓮夜くんの傍におるわけとちゃうから。ちょっとでも蓮夜くんから離れる時があればすぐ後つけれるようにしといて』
裏で沈丁花側とやり取りしてるかもしれんから。
「……やはり、宗芭様の一件が原因ですか」
額の重々しい問いかけに、佳弥は肯定ともとれる沈黙を貫いた。
宗芭は寧子の一つ年下の弟で第三皇子だ。兄弟のなかでもとりわけ好色家であることで有名で、気に入った公家の令嬢たちに手あたり次第声をかけては関係を迫る不貞な人物だった。佳弥もまた宗芭の目に留まった不憫な少女の一人。
「四か月前に行われた寧子様の即位祝賀会。当時あなたはまだ親兵ではありませんでしたから、望月家の令嬢として出席していましたね。いま思えば、あれがあなたの人生を狂わせたきっかけだったのでしょう」
祝賀会には二大側近家と三眷族、それから政財界の貴賓たちが列席した。当然、皇族もその尊顔を公に見せ、宗芭は天香桂花の少女に心奪われた。
それからが佳弥にとっての悪夢の始まりだった。宗芭は佳弥に近づいては執拗に求婚し、彼女を我が物にせんと躍起になった。佳弥は彼の想いに応えず距離をおくようにしていたが、ある日、強引に皇宮へ連れ去られた。果ては悪辣な皇子が彼女に破瓜の血と恐怖の涙を流させた。
清純な体を穢されたことで佳弥は精神を病み、実家の望月家に引き籠るようになった。だが、望月家当主にして彼女の父親でもある男は兎月家に取って代われるほどの家勢をつけるため、娘が皇族に見初められたことを利用し、佳弥の輿入れを強引に推し進めた。
佳弥はそれを知って以来、一か月間行方をくらませた。一方、宗芭は謹慎処分を受けて皇宮からの出入りを禁じられた。おそらく佳弥はその空白期間に沈丁花と接触し、嵐慶の麾下となっていたのだろう。
「あなたがひどく傷ついていた時に傍にいてあげられなかったことは、悔やんでも悔やみきれません。本当に申し訳なく思っています」
額が一連の経緯を知ったのは、佳弥が失踪してから二日が経った時だった。
当時から額は副長の業務に忙殺されており、佳弥とは一か月に一度くらいしか顔を合わせていなかった。
自身の与かり知らぬところで掌中の珠が傷つけられていたこと、そして誰かに縋ることすらできない孤独を味わわせてしまったことに深い悔恨を覚え、苛まれた。
自責の念を抱えながらも、額は佳弥を必死に探し続けた。親兵局を離れ、佳弥の捜索に集中したが、彼女が輪西にある兎月本家を訪れるまで見つけられずにいた。
「本家に来たのも、私経由で親兵局に潜入するためだったのですね」
「そうです。でも――」
一度言いかけた言葉を呑みこんで、佳弥は自嘲しながら本心を吐露した。
「額様に会いたいという気持ちもあったから……」
額は目を見開き、息を呑んだ。
額の生家にある広々とした弓道場で、一日に何百という矢を番えては弓弦を引いた。弓懸が擦り切れ、的もぼろぼろになって砕け散るまで。
弓術や神器の扱いが上達していくたびに、敬愛する師はたくさん賞賛してくれた。それが嬉しくてたまらず、だからこそ佳弥は厳しい修練を乗り越えることができた。
ああ、あの日々に戻りたい。もう一度、額と一緒に弓を引きたい。
額に……会いたい。
「額様は何も持たないわたしにすべてを与えてくださった。わたしの心に彩りをもたらしてくれました。本当に感謝しています」
「佳弥……」
「だからこそ、わたしはあなた様に矢を向けたくはないのです」
雪肌の繊手がこちらへ差し伸べられる。
「額様。わたしと一緒に来てください」
額は唇を引き結ぶ。
「嵐慶様は仕えるに値するお方です。少々、横暴なところもありますが、あの方に気に入られればそれなりに良い待遇が受けられます」
「佳弥……!」
「権力を振りかざして人を玩具のように弄ぶ暗愚な連中とはわけが違います」
「確かに宗芭様があなたにしたことは決して許されるものではありません。ですが、皇家のすべてが悪ではない。少なくとも、この国を背負い、導いておられる寧子様は違うでしょう」
「そうですね。親兵局も、あのお方だけをお支えする至上の奉仕精神を持っていれば良かったのに。最初に神に選ばれた人間の血族というだけで、連中の矛と盾であらねばならない奴隷はもううんざりです」
凄みをきかせるかの少女は、とても痛ましかった。
「あなた様のいるべき場所はここではない」
だから、この箱庭から一緒に逃げましょう。
最後に彼女は屈託のない笑みを浮かべて額の心を誘った。
幼い頃から慕ってくれている彼女の、花が綻ぶような愛らしい微笑。だが、いつもと違うのは今にも泣きそうな哀愁が滲んでいることだった。
佳弥の声にならない痛嘆がひしひしと伝わり、額は思わずその手を掴みとろうとした。しかし、己に残っていた理性が揺らいだ意思を押しとどめる。
「……私の居場所はここです」
手を下ろし、自分に言い聞かせるように断言する。
「私が生涯お仕えすると誓ったお方を、互いの背を預け、切磋琢磨し合ってきた仲間たちを裏切り、見捨てるわけにはいきません。だからこそ――」
額は弓袋から神器〈白飛〉を取り出し、白亜の神弓を携える。そのまま弦を引くと同時に真白の矢が出現し、番えられた。
「弟子がこれ以上違えた道を歩まぬよう、師として責任をもってあなたを正道に戻す」
敬慕する師に氷矢を向けられ、佳弥に残っていたわずかな希望は儚く散った。
柔和で温かな笑みは冷徹とした瞋恚の闇に呑みこまれ、少女の敵愾心を突き動かす。
「残念です」
佳弥もまた〈銀跳〉を手中に収めた。
「額様なら、わたしの気持ちをわかってくれると……そう信じていたのに」
結局わたしは、いつまでたっても孤独の闇路からは抜け出せない。
小さな痛哭が森林に残響するや否や、佳弥は弓弦を強く打ち鳴らした。その瞬間、立つことすらままならないような猛吹雪が強襲する。
「くっ!」
荒れ狂う白魔が礫のごとく己の肌を打擲し、体温を奪う。額はすぐさま矢を消滅させて自身も鳴弦した。
ぱぁん、と破魔の弦音が冴えわたると同時に分厚い氷壁が地面から出現した。これで一時的に吹雪を凌げるが、肝心の佳弥が見えず射当てることができない。
――まずは佳弥を逃がさないようにしなければ。
「〈氷条網〉」
額は深緑の天蓋に向かって一射する。
〈氷〉の神力を帯びた神矢が純白の軌道を描いては天蓋を穿ち、やがて鏃が弾ける。すると格子状の氷網が蜘蛛の糸のように広がって佳弥がいるところへと落ちていく。
通常の氷で〈氷条網〉のような細長い形質であれば、小さな衝撃でいとも簡単に砕け散ってしまうが、神力で創成された特殊なそれは強度が高いうえに軟性に長けている。ゆえにそう簡単に突破されはしない……はずだった。
氷網がどこからともなく咲いた薊の群叢に打ち砕かれた。硝子が割れるような鏗然とした余韻が鼓膜を揺さぶる。
薊の棘はもともと鋭いが、額の神技を打ち破った特異な薊は茎や棘が太くて鋭く、まるで針のように尖鋭だった。
「神技⁉ まさか……」
明らかに佳弥の神技ではない。それにこちらの神技をあっさりと無効化した強大な神力を放出できる者などそうそういない。
最悪の事態が脳裏を過った瞬間、額は即座に三本の矢を番えて氷壁越しに射る。
厚氷は撃ち抜かれ、その衝撃で崩壊した。視界が広がったのも束の間、佳弥の両端に見知らぬ者たちの姿を視認する。右方は般若の面をつけた剣士で、左方は自身の丈より大きい灰黒の槌を携えた作務衣姿の女性だった。小柄ゆえに女性というより少女に見える。
――氷壁で見えない間に『ねじれ』を使って仲間を連れてきたのね。
『ねじれ』は親兵局の人間しか通さない。だが、対象の人間の手を握ったりして繋がることで一般人も出入りすることは可能だ。あらかじめ『ねじれ』の出口に仲間を待たせ、佳弥が彼女たちの手を掴んでこちらの空間に引き入れたのだろう。
般若面の剣士は手にしていた赤緑の打刀を振るい、三矢を叩き斬った。空を裂く凍てついた氷矢を瞬息の間に斬り伏せたその超絶剣技は、伊織に勝るとも劣らない。
額が唖然としていたその時、かの者が間合いを詰めて薄紅の刃を差し向ける。
速いと驚く暇さえ与えずに額の首筋に凶刃が肉薄した刹那、ぎん、と刀身が交差した。
「あっぶな。間一髪やったわ」
「伊織!」