第16話 深淵からの目覚め
最後に見たのは、低い唸り声をあげながら深淵に溶けこむようにして消えていく赤黒の龍蛇だった。その時、桜夜はすべてを悟って脱力した。ああ、時間が来てしまったのだと。また、あの邪神を討ち果たすことができなかったのだと己の無力さを嘆いた。
火花弾ける気魂の戦が終わりを告げると同時に、沸々と煮え滾る瞋恚の淵底が中心から白光する。その炫耀は桜夜の目をくらませ、やがて現実世界へと引き戻した。
――眩しい……。
再度、眉間に皺を寄せて桜夜はゆっくりと花瞼を持ち上げる。
ぼやけた視界がだんだんと鮮明になっていき、最初にとらえたのは白亜の天井からつるされた室内灯だった。既視感のある風景だと思ったが、どうやらここは桜夜の自室らしい。
「姉ちゃん!」
耳によく馴染んだ声が耳朶を打った。
目線を声が聞こえた右側に移すと、安堵の色を浮かべた蓮夜の姿があった。彼の隣には佳弥が気品よく佇んでおり、それから額もこちらの顔を覗きこんでいる。
「お。思ってたよりも目ぇ覚めるの早いな」
次いで聞き慣れてしまったことに薄っすらと嫌悪感を覚える声音が飛びこんでくる。
声の主は蓮夜たちとは反対側におり、壁に背を預けて腕を組んでいた。
「気分はどう? どっかしんどいとことかある?」
伊織がこちらへ歩み寄りながら問うてきたので、桜夜は「問題ない」と端的に返した。
「私はいつまで眠っていた?」
「ざっと一時間くらいかな。いつもこんな感じなん?」
「ああ。大体一、二時間程度で意識が戻る」
「ふうん。邪神の意思とはいえ、あんだけ激しく動いといて一、二時間で体力が戻るってめっちゃ燃費ええやん。羨ましい限りやわ」
「そう言う割にはお前も蛇女を相手にしておいてまったく疲労が見えていないが」
「いやいや、流石のボクもさっきまで椅子に座って休ませてもらってたんやで。久々やわ、一回手合わせしただけであんなに疲れたの」
仰々しく溜息をついては肩を叩く伊織だが、実際彼は訓練前と同じ顔色でぴんぴんしていた。
――この男の辞書に疲弊や限界という言葉は載っているのだろうか。
計り知れない伊織の潜在能力に一抹の畏怖の念を抱いていると、はきはきとした玲瓏な音が室内に響いた。
「何はともあれ、これからは特殊な修練に打ちこむ場合は前もって私たちに知らせてください。今回は運よく他の局員が修練場に来なかったから良かったものの、もしあなたたちの修練を認知していない局員がふらりと現れでもしたら、首の一つや二つ飛んでいてもおかしくなかったんですから」
柳眉をわずかに逆立て、普段より厳しい面様で注意する額に伊織は「はーい。すみませんでしたー」と幼稚な返答を投げつける。案の定、額はさらに剣呑な眼差しになって同僚を睨み据えた。
「元はと言えば、お前がさっき私の執務室を訪れた際に言わなかったのが悪いんです。桜夜さんをいきなり副長助勤に任命したことも身勝手が過ぎます」
「まあ、あの時は例の件で頭いっぱいでそれどころじゃなかったし? 副長助勤の選任も平さんや額ちゃんの許可もらう必要ないし、副長本人に一任されてるから別にええやん」
「確かにそうですが、せめて事前に自分の意思くらいは伝えておくべきでしょう。私が佳弥を任命したい旨を局長とお前にあらかじめ知らせたように」
「ボク、額ちゃんと違って優等生ちゃうんでー。報連相とか難しくてできませーん」
「劣等生のお前は他人を煽ることしかできないのですね。その低能ぶりは一周回って感心します」
「お、喧嘩売ってる?」
「お前が先に売ってきたんでしょう」
この二人が同じ場にいると、いがみ合うのは必然。
もはやお約束となった口論に桜夜は小さく嘆息した。蓮夜はどうしようと両者間で視線を往復させている。
水と油の二人を同じ立ち位置にさせたこと自体、間違っていたのでは。
仲裁する気すら湧かずに桜夜がそう思っていた時――
「伊織さん」
これまで静観していた佳弥がなぜか伊織を呼んだ。
不毛な言い争いもぴたりと制止し、二人のみならず桜夜と蓮夜も佳弥のほうを向く。
「先ほどおっしゃっていた例の件とは何なのでしょうか?」
額と会話した内容の詳細について尋ねる佳弥に、「あー」と伊織は虚空を見つめながら答える。
「それはボクら副長同士の秘密。な、額ちゃん」
「……ええ」
額は視線を伏せて低く首肯した。厳格な顔つきが一転、冴ゆる月光を雲影が遮るかのように暗澹とした面差しになっている。
額の表情も含め、秘密と言われれば余計に気になってしまうのが人の性だ。佳弥と姉弟の三人が小首を傾げていると、伊織が桜夜を見やる。
「そういえば桜夜ちゃん、組紐結ばんでいいん? 一応、あの後拾ってそこの机に置いてるんやけど」
伊織は話題を変えて部屋の中央にある机を指さす。特殊な糸で編みこまれた紺色の繋縛が丁寧にまとめられていた。
「ああ、蛇女は一度発動したら数時間は目覚めないから、すぐに組紐で縛る必要はない。とはいえなるべく早めにつけておくのに越したことはないな」
桜夜が寝台から降りようとしたところを伊織が制止し、代わりに組紐を取ってきてくれた。組紐が桜夜の手に移り、謝意を述べて髪をまとめる。
「髪おろしてた桜夜ちゃんも可愛かったのに」
残念そうに呟く伊織に呆れ顔で一瞥していると、当の本人は両手を叩いて溌剌と言う。
「さて。桜夜ちゃんも起きたことやし、みんなで夜ご飯食べにいこか! もうお腹空いてかなわんわ」
窓を覆う紗幕越しからは静謐な夜天が見えた。戦いに明け暮れた怒涛の一日が終わり、世界は明くる日に備えて眠りにつこうとしている。
「今、何時だ?」
「七時やで。やから早く食堂行こう」
扉へと足を進める伊織に、桜夜と額はやれやれと言わんばかりに彼の背を追い、蓮夜と佳弥は互いに微笑み合って最後に部屋を後にした。