第14話 血に巣食う邪神
清冽な碧瞳の奥深く――。もはや暗黒といっても遜色ない濃藍の深淵には、桜夜と己の体を意のままに操っている龍蛇が対峙していた。
焼き焦げたような赤黒の体躯は大人の三倍くらいの丈があり、真紅の双眸はまるで血が滲んでいるようだった。吐き出す吐息は抑えきれない怒りに震え、業火を帯びている。対して桜夜は〈水牙〉を手中に収め、今にも斬りかからんとする鋭い眼光で邪神を睥睨していた。
「今日こそ私の体を明け渡してもらう」
その言葉を拒絶するかのように、邪神は凄絶な咆哮を轟かせながら桜夜に襲いかかる。
桜夜の血に棲みついている先祖――かつては紀和の水神だった龍蛇神は、蛇女になると意識世界のなかで邪神の姿のまま桜夜の前に立ちはだかる。かの邪神を倒さない限り、桜夜は自由を手にすることができない。
「この体はお前のものではない」
私のものだ。
語気を強めて言った時にはすでに、邪神の牙が目と鼻の先に迫っていた。
桜夜が己の牙をもって迎撃すると、鈍い衝撃音が虚無の深淵に冴え渡る。
真紅と水縹。業火と清水の牙が交わるたびに、対極する二色の閃光が鮮やかに弾けた。
これまでも何百回と抗戦してきたが、一度も邪神を斬り伏せられたことはない。膠着状態が続いた後に時間が尽きては深淵から追い出されてしまう。
――伊織を巻きこんでいる以上、早く決着をつけなければ。
まずは自身の身体能力を底上げする。
「〈滝つ瀬・鯉遊泳〉」
邪神を翻弄するように、桜夜は流麗な河川に乗って速度を上昇させる。開戦時より二倍以上の速力を得たところで、
「〈懸河〉」
濃藍の深淵そのものを斬り裂くかの如く、白群の一閃が駆ける。
邪神の首に〈水牙〉が噛みつこうとしたところで、左の脇腹に重い衝撃が走った。
転瞬、視界が激しく揺れ動くと同時に勢いよく弾き飛ばされる。
ひゅっと細くて鋭い風切り音が耳朶を打つ。同時に深淵の黒壁に叩きつけられ、桜夜はうつ伏せになって倒れた。愛刀も手から零れ落ち、からんと薄弱とした悲鳴をあげる。
鞭で打擲されたようなひりつく激痛。そこでようやく自分が邪神の尾で叩きつけられたのだと理解した。
瞬きする間の奇襲を許してしまったことを悔やみつつ、歯を食いしばって身を起こそうとする。が、受け身をとれなかったせいで視界が明滅し、おまけに耳鳴りもして思うように体を動かせなかった。
「くっ……!」
だが、暴乱する邪神は立ち上がる猶予さえ与えずに強靭な顎を肉薄させる。
咄嗟に〈水牙〉を拾い上げて横一閃。繰り出された〈打水〉は大きく開かれた邪神の口内に的中し、痛苦の叫号を轟かせた。
眩暈や耳鳴りが治まったところで、今が好機だと桜夜はその場で大きく跳躍した。
強堅な鱗に覆われた太い首に狙いを定め、〈水牙〉に全身全霊の一撃をこめる。しかし、天敵とて追撃を許すほどそう甘くはない。凄まじい再生速度で元通りになった顎をこちらに向けるや否や、猛々しい業火を吹きかけてきた。
「ちっ!」
即座にいつもより分厚い〈泡沫〉を創成して自身を包み、防御の体勢をとる。
濃縮された神力の水壁は赤々とした息吹を吸収し、白煙として昇華した。火は水に弱いという当たり前の原則だが、これが神水ではなく何の変哲もないただの水であったならば、呆気なく水蒸気と化して桜夜は業火に焼かれていただろう。
桜夜はそのまま〈泡沫〉の神水で無数の〈水蛇〉を形作り、邪神に差し向けた。己よりも一回り小さい〈水蛇〉に群がられ、邪神は苛立ちを募らせては強靭な尾を振り回し、暴怒の火を放つ。
邪神の意識が自身から逸れている間に桜夜は着地し、次なる一手をどうするか思案を巡らせた。
――このままだとまた時間切れになってしまう。
錬成神技で強化した身体能力をもってしても、邪神を追い越すことができない。
――私に足りないものは何だ。
熟考しているのも束の間、邪神が〈水蛇〉をすべて薙ぎ払ってこちらに猛進した。もう何百回と見てきた光景だ。
――父上、私はどうすれば……。
終わりなき須臾の戦。この荒御魂を鎮める良策はわずかな時間では思い浮かばず、桜夜は歯噛みしながら赤黒の龍蛇を迎え撃つしかなかった。
――どんぐらい時間経ったかな。
現実でも拮抗が続き、伊織はひたすら蛇女の苛烈な体術や神技を捌いては反撃に出るを繰り返していた。
蛇女の速度や攻撃の型はある程度掴めた。最初の時より圧倒されることはなくなったが、ひとたび気を抜いてしまえば確実に死が待っていることに変わりはない。
蛇女が死そのもの。自分はいま生死の境界に立たされているのだと、伊織はかすかにあがった息を整えつつ愉悦の微笑をたたえた。
――こんなに熱くなるんは平さんとの手合わせ以来やな。
局長である千手平介と修練した時も、同じように気分が高揚していた。
己が追いこまれれば追いこまれるほど、最強の名を冠する剣士としての血が滾り、つい笑みが零れる。だが、勘違いしてはならない。これは桜夜が呪縛を克服するための訓練であって、彼女自身、本当は蛇女になることすら憚っているのだ。こちらが悦に浸っているいまこの時も、彼女は己の人格を蝕む邪悪な神と戦っている。
「桜夜ちゃん」
神妙な面差しに切り替えて、静謐な光を宿した紫瞳で黒蛇の娘をとらえる。
「そんな怖い顔でぎゃーぎゃー喚くのは、キミの趣味とちゃうやろ」
その清廉かつ揺るぎない意志で、宿怨渦巻く神の激情を穿て。
「自分を乗っ取ろうとする野蛮な悪神なんか早くやっつけてしまえ」
仄白い乱刃が煌めく。
ぎん、と鉄同士がぶつかり合うような鈍い残響がこだました。叱咤の一刀が蛇女の鱗を裂き、皮下の血肉を断とうとした瞬間――蛇女の細い瞳孔が大きく見開かれた。
「ア……」
か細い音吐を発したかと思えば、蛇女はまるでぷつりと糸が切れたように双眼を閉ざし、その場に頽れた。
「おっと」
伊織は咄嗟に気絶した蛇女を抱える。
闇が霧散するかのように、漆黒の髪が瑞々しい本来の色に塗り替えられていく。硬質な蛇鱗も消失し、伊織の腕のなかには桜の名を冠した清麗な少女が規則正しい寝息を立てていた。
「時間切れか」
遺憾を帯びた吐息には、一抹の安堵も混ざっていた。
「まあ、何事も一朝一夕ではできんよな」
愛刀を鞘に納め、伊織は桜夜を抱え上げて局舎へと歩を進める。
「これはボクもええ修行になりそうや」