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龍蛇ノ双紙  作者: 海山 紺
第三段
13/30

第13話 蛇女

 伊織に言われた通り、桜夜は一階に下りて局舎を出る。空は夕焼けに染まり、太陽もまもなく眠りにつこうとしていた。

 右方に顔を向けると、確かに広大な修練場があった。すでに何人かの親兵たちが集まって模擬戦をしている。


 ――人払いをしないと。


 彼らが伊織に匹敵するほどの実力を有していれば、この場に留まってもらっても構わないのだが、いくら輪皇直属の護衛部隊とはいえ職位を持たぬ一兵卒に過ぎないとなると、命の保証はできない。


 桜夜が修練場に足を踏み入れると、親兵たちが武器を振るう手を止めてこちらに振り向いた。

 警戒をはらんだ冷ややかな視線。明らかに歓迎されていない様子に、桜夜は小さく息をついた。


 つい最近まで、自分は佐幕派――親兵たちにとっての大敵だったのだ。そんな大敵が輪皇派に寝返ってのこのこと入局してきたのだから、疑心暗鬼になるのも仕方がない。そのうえ異形の血を引く未知なる脅威に警戒心を抱くのは自然の摂理と言える。


 ――増長さんたち第三部隊の人たちが特殊だっただけだ。


 寧子の意向で保護された立場であることは彼らも承知しているだろうが、やはりそう簡単に疑念を拭い去ることはできない。

 冷遇。それこそが桜夜が真に直面すべき孤独な壁だった。


「龍蛇の一族ともあろうお方が、我々に何かご用でしょうか」


 一人の男性親兵が皮肉を含ませて問いかけてくる。が、桜夜は泰然としたまま答えた。


「これから烏賀陽……副長と一緒に訓練をすることになっている。申し訳ないが、ここをしばらくの間貸し切りにしてもらえないだろうか」

「訓練?」

「私が蛇女になっても理性を保てるようにする訓練だ」

「蛇女……。ああ、これから人殺しの化け物になるからお前たちは安全な場所に避難していろと」


 化け物。あけすけな悪意ある物言いに桜夜は眉を顰めた。


「ずいぶんとまあ傲慢ですね。あなたの言うことは、お前たちは弱すぎて私には敵わないから疾く去ねと脅しているようなものですよ」

「そんなつもりで言ったのでは――」

「舐めないでいただきたい」


 桜夜の言葉を遮って、男性親兵は怒気を滲ませて強く言った。


「暗愚な将軍に飼い慣らされた化け物め。おれたちを見くびるなよ」


 あからさまな蔑称が鋭利な刃の如く己の胸を突き刺す。

 蔑まれるたびに言い返したくなる。自分は望んで化け物などと呼ばれるような存在に生まれたのではないと。だが、生まれを嘆いたところで他者の考えや己の立場が変わるわけではない。余計に虚しさや惨めな思いが募るだけだ。

 男性親兵を筆頭に、他の親兵たちも鋭利なものを桜夜に向け始めた。


「何を……」

「俺たちが化け物如きに温情を向けられるほど、柔じゃないってことを証明してやる」


 さあ、本性を見せてみろ。


 迫りくる親兵たちに、桜夜は唇を噛んだ。


 ――内輪揉めしている場合ではないというのに……!


 言葉での説得はおそらく不可能。となれば、〈水牙〉で強制的に眠らせるしかない。

 桜夜が〈水牙〉を創成しようとしたところで、


「ボクのだーいじな副長助勤にそんな物騒なもの向けんといてくれる?」


 飄々とした、それでいて甘美な低声が耳朶を震わせた。同時に大きくてしなやかな手が自身の肩に添えられ、桜夜は咄嗟に見上げた。


「伊織……!」

「お待たせ。修行始めよか」


 見目麗しい紫黒の青年はあっけらかんと言い、親兵たちの間を通り抜けて修練場の中央へと移動する。


「烏賀陽副長! この女が副長助勤とはどういうことですか⁉」


 男性親兵の問いかけは少なからず桜夜自身も同感した。

 職位を与えられた記憶はないし、そもそも副長助勤になることを事前に聞いていたわけでもない。


「いまボクが桜夜ちゃんを副長助勤に選んだ」

「はい⁉」


 男性親兵は目を剥いて、いまだ腑に落ちていない様相を浮かべている。確かに伊織の返答はあまりに突拍子もないもので、桜夜もわけがわからず唖然とするほかなかった。


「ほら、桜夜ちゃんやるで」

「いや、だが……」


 何食わぬ顔で催促してくる伊織に、桜夜は口ごもる。


「いくらあなたが副長助勤に据えたとはいえ、この者が我々に仇なす可能性が完全に消えたわけではありません。万が一のことがあっては遅い。不穏分子は今すぐにでも排除しておかなければ」

「ボクはおろかキミらの隊長の足元にも及ばんくせに、何を一丁前に排除とかふざけたこと吐かしてんの?」


 冷暗な眼差しと一段と低くなった声音に、親兵たちは思わず肩を震わせた。


「局内での内輪揉めはご法度やって、入局した時にゆわれんかった?」

「ですがっ――」


 反駁しようとした男性親兵を凄絶な眼光が射抜く。

まるで喉元に鋭利なものを突きつけられているかのような緊迫した気色に、男性親兵は唇を震わせて思わず頽れてしまった。


「キミらがしようとしたことは寧子様――輪皇陛下のご意思に背く行為や。局長と寧子様にこのことゆったら、どうなることやら」


 嗜虐じみた笑みをたたえる伊織に、親兵たちの表情が瞬く間に青ざめていく。そのまま這う這うの体で退散していった。


「まったく。誰や、あんな聞きわけの悪いガキを入局させたんは」

「お前じゃないのか」

「冗談。そもそもボク、選抜試験に一切関わってないし」

「選抜試験?」

「親兵局に入局するには、まず選抜試験に合格せなあかんねん」

「私はそれを受けていないが」

「桜夜ちゃんは特別。寧子様が直々に入局許可したから。まあ、仮に試験を受けたとしても桜夜ちゃんは余裕で受かってたよ。蛇女なしの状態で隊長クラスやから」

「今の私では副長には及ばないと?」

「うーん、ボクにはまだまだ敵わんと思うけど、額ちゃんなら追い越せるんとちゃう?」


 この場に額がいたら伊織を問答無用で射殺そうとしていただろう。

 相変わらず彼女の神経を逆撫でするような発言に顰蹙しつつ、桜夜は先ほどの疑問を投げかける。


「私が副長助勤ってどういうことだ。そもそも助勤という職位はどういうものなんだ」

「文字通りの職位やよ。いわば、副長の補佐役。助勤は副長が直々に任命してて、額ちゃんは佳弥ちゃんを傍においてる。隊長と同じ立ち位置やと思っといてくれたら」

「そんな重要な役職になぜ私を」

「桜夜ちゃんは今のところどこの部隊にも所属してへんし、かといって単なる一兵卒として扱っていい存在じゃない。それでボクの助勤の枠が空いてたから、ちょうどええかなーって。ちなみにこれ、拒否権ないから」


 よりによってなぜこの男の補佐をしなければならないのか。桜夜があからさまに辟易する様に、伊織はくつくつと喉を鳴らしながら続ける。


「これで桜夜ちゃんは正式にボクの部下ってわけ。……そんな嫌そうな顔せんでもええやん。傷つくわあ」

「お前が上の立場にいるからといって、これからの態度を改めるわけではないからな」

「うん。もちろんそれでええよ。むしろタメでつんけんしてる桜夜ちゃんのほうがボク好みやし。……そんな汚物を見るような目ぇ向けんでも」

「与太話はここまでだ。やるぞ」

「はーい」


 伊織は漆黒の片翼を引き抜きながら問う。


「最初に聞いときたいんやけど、蛇女が発動する条件って何なん?」

「一つはいま身に着けている組紐を切ることだ。これには神力の暴走を抑えるためのまじないがこめられている。これがなければ私は常に暴乱する異形のままだ。とはいえ、蛇女は三十分ほどしかもたないが」

「三十分超えたら体力がつきて気絶するってこと?」

「ああ。あとは誰かに裏切られること」

「裏切り……」

「私たちの先祖である龍蛇神はその昔、好いた人間の男に裏切られて怒り狂い、邪神となった。その憎悪と暴怒に滲んだ神血が私たちの身に流れている以上、裏切りに遭えば龍蛇神の記憶と結びついて組紐の縛りに関係なく蛇女と化す」

「好いた男に裏切られて、ねえ。桜夜ちゃんらの先祖って女神様やったんや」

「ああ。人間の男との間に子を設けたあと、男は龍蛇神の前から忽然と姿を消し、人間の女と一緒になっていたそうだ」

「嫉妬の情念ってやつか。女のそれほど恐ろしいもんはないからなあ」


 伊織は肩を竦め、「おっけー、わかった」と打刀の峰を肩に乗せる。


「で、蛇女になっても理性を保てるようにするにはどうしたらええん?」

「蛇女になれば暴走する神血に自我が吞みこまれて、感情の制御ができなくなる。だから、神血に己を支配されないよう自我を強くする必要がある。……こればかりは、私自身の力で何とかするしかない」

「ふーん、そっか。じゃあ、ボクは桜夜ちゃんが神血に抗って見事勝利するまで相手したらええんやな」

「いざという時は私をすぐに気絶させろ。そうすれば蛇女の状態はすぐに解ける」

「りょうかーい」


 伊織は愛刀の穂先を桜夜に向ける。


「こっちはもう準備万端やから、いつでも組紐解いてくれていいよ」

「いや、準備万端じゃない」

「え?」

「脇差も抜け。お前は二刀流――〈無双〉の使い手だろう」


 伊織は目を瞬いてからにやりと口の端を吊り上げる。


「やっぱり、桜夜ちゃんにはお見通しやったか。いつから?」


 桜夜は彼と初めて出会った暗夜のことを回顧しながら答えた。


「お前と初めて会った時には大体の想像がついていた。打刀だけならまだしも、脇差も神力を帯びているということは、〈黒翼〉は二つで一つの神器ということ。一対の神器は珍しいからな。だとすればお前は二刀流で、打刀と脇差の組み合わせともなると〈無双〉を会得している可能性が極めて高い」

「ご明察。さすが桜夜ちゃん、頭がきれる。じゃあ、ボクの正体にも見当がついてるよな?」

「宮原家の生き残り。そうだろう」

「そうそう」

「だが、宮原一門は十四年前の火災で一人残らず焼死し、一門は絶えたはずだ」

「でも、現にこうして一人生き残ってる」

「なぜ……」

「桜夜ちゃんが蛇女を制御できるようになったら教えてあげる」


 茶目っ気を含ませながら片目を閉じ、伊織は脇差も携える。その佇まいは洗練されており、桜夜は不本意ながら彼の立ち姿が美しいとさえ思った。


「これでええ?」

「ああ。本気でやらないとお前は死ぬだろうから」


 暗澹としていた心中を切り替えて、桜夜はいま一度背筋をぴんと伸ばす。


「それだけ蛇女の桜夜ちゃんは強いってことか。楽しみやな」

「蛇女との戦いを前に笑えるのはお前くらいだ」


 軽口を叩いたところで、桜夜は組紐に触れた。


「これからお前の目に映るのは『清水桜夜』ではない。名を持たぬただの異形だ。だから私を傷つけてはいけないなどと思うな」

「えー、でも――」

「四肢を斬ったところで容易く再生する。いざという時は躊躇いなく斬れ」

「ボクはどっかの誰かさんと違って女の子を痛めつける趣味はないんで」


 頑なに拒む伊織に桜夜は頬を緩め、すぐに表情を引き締めた。


「あとは頼む」

「ばっちこーい!」


 紺色の呪縛が解けては地に舞い落ち、正絹の如き水縹の長髪もはらりとそよぐ。

 すると、髪はどんどん黒く染まっていき、蛇のようにうねり始めた。目の瞳孔も細くなり、頬や首回り、それから手の甲も蛇の鱗で覆われて鋭く尖った犬歯も剥き出しになる。


「これは……すごいな」


 口の端が引きつり、一筋の冷や汗がこめかみを伝った。


「蛇に睨まれた蛙のようとはよくゆったもんや」


 蛇女の口元からは蛇特有の長舌が伸縮し、威嚇音を発している。

 目を覚ました邪神はまさに妖姫の形容が似合う、想像を絶するほどの鬼気と妖艶さに満ちあふれていた。


「黒髪の桜夜ちゃんもええな」


 その引きつった笑みには隠し切れない畏怖の色があらわれていた。今この瞬間、初めて烏賀陽伊織は戦慄していた。


 一瞬の隙や油断が命取りになることを肌で感じていると、蛇女は金切り声に近い鼓膜をつんざく雄叫びをあげながら急接近した。

 研ぎ澄まされた鋭利な爪が肉薄する。伊織は辛うじて避け、〈黒翼〉を振り薙ぐ。

 手始めに放出神技の〈風切羽〉を差し向けるも、すべて並々ならぬ速度でかわされてしまった。


「はっや……!」


 文字通りの神速。目で追えず、思うように狙いが定まらない。


 ――まずはあの速さに慣れなあかんな。


 伊織が蛇女の動向を注視していると、彼女は手元に大人の頭くらいの大きさはある水玉を創成し、伊織めがけて投げつけた。そのうえ二発、三発と間断おかずに濃密な神力の塊を放ってくる。

 伊織がすべて斬り刻んだ刹那、蛇女が間合いを詰めて再び尖鋭の爪を突き出した。すんでのところでそれを回避するも、絶え間ない猛攻に臆した生存本能が魔の手を斬り落とさんと無遠慮な一太刀を振るう。


「やばっ――」


 己の意思に反して片翼が白皙の腕めがけて一閃する。骨身を両断する生々しい感触が柄から伝播した。


 ――ごめん、桜夜ちゃん。


 伊織が苦渋の面差しになると同時に、華奢な右腕がぼとりと地に落ちた。が、しかし傷口から溢れ出る鮮血がまるで意思をもった流水のように躍動し、やがて骨と筋肉を構成した。たちまち元の白皙を取り戻し、まるで斬られる前に時間が戻ったかのようだった。


「嘘やろ」


 凄まじい再生速度に驚愕しつつも心のなかで安堵する伊織に、蛇女は喚声とともに手刀を放つ。


「確かにこれは、本気出さへんとお陀仏やわ!」


 戦闘において久方ぶりに必死になっている伊織は、〈黒翼〉で素早くも苛烈な刺突を捌いていく。


「いま桜夜ちゃんも必死に自分のなかの『神様』と戦ってるんやろか」

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