第11話 束の間の安息
「姉ちゃん、大丈夫かなあ」
局寮にある自室で、蓮夜は小さく嘆息した。
「桜夜様が心配ですか?」
茶菓子が乗った皿を机に置きながら、佳弥はたおやかな微笑で蓮夜に問いかける。
桜夜たちが沈丁花の拠点を制圧し、局舎に戻っている頃。蓮夜は机の上にある花瓶に生けられた白い躑躅の花を手慰みながら物思いにふけっていた。
「だって、沈丁花にはものすごく強い人たちがたくさんいて、もしかしたら姉ちゃんが行ったところにもその人たちがいるかもしれないし……。それに、昨日今日で初めて会った人たちと一緒に戦ってるんだもん。いろいろと心配になるよ」
「そうですね。でも、親兵局――それも隊長格の方々はみな腕利きですから、杞憂に終わると思いますよ。桜夜様のお傍についている伊織様は少々個性的ではありますが、副長を務めていらっしゃるだけあって、いざという時は頼りになる方です」
「そっか。佳弥さんがそういうんだったら安心できる」
「蓮夜様、わたしのことはどうぞ佳弥とお呼びください。敬称は不要です」
「え。でも、佳弥さんのほうがぼくより年上だし……」
佳弥と初めて顔を合わせた時、彼女は十五歳だと言っていた。
自分と三つしか歳が変わらないというのに、大人に負けず劣らずの気品と優雅さがあり、蓮夜は首っ丈になってしまった。今も時折見せる彼女の天女の如き微笑に見惚れてしまうくらいである。
「年上とはいってもたった二歳差です。気安く呼んでいただいたほうがわたしは嬉しい」
「そうなの? じゃあ、そう呼ぶことにする」
「ありがとうございます」
鼓動が高鳴って仕方がない、花が綻ぶような微笑み。
自然と頬が紅潮して、蓮夜は思わず視線を逸らした。
「かっ、佳弥……もぼくに対して様は付けなくていいから。敬語も堅苦しいし、これからは禁止ね」
「ですが」
「ぼくだけ呼び捨てで、しかも敬語も使わないんじゃ不公平でしょ」
それに、ぼくは佳弥と友達になりたいんだ。
温かくて純粋な光を宿した赤瞳が、佳弥を真っ直ぐに見据える。
佳弥は目を瞠って「友達……」と鸚鵡返しした。
「だめ?」
不安そうに首を傾げる蓮夜に、佳弥はかぶりを振った。
「いいえ。わたしでよければ、ぜひ」
「ほんと? やった!」
屈託のない笑顔で蓮夜が拳を握る様子に、佳弥は目を細めた。
「佳弥も一緒に食べよう」
「うん」
佳弥も椅子に腰かけて、蓮夜とともに手を合わせた。
『いただきます』
今までに食べたことのない高級そうな練切菓子を一口。すると、上品な甘さが口いっぱいに広がって蓮夜は舌鼓を打つ。
「おいしい!」
「良かった」
あっという間に午後のおやつはなくなり、蓮夜たちは食後茶を啜りながら談話する。
「佳弥は額さんの付き人なんだよね」
蓮夜が口火を切ると、佳弥は持っていた湯呑を置いて答えた。
「そうだよ。正しくは副長助勤っていう役職で副長の補佐をしているんだけど」
「十四歳で親兵――それも、副長の補佐役に抜擢されるなんてすごいね」
「ありがとう。親兵になったのはほんの二か月前だけどね」
「二か月前⁉ もっとすごいよ!」
「もともと額様とは師弟関係にあって、小さい頃から額様には弓のお稽古をつけてもらっていたんだ。望月家は兎月家の分家筋だから、縁故で副長助勤にしてもらったようなものだよ」
佳弥が部屋の隅に置いてある弓袋に視線を向ける。
額の神器よりも少し小さく、帯びている神力も銀色だった。
「佳弥の神器は何の神力を持ってるの?」
「〈雪〉。わたしを選んでくれた神様は、額様をお選びになった〈氷〉と〈月〉を司る神様の眷属神だから」
聞くところによると、望月家と兎月家は代々社家で一族のなかから神器所有者が選ばれるという。社家出身の者が神器所有者になることも珍しくはなく、局内にも何人かいるとのことだった。
「そっか。聞けば聞くほど、佳弥がどれだけすごいか思い知らされるよ」
「買いかぶり過ぎだよ。わたしはそれほどできた人間じゃない」
「そんなことない! 少なくとも、何の力も持ってないぼくに比べたら、佳弥のほうがよっぽど――」
そこで蓮夜は口をつぐんだ。
何の力も持っていないわけではない。自身には〈水〉と〈業火〉二つの力が秘められている。ただその力の使い方を知らないだけだ。
「……そうだ」
力の使い方を知らないのなら、学べばいい。
己の潜在能力を引き出し、うまく調整できるようになれば、佳弥や桜夜たちの力になれる。彼女たちをこの手で守ることができるようになる。
寧子との謁見の際、桜夜に自身の想いを包み隠さず打ち明けた。
自分のせいで桜夜が傷つくのを見たくない。今は無力だった自分を変えられる機会なのだと、決意したばかりではないか。
蓮夜は両の拳を握りしめ、佳弥を真っ直ぐに見据える。
「佳弥」
呼ばれて、佳弥は小首を傾げる。
「ぼくに神力の扱い方を教えてくれないかな?」
「え?」
唐突な頼み事に佳弥は目を丸くした。
「さっき、寧子様に謁見した時、姉ちゃんに言ったんだ。今は無力な自分を変えられる機会なんだって。だから、ぼくはみんなを守れる強さがほしい」
「蓮夜くん……」
「守られてばかりで、何もできない自分はもう嫌なんだ」
煌々と静かに燃える火を宿した双眸が、自身を引きつけてやまない。
佳弥は驚嘆しつつも、おずおずと花唇を開く。
「でも、わたしと違って神血を受け継ぐ蓮夜くんは桜夜様と同じで自分で神器を作ったり、神力を操作したりすることができるはず。だから、わたしよりも桜夜様から教わったほうが……」
佳弥の言い分も一理ある。
神器所有者は神器を使用することで神力を操作する。つまり、神器という媒体がなければ神力を扱うことはできない。対して桜夜や自分のような神血を引く者は体に神力が宿っているため、神器を創成することもできれば、自ずから神力を操作することもできる。根本的に神力の操作が異なるのだ。
「確かに、そうだね……。でも、姉ちゃんは任務で忙しいだろうし」
「神力のことは難しいかもしれないけど、護身術や簡単な体術なら教えられると思う。戦闘用小道具の知識も少しなら」
「ほんと⁉」
「それでもいいなら、喜んで蓮夜くんの力になるよ」
「お願いします!」
目を輝かせては勢いよく頭を下げる蓮夜に、佳弥は口元を綻ばせた。
そこで、こんこんと扉を打つ音が室内に響いた。
「はい」
蓮夜が応答すると、扉が開いて任務から帰還した桜夜と伊織が顔をのぞかせた。
「姉ちゃん!」
「ただいま。蓮夜」
「蓮夜君ただいま~」
蓮夜は喜色を浮かべて立ち上がり、桜夜のもとへ駆け寄る。
「おかえり!」
「ちょっとちょっと。ボクにはおかえりって言ってくれへんの? 悲しいわあ」
「伊織さんもおかえりなさい」
「ついでにゆった感がすごいけど、まあええわ」
伊織が肩を竦める傍ら、蓮夜は桜夜に視線を戻す。
「無事に帰ってきてくれてよかった。怪我してない?」
「大丈夫」
「沈丁花の人たちは?」
「ああ、全員捕縛したよ。幹部も二人いたけど、増長さんたちの協力のおかげで倒すことができた」
「そっか」
「ねえ、その『たち』のなかに当然ボクも入ってるよな? な?」
うざったい男がいちいち割り込んでくるが、桜夜はまるで彼が最初からいないかのように完全無視に徹し、安堵する弟の頭を撫でる。
「姉ちゃん。ぼく、佳弥から護身術や体術を教わることにしたんだ」
「え?」
桜夜が佳弥のほうに視線を送ると、彼女は凛とした佇まいを崩さずに静かに首肯した。
「寧子様の謁見の時、言ったでしょ? 今は自分を変えられる機会なんだって」
「うん」
「ぼくも守られるだけの存在でいたくない。自分だけじゃなくて、大事な人たちも守れるようになりたいんだ。それと、姉ちゃんさえよければ、ぼくに神力の扱い方を教えてくれないかな? もちろん、任務のこともあるだろうから無理にとは言わないけど」
蓮夜の懇願に桜夜は逡巡する。
数秒の沈黙の後、桜夜は「……わかった」と頷いた。
「蓮夜がそれを望むなら」
「ありがとう姉ちゃん!」
眼前で弾けた眩しい笑顔に目を細めながら言った。
「じゃあ、まだやることが残ってるから。すぐに戻る」
「うん」
桜夜は踵を返し、蓮夜の部屋を後にする。
伊織も彼女の背を追い、局寮の回廊を踏みしめていく。
「いやあ、ちょっと目を離した隙に逞しくなって」
伊織が感慨深そうに呟く。だが、桜夜の耳には届いておらず、現に彼女は浮かない顔をしていた。
「心配?」
顔を覗き込んできた伊織を横目で一瞥し、桜夜は小さく息をついて言う。
「蓮夜には神力のことを教えずにいるつもりだった。あの子が何の心配も無く穏やかな生活を送ってくれればそれでいいと……。だが、蓮夜が自分に宿っている力を知らないまま人生を終えるのは難しいのではと、心のどこかでそう思っていたんだ。それに――」
桜夜は足を止めて、本心をゆっくりと吐き出した。
「己の力を知らないままでいるのも、危険で恐ろしいことなのかもしれない」
「そうやな」
伊織は軽く桜夜の背を叩いて先導する。
「まあ、仮に蓮夜くんに何かあったとしても、ボクらがついてるんやからそんな気ぃ揉まんでいいよ」
「烏賀陽」
「はいそれ、ブブー」
にわかに振り返ったかと思いきや、伊織は両腕を交差させてばつ印を描く。
「名字呼びはナシ。これからは伊織って呼ぶこと。アンダースタンド?」
「別に名字でいいだろう」
「あ・か・ん。ボクは桜夜ちゃんって下の名前で呼んでんのに、そっちが名字呼びだったら不公平やんか。あとボクはこれでも自分の名前、結構気に入ってんねん」
伊織が頑として譲らなかったので、桜夜はもうどうでもよくなって「……わかった」と渋々承諾した。
「さ、これから楽しい拷問のお時間や。張り切っていくで」
「…………」
この男の場合、本気なのか冗談で言っているのかわからない。
とはいえ増長たちがいるから大丈夫だろうと、桜夜は再び靴音を鳴らした。