第10話 父の教え
刹那の間でも集中を欠けば闇に落ちてしまうような、攻防必至の一騎打ち。すでに十分以上、膠着状態が続いているが菊星の体力と剣速はまったく落ちていなかった。
「いいねえ~。こんなに楽しい戦いは久しぶりだよ! ひっく」
酔夢でも見ているかのような様相だが、太刀筋はいたって正確でこちらの体術もすべて見切られてしまう。
――持久戦に持ち込めば有利になると思っていたが……。
少なくとも自身に勝るとも劣らない驚異的な身体能力に、桜夜は歯噛みする。
――もう、蛇女になるしか……。
いや、それはできない。桜夜はすぐに脳裏を過った最終手段を打ち消す。
ここには多くの味方がいる。彼らを巻き込んでしまうことだけは避けなければならない。かといって、このまま体術だけで攻めるのにも限度がある。
――なにか策は……!
焦燥と苛立ちが心身を追い詰める最中、ついに菊星の凶刃が右腕を掠めた。
白皙の肌に鮮血がほとばしるとともにひりついた痛みが襲う。
「ひひっ!」
桜夜の苦悶を愉しむかのように菊星が下卑た笑い声をあげた。それを合図として菊星の剣速がさらに早まる。
このままではこちらが押し負けてしまう。一か八か、水弾で菊星の足を撃ち、猛攻が止んだ瞬間にとどめを刺す。
――迷っている暇はない!
狩猟でよく使っていた神技を放とうとした時――
『神技は攻めだけに特化した力ではない』
とても懐かしい過去の声が脳内に響いた。桜夜は瞠目し、はっとする。
「……そうだ」
なぜ、今まで忘れていたのだろう。幼い頃、父から教わった大事な知識だというのに。
神技を学び始めたばかりのころ、師であった柳夜はこう続けた。
『むしろ、神技というのはかつて神器所有者本人の能力を高めるものだった。それに加えて防御型の神技も確立されて錬成神技が浸透していったんだが、今では攻撃型の放出神技が主流になっている。防御よりも攻撃のほうが相手をすぐに倒せるぶん、手っ取り早いから仕方のないことではあるが』
『つまり、錬成神技が基礎で放出神技が応用ということですか?』
『そういうことだ』
当時六歳だった桜夜の小さな頭を撫でて、柳夜は頷く。
『応用は基礎あってのこと。基礎ができていなければ当然、応用もできない。桜夜――』
相手をどう倒すかではなく、まずは自分が相手をどう超えられるかを考えなさい。
己の記憶のなかにいる父が再度、言い聞かせるように教示する。
「承知しました。父上」
あの時と同じ返答をした後、桜夜は後方に大きく跳躍して菊星から距離をとる。
「あれぇ、ここまできて逃げるの?」
依然として菊星が桜夜を追いかけてくるが、神技の発動には十分な間合いが確保できていた。
「〈滝つ瀬・鯉遊泳〉」
桜夜が一歩踏み出すたびに足元で波紋が広がっていき、その軌道に合わせて河川が形成されていく。急流に乗って鯉が遊泳するかの如く、桜夜は菊星の周囲を縦横無尽に高速移動した。
予想外の速度に菊星も顔色を変える。必死に追いかけようとするも、気づけば桜夜は後ろにいたり前にいたりしていた。完全に攪乱されている。
「急に何だよ!」
今度は菊星が苛立ちを募らせ、愛刀を握る手も震え始めた。
人は予想外のことが起きると思考能力が著しく低下し、体の動きが鈍くなる。まさに今の菊星がその状態だ。桜夜の速さについていけず、その場で留まることしかできない。
――これで奴の速さは超えられた。
相手の能力を超えた次は、どう倒すか。
遊泳しながら桜夜は考えを巡らせる。
「まずはあの刀」
菊星の戦力の要でもあるあれを排除すれば、あとは造作もない。
己の速度を極限まで高めたところで、桜夜は菊星に接近し持っていた刀を蹴とばす。
「なっ」
五芒星が空を描いたと同時に桜夜は〈水牙〉を創成する。そのまま神技を繰り出した。
「〈水打〉」
鳩尾に波状攻撃が食い込み、菊星は勢いよく壁に打ちつけられる。
「かはっ!」
やがて菊星は泡を吹いてその場に伏した。
すぐに起き上がってこないことを確認し、桜夜は小さく息をついて〈水牙〉を解く。
「そっちも決着ついたみたいやな」
振り返ると、伊織と雑賀兄妹がこちらに歩み寄っていた。
「千萩は?」
「ご覧の通り」
伊織が一瞥をくれた先には、気を失ってうつ伏せになっている千萩の姿が。両手首には炎でできた拘束具がはめられている。兄妹どちらかの神技だろう。
「手強かった?」
「……ああ」
伊織の問いに、桜夜は低く答える。
少なくとも、八位の侠客相手でさえその力に圧倒されるほど自分は弱いのだと思い知らされた。相手が玄星石製の武器を持っていたとはいえ、一瞬でも蛇女への変化を考えてしまったことが悔やまれる。
「もっと強くならなければ……」
桜夜が拳を握りしめるのを、伊織は目を眇めて黙視していた。
「でも、幹部をたった一人で撃破するのはそう簡単にできることじゃない。正直、桜夜さんの力を見くびってたよ」
「増長さん」
「あとは私たちに任せて」
お疲れ様、と増美は少しだけ口角を上げ、菊星の腕を背中の上で交差させる。
「〈炎鎖〉」
右手の〈赤羽〉の引き金を引くと、炎弾が発射されたかと思えばすぐに弾けて炎の鎖が千萩の手首に絡まった。
〈炎鎖〉が見事に手錠の役割を果たすと、増美は立ち上がって周囲を見渡す。
いつの間にか白兵戦は終わっており、沈丁花の武士たちは戦意を喪失していた。
「そんな……」
「千萩さんと菊星さんがやられるなんて……」
「二人で敵わないのなら、俺たちにこいつらを倒せるはずがない」
武器を手放した彼らに親兵たちは縄をつけていく。
「何はともあれ、初任務お疲れさん。桜夜ちゃん」
ぽんと肩に手をおいた伊織を桜夜は見上げる。
「帰ろう」
いつもより少し柔らかい笑みに、桜夜は小さく首肯した。