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あの夏がある洞窟へ

作者: 花藤暁
掲載日:2025/06/24

 ある夏の日のこと。

 青年は自分の故郷へと帰ってきていた。

 それは死ぬためである。自らの生を投げうつためである。

 青年は世の中というものがもうほぼ、嫌になっていた。

 高校生までは良かった、人生というものにも希望が持てた。

 自らの可能性を信じて、曖昧なままに過ごせたからだ。

 大学生になってから、友も作らず、サークルにも入らず、世の中との隔たりを自ら作ってしまった青年 は、すっかりとその孤独を深め、その偏屈と傲慢さは煮詰まっていた。

 就職したのは良いものの、社会というものに馴染まず、1か月もしたら辞めてしまっていた。

 青年は、世の中というものが嫌になっていた。

 なぜなら、すべてのものが運命に思えてしまったからだ。

 生まれて、育てられる。その過程を人は選べない。

 いつの間にかスターターピストルは鳴らされていた。

 全てが出来レースだ。クソくらえ。ああ無情。

 このイカれた世界を作った神様をぶん殴りたい。

 いつの間にか、世の中の少し好きな、綺麗な部分さえもすり減っていた。

 だから、死ぬことにしたのだ。生きていても仕方がないから。




 俺は、最後には自然の中で死にたかった。それも故郷の自然で。

 緑が湧きたち、白い雲が覗く、あの青空。

 夏の暑さでにじんだ汗に、そっと生ぬるい風が吹いてきた。

 かつて遊んだ川沿いを歩く。コンクリで舗装された川。

 決して雄大な自然というのは感じられないものの、美しくきらめく水面に、ゆうゆうと揺れる葉からさす光が美しい。

 ああ、そういえば、子どもの頃はこの川を友達と一緒に上へ上へと歩いたものだ。

 せっかくだし、大人になった今やってみるとしようか。

 そういえば、あの奥にある洞窟――

 ずっと気になっていたのを思い出した。

 子どもの頃は、ただ怖くて近づくこともできなかった。

 けれど、いつからか、その薄暗い入り口が気になって仕方なかったのだ。

 今となっては、怪我しようがどうでもいい。

 だから足を向けた。

 川の上手へと続く、その道は舗装もされていない。

 獣道のような、不格好で荒れた道だ。

 背の高い草が好き放題に生え広がり、長らく誰の足も踏み入れていないことがうかがえる。

 朽ちかけた謎の看板がぽつんと立ち、

 子どもの頃からこの場所だけ、時間が止まっていたかのようだった。

 それでも、川は昔よりも透き通っていた。

 あの頃は少し濁っていた水底が、いまは石の輪郭までくっきりと見える。

 それが、少しだけ可笑しかった。

 ――さて、着いた。

 これ以上は、気ままな散歩ではいられない。

 道は途切れ、ここから先は“川沿いの道”とは名ばかりの、荒れた斜面が続いていた。

 「これどうやってあっちに行くんだ?」

 そこは、昔とはすっかり変わっており、斜面は相当急になっていた。

 すぐ下には、高さは低いものの、川が広がり、滝がある。

 落ちたら結構深いし危なさそうだ。

 まあ、なにだ。どうせ死のうとしてたんだし、行ってしまおう。

 斜面を低い姿勢でどうにか横ばいに歩く。俺は昔からこういう山道を歩き回っていたので慣れてはいる のだ。

 斜面を暫く歩くと、川岸が見えてきて、石が並ぶ河原が見えてきた。

 ……しかし、こんなことの繰り返しである。まだまだ先は長そうだ。 




 しばらく歩き続け、ようやく洞窟の前に辿り着いた。

 息が上がるほどの距離ではなかったが、河原と山の斜面を行く道のりは、どこか遠く感じられた。

 おそらく1kmくらい歩いたのではないだろうか。

 じんわりと流れる汗が服に張り付く。

 今になって地図アプリで確認してみると、

 どうやら舗装された道を上から回り込んで降りた方が、ずっと近かったらしい。

 確かに上を見上げると、10mくらい上にぼろぼろの橋のようなものが見える。

 ――けれど、そんなことはどうでもいい。

 遠回りだろうが、この足で辿り着いたことに意味がある気がした。

 「――さて、入るとするか」

 ぽつりと漏れたその声は、川のせせらぎと鳥のさえずりに紛れて、あっけなく掻き消えた。

 覚悟を決めたつもりの一言も、自然の音の中ではあまりに小さく、儚かった。

 青年はスマホを手に取り、灯りをともす。

 その淡い光を、ゆっくりと闇の中へ差し込んだ。

 洞窟の入り口からは、細く冷たい水がちょろちょろと流れ出ている。

 だが、奥は見えない。

 その先に何があるのか、どこへ続いているのか――

 まるで世界の底に繋がっているかのような、

 黒く、静かで、全てを呑み込むような闇が、ただそこに口を開けていた。

 奥へ、さらに奥へと足を進めるたびに、背後から差し込んでいた太陽の光はしだいに弱まり、

 いまや頼れるのは、手元のスマホが放つ光だけだった。

 「……大人になっても、結構怖いもんだな」

 ぽつりと洩れた独り言が、湿った岩肌に吸い込まれるように響いた。

 胸の鼓動は早まり、知らぬ間に息も浅くなっている。

 理屈では説明できない、ざわざわとした不安が心の奥で渦を巻く。

 けれど、不思議なことに――

 足は止まらなかった。

 むしろ、自分の意志とは関係なく、何かに引かれるように前へ進んでいく。

 歩いて、また歩いて。

 暗闇の中で、その足音だけが確かな存在を刻んでいた。

 そして―― 




 気がつくと、俺は洞窟の入り口に倒れていた。

 地面の冷たさが背中に伝わり、息を整えようとしても、

 どうにも体の感覚が妙だった。

 まるで自分の身体じゃないような、そんな違和感が全身を包んでいる。

 「おい、おいってば!なんだよ、いきなり倒れたりしてさ。大丈夫か、T君?」

 ――T君。

 そう呼ばれていたのは、確かに俺だった。

 でも、もう長いこと誰にもそう呼ばれていなかった。

 その声には、聞き覚えがあった。

 懐かしさが胸を刺すように湧き上がる。

 「……K?」

 震える声で名を呼ぶと、目の前の少年がにっと笑った。

 そうだ。間違いない。

 それは、幼い頃によく一緒に遊んだ、あのKの声だった。

 「どうしたんだお前。熱中症か?」

 「……あ、ああ。どうもそうかも。ちょっと休んで良い?」

 「まあ良いぜ。俺もたくさん歩いて疲れた」

 そう言いながら、Kは川の流れに目を向け、

 ふっと肩の力を抜いて、近くの木の根元に腰を下ろした。

 その仕草は、どこか見覚えのある、昔と変わらないものだった。

 ――これは、一体どういうことなんだ?

 まるで現実味がない。

 もしかして、あの洞窟の中に何か有毒なガスでも漂っていて、

 俺はそこで気を失い、今これはただの夢を見ているだけなのかもしれない。

 ……でも、それにしては妙に感覚が鮮明すぎた。

 風の匂いも、水の音も、足元の土の感触までもが、現実と変わらない。

 何より、自分の身体が――自分の記憶の中にある“昔”に引き戻されているような、

 そんな奇妙な実感があった。

 「なあK。今って……西暦何年だっけ?」

 何気なく尋ねたその問いに、Kは首をかしげて、指を折って数えながら答えた。

 「えーっと。去年が2009年だったから……今は2010年、で合ってるよな」

 「そっか、そうだったな。ありがとう、K!」

 「いやいいよ……ていうか、急にどうした?」

 ――本当に、タイムスリップしてしまったのかもしれない。

 胸の奥で、長く錆びついていた何かが音を立ててほどけていく。

 ずっと願っていた。もう一度、子どもに戻れたら、と。

 小学生の最初の一歩から、見逃した景色も逃したチャンスも、全部拾い集めてやり直せたら、と。

 一日たりとも、その想いが消えたことはなかった。

 「……よし。今度こそ、やり直してみせる!」

 「お、おい、大丈夫か? 熱中症でも起こした?」

 Kの心配そうな声が、夏の空気に揺れていた。

 



 それから家に帰った俺は小学生として懐かしい思い出を追体験した。

 懐かしい家、懐かしい家の猫、懐かしい兄弟。

 今は変わってしまったそれらが鮮やかに蘇る。 

 小学生として学校にも行った。でも特段変わることはない。

 問題を解くのが余裕くらいで、何かするでもない。

 体育は相変わらずこの体は苦手みたいで、上手くできそうにもない。

 ……意気込んだのは良いものの、再び小学生になっても、案外することなんてないものだ。

 まあ昔よりは色々楽しいけどな。

 大人の立場から見下して色々出来るし、子供の体を動かすのも楽しいさ。

 そんな中で、小学生とし て“何をしようか”と考えたとき、ふと思った。

 せっかくなら、今まで縁のなかった「恋愛」ってやつに、本気で向き合ってみようと。

 俺はこれまで、彼女という存在に一度も縁がなかった。

 もうほとんど、世間で言う“魔法使い”と呼ばれる年齢に達していた。

 ……そういえば。

 俺が密かに想いを寄せていたのは、Mちゃんだった。

 儚くて、明るくて、どこか放っておけない女の子。

 けれど彼女は、俺がちょうどこの年のときに――交通事故で亡くなった。

 もしも、いま俺に与えられたこの“やり直し”が、ただの偶然ではないとしたら。

 もしも、過去に戻った意味があるとすれば。

 俺がすべきことは、きっと――

 Mちゃんの運命を変えることなんじゃないか。

 そう思った瞬間、胸の奥に小さな炎が灯った。

 これはもう、単なる気まぐれじゃない。

 俺にとっての「使命」なんだと、なぜか強く感じた。




 それで、彼女と友達になるでもない。俺が選んだ手段はストーキングである。

 あの子が死んだのは、確か二週間後あたり。俺はここ一週間、ずっと彼女の後ろをついていた。

 特に危なさそうな場所はすぐ後ろを歩く。

 成人男性が話しかける勇気も無いなんて情けない話だ。たが、彼女とはまるで接点がない。

 今の俺なら彼女と同じ委員会などに入って接点を作っていたかもしれない。

 ……まあその思考が弱いのかもしれない。俺はすっかり社交力と勇気というものを失っていた。

 そんな稚拙な策がうまく行くはずも無く、俺は彼女の後ろを歩いてるのがバレてしまった。

 「ねえ、なんでついてくるの? 君、同じクラスのT君だよね?」

 手のひらが汗ばんで、喉が乾く。

 「う、うん……」

 「何か用でもあるの?」

 ——詰んだ。

 大人になっても身につかなかったコミュ力が、ここで牙をむく。

 もう逃げ場はない。ならば一か八か、賭けるしかない――!

 「じ、実は……Mちゃんのことが好きで!」

 「えっ!?」

 よりにもよって告白。

 三十年分の人生経験が導き出した答えが、こんな稚拙な直球だとは。

 「えーっと……私、T君と友達でもないんだけど。急にそんなこと言われても困るよ?」

 痛いほどもっともな返事。

 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。

 「な、なら……友達から! どうかな?」

 声が裏返りそうになるのを必死で抑え、言葉を絞り出す。

 Mちゃんは一瞬目を泳がせ、やがて頬を緩めた。

 「——うん、いいよ! 私も友達少なくてさ。ちょうど欲しいと思ってたんだ」

 その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 こうして俺たちは“友達”になった。

 小さな一歩かもしれない。

 けれど、世界が確かに動いた——俺にとっては、これ以上ない大きな進歩だった。  




 「ねえ、私のどこを好きになったの?」

 不意にそう尋ねられて、心臓が跳ねた。

 まるで、嘘を見透かされるような鋭さを持った問いだった。

 たしかに、昔の俺は彼女のことが好きだった。

 でも今となっては、その理由なんてぼんやりとしか思い出せない。

 タイムスリップした直後に見た彼女の姿だって、正直、心が大きく動いたわけでもなかった。

 ――それでも、何か言わなければ。

 頭の中を必死にかき回す。

 「えっと……なんていうか、Mちゃんって、いつもどこか寂しそうに見えたんだよね」

 「え? そうかな?」

 「う、うん。ほら、生き物係やってるじゃん。放課後、一人で餌あげてるの見たことがあってさ……。

 その姿が、なんか、共感できたというか。それに、今もこうして一人で帰ってたりして。友達もいない のかなって。それが共感できたのかも」 

 「ふーん……“かもね”って、そんなものな の?」

 「うーんと……そう! 可愛いから!」

 思わず口から飛び出した言葉に、自分でも赤面しそうになる。

 「えっ、それって褒められてるのかな……うーん、なんだかよく分からないけど。まあ、いいや」

 Mちゃんは苦笑まじりにそう言って、肩をすくめた。

 「ははは……」

 何とかごまかしきれた――そんな安堵が胸に広がる。

 と、そのとき。

 「――あっ!」

 急に声を上げたMちゃんが、ふいに生垣の方を指差した。

 「どうかしたの?」

 「ほら、あそこ! トカゲ! しかもまだ子どもだから、しっぽが青くてすっごく綺麗なんだよ!」

 その瞳は輝いていた。まるで宝物でも見つけたかのように。

 「そういえば……昔はよく捕まえてたなあ」

 俺が懐かしさ混じりに呟くと、Mちゃんは頬を膨らませて振り返った。

 「えぇーっ、捕まえるなんてひどい! 動物はね、観察するものなの! そっと、優しく見守るんだ よ! トカッ! トカッ!」  

 「なにその鳴き声」

 「トカゲにあいさつしてるの。カナヘビだったらカナッ!メダカだったらメダッ!って」

 そう言いながら、どこか儀式のような手つきでトカゲに手を振る彼女の姿に、思わず笑いがこぼれた。

 「笑わないでよ!」

 「ごめん、ごめんって」

 この子って意外とこんな天然な感じだったんだな。遠目から見て話していなかったから、何もわからな かった。 

 これだけでも戻ってきた価値があるかもな。




 それから何事もなく、放課後は過ぎ、翌日も同じように過ごして。

 一週間後も、二週間後も同じように過ごした。

 彼女とより仲良くなった。といっても、せいぜい放課後に話すくらいだけど。

 それでも、きっと俺たちは友達と言って胸を張れるくらいには、仲良くなれたはずだ。

 それで、今日はいよいよ事故があった日だ。

 運命の日。

 彼女の動向には常に目を光らせなくては。

 特に今は、道路沿いに歩く道だからな。

 「な、なに?なにか変なところでもあるのかな?そんなに見つめて」

 「いや、特にないよ!別に!」

 「ふーん……怪しいなあ」

 彼女はそう呟いて、じっと俺の顔を覗き込んできた。

 その目は探るようでいて、どこか楽しげでもあった。

 「まあ、いいけどさ」

 そう言って、ふいっと俺から視線を外し、今度は空を見上げた。

 風に揺れる髪越しに、夏の光がちらちらと揺れている。

 しばらくの沈黙のあと、彼女がぽつりと口を開いた。

 「ねえ、そういえばさ。T君って、今日の将来のやつ……なんて書いたの?」

 「えっと、今日の将来何がしたいか、っていうの?俺は、将来一流企業のサラリーマンになりたいって 書いたけど」 

 「何それ。何か大人びててつまらないね。……ねえ、私はね、写真家になりたいんだ」

 「写真家!?凄いね、何で?」

 「私ね、世界をいろいろ見て、知るのが好きなんだ」

 彼女はそう言って、楽しそうに言葉を紡ぎ始めた。

 いつもより少し早口で、まるで胸の奥にしまっていた想いがこぼれ出るかのように。

 「この世界ってさ、一生かけても行けない場所、知れない知識が山ほどあるじゃん? それって、すご く不思議で、面白くない?」

 彼女の目はきらきらと輝いていた。

 日差しに照らされた瞳の奥で、小さな炎が確かに灯っているのが見えた。

 「ほら、近くの町ですらさ、そのすべての家とか道とかに行けるわけじゃないし、

 図書館の本だって、全部読むなんて無理じゃん? ……これってすごいことだと思わない!?」

 「……たしかに」

 俺は苦笑しながらうなずいた。

 「この町だけでも、まだ知らないことばかりかもな」

 「そうなの!」

 彼女はぱっと表情を明るくし、少し身を乗り出した。

 「私たちの目の前には“無限”が広がってるんだよ。

 だったら私は、その無限を歩いて、見て、感じて、知りたいの。

 そのためには……写真家になって、世界を旅するのが一番だと思ったんだ」

 そう語る彼女の声には、迷いがなかった。

 子どもなのに、いや、子どもだからこそ持てるまっすぐな夢が、眩しかった。

 夢を語る彼女の顔は子どもの輝きと、大人の聡明さを帯びているように見えたのだ。

 「だからね、最近はよく写真も撮ってるんだ」

 そう言って彼女は、ちょっと照れたように笑った。

 「ねえ、T君。もしよければさ――“被写体になる”っていう条件で、この町の行ったことない場所、今 度一緒に探しに行かない?私だけだと、ちょっと心細くて……誰かと一緒に歩きたいんだ」 

 その誘いに、胸の奥が温かくなった。

 「……もちろん。俺でよければ、喜んで付き合うよ」

 そう答えると、彼女はぱあっと笑顔を咲かせた。

 その笑顔はまるで、フィルムの中に閉じ込めたくなるくらい、眩しかった。

 その眩しい顔がなぜか急に、険しい顔になった。

 ふいに彼女の前方を見た時。そこには、道路をよぼよぼと歩き横断しようとする猫がいた。

 それで、その横からは猛スピードで車が走っていて。

 おそらく西日のまぶしさで、車から猫は見えていない。

 このままだと――

 そう思っていると、彼女は走り出した。

 その瞬間、時が止まったように思考が速くなる。

 あ――

 そうだ、このままだと彼女は猫をかばって――車に、ぶつかる。

 そして……死んでしまう。

 あんなに眩しい夢を語り、無限の可能性を信じていた彼女が。

 その未来も、その笑顔も、その一歩一歩で積み上げようとしていた希望さえも、

 ここで、無残に断ち切られてしまう。

 彼女が持っていた光は、

 かつての僕が、どこかで手放してしまった“未来”そのものだったのかもしれない。

 なら、俺がすべきことは――

 その瞬間、すべての迷いが霧のように晴れた。

 胸に浮かんだひらめきとともに、俺は地を蹴って走り出していた。

 運動なんて苦手だったはずのこの身体が、今だけは信じられないほど軽い。

 まるで誰かが背中を押してくれているような、そんな不思議な感覚。

 風と光をまとって駆け抜けていく――そんな煌めきの中を、俺はただ一直線に走った。

 そして、彼女が猫を抱きかかえ、身体をかばうように低く構えた、その――ほんの一瞬手前。

 俺は彼女の前に飛び出した。

 間に合った、そう思った瞬間。

 視界の端に、迫りくる鉄の塊。

 そのまま、車は俺にぶつかった。

 凄まじい衝撃が全身を駆け抜ける。

 音も、時間も、すべてが弾け飛ぶように消えていった――。

 

 


 「ねえ!ねえってばT君!しっかしりしてよ!」

 ぼんやりとする意識と視界の中、その声は確かにMちゃんのものだ。

 どうやら、俺は地面に寝ているらしい。

 体の感覚が曖昧だが、頭は酷く痛む。たぶん血が出てるのだろう。

 「ねえ!どうして、どうしてT君が私を!」

 嗚咽だけははっきり聞こえる。きっと彼女が泣いているのだろう。

 「……好き……だか……ら」

 俺は息絶え絶えにそう答えた。

 俺は、彼女との僅かな二週間、再び彼女のことを好きになっていた。

 といっても恋愛的ではなく、人間的にだ。彼女は、俺がなるべき人だったように思える。

 「やだよ!死なないでよ!生きて!生きてよ!生きて!」

 そんな彼女の声が聞こえてくる。

 何さ、元々死のうとしてたんだ。人を救えて死ねるなら本望だよ。

 本来君と俺は巡り合うことなんて無かったんだからさ。

 でも、彼女のその生きてという言葉がやけに心にねばりつく。

 まるでくいのように頭の奥を貫いているんだ。

 「生きて」って、その言葉だけが、妙に胸に残るんだ。

 重くて、温かくて、痛くて、どうしようもなく――沁みてくる。

 ああ、本当は。

 俺も彼女と一緒に生きたかったなあ。




 気が付くと、俺は再び一人で倒れていた。

 そんな俺を陽光が照らしあたりの苔は静かに輝いている。

 辺りを見回すと、どうやらここはあの洞窟のようだ。

 そして自分の体は大人のものだった。

 「……夢?」

 まるで今まであった出来事が煙となって全て無くなってしまったかのようだ。

 俺は急いで洞窟に潜ろうとしてみたが、少し入ったら、直ぐに行き止まりになってしまった。

 ……それは、俺が来る前に想像していたよくある自然の洞穴だった。

 全ては夢だったのだろうか?しかし、あの実感は。あの少女との日々は。そして、あの生きたいという 思いは。 

 全て鮮明だ。きっと、夢なんかじゃない。

 そう思い、俺は急いでスマホを取りだし、兄に電話を掛ける。

 兄とはすっかり仲良くないが、年子なだけあって、俺の年代の学校の事情は詳しいはずだ。

 呼び出し音が鳴る間、胸の中で祈るような気持ちが膨らんでいった

 そして、電話はつながった。

 「おっ、Tか。なんだよ、急に」

 兄の気の抜けた声が、懐かしいような、少し遠いような響きで耳に届く。

 「……あのさ、ちょっと変なこと聞くけど。俺が小5のころって、大きな事故ってなかった?

 たとえば……俺のクラスメートが死ぬとか」

 「はあ? なに言ってんだお前」

 一瞬の沈黙のあと、呆れたような声が返ってきた。

 「そりゃお前のことだろうが。死にはしなかったけど、けっこう重症だったじゃん。

 あのときは本当、大騒ぎだったんだからな。……まさか今になって、頭でもやられたか?」

 「ごめん、ごめん! いや、ほんと急に思い出しただけ! 確認したかったんだ。ありがと! じゃ、 また!」 

 畳みかけるように言い、俺は有無を言わせず電話を切った

 兄の答えに俺は困惑した。つまり、この世界はあの世界、俺がMちゃんを庇った世界なのだ。なのに、 こうして俺は洞窟にいる。 

 一体、この世界の俺は何のためにここに来たんだろう。

 そして、俺の意識はどうなっているのだろう。

 謎は絶えない。だが、一つ分かることがある。

 彼女は助かったということだ。

 その事実一つで何か俺は救われた気がした。

 それに、脳にこびりついた「生きて」という声。

 俺はすっかり死ぬ気というのをなくしてしまった。

 きっと、俺も救われたんだ。

 川沿いの苔に身を任せ、空を呆けて見上げる。

 青空はただただ綺麗だった。

 ふと、スマホを見ると、メッセージアプリには通知が来ている。

 その名前は――Mちゃんの名前だった。

 

 


 うだる風。白い雲。

 草木が生い茂り、緑と青のコントラストが町と自然の世界を切り分けている。

 裏山に繋がるその道に、バッグを背負い、カメラを首にかけた女性がいた。

 「あ!T君!久しぶりだね~最近全然会えてないから会おうと思って!」

 その声は、その姿は、あの時から幾分変わっているけれど。

 不思議と何故か、彼女だとわかるのだ。

 「うん。久しぶりだね」

 そう自然と声が出た。それは俺の意識じゃなくて。

 こちらの世界の俺が自然と出したものだ。

 あの後、俺の体は勝手に考えて、動いていた。

 俺の意識は、どうなっていくのだろう。

 初めは、こちらの世界に統合されて、片隅に追いやられるのは怖いと思ったけど。

 でもそれでいいような気がするんだ。

 俺はきっと彼女をどこかで見て生きていければ満足だから。

 出来れば消えたくはないけど。一生彼女の行く末を見ていたいんだ。

 爽やかな青い風が山合から吹いてくる。そんな風が彼女のスカートを揺らした。

 青空は彼女を照らし、白い服が輝いている。

 ああ、やっぱり、この景色には彼女のような人が似合うのだ。

 「それじゃあ今日も、無限を旅しようか!」

 そういう彼女の声は、青空へとすっと溶けて消えていった。 










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― 新着の感想 ―
情景描写もきれいで、キャラクターの関係性や心理もわかりやすく、読みやすい、とてもいい作品でした! 描写の仕方、参考にさせてください!(^o^) 私もいくつか作品公開してます。 ぜひ、先生に読んでいた…
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