Angel 92 魔を滅する者Ⅱ
船から降りると、そこは乗船した港よりも閑静だった。小さな桟橋がひとつと、いつ建てられたのか分からない管理小屋。それにシャッターが閉まったままの商店がひとつ。遠くに町らしきものも見えるが、シュテルクストは真逆の方向へ歩いていく。
どこへ行くかも分からないまま彼の後ろをついていくが、だだっ広い草原をひたすらに闊歩するだけ。目の届く限りに続く大自然に鳥のさえずり。こんな長閑なところに悪魔とやらがいるとは思えない。
「悪魔は確かにこの世界にいるけれど、僕らが生きているこの空間にはいない。世界の裏側と言うか、別の次元と言うか。なんて表現したって良いんだけど、彼らがこちら側に出てくることはあまりない。人の目映ることはなく、けれど確実に蝕んでくる……まさしく癌のようにね。気づいたときにはもう遅いんだ」
シュテルクストは刀の柄に手をかける。
「そうなる前に、まずは住処を見つけて対処する必要がある。悪魔を倒すには“僕らのいる空間”に呼び出すか、僕らが“彼らの住まう空間”に行くしかない。でも前者は周囲に多大な被害が出てしまうから、今回は後者の方法を取る――ちょっと下がっててね」
シュテルクストに言われるがまま数歩下がる。直人はどこまで離れればいいのか分からず、ひとまずシェリーの横に立った。彼女はこの状況には慣れているようで、真っ直ぐとシュテルクストの所作を見つめている。
シュテルクストは抜刀し、素の刀のまま地面に突きさした。
「間の消失、時の象徴。扉の鍵は我が手のひらに」
(……詠唱? 天命か!? )
以前も聞いたことのある詠唱……。驚愕する直人をよそに、シュテルクストは淡々と言葉を連ねていく。それはとても素人とは思えないほどの練度に思えた。
と言うのも、ただ言葉を連ねているだけなのに洗練されたような優雅さと、精密さを感じる。肌を刺すような感覚が周囲に漂っていた。
「魔は奇霊、隠見みたる夢幻空華」
シュテルクストを中心に、夜が訪れたような暗闇が草原と直人たちを包んでいく。それこそ……全く別の空間に移動したように。暗闇の中、刀が突き刺さった場所からは巨大な紅い鳥居が無数に生まれ、合わせ鏡のように奥へ連なっている。
刀を中心に円形に並んでいた灯篭が不気味に灯る。その炎は冷たい蒼色で暖かみなど一切ない。
「魔窟と現世の道――解錠」
鍵を開けるかのように刀を回すと、ガチャンと大きく低い音が暗闇に響いた。
鳥居の下には紫色のモヤがかかり、それが魔境への入口であることはひと目でわかる。その瞬間、直人を寒気が包んだ。この得体のしれない悪寒は天使と対峙した時によく似ている。人間としての精神が本能で拒否している感覚だ。
「じゃあ行こうか……ここから先、何が起こるか僕にも分からない。確かなことは、最初から全力で行かないと“死ぬ”ってことだけ」
シュテルクストは刀身に手を当て、以前と同じようにmagicaを発動させる。
「傑斬幻顕――擬神抜刀、布都御魂」
雷鳴と共に刀身の形が変化する。以前見た時と変わらない、ただならぬ圧を感じる。彼が最初から布都御魂を使うほどとなると、言葉通りの全力でなくてはならないのだろう。
「内界解放・魔双銃装」
これで……と思ったが、シュテルクストはこちらを訝しげな目で見つめてきた。
「あれ? あの天使の弾丸は使わないのかい?」
「――なんでソレを知っているんですか……?」
「それは、まぁ……」
直人の問いに対し「しまった……」というシュテルクストの顔にイラッときた。
シュテルクストは天使の弾丸どころか魔双銃装も見たことがないはずだ。であれば可能性はひとつ。
「見ていたんですよね? あの戦いを」
「……いや、違うんだ」
「何がですか?」
シュテルクストはばつが悪そうにしどろもどろしている。
「だって人造天使の存在を知ってしまったら、気になるに決まっているじゃないか! さらにその実証実験だよ! あぁ……気になる気になる気になる気になる! 自分を抑えられないんだよ! 稀代の神童と謳われたあの男の傑作を、人工的に天使を生み出す実験の成果を……それが動いているところを見てみたい! なのに……」
シュテルクストはこちらに近づいてくる。信じられないほど顔を近づけられ、あまりの気色の悪さに体を仰け反らせてしまった。そして人が変わったかのように、すごい勢いでまくし立てはじめた。
「なのに君たちがもう戦っているじゃないか! 人造天使と交えるのは僕のはずだったのに! なのに君たちが!!! これはもう一種のねと」
「所長、少し黙ってください。これ以上は公序良俗に反します」
「助手ちゃん、なぜ止めるんだ!!! これは僕の貫かなくてはならない尊厳なんだ!」
「助手ちゃんではありません。シェリーです――すみません直人様。この阿呆は後で締めておきますので」
シェリーは静かに頭を下げる。彼女は申し訳なさというよりも憤然しているように見えた。静かに右の拳が握られている。変人と組んでいる彼女もそれなりの苦労人であることが見て取れた。
「なんかもう、すみません……」
今後、彼の思想に深く介入することはしないようにしようと、そう誓う。




