Angel 89 出会う日まで
目の前で泣きながらこちらを見つめる少女が、どんな感情を持っているのか分かっていた。以前にも真っ直ぐに伝えてくれたことを思い出す。
そして、知っていた。
「――その気持ちに答えることは出来ない」
自分の返答がこれしか無いことを。
彼女には返しきれない恩がある。どうしようもなかった時に手を差し伸べてくれた。直人としての生き方を受け止めてくれた。再び立ち上がり、踏み出すための力になってくれた。
でも、それでも……。脳裏に浮かぶ、あの笑顔が忘れられない。もう二度と見ることはできなくとも、ずっとこの思いは抱え続けて生きていくのだろう。今になって、記憶の片隅においやるなんて考えられないほどの感情だ。
それにここから先、直人とニーナの道は重なることはない。あってはならない。彼女はこの先に待ち受けているものを知らないまま、平穏に生きていく方がずっと幸せなんだ。
巻き込みたくはない。また誰かを失うのがひどく恐ろしい。
——失ってしまうのなら、手に入れない方が良い。酷い教訓かもしれないが許してほしい。もうそれしか分からないんだ。心がそれを覚えてしまったから。
「なら、それなら連れてって! 私も一緒に!」
直人は踵を返し、リュックを背負う。ニーナにはどう映っただろうか。見捨てられたと思うだろうか。君では付いてくるには力不足だと、そう宣告されたように思うのだろうか。
それでも良い。今はこう言うしかないのだから。
「本当にごめん」
そんな人を気遣って言葉を紡ぐことが出来るほど、人間としてできていないのだろう。これじゃあノンデリと言われても仕方がない。ニーナにとって納得できるほどの答えを出せず、その問題から目を背け逃げたのだから。
最後まで振り返ることはしなかった。一緒だ。俺は何も変わっちゃいない。こうして今もどこかで立ち止まっている。なにかを捨てなければ生きていけやしない。
***
『良かったのか? あんな強引に出ていってよ。見たか? あの娘の顔を。ありゃぁ酷いもんだったぜ』
「変に宥めるとかえってニーナの足枷になる——あれでいいんだ。むしろ俺を最低な奴だと思ってくれた方がずっといい」
『ふーん、人間ってのはよく分かんねぇな』
見慣れてしまった街並みをぬけると、目の前には広大な荒野が広がっている。空に浮かぶ月の光は、遮る雲が無いせいか周囲を照らすには充分だった。
『――にしても、あのシェルミールってやつに挨拶しなくて良かったのか?』
「…………」
『ははは! 完全に忘れてたか! どうだ今から戻るか? まだ間に合う距離だぞ』
「冗談いえ。アイツのためにわざわざ労力を使わなくてもいいだろ」
『薄情な奴だな、ノンデリさんよ』
「うるさい。もうお前は引っ込んでろ」
直人はどこか胸に引っかかった何かを感じながら歩いていく。
どんな言葉で飾っても、これは逃走でしかない。誠意と言う言葉が笑えてくるほどだ。
***
また目を覚ました。
自分とは違う意識を感じないこの感覚は久しぶりだ。
今までが異常だった。美月の身体を借りてセラフィムとして保っていることが不自然だった。いくら力を抑えても、美月を消し去り新体になってしまう。
それは揺るがない未来なのは知っていた。だから、最初から覚悟していたはずなのに。あの美月の言葉が脳裏によぎる。
「私は直人の力にはなれない。こんなにも傷ついてほしくないのに、一緒に戦ってあげられない」
『でもそれは彼が願っている事でしょ。思っていることは一緒』
直人は美月を護りたかった。美月が平穏な日々を過ごして貰うことが、彼の1番の望みだったはずだ。――なら、私は? 私は彼にとっては何なのだろう。護ってくれる? そんなわけはない。
彼にとって、天使である私は……要らないはず。違う。"要らない"なんて生ぬるい。それは恨んでいる、憎んでいる。そういった負の感情に決まっている……。
「私決めたよ。今度は私の番なんだ。隣に立つのが私じゃなくても……ね?」
直人の隣は私じゃダメなんだ。あなたじゃなきゃ意味が無いの。でも、それを言葉にするのは美月の決意と覚悟をダメにしてしまう。だから、何も言えなかった。私にできるせめてもの行いは、彼女の決心を無下にしない事だけ。
「直人のこと、よろしくね。馬鹿真面目で不器用でデリカシーないけど」
『本当に……本当にそれで良いのね?』
良いわけが無い。聞いている私ですら、何を言っているのだろうと笑えてくる。
――そう、消えるのは私であるべきだった! 美月は被害者でしかない。天使と言う災厄に喰われてしまった、救済されるべき存在。これから先、他人以上に幸せになる女の子。
なのに美月はすがすがしい笑顔でこう答えた。
「うん!」
なぜ美月は笑うんだろう。これから消えるというのに。私のせいで、私がいたから死んでしまうのに。
『——あなたの事嫌いじゃなかったわよ』
「私は好きだったよ! セラ」
あぁ、私はあんな言葉しかかけられなかった。最期まで、彼女を救ってあげられなかった。無様にも生まれ変わり、誰かを傷つけなくては生きていけないのなら、その命に何の意味があるのだろうか。
「よろしく……か」
彼のことを頼まれてしまった。
自身の胸に手を当てる。この身の内側からあふれてくる恋慕は、きっと美月の物。けれど、彼女がいなくなってしまったのなら、この想いはどこから来たものなんだろう。
「どうすれば……いいの……?」
美月の言葉を無下にはできない。頼まれたのなら、それを叶えるのがせめてもの償い……今は、そう自分に言い聞かせるだけで精一杯だった。
いま、私が生きる意味。それは美月の願いを叶えること。彼の隣を歩くこと。自信は全くないけれど、それが今のセラフィムの在り方だと思う。
「美月……これであってる?」
返答はない。
突然寒く思えて身体を丸める。シーツの擦れる音が、今の状況を現実だと突き付けてくるみたいだ。




