Angel 85 アンジュ・デシュⅧ
「あっちはもう始まったみたいだな」
横ではカーディナルが天命の準備を始めていた。
(こっちもそろそろ始めるか……)
――全身が痛むし視界だってぼやけている。このまま戦うだなんて正気の沙汰では無い。そんな事、自分が1番わかっている。
「ロロネイ・ヴァイタリアーノ」
改めて奴を見る。怒りに満ちたその顔は、怯えた子犬が自らを大きく見せるために、虚勢を張っているだけのようだ。
「それ以上近づいたら撃つぞ!」
細かく震える腕と銃身は、カタカタと音を出していた。あれではまず当たることは無い。彼はこれほどまでに怯えているのに、理性のない獣として雄叫びをあげるのは何故だろうか。
「こう見るとウォータースは凄いやつだったんだな」
彼は冷静さを保ったまま自分を犠牲にしながら最善を選ぼうとしていた。それに比べてこいつはあまりに酷く、醜く、そして幼い。
「――あんな奴と一緒にするな! この俺は、もっと……もっと!」
それから先は言葉にならなかった。
ロロネイにはプライドがある。それも、自分を守る為の安っぽいプライドが。断言出来るほど自信を持てているのは、恐らく彼が挫折をしたことがなかったのだろう。絶望するほどに、自身の無力さに苛まれたことが無いのだろう。
失い奪われ続けてきた直人には理解できないものだった。そんな彼に憐れみを抱きながら、足を前に出す。
「――うをぉぉぉ!!!」
雄叫びと共に、慣れていない構えで射出されるエネルギー弾。かすりもしない。内界解放すら必要はない。直人は再びゆっくりと足を前に出す。前に倒れてしまいそうで、あまり走りたくは無い。
「クソっ! 当たれ!」
「願っただけで叶うなら、そんな楽なことは無い」
『――おいおい、それは俺に対しての当て付けか?』
とてもか細いフォルトゥーナの声が聞こえた。意識が戻ったようだ。
(はぁ……違う。こういう極限の状態で活きるのは、日頃からの研鑽だって話だよ。訓練してない奴が武器を持っても意味がない)
『よく言うぜ。俺を都合よく使っておいてな?』
(お互い様だろうが)
2人とも拳が届くほどの間合い。一触即発のその距離で、ロロネイの目には直人が大きく映った。名も知らないただの青年。最初はシェルミールの隣に立っていたモブのような男。それが血まみれでフラフラしながらも、闘志を失うことなくこちらに手を振りかざしている。
自分には才能も、努力した結果も確かにある。こいつらも自分にとっては道端の石ころ同然。この考えは未だにかわることは無い。では何故敗北したのか? たまたま……そんな不確実で揺らぐ答えに辿り着くのは凡人だ。必ず何かしら原因がある。
その原因は……
「んなもん……知るかよ」
ボソッと呟いた瞬間、ロロネイの右の頬に衝撃が走る。自身の体が大きく吹っ飛び、冷たい地面に仰向けになった。口の中からは鉄の味。口元を拭えば暖かい鮮血がべったと手の甲に付いていた。死にかけのやつに殴られたのにこのざま、か。
殴られたおかげで酷い恐怖と怯えが消え去っていく。星が見える。澄んだ黒い空が自分を見下ろしていた。
(あぁ……ふざけんじゃねぇよ。俺はこれから更に結果を出すはずだった)
右手にあたる硬い物をおもむろに拾い上げる。その硬い鋼鉄の羽は、夜でも綺麗に煌めいていた。太陽の元だったらもっと輝いていただろう。《《付き人》》を改造して作った人造天使も、復元できないほどに大破している。奴の声などもう思い出すことも出来ない。
――まぁ、悪いとも思っていないが。技術の進歩に犠牲は付き物。今回はただこいつだっただけ。
「痛ぇ……」
頭をうちつけたせいか、身体が全く言うことを聞かない。フメテノのように身体も鍛えておくべきだったか……頭上では死神のように直人が拳銃を構えている。
「――次は絶対に俺がお前を殺してやるからな」
「ロロネイ、お前に次など来ない」
握りしめたせいか、鋼鉄の翼で手のひらが切れている。ズキズキと痛むそれが人造天使の最後の抵抗だと思うと、彼女を憎らしく感じた。
「何を勘違いしている。俺が始めた研究が必ずお前を殺すさ。——俺の上に立つことは誰だって出来ない」
「そうか。それは楽しみにしておく」
ロロネイ・ヴァイタリアーノにとって、これが最初で最後の敗北だった。
***
「所長……助けなくても良かったのですか?」
「うん。助手ちゃんも無粋な提案をするんだね。せっかく人が我慢しているってのにさ」
「助手ちゃんではありません、シェリーです。……ですが、彼の容態を見ればいつ死んでもおかしくありませんでした。それなら助けるべきでは?」
「でも生きている。人造天使と僕がそれ以上に興味を持った雨宮直人。そんな2人の対決なんてワイドショーでもみられない! あ〜面白かったね」
「生きているだなんて、そんなもの……ただの結果論です」
少し離れた場所で、静観を続けた2人。シュテルクストは混じりっけのない純粋な笑顔を見せていた。
「よし決めた、次は彼を同行させてみよう!」
「は……? 悪魔狩りにですか!?」
「うん。1人でやるのも飽きてきたし――それに相手が相手だしね。直人には人造天使との戦いを取られたんだ。責任は取ってもらうよ」
絶句した。まるで飽きた味を変えるかのようなノリで、彼をあの現場に連れていく気なのだ。
「どうかした?」
「い、いえ。貴方に目を付けられた彼が不憫に思えまして」
「そう? 直人にとってもいい経験になると思うんだけどな。本人は気づいていないようだけれど、間違いなく黒い太陽になれる。それが最期になるかもしれないけれどね」
やはりこの男、狂気に満ちている。
「こんな人に付いてきた私も、狂っているのでしょうね……」
「助手ちゃん何か言った?」
「いいえ、なんでも」