Angel 49 天使に喰われたオーディナリーⅠ
中に入ると人影は見当たらない。ただ、右の奥側からコツコツと靴の音がこだましている。それは次第に大きくなっていた。自然と緊張感が走る。
「ようこそいらっしゃいました……」
目を白い布で覆った女性が、静けさを連れて歩いてきた。温厚そうな印象を受けたが、この人物が主であることは理解できる。背中から伸びている2つの羽。そしてセラやフワネでは見たことのない天使の輪。原体の天使である象徴だ。
顔を外で倒れている信徒たちに向けると、「はぁ」とため息をついた。目が見えないはずなのに、なにかを感じ取ったようだ。
「私も人のことは言えませんが……もう少し何とかならなかったのでしょうか? 穏便にといいますか……」
「1人は生かしているし先に仕掛けてきたのはそちらだが? 正当防衛と言う気はないが、正当な命のやり取りだろう」
女性は困ったように微笑んだ。
「私たちは命を奪うことはしていませんが……」
「美月を攫っておいて、身内が殺されるのは許せないってか? それは随分と虫が良すぎるな」
「そんな人聞きの悪いことを仰らないでください。あれは彼女の選択だと聞いておりますが。無理やりにはしていないはずです」
「数で威圧して、自由意思がないままの選択と連行を"彼女の意思"と呼ぶならそうなんだろうな」
再びため息が聞こえてくる。
「わかりました——こちらにも非があったのでしょうね」
あくまで"そういう事にしておく"という意思が見える。平行線のまま、互いに誠意さを感じさせない。話しかけるタイミングを見計らってか、ケルスィが口を開いた。
「エルブラム様、久しぶり」
「この声は……ケルスィ……ケルスィなのですか!?」
「そ。今日はちょっと聞きたいことがあって、戻ってきたんだ」
「心配していたんですよ! 私との間にいざこざがあってそれから……!」
エルブラムと呼ばれた天使はひどく興奮したように、その場でおどおどとしている。本心からケルスィを気にかけていたのが伝わってくる。
「あの時は本当にすみません。でも、これは信用の問題。貴方をあたしが信じられなくなっただけなので、エルブラム様の気持ちは関係ないんですよ」
「そうですか……それでも」
エルブラムは誰かを亡くした様に、とても寂しそうだった。彼女たちにも積もる話はあるのだろうが、今はそれどころではない。
「美月はどこだ。ここにいるんだろう? さっさと居場所を教えろ」
「…………」
突然口を堅く閉ざしてしまった。それは——後ろめたい事があるということ。だとしたら……嫌な予感がする。
「どこだ! 早く教えろ!」
「……はぁ、こちらです」
エルブラムは右手を奥の方に向けた。
走った。あの扉の先には、あっけらかんとした顔をして美月が座っているはずなんだ。
——そう願った。いつものように「どうしたの?」と聞いてくる彼女を。
今までで、こんなにも長い廊下はなかった。実際の距離は大したことないだろうが、扉までの道が一生続くような錯覚がある。足を進めても距離が縮まる気はしない。遠い、ただひたすらに遠い。内界解放を使っているから……そのようなこともあるが、それだけではない。
やっとの思いで冷たい金属に手をかけた。この先に美月がいる。はやる気持ちと共に、そこしれない恐怖感が覆ってくる。抵抗感のない扉は、空気をかき分け神秘的な光景を映し出した。
「——美……月……」
包まれていた。柔らかな紅の光に。美月は球体の炎に抱かれ、静かに浮いていた。それはゆりかごにいる赤ん坊のように。目は安らかで、ただそこで眠っているかのようだ。
今まで生きてきて、これ以上に美しいものを見たことはない。とても儚く、朧気で情熱的だ。ただ美しい以上に怖い、恐ろしい、耐えられない。なぜならこの光景を、過去に一度だけ見たことがあるから。
忘れるはずもなかったセラ以外に初めて見た天使の姿。蒼く、美しいその光景は、今目の前にある神秘と変わらない。
(同じだ、フワネエルが暴走した時と……)
アルゴーでは、少女に異変が……壊れた精神をも護るように、蛹になった。水球という繭に閉じこもった。そして蝶が生まれる時、美しい天使の羽を生やしていた。その時と瓜二つだ。
ただひとつ違うのならば、美月の表情はとても安らかである。なにも苦しんでいる様子はない。
(――嘘だろ?)
膝から力が抜けていく。ふらつく脚を動かし、後ろを向いた。
「これは……なんだ?」
自分でも声がかすれているのが分かった。
「彼女の内に眠る天使を、完全に目覚めさせようとしているのです。仮の体、仮体から新たな体、新体へ昇華させている途中です」
そんな話は聞いていない。そんな説明は求めていない!
「美月は……美月は生きているんだろ! なぁ!」
「――彼女に美月という精神体はもう《《ありません》》。今ではもう天使セラフィムの身体であり、天使セラフィムそのものです」
身体中の血液が全て心臓にある錯覚。顔に黒いカーテンを被せられたかのように視界は暗転し、手足の感覚はどこかに消えてしまった。身体中が熱いのに、何故か顔だけは寒い。吐きそうだ。
「――ラム……エルブラムぅ!!!」
怒り。そんな稚拙な言葉では言い表せない感情の波が押し寄せてくる。こんな感覚は親を殺された時以来だった。覚えていない。自分がどのように拳銃を構えたのか、どんな思いで引き金を引いたのか。ただ衝動のままに身体を動かした。
思いの全てを乗せた弾丸は、どこからともなく現れた水球で止まった。そして背後から感じる暖かい触感。
「にぃさま! おち、ついて!」
フワネエルが直人を後ろから抱きしめていた。天使である彼女が本気で抱きつけば、直人は死んでしまう。だが、彼女は人間のような優しい抱擁をしていた。
(……フワネは大きい声で叫べたんだな)
ふとそう思った。暴れる身体を優しくもしっかりと止めらる。
抜け出せないと体が理解するまで、時間がかかった。……そして漏れ出す透明な液体。光る瞳からじわりじわりと確かに垂れていく。子どもみたいだった。文字に表せないような泣き声で、吐きそうになりながら無様に座り込んだ。
「にぃさま……」
フワネエルは終始優しい声で直人のそばにいた。
世界で一番愛していた。護りたかった。失いたくなどなかった。まるで自分の世界を彩っていた天使だった。なのに……それなのに……。
美月は天使に喰われてしまった。




