好きとは
「好き」とは、一体どのような状態の事であろうか。
心が惹かれること。気に入ること。その様。
と書かれているが、それだけでは私は納得行かない。
好とは、女と子と書く。
では、好きとは、女が子を愛でる様な状態なのであろう。
まさか、子が女を愛でる状態では無いだろう。
それでは、流石に限定的で卑俗であろう。
女が子を愛でる状態であったとき、それはどのような状態であろうか。
私に浮かぶ光景は、子を抱き、可愛がり、世話をし、時に共に遊ぶ姿であろう。
なるほど確かに好きという状態では、その様な行動を取ることがあるだろう。
ここで、終わればよいのだがlikeとloveの違いという問題があるのだ。
日本語としていうなれば、友達や家族に対する好きと男女間としての好きであろうか。
どちらの状態であったとしても、抱き合い、誉め、家事などを手伝い、遊ぶだろう。
では、何が違うのであろうか。
時間であろうか。
一生涯共に居たいと思うのはどちらでも同じだろう。
独占欲だろうか。
男女間であれば、他人が近づき嫉妬するのは無論だが、友であっても他人と居れば嫉妬位するだろう。
それなら、何が違うのであろう。
何も違わないのであろうか、同じ言葉で表されているのがその証拠なのであろうか。
否、違いは有るだろう。
何故なら、二つの言葉に違いを、私が感じているからである。
違いは何か。
loveは愛と訳される事も多いだろう、好きと訳すことより在るかもしれない。
愛が使用されている熟語に愛欲というものがある。
私はその言に低俗であるかもしれないが、色欲の意味が入っているように覚える。
しかし、愛でるの語に色欲は入らないように覚える。
つまり、友達や家族に対する好きでは色欲は無く、男女間の好きには色欲が有ると考えられる。
これで、二つの好きが解決し、好きの状態定義に戻ることができる。
辞書定義の好きとは私が定めた好きの状態に当て嵌まるだろうか。
心が惹かれるとは、気に入るとはどの様な状態であるか。
心と言っているからには、抱き合うことや世話、遊びの様な肉欲では無いだろう。
愛にも心が入っているのは、棚に上げておくことにしよう。
好きの心がない語に心や愛といった、説明が付くのは面白いところである。
少し脱線して、好きの逆を話そう。
嫌い、もしくは無関心を挙げる者が多いのだろうと思う。
私が好きなのは無関心である。
ここでの好きとは辞書通りの気に入る、好きでは無く好ましいと書くべきで在ったかもしれない。
私が嫌いより無関心を好ましいと考える訳は、嫌いになるために好きである必要が有ると思うのだ。
例えば、学校や会社に嫌いな人が居た時、それは何故であろうか。
好きになりたかったからではなかろうか。
嫌いになる理由は人其々であるが、もし、無関心であれば、嫌いになる理由を考える価値もなければ。
嫌いになることは無いだろう。
だから、好きの逆は無関心であると定め、好きを拗らせれば嫌いに成ると考えようではないか。
無関心の逆であるとした時、好きというのは関心がある状態だといえる。
関心とは、心にかけること。気がかり。
では、どの段階から関心があると、好きと言えるのだろうか。
名前を覚えていればだろうか。
関心があるとは言えなくもないが、好きではないだろう。
話し合い、感情を分かち合った時であろうか。
関心は在るだろう、友達の好きは有りそうに思う。
何時でも考えていれば、男女間の好きが有ると言えるだろう。
思い浮かべられる好きの状態を挙げ終わった所で纏めて見よう。
軽度の好き
対象が居る時に対象のことを思う程度
重度の好き
対象が居ない時でも対象のことを思う
愛有る好き
色欲を持つ、軽度でも重度でも在り得る
好ましい好き
対象を気に入る程度
嫌いの好き
好きであろうとしたが何らかの要因をもって嫌いとなってしまった
こんな感じだろう。
良さげな結論が出て満足である。
所で、私は何故こんな事を思考しているのだろう。
謎である。
では、考え始めた切っ掛けは......
......
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