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「ねぇ、あなた、また眠っているの? 叔父さん達、お出でになったわよ」
その小さな掌の感触で好幸は飛び起きた。どうやら過去の記憶を辿る内、椅子に座ったまま微睡んでしまったらしい。
「よう、お久しぶり」
「この度は大変でしたわね、急な事で、あたしらも驚きましたわ」
父の弟で今年75才になる三好達吉とその妻の松代が、円の背後から声を上げた。
宮城県気仙沼市にある父の実家は、東日本大震災で被害を受けたが、達吉叔父は今もその近所に住んでいる。
お寺と幼稚園を経営する資産家へ婿入りして早々にリタイア。悠々自適の生活を送っているせいか、父と比べると叔父は楽天的で気さくな印象が強い。
「ありがとうございます。お出で頂いて、父も喜んでいると思います」
好幸が言葉を返すと、達吉は歩み寄り、強く肩を叩いた。少し痛い位の勢いでこういう豪快な気質は父と似ている。
「幹雄兄さんの意識、戻らないかね」
「ええ、肺の状態は相当悪いみたいです。お医者さんは今日、明日が山になるのではないかと」
「風邪をこじらせたと言うが、元々は一昨年のあれだろ。好きな庭いじりで夢中になって転んだのがまずかったって話だよな」
「ええ、植込みの側で倒れているのを母が見つけたそうで、あの時は大事にならなかったんですが」
「後々響くんだ、年をとってからの怪我は。まして幹夫兄さんは丈夫が売りで、生まれて初めて患った大病が脳溢血だもんな。頭を打つのは猶更……あの人の定年前だから、もう10年以上、前になるか?」
「17年経ちました」
「そう……」
昏睡状態にある兄の青白い顔を達吉は上から覗き込み、眉に深く縦皺を寄せた。
こういう表情も父と似ているが、隣に立つ松代が太り気味の体を屈め、まん丸い顔の眉間に皺を寄せる姿はそれ以上に叔父とそっくりだ。
元は他人であっても、夫婦として寄り添う長い年月は、親族の血の絆以上に似た素振りを作り上げるものらしい。
俺と円は、はたから見てどうなのだろう? そう思った好幸の方へ、達吉は向き直り、しみじみと呟いた。
「俺、前は良く兄さんから便りをもらってな、衰えの兆しを余り感じてなかったんだよ。一緒に海外旅行へ行く計画を立てた事もあるし、もっと話したい事だって沢山あったのに、こうも早く……」
「ええ、僕ら家族にも油断があったと思います」
達吉と松子に折り畳み椅子を広げて勧め、二人が一息つく間、好幸は父が庭先で転んで病院へ搬送された一昨年の秋を思い返してみる。
あの日、好幸と円は東京にいた。前の三鷹のアパートより少しだけ広い高円寺の共同長屋へ移り、相変わらず夫婦二人だけの共働き生活を送っていたのだ。
結婚を反対された際の蟠りはまだ根強く、好幸が年を重ね、中年に達した後でも解消されていない。
父子の仲を修復しようとする円の密かな努力もあり、以前のような険悪さは徐々に薄れていたものの、親子が顔を合わして言葉を交わすのは年に一、二度あるかないかという所だった。
だから勤め先で配送部門の係長をしていた好幸が帰宅直後、母から電話がきて「父が救急車で運ばれた」と知らされた時は愕然とした。若い頃の幹夫に抱いていた頑健な印象が強かったせいもあるのだろう。
脳溢血で倒れた時にせよ、かなりの重症だったが、意識を取り戻した後の回復は予想より速かった。
今度もきっと大したことは無い。そう思った。
翌日、好幸は会社を休み、幹夫が収容されていた病院へ向う。
手術は成功、容体は安定していると医師から聞かされ、ほっとしたのも束の間、病室で意識を取り戻した後の父の姿に再び愕然とした。
頭部のダメージによる一時的な失語傾向、記憶の混乱、急速に進んだ老化と衰弱が明確に見て取れる。これではとても放ってはおけない。
しきりに帰宅を望む父の意志に従い、早目に退院したが、脳溢血の後遺症に加え、心身共に新たな懸念が加わった形となる。
母・俶子も見るからに疲れ切っていた。これまで通りの別居を続け、母が一人で父を介護する暮らしは不可能に思えた。
となれば好幸達が高円寺の借り家から出て、千葉県我孫子市の幹夫の家で生活を共にするしかない。
好幸、円ともに通勤がかなり困難になる為、色々と模索してみた結果、食品メーカーの方は退職せざるを得なかった。
人手不足の折とは言え、四十代半ばの年齢で特に資格も無い身の上となると、千葉県内の事務職など簡単には見つからない。
結局、我孫子駅前の不動産屋でアルバイトする事にした。あくまで糊口を凌ぐつもりだったのだが、結局、今に至る2年間、アルバイトを脱して正社員になる道は閉ざされたままだ。
介護負担の増加に伴い、円も以前の職を離れた為、収入は減った。
幹夫には公的年金のほかに企業年金が入る。2つの家計を一緒にすれば多少は楽になるが、好幸にだって意地はある。それに先の事を考えた場合、介護費用の負担増に備えた現金を少しでも蓄えておきたい。
だから生活は極力、質素に。妻も父の介護へ力を尽くしてくれたが、今回の病状の変化はあまりに急激だった。
或いは家族の目の届かない状況下で、再び転倒して頭を強打する様な、何かのアクシデントがあったのかもしれない。
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