長安動乱
連合軍解体――。
それはあっさりと現実のものとなった。
伏兵に敗れた曹操は一旦、河内に入った。そこで残軍をまとめ、体勢を整え、洛陽の本陣に帰還した。しかし、曹操は袁紹に対面して言った言葉は連合の脱退だった。追撃前の宣言通り、腰抜けの諸侯とは決別する事にしたのだ。
「本初も変な意地等捨てて、本拠に帰った方がいいぞ」
曹操は冷たくそう言い残して、張藐、張超と陳留に帰った。
更に連合軍に事件が起きた。
袁術の元に身を寄せていた孫堅が洛陽の整備作業中にとんでも無い物を発見した。
玉璽である。
玉璽は皇帝の所持品であり、詔勅を発したりする際必要な象徴的な物だ。恐らく今は使用されていない古い物だろう。
思い掛けない収穫があった孫堅はこれを本拠に持ち帰る事にし、連合からの脱退を表明したのだ。
しかし、袁紹に玉璽の件は耳に入っており、勝手に帰り始めた孫堅に一計を案じた。
荊州の劉表に待ち伏せを依頼したのだ。
劉表は連合に参加してはいないが、何進に荊州牧に任命されてから荊州の名だたる豪族を押さえ、北から南まで完全に支配するかなりの勢力である。
劉表は袁紹の依頼を承諾し、荊州を通る孫堅軍に襲いかかった。不意を突かれた孫堅軍は大敗北を喫し、ほとんどの兵を討たれた。以来、孫堅軍と劉表軍は犬猿の仲となる。
この裏に袁紹がいることを知った諸侯は、元連合の仲間でさえも容赦しない袁紹に不信感を抱いた。
同時に己の力しか頼りにならない、弱肉強食の群雄割拠の時代になった事を悟った。皆、自分の本拠地で力を蓄えるのが先決としたのだ。
勿論、袁紹とて同じである。総大将のいない軍など無いに等しかった。
結局、連合軍は董卓に大きな打撃を与える事も無く、空中分解してしまったのである。
連合軍の空中分解は董卓の躊躇いを捨てる最後のきっかけとなった。
中華には董卓に逆らえる者が一人もいなくなったのだ。董卓の横暴は更なる拍車が掛かった。
帝には自らを『尚父』と呼ばせ、官職は勝手に任命し、詔勅も自由に発せられるようにした。
人々も董卓を恐れ、参内すると帝に謁見しなくても、董卓には必ず顔を出すという習慣さえ出来てしまっていた。
勿論、楯突こうとした者は董卓が放つ臆病な程過剰な間者によって即刻知らされ、処刑された。
――我々に董卓の暴虐を止める術はないのか。
そう頭を巡らしていたのは司徒(民政大臣)の王允という男だった。
王允は名家の生まれで、董卓が遷都を敢行した際に司徒に就任した。王允は董卓の桁外れの臆病さとそれによる残虐性を見抜き、董卓の命令には全て賛成し、大人しく従っていた。
しかし、それも全ては己が権力を得るため、『好機』が訪れる時の為に董卓に近付いた。
そんな事も知らずに董卓は洛陽時代から大人しく確実に仕事をこなし、賛同してくれる王允を信頼していた。
信頼を勝ち得た王允は秘密裏に董卓排除の為動いていたが、武勇計り知れない董卓を前になかなか行動に移せない。
連合軍を退けた為、董卓に天下が傾いている。早く行動しないと後の祭りとなってしまう。
しかし、困ったことに呂布の存在も大きかった。
先日の虎牢の戦以降、董卓は呂布を重用し始めた。董卓は常に呂布を侍らせ、更に身の回りを固めさせていた。
魔王とそれに従う最強の戦士。
王允はまず最初に呂布を何とかする事にした。
董卓が連合軍に勝利した事を祝って、諸将と官吏に宴の席を設けた。勿論、呂布は董卓側近として招待され、成廉、魏越、張遼も同伴した。
始めに今回の戦功一番である徐栄と呂布が表彰され、玉帯が下賜された。
「遼は何も音沙汰無し?」
成廉が納得いかない様子で聞いた。あの強兵率いる孫堅を叩きのめしたのは張遼の火計である。張遼は一人で孫堅を打ち破ったようなものだ。
「いや、徐将軍は上奏するって言ったんだけど、断ったんだ」
「また何で? 出世の良い機会じゃねーか」
魏越は早速酒を飲み出して、いつもの酔いが回り始めている。
「出世したら奉先様の麾下にいれなくなるかもしれないからな」
「成る程な」
「主想いだねぇ」
「それは廉もだろ」
三人の席だけ和やかな空気だが、周りの者は皆何かに脅えるように俯くのが多かった。
皆、今から何が始まるのか知っているからだ。三人はまだ知らない、これから目の前に地獄が現れることを。
「ところでありゃ何だ?」
魏越は幾分酔った動きで指さした。
宴席の中央に巨大の鼎が鎮座していた。その大きさは人が十人程入れるかどうかというものだ。下には既に火が燃やされ、中からは蒸気が上がっていた。匂いからすると何かを煮込んでいるわけでは無く、ただの湯のようだ。
「何だろう。結構、宴が始まる前から気になってたんだけどね」
「相国の事だからまたイカれた事しでかすんじゃねぇの?」
「しーっ。声がでかいよ、越!」
また悪酔いだ。
「越には困ったもんだよね。……遼?」
張遼は拳を握り締めて、ある一点を凝視していた。
「なんか、……すごく厭な気がする」
張遼の視線の先には鎖に繋がれた男数人がいた。
董卓がパンパンと手を叩いた。
「皆の衆、宴も盛り上がってきたところで酒の『肴』を用意した」
兵に連れられて入ってきたのは捕虜と思しき男五人だった。五人は精気のない顔で、諦めが表れている。
「こ奴等は先の戦の際、袁紹らに内通していた者じゃ。裏切り行為は万死に値する。よって、この場で公開処刑を行う」
にやりと董卓の口元が歪んだ。
やれ、と董卓が短く言うと五人はご馳走を待ち受ける巨大な鼎の横に連れて行かれた。
席の者は皆どよめく。董卓はここで人を煮殺そうと言うのだ。捕虜は足枷が鎖で繋がれているため、五人で鼎の横の台に立たされた。
「行け!」
兵が一人目を押したが、ギリギリ踏みとどまった。煮えたぎる湯を前に死への恐怖が湧き出したのか。一人目は動くことも出来ない。
舌打ちをして兵が棒で突き落とした。ボチャっと湯を撒き散らして、一人目の姿が消えた瞬間、
「ぐギャアアアああぁぁ」
大量の熱湯が飛び散る。百度近い熱湯である。男の頭髪は湯掛かれるとすぐに抜け落ち、皮膚がボロボロに剥がれ始めた。
一人目が暴れると二人目が引っ張られ、次々と捕虜は熱湯地獄へと落ちていった。
成廉達の席側に一人、這い上がろうとしてきた。
「うっ」
鼎の上から顔を出したのは皮膚が全て剥がれ落ち、眼球は白濁して片方は取れかかっている、という目もあてられぬ形相だった。
幸い、すぐに力尽き落ち、視界からは消えたが三人は目を逸らした。死の断末魔が叫びを上げる中、宴席は静まり返った。気分が悪くなって何も告げずに退席した者までいる。
その中でただ一人、董卓だけが愉快そうにガラ声で笑い続けていた。その割れ鐘の様な不快な声が三人の頭に響く。
成廉は頭が痛くなってきた。魏越は怒りで拳が震えた。張遼は怒りを内に秘め、ただただ董卓を睨み付けた。
――董卓の声が聞こえるのが厭だ。視界に入るのが厭だ。同じ空気を吸うのが厭だ。同じ国にいるのが厭だ。董卓が生きているのが厭だ。
あいつは生きてちゃあいけない!
董卓のした事は到底、人のする事では無い。三人は無性に董卓を殺したくなった。
その様子を王允は静かに見ていた。
「ったく! 何なんだ!? 董卓の野郎は!」
官舎に帰るなり、魏越は叫び散らした。成廉も張遼も止めない。むしろ同感である。
「あれが人間のする事か!? 処刑するならするで首を跳ねた方が苦しまないだけマシだろ!」
「あの時、」
張遼が静かに口を開いた。
「董卓を殺そうか、と思った」
「そりゃ奇遇だな。俺は今でも殺してぇよ」
魏越は酒の臭いを振りまきながら胡床を蹴り飛ばした。
「あんな奴が相国だなんて……帝が不憫で堪らない」
張遼も吐き捨てる様に呟いた。
成廉だって二人のやり取りを聞かずとも叫びたかった。だが、その衝動は気持ちの悪さと、董卓は呂布の主であり自分は呂布の臣下である、という自覚でかき消された。戦場で飽きる程死体を見てきたつもりだったが、さすがにあの光景は衝撃だった。
鼎の中で叫び声を上げながら人とも見受けられない肉が煮立てられる様が、頭から消えないのだ。こちらの気も狂いそうだ。
客人が訪ねてきたのはそんな時だった。
「司徒様がおいでです」
従者の一人が知らせてきた。成廉は今のところ呂布の従者の長という事になっている。魏越と張遼は校尉一筋でいくらしく、従者は引退したようだ。
――それにしても妙だ。
中郎将とはいえ呂布の様な一介の将の元を司徒という身分は訪れるものでは無い。
司徒訪問と聞いて魏越は訝しげな顔をしたが、張遼は何かしらを悟ったらしく、
「俺達も応対しよう」
と言ったので、三人で迎えることにした。
「申し訳ありません。呂将軍は只今不在でございます」
成廉は茶を出しながら詫びた。
「よい、また相国に呼ばれたのだろう」
王允は人の良さそうな、乱世向けで無い顔立ちの中年男だった。いかにも文官といった風貌だが、薄い皺が健康を示している。
「将軍に何か用件があったのではありませんか?」
張遼が一息ついた王允に尋ねた。
「将軍にお伝えしましょう」
「ふむ、まあ君達も座りたまえ」
王允はぐっと三人に近付くと
「実は君らにも用件がある」
「相国の件ですね」
張遼が落ち着いて言った。
「さすが鋭い、張遼殿。噂通りの勘だ」
「噂通り?」
「呂将軍がよく君ら三人の自慢をするんでね」
「そうなんですか?」
呂布が自分達を褒めるなんて初耳だ。知らない一面という事だろう。
「そんな事どうでもいい。本題にはいってくれ」
魏越が遮った。
「越!」
魏越は呂布以外を敬意の対象としてみなしていない。昔からの事だが敬語を使うのは呂布にだけだ。その度に成廉と張遼が注意するが全く訊かなかった。
「よいよい」
成廉と張遼を制して、王允は笑った。が、すぐに真面目な文官特有の刃物の様な目つきで衝撃の言葉を放った。
「董卓誅滅に協力してほしい」
「ち……誅滅……、ですか?」
さすがに張遼でも予想外だった。てっきり、近日の董卓の横暴についてかと思っていた。
誅滅。つまり、董卓を殺すのを手伝え、と言うのだ。
「あの、……ご冗談でしょう?」
成廉がおずおずと聞いた。
王允は董卓が上洛してから今まで側近としてその命令に従ってきた。董卓は自分の言う事に賛同するものをとても大切にする。王允への信頼は厚く、董卓の天下がほぼ決まった今の時勢、将来の安泰は保証されているはずだ。
王允に董卓が死んで得する事など無いはずである。
「董卓が政権を握ってから今日までの暴挙、君らだって知っておるだろう」
王允は口髭をいじりながら語り出す。それくらい三人だって、いや、天下の誰しもが知っていることだ。
今の帝・協を擁立して以来、反対勢力をことごとく処刑。意見した者や気に入らないだけの者まで、気紛れで殺された。私財の蓄えの為に付近の邑を襲撃し、男は皆殺し、女は陵辱された。
そして、連合軍が解散してからは後宮に入り浸り、本来帝に仕えるはずの女官は董卓の物となっている。
官職は自分の部下に好き勝手に与え、一族は九十を数える母親から孫娘まで爵位を贈っているという。
僭越もいいところだ。董卓がやっているのはただ、己の欲望のおもむくままやりたい放題しているのだ。
その上、後になってから己の身に復讐が返ってこぬように、殺す時は臆病といえる程に徹底的である。
「そんな董卓の被害を一番受けるのは帝だ」
王允は溜め息混じりで言った。
「更に董卓は新たに長安の北に城を造っている」
長安の北・嵋である。長安に遷都した頃から着工して、完成間近だ。
「計画ではその城の城壁は長安のそれよりも高く、食糧は二十年分ともいわれる」
まるでもう一つの都でも造るかの様な規模だ。十万以上の人民が徴発されて建造されている。民力は先の遷都以来衰え、苦しんでいるのは民もまた然りだろう。
「儂とて董卓に従ってきたのは全て漢帝国の為、帝の為なのだ」
「だから董卓を殺そうってか?」
「その通り。董卓の暴挙を止め、天下に太平をもたらすにはそれしかあるまい」
王允は言い放った。
しかし――、
「フンッ、信用できねぇな」
魏越は酒臭い息を吹きかけた。成廉、張遼も同じだった。
この話自体が罠の可能性がある。董卓が叛乱の芽を摘み取るためにこんな探りを入れているとも考えられるのだ。
特に呂布とその麾下である成廉らは董卓に最も近い軍である。呂布が叛乱を起こせば、董卓もさすがに手も足も出ないだろう。
側近である王允が董卓の回し者であると考えるのが普通だ。
「董卓誅滅の話が本当だとおっしゃるのなら、それなりの誠意と信用出来る証を示して頂きたい」
張遼は油断無く、王允を促す。フーッと王允は溜め息をついた。
「さすが、呂将軍の子飼いの腹心。抜かり無いようだ……」
王允は懐から一通の書状を取り出した。
「本当は呂将軍が帰宅してからと思ってたのだが……、見るがよい」
「こ…これは!」
覗き込んで三人は息を呑んだ。
《相国、政権を握り、朕、帝位に就いて二年経つ。早くも三年を迎えんとす。
相国、百官を畏れさしめ、それを殺すること甚だなり。民もまた然り。
その暴虐、世間で相国を魔王と称する程なり。
朕未だ年少、無力の為それを留められず。
しかし、相国を留むること朕の責務なり。
よって司徒、王允をして密勅を下す。
相国に近しい者と合して謀り、相国を死に至らしめよ。
朕、相国の死をして、天下太平を切に願う。 協》
それは帝から密かに下った命令、密勅だった。
時の帝・協は未だ十一歳。そんなまだ子供の皇帝が切々と今の漢帝国を嘆く心境と董卓誅滅の意志を綴ったのだ。
「疑って申し訳ございません」
成廉と張遼が頭を下げてしまったので、魏越も渋々詫びた。
「いや、儂も始めから密勅を示せば良かったのだ」
王允は後は協力を誓って欲しかった。
「……それで、協力してもらえるか?」
「勿論です!」
張遼が勢い良く言った。
「俺…、いえ、私だって漢帝国の一員。僭越ながら遠くから、いつも帝に忠誠を誓っておりました。何なら呂将軍も説き伏せてでも董卓を殺して見せます!」
張遼の言葉に王允は満足げに頷いた。
「魏越殿は?」
「しゃーねーな。協力するよ、董卓の野郎は殺してぇからな」
魏越も折れて、王允は満足だった。
二人が董卓誅滅に息巻く中、成廉は黙り込んでいた。
「おい、廉! まさかお前反対なのか?」
張遼が少し頬を紅潮し、興奮した様子で聞き咎めてきた。成廉はこんな張遼を初めて見た。
いつだって冷静沈着な彼らしからぬ様子だ。
「僕は、奉先さんが協力するなら……」
若干、威に圧されつつ成廉はたどたどしく答えた。
「よし、決まりだの」
王允は膝をポンッと叩いてそう言うと立ち上がった。
「儂は来年辺りを考えておる。それまでに将軍の説得を頼むぞ」
「はい」
王允は三人の言葉を聞くとあっさり帰ってしまった。
「司徒殿、いかがでした?」
帰りの馬車の中、王允のほかにもう一人、男が乗っていた。
「案外、簡単だったな」
王允は満足げに鼻を膨らました。
「これで上手く董卓が死ねば、儂の天下」
「そして呂布とその腹心を手懐ければ、恐いものなどありません」
王允は帝への忠誠など全く無かった。始めから董卓に仕えたのは董卓を天下一歩前で誅殺するのが天下への一番の近道だったからだ。
呂布もその腹心もただの駒に過ぎない。先程の様子では彼らを御すのは容易そうである。
「儂が天下を取ればお主の褒美も好きなだけ取らそう」
「それには及びません。私は天下が穫れれば充分でございます」
男の声はいたく冷たかった。
「全く……無欲の男よのう、文優」
王允の横で静かに微笑んだのは、かつて董卓に仕えていた文優だった。
――ん? 戸は確か張遼が閉めていったと思ったが。
呂布が閉められたはずの戸が開いているに気付いたのは、張遼の董卓誅滅を説く熱い弁舌の後だった。
張遼が折り入って話がある、と言うので聞いてみれば、呂布にとってたいして興味の無い話だった。それでも、帝の苦しい立場を考えて欲しいと懇願するので、一応保留という事で下がらせた。
ひと息ついて、酒でも飲もうかとすると、秋の少し寒い風が吹き込んでいたのだ。
――誰かいる。
室の外に人の気配が明らかにある。
「誰だ?」
呂布が静かに尋ねると、一人の男が音も無く呂布の前に現れた。呂布は男に見覚えがあった。
「文優ではないか!」
「お久しぶりでございます」
文優は恭しく頭を下げると小さく笑った。
「よく来たな、すぐに酒に準備をさせよう」
呂布は成廉を呼ぼうとしたが、文優はそれを止めた。
「今夜は呂布様に内密に話があって来たのです」
こっそりと呂布の室を訪れているので、それも当然だろう。
「分かった。……それで? 話とは?」
「董卓誅滅の密勅の件は既にご存知でしょう」
呂布は一瞬、言葉に詰まった。
「お前もか……」
呂布は失望を込めた溜め息を吐き出した。
「それを文優が言ってくるという事は……今は王允の元か」
「おっしゃる通りです」
「なぜだ?」
いつだったか、文優とは将来の主従を誓ったはずだ。
「私の夢を以前語ったのは覚えていますね」
文優は天下への野心が強い。文優の夢は天下を手に入れる事。
「董卓を利用出来なくなった以上、天下を手に入れる為には王允について董卓を殺すのが一番の近道なのです」
「だろうな」
「呂布様との約束だって忘れていません。今でも呂布様の人柄と武勇を尊敬しております」
文優は少し目を泳がしてから、話を続けた。
「お願いします! どうか私と司徒殿に協力して、共に天下を掴みましょう!」
文優は手を床につけて、必死に頼み込んだ。
――こんなに必死になっているの文優を見るのは二度目だったかな。
以前、文優が董卓の参謀・李儒と言い争いをした時も、普段の冷静な文優らしからぬ興奮だった。
「お前の気持ちと熱意は良く分かった」
文優はパッと顔を上げた。しばらく沈黙が続き、二人の視線は交錯し続けた。
「董卓は俺が殺そう」
「それならば、わ……」
「だが、王允に協力してではない、俺の意志でだ」
文優の顔が曇る。
「どういう意味でしょうか」
呂布はしばらく黙って答えなかった。
「文優、俺はお前が賢くて、知略に富み、そして天下への野心が強い事を良く知っているつもりだ」
呂布は睨む様に文優を見た。
「だがな董卓を殺して本当に天下が手にはいると思うか?」
天下には董卓でも従わせられない群雄が散らばっている。果たして、王允ごときにそれができるのか。
「董卓を殺して、最初の障壁は西涼の四将軍だ」
董卓の本拠地である朧西・天水を中心に李確、郭[シ巳]、張済、樊稠が十万の強兵と共に守備している。北の大地で鍛えられた彼らの騎馬隊は精強だ。
「董卓を殺し、長安の官軍十万を掌握出来たとして、王允が勝てると思うか?」
王允は文官としては有能だが軍事に関しては素人だ。
「そのために呂布様に協力を願って……」
「悪いが、」
呂布は手で制した。
「俺は董卓を殺すとしたら、その後は麾下以外の兵を解散させて長安を出る」
「そんな……」
文優は開いた口が塞がらなかった。
呂布は西涼軍と闘うつもりなど無かった。今呂布の元にいる蝗紅隊を除いた兵は皆、西涼出身だ。家族がいるかもしれない西涼に彼らを使って攻め込むのは忍びない。
「董卓を殺すだけしといて、私達を見捨てるというのですか?!」
怒った様に文優が問い詰める。が、呂布の一睨みで黙り込んだ。
「俺の意志で殺すと言った。本来なら四将軍が恨むのは俺だろう、……王允が董卓に取って代わろうとしなければな」
王允が政権を奪えば、四将軍は王允によって董卓は殺されたと思うだろう。 そして、呂布のいない王允軍は西涼軍に徹底的に叩き潰されるだろう。文優はやはり口を開けなかった。
「そもそも、お前の天下取りは間違っている」
「??」
「天下はな、他人からかすめ取れるような甘いもんじゃないんだよ」
文優はうなだれた。
外戚という立場で政権を握った何進は十常侍に殺された。その混乱に乗じて政権を握った董卓もまた、配下に殺されようとしている。
王允が政権を握ったところで西涼軍に攻め込まれ、滅びるだろう。そして、四将軍もまた配下か、はたまた他の勢力に滅ぼされるのだ。
「俺はな、天下というものは一群雄として、力をつけて少しずつ大きくならなければ見えないものだと思うのだ」
既に冀州の袁紹、陳留の曹操、幽州の公孫讚、荊州の劉表、益州の劉焉、…その他各地の群雄は着々と力をつけている。
それに比べ、王允と文優は楽をしようとしている。そんな事をして本当の天下が見えるはずが無い。
「董卓のする事は確かに赦せる範囲をとうに越えておる。俺も赦せないと感じてはいるし、天下から除くべき者であろう。
だから俺は董卓を殺す」
呂布は文優を見下ろした。
「後はお前達の勝手だ」
「わ……かり……ました」
文優はうなだれたまま立ち上がり、扉に向かった。
「失礼しました」
文優は来た時と同じように闇夜に消えた。
「次! 錐攻の陣!」
成廉の指示が響き渡ると蝗紅隊は駆け続けながら、まるで巨大な漆黒の生き物の様に動いた。
成廉と蝗紅隊は毎日、午前中の調練が日課だ。本来なら呂布の麾下である蝗紅隊を調練するのは呂布の仕事なのだが、いかんせん呂布は董卓の護衛の為に調練が出来ないため、成廉に任されているのだ。
魏越、張遼、高順は他の九千の兵を三千ずつ調練している。
一度、合同訓練で各隊で闘った事がある。木製の武器を使う。
将才としては張遼、高順なのだが蝗紅隊の兵が強過ぎる為に圧倒的だった。
以来、蝗紅隊は合同訓練に混ぜてもらえなかった。あんまり強過ぎるのも問題なのかもしれない。調練は成廉にとって孤独な時間だった。
「よし、今日はここまで。お疲れ様、以上、解散!」
蝗紅隊の兵は調練が終わると皆、思い思いの事をする。
成廉もまた同じである。普段通りなら魏越らの待つ酒屋に向かう。この酒屋は成廉らが洛陽で常連だった店が、遷都に伴い移転した店だ。
魏越はここの店長と仲がいい。その誼で長安に移ってから酒屋といったらこの店にしか行かない。
ただ、今日は行く気がしなかった。
なぜなら昨日、呂布が遂に董卓誅滅を実行すると腹心の四人に宣言したからだ。
特に張遼が喜んでいた。恐らく酒屋に行ったところで、その話しかしないだろう。
成廉は気がすすまなかった。別に、董卓を殺す事を躊躇しているわけでは無く、呂布が言った話が呂布の悪名をまた増やしそうで心配なのだ。
呂布は大義名分である密勅を伏せて、董卓を暗殺するというのだ。これでは主殺しと汚名をかけられかねない。
ただでさえ丁原の件で父親殺しの汚名が世に広まっているというのに、更に増えてしまう。
呂布はそれを気にする様子は無い。だからこそ成廉は心配なのだ。
人は風評というものをヤケに信用する。会ったこと、見たことも無いのに風評のみで判断する。そして、勝手に惑わされる。
あそこの太守は部下に寛大で褒美が沢山貰える、そんな噂に釣られ仕官してみれば全くの逆だって有り得るのだ。
それでも、人は風評を中心に人を見る。
そんな天下に悪名を広めて、いざという時呂布はどうするつもりなのか。
成廉は雷音に跨ったまま、雷音の脚が赴くままふらふらと長安城内を彷徨いていた。
――そういえば……白鈴はどうしているのだろうか。
成廉は名前しか知らない、少女に思いを馳せた。
初めて会ってから一年の月日が経とうとしている。白鈴とは遷都以来、行方知れず、洛陽の酒屋が唯一の共通点だった。白鈴は成廉に会いたくなったら、正午過ぎに酒屋に行けば必ず会えたのだ。
しかし、長安への遷都によって、白鈴がなかなか身の上話をしてくれない事が災いし、成廉は白鈴の手掛かりを全く掴めずにいた。
――このまま、もう会えないのかな。
成廉は白鈴に惹かれていた。
小さい躰の可愛らしい仕草は今でも成廉の脳裏に焼き付いている。会えるものなら会いたい、だがその方法が分からなかった。
成廉が裏路地に入った時、女の悲鳴が聞こえた。
長安は董卓が遷都してから、治安がかなり荒んでいる。強制移民により職をなくした者は数知れず、盗賊やごろつきに身を落とす者も少なくなかった。
今、長安でまともな職に就いているのは官吏と董卓の虐殺から逃れた富豪だけで、ほとんどの民は重税に喘いで明日を生きれるかどうかの生活をしている。
そんな長安の裏路地の悲鳴など日常茶飯事なのだ。
だが、なぜか今回ばかり気になった成廉は声のする方へ雷音を進めた。
建物で日の当たらない影になった裏路地に小さな少女が丸腰の男三人に服を脱がされていた。
少女はこんな裏路地に似合わない、というより不自然な豪奢な着物だった。恐らく強姦ではなく服狙いの強盗だろう。
「お前たち! 何をしている!?」
成廉が叫ぶと三人の男は慌てた。
「やべぇ! ずらかるぞ」
どうやら成廉の格好を見て、都尉と思ったらしい。少女の恐らく絹で出来た上着だけを盗って、彼らは逃げてしまった。
「君、大丈夫?」
成廉は雷音から降りると、倒れ込んでいた少女に手を差し伸べた。
「だ……大丈夫です」
その声は聞き覚えがあった。
少女ははだけた服を直しながら、羞恥心からか赤らめた顔を上げた。
二人の目が合う。成廉は時間が止まったかのように感じた。
「白……鈴……?」
涙を浮かべた瞳で成廉を見上げてきたのは白鈴だった。
「れん…れん?」
キョトンとした目で白鈴は成廉を見上げてきた。寸の間を置いて、その目に涙が滲み出す。
「廉々!」
白鈴は成廉に飛びついた。
「うわっ」
成廉は体勢を崩して尻を打ってしまった。
「な、何でこんな所にいるの?」
驚いた成廉が聞くと、白鈴はめそめそとここに来た経緯を話し始めた。
白鈴は遷都の際、祖父に特別に手配され、略奪されること無く無事に長安へ移動出来たらしい。
成廉の事が気にかかっていたら、いても立ってもいられない心境だったが、同時期に反董卓連合が結成されて戦になってしまった。白鈴は成廉が戦に出陣する事を知っていたので、かなり心配してくれたらしい。
「でも、呂将軍の元で闘うって聞いて少し安心したの」
成廉は眉を上げた。
「軍の陣容なんかがよく分かったねえ」
「え? あの、おじぃに頼んだら色々教えてくれて……」
軍の配属、陣容は秘密事項である。普通は戦に参加している者、中央の高官ぐらいしか知ることが出来ない。白鈴の祖父という者は余程の位という事だろう。
それだけ高官なら名声もある。もしかしたら、すでに会っているのかも知れない。
それから白鈴の元には呂布勝利の報せが訪れ、その度に白鈴の顔に安堵の表情が表れたのである。
虎牢を中心に半年以上続いた対戦も、連合解散という形で終わりも告げ、白鈴はまた成廉に会う機会だ、と早速捜す事にしたのである。
しかし、情報源だった祖父は戦以来、なかなか会ってくれず、手紙も返事が無い。
どうやら屋敷に籠もっているらしい。
仕方無く、前回の様に館から脱け出した白鈴は成廉の姿を求めて長安の街中を捜し回ったのだ。
「そしたら、さっきみたいに変な人たちに……」
襲われるのも当たり前である。成廉は白鈴がどの位の家の娘なのかは知らないが、白鈴の服装はとにかく煌びやかだ。
野盗どもに襲われるのも仕方が無い。
今の長安の裏路地に豪奢な服装の少女が彷徨いていれば、それは襲ってくださいと言っているようなものだ。
白鈴は『今の長安』というものを理解していないようだ。董卓が遷都してからの荒れようを耳にしないのか、余程の世間知らずのお姫様である。
「話はこれくらいにして帰ろうか」
成廉は白鈴を雷音に乗せた。その高さで白鈴の顔に笑みが戻る。
裏路地から出ると、日が傾き夕陽が街を照らしていた。
「なんか思い出すね」
「何を?」
成廉は手綱で雷音を引きながら聞くと、白鈴は笑いかけた。 夕陽で簪がキラキラ光る。
「廉々と初めて遭った頃!」
「あぁ、そういえば……」
黄河の畔に二人で行った時も綺麗な夕陽だった。成廉は白鈴に会うまでまともに夕陽など見たことなかった。在るのが当たり前の物を美しいと感じなかった。
しかし、今は違う。白鈴と出逢い、二人で見る夕陽は至福の世界だった。
「ここでいいよ」
長安の北で白鈴は止めた。
「何で? 送っていくよ」
成廉が振り返って言うと白鈴は首を振った。
「後はあたしだけで行けるもん」
白鈴は眉を寄せた。そうは言っても成廉は不安である。
「だめだよ。さっきみたいに襲われたらどうするの?
それにこれを機会にどこに住んでるのか知っとかないと、また会うの大変だよ」
「いいから!」
少し怯えを感じさせる顔で白鈴が叫んだ。いきなりの豹変に成廉は驚いた。
「どっ……どしたの?」
「ここで……いいの」
白鈴は雷音から降りようとした。しかし、雷音の肩の高さは成廉の身長とほぼ同じだ。
案の定、白鈴は落ちて尻を打ってしまった。
「痛ッ」
「だっ大丈夫!!?」
「大丈夫」
成廉が手を差し伸べる前に白鈴は立ち上がって、大通りの人混みに紛れてしまった。
――おかしい。
白鈴の顔は明らかに成廉が館に来ることを拒否していた。成廉は雷音の手綱を握り締めたまま、白鈴の後を追った。
人混みでも目立つ程の服装であとをつけるのは容易いことだった。
しばらく走ると、上流階級の貴族の屋敷の集まる所まで来た。ここらは爵位を持った者や皇族、王族が生活している。
白鈴はそのうちの一軒の門番が頭を下げている門をくぐった。
もちろん成廉が追えるのもここまでだ。門番にあっさり止められた。
「こちらは渭陽公のお屋敷だ。ご用件は何か?」
成廉は耳を疑った。
「渭陽公?」
「そうです」
「失礼を覚悟で聞きますが今通ったお子ですか?」
「はい」
「それは本当なんですか? 何かの間違いとか…」
「まことです。密かに外出なさっていたそうで」
「そう……ですか。また来ます」
成廉は来た道を引き返し始めた。
だんだんと頭が真っ白になる。驚愕と失望感に成廉は押しつぶされそうだった。
渭陽公、白鈴は爵位を持った成廉よりも遥かに上の位であったのだ。
そして、董卓が孫娘に贈っていた爵位も渭陽公。
つまり白鈴は董卓の孫だったのである。
――どうして白鈴が……。なぜ董卓の孫なのか。いや、どうして教えてくれなかったのか。
成廉は官舎に帰り着いてから溜め息ばかりついた。
「廉、お前どうしたんだ? なんか変だぞ」
様子を悟った張遼が声を掛けた。魏越も心配そうに見ている。
「あ……の」
成廉は口を開いたが何と言えば、何から話せばいいか分からなかった。
「ごめん、一人になりたい」
なんとかそれだけ言うと、成廉は戸に手を掛けた。
「奉先様が召集かけてるぞ」
魏越の呼び掛けに成廉は片手を挙げて了解の意思を見せると、静かに中庭に出た。
あれから董卓誅滅の計画は着実に進んでいる。
董卓の暴虐は殺すべき凄まじさで、前までは成廉は董卓を殺す事自体に抵抗は無かった。出来ることならば己の手でとどめを刺す事も厭わない。
――でも……。
今は違う。
董卓は白鈴の祖父であり、白鈴は董卓の孫なのだ。董卓を殺す事。それは白鈴を殺す事に等しいと言える。なぜなら、董卓の暴虐は一族皆殺しにされて然るべきなのだ。
普通に逆賊と見なされても三族処刑だが、董卓は度が過ぎている。
恐らく王允は董卓の一族全てを根絶やしにするだろう。その中に白鈴がいるのだ。そう考えるだけで成廉の胸は張り裂けそうだった。
――もしかしたら僕が手をかけることになるかもしれない。
董卓が死ねば呂布を含め、軍は王允が掌握するだろう。そして最初の命令が董一族の皆殺しだ。そうなれば成廉がなんとかする事は全くをもって無理である。
――とにかく、明日もう一度渭陽公の屋敷を訪ねよう。
もしかしたら似た少女を追っていたかも知れない、という小さな希望を胸に成廉は呂布の室へ向かった。
呂布の室に成廉、魏越、張遼、高順が集まった。
「では、今回の計画を説明する」
呂布は腕を組んだまま話し始めた。
まず、完成した嵋城。
何十万という人民を動員した建設が終了し、董卓は一族と共にそこへ移住する事になっている。金銀財宝を荷車数千丈、美女千人を侍らせるという噂である。嵋城には兵糧二十年分が民から徴収され、貯蓄されているという。
一歩間違って籠もられてはどうしょうもない。まずは誘き出す事が必要である。
そこで、董卓が中央から離れてから、すぐに帝、王允に協力してもらい、董卓に帝位禅譲の偽勅を発する。董卓は浮かれてすぐにでも参内するだろう。
そこで成廉らが待ち伏せし、万が一の為に呂布も董卓の護衛として挟み撃ちする。
帝の御前であるから護衛兵の数も限られる。董卓を殺せるのは確実である。
董卓を殺したら、呂布はすぐさま手勢を率いて嵋城を襲撃。董一族は皆殺し、財宝・兵糧・後宮から連れ出された女官を奪還する。
その後、呂布は西涼の董卓四将軍に備える事となる。
「肝心なのはそれからだ」
「はい、李確らはかなり手強いでしょうから……」
「そうではない」
「??」
「俺は嵋城陥落を見届けたら蝗紅隊以外の兵を解散させて、長安から出奔するつもりだ」
四人は顔を見合わせた。呂布は一体何を言い出しているのか。
「しかし! 奉先様! 我々がいなくては王允なんかに李確らを退ける将才などありません」
魏越が軽く反発した。
「だろうな。王允は殺され、帝は李確らの虜となるだろう」
「そんな!!」
張遼の顔色が変わった。
「俺達は帝の現状を打開するために司徒殿と協力するんじゃないのですか!?
その司徒殿を見捨てるおつもりですか!?」
呂布は険しい目つきで張遼を見た。
「王允に何を吹き込まれたのか知らんが、俺達は今回利用されているだけだ」
「どういう事です?」
「王允は董卓に代わって天下を我が物にしようとしているにすぎん。董卓に対抗しうるのは董卓の側近であり、精強な軍を率いる俺達だからな」
「そんな……」
「それとも張遼は王允の狗として生きていきたいのかな?」
さすがの張遼も口を噤み、皆黙り込んだ。なんと言っても皆一番は呂布なのだ。
「安心しろ、李確らもすぐに何者かに滅ぼされるだろう」
それが天下というものだ、と呂布は呟く様に言った。
「出奔したら俺もそろそろ旗揚げしようかと思っている」
この言葉には皆顔を上げ、目を輝かせた。
――遂に呂布奉先が天下に名乗りを上げる……!
「そこで新たな本拠地を張遼の才に任せようと思う」
張遼がハっと頭を下げる。本拠地の選定を任すというのだ。呂布が出奔して、旗揚げすると言った以上、張遼も皆も呂布の為に尽力するのみだ。
「以上! この事は時がくるまで門外不出とする」
結局、成廉は一言も言葉を発せられなかった。
計画通り事が進めば、渭陽公が白鈴だった場合、その死は免れられなくなったのである。