洛陽炎上
じりじりと劉備は馬を進める。
呂布軍の兵が何人かが功を上げる好機、と劉備に斬りかかったが皆すぐに首が飛んでいく。その度に数の過ぎた飾りが発てる金属音が成廉には耳障りだった。
三人の周りが静まった。兵達は無理するのを諦め、この奇怪な敵将を成廉と魏越に任せることにしたようだ。
「いくぜ!」
雄叫びを上げて、先に動いたのは魏越だった。魏越が持つ戟は特製だ。呂布の方天牙戟程では無いものの、並みの兵卒では操るのは無理な代物である。
しかし、劉備は二振りの剣で易々と受け止めてしまった。そのまま柄の上を滑らせた剣が魏越の手に襲いかかる。
「うゎっ!」
思わず魏越は戟を手放した。
――ヤバい!!
「武人が己の武器を手放すとは、愚行ぞ!」
魏越は襲い来る刃を予測して、躰を強ばらせた。
劉備が魏越の首目掛けて剣を突きつけたところで、成廉が雷音ごと劉備にぶつけた。劉備がよろめいた時に、魏越は反射的に剣を抜いて突いた。
が、劉備は雷音の尻に飛び乗って剣撃を避け、ついでに成廉に一撃した。
「うわっ!?」
成廉は躰をめいいっぱい倒して避けようとしたが、髻が簪と共に斬り飛ばされた。
成廉が反撃に移ろうとすると、既に劉備は魏越の馬に飛び移り様に斬りかかり、そして自分の馬に戻っていた。
まるで舞うがの如き攻撃に成廉と魏越は翻弄された。こちらから攻めれば、受け止められるか受け技が二人に襲いかかる。
しかし、受けに回っては何処から来るかも定かで無い剣撃が待っている。
「まだまだだな」
劉備が二人に告げた。事実、成廉はこの劉備という男との差を感じた。
――この人でこんなにもかなわないのに……。奉先さんはどれだけ大きいんだよ?
成廉は呂布の武人としての大きさをひしひしと、身を持って感じた。
呂布と張飛、関羽の二人の打ち合いは激しさを増し、兵達は戦闘を止めて見入っていた。中には余りの気迫に圧され、後退りする者までいる。
静かに、殺気のみが漂う呂布に二人は気圧されていた。少しも微動だにさせない表情も相まって恐怖心を煽る。
呂布の桁外れの力の、それでいて隙の無い攻撃に二人は受けるしか無い。
張飛の馬鹿力は受け流し、関羽は力でねじ伏す。呂布は攻め方を様々に変化させながら押しに押しまくった。
と、呂布の視界の端に土煙が映った。
『袁』の旗。連合軍総大将・袁紹が軍を進めてきたのだ。袋に飛び込んだ呂布軍を討ち果たす好機と観たのだろう。
これはさすがに呂布の計算外だった。そもそも、こういう状態に陥らないための中軍突破をしたのだ。
連合軍は虎牢を攻める為に横に長く、何重にも展開していた。普通は分断するように中央を突破すれば、指揮命令系統が乱れ混乱し、収集がつかなくなる。陣形の立て直し、再編で追撃どころではなくなるのだ。
呂布は抜かり無く、徹底的に掻き回した。こんなはずではなかった。
しかし、それでも袁紹の本軍はこちらに迫っている。
――惜しいかな、結局敗走となるか。
「この勝負預けた!」
呂布は赤兎の尻を打った。
いきなり馬首を返して行く呂布を張飛と関羽はポカンと見ていた。
「……やられた」
押していた呂布が急に退くのを心に隙の出来ていた二人はどうすることも出来なかった。
呂布は兵を纏めつつ、成廉と魏越の元へ走った。ちょうど二人は劉備を相手に苦戦を強いられていた。
「成廉! 魏越! 退却だ」
「えっ?」
「何!?」
劉備も狼狽していた。
「なんで袁紹の野郎がここにいんだよ!」
袁紹の軍を見て呂布以上に驚く。
その隙に二人は馬首を返す。
「ぁあっ! てめぇら、待てぇ!!」
劉備はすぐに追いすがろうとしたが呂布が許さない。呂布は剣を抜くと劉備の馬目掛けて投げつけた。
唸りを発てた剣は馬の頭を貫通していた。
「また会おう、劉玄徳」
呂布軍は混乱した前軍に紛れ込んで、虎牢の城門を目指した。
「プッ、なんだその頭?」
虎牢から全軍を撤退させる道中、張遼は成廉の頭を見て笑った。
「うるさい! フンッ、命掛けで闘った証だよ」
成廉は劉備との戦闘の際、髻を斬られてざんばら髪になっていた。
髻を切り取られる、それは耐え難い屈辱を伴う。髻はしばしば首の代わりとして見られる。髻を切り取る刑も在る程だ。
そしてなんと言っても格好が悪い。冠を被ることも出来なくなるので、男達にとって髪・髻は大切な物なのだ。
「ちっくしょ。僕がもっと強かったら……」
「廉なんかまだましさ」
魏越が言った。魏越は帰還してからずっと暗い。今も頭すら上げないで、手綱を見ていた。
「己の武器を落としちゃうなんて……武人失格だ」
ハァ、と二人の溜め息は闇夜に広がった。
袁紹が呂布軍を追撃出来た理由。それは至極単純でいて、困難なものだった。
呂布の強力な攪乱により、連合軍の前軍、中軍は一部を除いて命令系統が絶望的になっていた。一つの陣に一万余もの兵がいるのだ。収集もつかない。
袁紹はそんな陣を収集する事も無く、呂布を危険視した。何せよ十倍の敵と対等にやり合う男である。
とにかく袁紹は呂布を討たんと軍を進めたのだ。
そこで問題が発生する。混乱している人の群れをどう通るのか。
ここで袁紹の将としての大きさが表れた。なんと、味方の兵の陣を敵陣として対処、突破させたのだ。無論、直接攻撃は行わなかったものの、踏み殺された兵は数知れなかった。
結局、呂布は取り逃がした訳で諸将の批判と不満が上がっただけだった。
連合軍が陣形を組み直す様子を二人の男が眺めていた。
「まさか袁紹殿がここまで大胆だとは思いもしませんでした」
曹操の傍らの男・夏侯惇が言った。
「いや、本初(袁紹の字)はああいう男だ」
曹操は天下で一番、袁紹という男を理解していると思っている。同時に袁紹も曹操をよく理解しているだろう。
少年時代に曹操と袁紹はいつも連んで、悪童の名を広めていた。率先して悪知恵を用いていたのは曹操の方で、どちらかというと袁紹は行動が遅い。その代わり一度決断すると、突拍子なとんでもない事を堂々と実行する。先年の何進暗殺事件の際も、袁紹は躊躇うことなく宦官を虐殺した。
実はそれを機に曹操は袁紹を危険視し始めた。
――私が天下を狙うとしたら、本初は最大の敵になるかも知れない。
曹操とて、天下に野心があった。しかも人一倍強い。
曹操は宦官の孫、というだけで様々な障壁にぶつかった。子供の頃から何かとその点についてからかわれる事は多々あった。
宦官が力をもっているうちは、世間は白い目で曹操を見てきた。成人した時の官職も微妙なものだった。
袁紹をはじめ、周りが高官に収まる中、洛陽の北部尉(北門警備監督)という大した官職では無かった。しかし文句を言えるほどの低さでも無い。
その頃は祖父・曹騰は引退しており、曹操にあれこれ言う発言権は無かった。
今の曹操は己の実力のみでここまで来たと言っても過言ではない。
曹操の理想の天下。それは名家の名に惑わされない、実力と才能を重点とした天下だった。
――私の描く天下を創れるのは無論、私しかいない。
本初は連合軍の乱れきった陣形の立て直しで苦戦している。恐らくそれが董卓軍の狙いだろう。本初はまんまと、してやられた。
天下を掴むのは袁紹では無く私なのだ。
「惇、出陣の準備をしろ」
「……? どうするのですか?」
夏侯惇は曹操の顔を見た。
「昨日の董卓軍の戦法からして、既に虎牢はもぬけの殻だろう」
曹操は袁紹のいる幕舎に向けて歩き出した。
――まずは董卓を滅ぼして天下の足掛かりにしてやろう。
曹操の眼中に呂布はまだ入って無かった。
「何ぃ?虎牢に突入だと。駄目だ、駄目だ!」
曹操が虎牢突入を進言すると、袁紹は反対した。
「本初、よく考えろ。奴らがこれだけの攪乱を仕掛けたのだから、撤退の時間を稼ぎたかったに違いないだろう」
袁紹は余り寝れていないのか目が充血していた。ガリガリと頭を掻くと、
「俺にそんな余裕は無い。そんなに攻めたかったら孟徳が先鋒をしてくれ」
「……分かった」
曹操は正午には自陣に戻ると甲冑を着けずにそのまま出陣した。
が、虎牢に着いてみると既に開城していた。
「どういう事だ?」
夏侯惇の目線の先には『劉』の旗が風で靡いていた。
「『劉』だと? 誰だ。惇、聞いてこい」
と曹操は言ったがそれには及ばなかった。
華美な服を纏った劉備が関羽、張飛を引き連れて曹操の前に現れた。
「初めまして、だな曹操殿。俺様は劉備だ。虎牢は俺達が一番乗りだぜ」
へへへと笑う劉備を見て夏侯惇は眉間に皺を寄せた。
劉備なんて名前を夏侯惇は聞いたことがなかった。そんな輩なのに曹操を前に下馬もしない。些か身長が低い事を曹操は陰ながら気にしている。夏侯惇は密かにそれを知っていた。
極力この劉備を下馬させるべきである。
「失礼だが劉備殿、貴公は何なのだね?」
「これは失礼したな。俺様は今、平原の太守の代任をしてる。で、あんたは誰だぁ?」
劉備は耳飾りをいじりながら、夏侯惇に聞いた。
「それがしは夏侯元譲と申す。
劉備殿、出来れば下馬していただきたいのだが……」
「おぉ、曹操殿を支えてるという夏侯一族の一人か」
夏侯惇は劉備がそこそこの官職な事に内心驚いていた。だが、この横柄な態度で乗馬されるのはまずい。
「下馬していただきたい」
「まあまあ、惇」
夏侯惇が再度促そうとすると曹操が止めた。
「ところで劉備殿は黄巾の乱でも活躍されたのではないか?」
曹操は劉備の態度より、その華美な格好より、その左右の武人が気になった。どちらも関羽、張飛と名乗ってから油断無く、こちらを見据えている。
ただのごろつきの頭目みたいな劉備の下にどうしてこんな剛勇の士がいるのか。
「どうだ、一杯やらんか?
貴公の武勇伝でも聴かせてくれないか」
「おっ! 酒かぁ、曹操殿も気が利くじゃねえか」
早速、虎牢の官舎の大広間で宴が催された。
曹操と劉備は意外に意気投合し、夜が更けるまで語り合った。
傍らで夏侯惇はそれが不思議だった。昔から曹操と対等に語り合える者はいなかったのだ。いつだって曹操が一つ上の次元で話すため、誰だってついていけなかった。
劉備は初めての曹操の語り相手となったのだ。
話を聞いている限り、関羽、張飛という男とは臣下を超えた絆で結ばれているようだ。その時点で劉備という男を甘く見る事は出来ない。
――この劉備という男。下手して、使い方を間違えれば我々にとって一番危険な男かも知れない。
夏侯惇の危惧は遠い将来に証明される事となる。
「報告!報告!」
兵達が騒ぎ出したのは、虎牢で一夜を過ごした翌朝だった。
「何事だ?!」
曹操は寝台からだるさが包み込んだ躰を起こした。
「洛陽が……洛陽が炎上しております!」
「何ぃ!?」
曹操は慌てて楼閣に登った。確かに洛陽の方角に煙が上がっている。
虎牢から洛陽まで普通に進軍すれば一日以上かかる。それだけの距離があるのにも関わらず、黒雲の様に煙が西を覆っている。
――まずい、この様子では洛陽は全焼。董卓の作戦は焦土作戦だったか!
「早く劉備を起こしてこい! それから本陣の本初に早馬だ!」
曹操はいつも以上に取り乱し、供の者に叫んだ。
洛陽で曹操は長く生活していた。いわば、第二の故郷に等しい。曹操はすぐさま甲冑を身に付け、出陣した。
・
・
・
一日中、駆けに駆けた曹操は洛陽に辿り着いた。城門をくぐるとそこに嘗ての都の姿は無かった。
そもそも城門自体が燃え尽きていた。所々火が残っているが、木製の建造物は跡形も無く消え失せ、土台しかない。
中央の大通りには黒く炭化した犬や鶏が転がっていた。目につくといえば、楼閣の燃え尽きた城壁や石造りの政庁や玉座位だった。
――これが何十万もの人口を誇った漢帝国の都か……?
曹操は拳を震わせた。部下達からも呻き声が漏れた。
少しでもましになるように、曹操は片付けを命じて、袁紹ら本軍を待った。連合軍は大軍故になかなか到着しない。
曹操は煩わしかった。すぐにでも飛び出したかった。 本軍が到着したのは曹操が洛陽に着いてから二日経っていた。曹操は軍議を要請した。
「董卓の軍に追撃をかけるべきだ!」
曹操は卓上をダンッ、と叩くと諸将に訴えた。
しかし、半分の将はあからさまに嫌な顔をし、残りは下を見て黙り込む。同意してくれると思っていた劉備は公孫讚と虎牢の守備を任されて、ここには居なかった。
「そんな事をして、先日みたく反撃されるかも知れん」
「追撃よりも洛陽を整備するべきではないかな?」
「そうじゃ、兵も疲れておる。そろそろ和睦を考えても良いじゃろう」
皆、自軍の消耗を嫌って、消極的だ。
「孟徳!お前は昔から口が過ぎるぞ。一軍の将なら全体の事を考えろ」
袁紹までこの調子である。
「ここに義士はいないのか!?
我々は董卓の暴虐を退けて、帝を救わんとすべく集ったのではないのか!
貴公等はそれでも漢帝国の臣か!」
曹操は席に着いたまま微動だに出来ない男達に吠えた。
「誰も怖くて動けんのなら、私一人で追撃する。貴公等のような腰抜け共とは今日付で決別だ」
曹操はさっと諸将に背を向けると、帷幕を後にした。
結局、挙兵した頃からの仲である張藐と張超しか追撃に参加しなかった。
曹操は自軍の兵を一同に集めた。
「皆の者、私は董卓の暴虐と横暴を間近で目にし、反董卓連合を呼び掛けた。しかし、彼らは敵軍を前に尻込みする腰抜けだ」
兵達はただ目をギラギラと光らせて、聞き入っていた。
「多勢に無勢。しかし、我らは董卓を滅し、帝を救わんとせんが為に集ったのだ!
恐れるな! 我ら、今こそ忠義の烈火と成らん!!」
「応!!!」
ぅおおおぉ、と兵達の雄叫びが空に響き渡った。
「徐将軍の軍、伏兵完了の様です」
「魏越殿、張遼殿、高順殿の騎馬軍、伏兵完了」
続々と今回の『狩場』の全貌を伝令が告げた。
呂布と徐栄は連合軍の追撃を徹底的に叩く為、万全の布陣を仕掛けていた。
「これじゃあ追撃の軍は全滅ですね」
少し可哀想、と成廉は雷音の耳の裏を掻きながら呟いた。
洛陽から長安までの道は黄河沿いに続いている。途中、函谷関という関があり、函谷関から東に三十里の所で黄河は急に南に曲がっている。
要するに東より追撃する軍はそこを通り抜けるまで前方、右手は黄河、左手は山という地形を進軍しなくてはならない。
絶好の『狩場』である。
山には西方より徐栄の一万、張遼の三千、魏越の三千、高順の三千、そして呂布、成廉の蝗紅隊が伏兵。
初めに追撃軍を素通りさせて、徐栄の軍が当たり、敗走する軍を背後から次々に襲いかかる作戦だ。
高順という男は元々、蝗紅隊の小隊長だ。先の連合軍攪乱の際に曹操の攻撃で馬を失った。
蝗紅隊の無敵の強さは個人の武勇とその良馬によって支えられている。つまり、極限まで鍛え抜いた馬を失う事は蝗紅隊から外される事を意味するのだ。替えの馬では足手まといとなってしまう。
しかし、高順が率いる隊は群を抜く動きで、呂布も目にかけていたため、異例の大抜擢となったのだ。
呂布と徐栄は特に兵達に枚を噛ませたり、斥候の警戒はさせなかった。ただ、私語を厳禁し、持ち場を離れさせなかっただけだ。追撃軍は我を失い、斥候など出す事も無いと読んだのだ。
「連合軍は洛陽の有り様を見て、さぞかし怒っているでしょうね」
成廉の呟きに呂布が振り返った。
「お前も董卓が憎いか?」
「そんな事を普通は聞きますか。仮にも奉先さんの主君ですよ?」
成廉は憮然として聞き返した。
「いや、お前の事だから連合軍と共に董卓を討ちかねんな、と思ってな」
「僕にそんな過激な事出来ませんよ、今更」
成廉は黄河に視線を移した。
「でも……たまに、思うんです。奉先さんが董卓に仕えてなかったら、連合に加わるように言ってたかも知れない、って」
「……そうか」
呂布も黄河に目を移した。
「それも悪くないな」
「へっ?」
「もとはと言えば、駿馬をお前達に与えたくて仕えたようなもんだ」
「そんな事、董卓の耳に入ったら叛逆罪を問われますよ」
成廉はやれやれと首を振った。
「だが、このままでは董卓の天下だ」
そう、ここで連合軍を打ち破れば董卓に逆らえる者は事実上居なくなるのだ。
洛陽の炎上。これは予想以上に諸侯の心を揺さぶるだろう。連合は解体され、最大の兵力を誇る董卓に対し、諸侯は己の領地を守る事に専念し始める。
そして、諸侯同士で領地を巡って争いが起きれば、董卓は詔勅をもって彼らを仲介して味方につける事が出来る。
逆らえば背後から中原に雪崩れ込まれ、すぐにでも董卓の天下だ。
成廉は複雑だった。一度仕えたからは、身命を賭して忠誠を誓うのが主従の姿である。
明らかに呂布が董卓に仕えたのは間違いだった気がする。
成廉にとって主は呂布であって、董卓では無い。呂布は絶対であるし、正に身命を賭す覚悟が出来ている。
だが、その呂布が董卓を裏切ると言い出したらどうするだろうか。成廉は恐らく激しい葛藤に襲われる事となるだろう。
――奉先さんはそれを言い出しそうだから怖い。
曹操は軍を休ませる事無く、駆け続けた。怒涛の勢いで進軍する曹操は呂布らが伏兵している事に全く気が付かなかった。
曹操がようやく己の置かれている状況に気付いたのは、徐栄の軍が森から飛び出してからだった。
「くぅっ、伏兵に気付けなかったとは……槍兵! 弓兵! 前へ!」
辺りを見回すと、冷静さを取り戻すと同時に最悪の状況を悟って愕然とした。
前方に伏兵、左右は山と黄河に挟まれ、退路もまたすぐ横に山が続いている。冷静に地形を考えれば、そこら中に伏兵が潜んでいるのは間違い無い。
曹操は唇を強く噛んだ。全て自分の責任である。
「全軍退却だ!!」
夏侯惇がこちらを振り返った。
「追撃されますよ!?」
曹操の言葉が信じられない、といった顔だ。
「既に私達は包囲されている。ここは死地だ! ただ生き延びる事を考えよ!」
曹操は周囲の兵に聞かすように叫んだ。
「前衛は徐栄の軍を近付けさせずに退け。中軍、左翼は黄河を背に伏兵に備える。後衛は先発して退路を確保しろ」
曹操は感情に任せて追撃した時と打って変わって、的確な指示を始めた。
だが、もう遅かった。
曹操の命令が全軍に行き渡る前に、張遼の騎馬隊三千が山上から逆落としに突撃した。のろのろと後退する鈍重な曹操軍の脇腹を切り裂いていく。
それを合図に魏越、高順も加わる。ほぼ挟み撃ちで不意を突かれた曹操軍は総崩れだった。
徐栄の軍に近付けば、矢の雨を浴び、中軍に留まれば、黄河に追い落とされ、退路へ逃げれば、待ち受ける騎馬隊に踏み潰された。
曹操は親衛隊のみを率い、ただ駆け抜けた。
死の恐怖がひしひしと曹操は感じた。乱戦を抜けると、とにかく日が沈む方を背に道無き森を駆けた。周りに夏侯惇ら部下の姿は無い。親衛隊も何人か欠け、千足らずしかいない。
――全て私の誤りか……。
曹操が小さい躰を更に小さくして溜め息を吐くと、黒ずくめの一隊が立ちふさがった。
先頭の大将は白装束に燃える様な深紅の巨馬に跨り、真っ直ぐ曹操を見つめていた。背後に見え隠れする旗には『呂』の文字。
――たった一万の騎馬で十倍の連合軍を掻き回した男か。
曹操は自らが痛手を喰らわした将を睨み返した。曹操も呂布の武名は耳にしている。だが、怖じ気づいている場合では無い。
「曹操! 先日の借りを返させてもらうぞ」
呂布が叫んで方天牙戟を振り下ろすと、蝗紅隊が一斉に襲いかかった。応戦しようと向かって来た兵を成廉が叩き落とす。
曹操は呂布率いる軍に初めて傷を着けた男だ。呂布は静かに怒っていた。あえて表に出さない。
しかし、成廉は気付いていた。だから曹操を狙ったりはしない。周囲の兵を斬り伏せて、曹操への道を作るだけだ。
「曹操様、早くお逃げください」
曹操の親衛隊が躰を張って盾になる。
成廉ら、蝗紅隊が奮戦してもなかなか曹操まで辿り着かない。曹操はすまん、と小さく言うと馬に鞭打った。
「逃がすか!」
成廉は背中から弓矢を取り、素早くつがえると曹操に向けて放った。
「うわっ」
矢は曹操を外したが馬に当たり、落馬した。
「奉先さん! 今です。曹操が逃げてしまいます!」
「よし!」
呂布は方天牙戟を頭上に挙げ、落ち葉に足を取られながら立ち上がった曹操に迫った。
曹操がとっさに剣で防ごうとすると、一騎の騎馬武者が割っては言った。
「曹操殿! ご無事ですか!?」
「――曹洪!!」
その若武者は曹一族の一人・曹洪だった。呂布の振り下ろした方天牙戟を受け止める。
「小癪な奴よ!」
呂布は虫を払う様に方天牙戟を振り回す。しかし、ギリギリ触れることなく曹洪は全て避けきった。
「奉先さん! 新手です!」
成廉が叫ぶ。いつの間にか、夏侯惇が率いた残軍が曹操に向けて駆けつけて来る。
呂布が夏侯惇の斬撃をかわしているうちに、曹操は曹洪の馬尻に乗った。素早く親衛隊が逃げる曹操の背後を固める。
――ここで逃がしたら次が無い!
「ぅうおおらぁぁ!!」
呂布は渾身の力を振り絞って方天牙戟を曹操目掛けて投げつける。
方天牙戟が人の壁を一つ、二つ、…と貫いていく。その度に鮮血が高く飛沫を上げ、臓腑が飛び散った。
最後の一人を貫いた時、幸か不幸か方天牙戟は音を発てて地に落ちた。
「止まれ」
追いすがろうとする蝗紅隊を呂布は留めた。
「大魚を逃す、か。奉先さん、曹操は僕達にとって厄介な相手になりますよ」
「分かっとる」
――いずれまた見えることとなろう、曹操。
呂布と成廉は惨敗して逃げ帰る曹操軍を見送った。