虎牢開放
虎牢の城塞前に一軍が布陣した。
どの兵も中原の者と異なる言葉を話している。連合軍先鋒・孫堅の軍である。
孫堅は揚州で僅か齢十八の時、海賊退治で武功を挙げた男だ。長沙太守に任命されてからは地元のごろつきを見事に纏め上げ、精強な軍にのし上がった。
精強な軍が参戦しているとはいえ、連合軍はその大軍ゆえに消費する兵糧も莫大だ。要するに固く守備に徹すれば、勝手に自滅するのだ。
胡軫は城門を固く閉ざし、守りを固めた。
対して孫堅は守将胡軫を誘うように、鶴翼の陣を構えた。どの兵も馬鹿にしたように武器を下ろして、座り込んでいる兵もいる。
胡軫はすぐに頭に血が上った。呂布、葉雄を呼ぶと攻撃命令を下した。
「あのような軍勢、叩き潰してやる!」
「将軍、お言葉ですが」
葉雄が反論した。
「明らかに敵の誘いだ。今は戦機ではない」
葉雄と胡軫では将器に大きく差がある。胡軫は蛮勇だけの凡将だ。
「フンッ。葉雄、いつから臆病者になったのだ?」
胡軫は聞く耳を持たなかった。
呂布は興味が無かった。負けさえしなければいいのだ。
――所詮他人の戦……か。
「呂布は右翼、葉雄は左翼を攻撃しろ。いくぞ、開門!!」
重厚な門がゆっくりと開いた。
敵が出撃したのにも関わらず、孫堅軍は余裕の構えを崩さない。その様子が更に胡軫を怒らせたようだ。出撃すれば、孫堅が慌てるとでも思っていたのか。
「突撃!!」
胡軫は剣を抜いて喚いた。
それを聞いて呂布も
「我が隊をもいくぞ。俺を追ってこい」
一声上げると、赤兎を足で締めた。
蝗紅隊は白の三点を先頭に黒い塊となった。同時に孫堅軍も前進してくる。
敵陣までもう少し、という所で、敵陣で指揮旗が大きく合図した。
――なんだ……?
呂布は目を見開いた。突如、敵陣が鶴翼から錐行の陣になったのだ。信じられない用兵だ。普通の軍には不可能な動きである。
呂布と葉雄はギリギリ孫堅軍と擦れ違い、胡軫の軍だけぶつかった。
――まずい!
このままでは胡軫の軍だけに戦力が集中して、突破されてしまう。
「敵の横っ腹を突く! 続け!」
呂布は赤兎を棒立ちにさせると体重移動で左に曲がった。蝗紅隊も見事に隊を崩さないで旋回した。
さすがに孫堅軍にはこの動きは想定外だったようだ。敵軍は明らかに動揺している。
全力で駆ける馬の進路を直角に曲げる事は難しい。呂布もまた、信じられない用兵をやって見せたのだ。
成廉は戈を思いっ切り振り下ろした。戈の刃は敵兵の兜も貫く。雷音の高さのおかげで振り下ろす攻撃は歩兵にとって脅威だろう。
蝗紅隊の皆はどこの勢力でも校尉として申し分ない実力者だ。いくら孫堅軍が精強とは言え、蝗紅隊の敵では無い。血を噴き出すのは全て敵兵だ。孫堅軍は二つに裂かれ始めていた。
呂布は味方の旗印を見つけた。
葉雄だ。葉雄もまた、大将の危機を察知して孫堅軍を分断しようと横を突いていたのだ。
しかし、葉雄の麾下が必死に闘っているだけで、葉雄が見当たらない。
「奉先様!」
魏越が一人の敵将を指差した。その方を向くと、敵将の手には葉雄の首があった。葉雄は討ち取られていた。
魏越は拳を握り締めた。
「そこなる将、名を名乗れ! お手合わせ願いおう!」
「あっ。ちょっ、越!!」
成廉は止めようとしたが、それを呂布が制した。
「ハッ! 若造が命を捨てに来おった」
敵将は葉雄の首を供の者に転がした。
「俺は孫堅軍の勇将、祖茂。今更逃げるなよ!」
周りの兵達の動きが止まった。魏越までも一瞬身じろいだ。
孫堅軍に四将あり。程普、韓当、祖茂、黄蓋。
彼らは勇猛で名が知られ、『四天王』の異名を持つ。
――そのうちの一人が目の前にいる。
魏越は思わず武者震いした。
「どうした、小僧。怖じ気づいたか?」
「なんの!なんの!! 行くぜ!」
魏越は馬を寄せると烈しく打ちかかった。魏越は見事な身のこなしで祖茂と互角の勝負だ。
しかし、呂布は勝負がつく様に見えなかった。力が拮抗して、どちらも決め手を出せないのだ。
魏越が横に一閃、祖茂がそれを弾いて反撃するが魏越は受け止める。
「小僧、やるな!?」
「まだまだ!」
更に烈しさを増して、二人は打ち合った。
二人の闘いは永遠に続くかのようだった。
ふと、周りを見ると蝗紅隊は孫堅軍に包囲されている事に成廉は気付いた。
葉雄の麾下は主の死を知って散ったのか、それとも討ち取られたのか、一人もいない。
「奉先さん、ちょっとまずいんじゃないですか?」
「ああ、丁度どこに退こうか考えている」
「どこって虎牢の要塞に退却すれば……」
黙って呂布が指差した虎牢は固く城門を閉ざしていた。
「そんな……」
多大な犠牲を払って、胡軫は虎牢へ逃げ込んだのだ。城外に取り残された兵達は孫堅軍の餌食となった。
「どっどうするんですか」
虎牢の西には中継拠点があり、徐栄と張遼が守備している。
「黄河沿いまで北進して虎牢の西まで迂回する」
風を切る横薙の刃を寸でのところで避ける。魏越の兜の緒が切れた。
「どうした、小僧。動きが鈍っておるぞ」
実際に魏越に疲れが見え始めていた。対して祖茂は息が少し上がっている程度だ。
力量で互角な二人でも、経験において魏越は遠く及ばない。祖茂は孫堅に従い、漢帝国全土を叛乱鎮圧の為に駆け回ったのだ。并州の中しか知らない魏越では、時間が経てば経つほど二人の差が色濃くなった。
――くそっ、俺じゃ勝てねえのかよ……。
「越! 退却だ!」
成廉が駆け寄った。
「嫌だ。まだいける!」
「魏越! これは命令だ」
呂布もやって来て言った。蝗紅隊は既に小さく纏まらせている。
「行くぞ!」
呂布は駆け出した。
「っ……くそ」
魏越は唇を噛んだがすぐに馬首を返した。
「そう易々と逃がすか!」
祖茂が追いすがる。すぐさま成廉が弓を引き絞ると、振り返りざまに矢を放った。
「くっ!?」
祖茂は素早い身のこなしで避けようとしたが、矢は肩に突き立った。
「ちっ……使い手の多いことよ」
祖茂は諦めたのか、矢を抜くと引き返した。
「すまない、廉。借りができたな」
「お礼とかいいって。でも、僕が危ない時も助けてよ」
「任せとけ!」
成廉と魏越は笑い合った。
「おい! まだ敵中だぞ」
呂布が戒める。
孫堅軍を突破するのは、そう容易そうでも無さそうだった。
眩しい位の朝焼け。明るい朝日が身体を照らす。気持ちのいい朝だ。
成廉は川で顔を洗った。
昨日の疲れからか、程良い痛みで全身が怠かった。
孫堅軍を突破した呂布らは黄河の畔の森に野営していた。
死人は無かった。半分近くの兵が切り傷だらけだったが、致命傷も無かった。日頃の調練が役に立ったのだろう。
炊事はなるべく控えていた。しかし、食糧は三日分しかない。徐栄のいる拠点までギリギリか、保たない位だ。
――腹減ったなぁ。奉先さんどうすんだろう
……そうだ、黄河の魚とか採れないかな。
成廉はそんな事を黄河を眺めながら、ぼんやり考えていた。
「ん」
河面に影が見えた気がした。
黄河は広い。対岸が見えるかどうかといった感じだ。
河面は朝日で光り、眩しい。成廉は目を凝らした。
船だ。
それも輸送船である。船団を組んで、こちらに向かっている。
旗印は見えない。だが友軍では無いのは確かだ。
黄河の北・河内には連合軍が駐屯しているはずだ。つまり、北軍は南進して来たのだ。
「あわわ、こりゃまずいって」
成廉は慌てて呂布の元へ走った。
「奉先さん! 大変だ!」
「なんだ? 騒がしい」
成廉は息を切らして幕舎に突っ込んだ。
「た、対岸から敵が……」
「何!? 数は?」
「遠くでよく判りませんでしたが、かなりの数です」
「そうか、助かった」
「は??」
呂布は満足げに頷いた。
「干し飯を全部食べるように通達しろ。腹が減っては戦はできん」
「襲撃するには相手が多過ぎです!」
呂布はニヤリとした。
「まぁ、言う通りにしろ。今夜は腹一杯飯にありつけるぞ」
呂布は立ち上がった。
北軍の第一陣が上陸した。約一万といったところだ。『公孫』と『劉』の旗が見える。
「まだですか?」
魏越は待ちきれない様子で呂布に聞いた。どうやら魏越は伏兵に向いて無いようだ。
現在、蝗紅隊は津(渡河拠点)近くの森に伏兵中だ。
呂布の作戦は輜重隊の襲撃である。大軍が渡河する過程は最初に精鋭部隊が、次に輜重を運び、最後に本隊が渡河する。
本来なら糧秣で困らないために精鋭部隊を先発させるのだが、呂布はその先発隊がすぐに動くと読んだのだ。
――この状況なら功を焦って、洛陽へむかうはずだ。
この渡河拠点は虎牢の北西に位置している。そして、洛陽まで目と鼻の先の距離である。
虎牢の軍は孫堅軍に釘付けで、洛陽にいる董卓の軍は精鋭では無い。今が洛陽に攻め入る好機なのだ。北軍の先発隊がこの機を逃すはずがないのだ。
蝗紅隊の全員は獲物を見つけた虎の様に微動だにしなかった。
敵の先発隊・公孫讚軍は陣を組んで整列すると、輜重隊を待って待機した。
季節は冬。身も凍る冷たい風が吹き荒れる。
蝗紅隊の伏兵する森は風が無いが、先発隊は見ているだけで寒くなりそうだ。
とはいえ、呂布ら北方の者にとっては大した寒さでは無い。ただ、敵を眼前にして動けない状況に悶々としていた。
正午過ぎにようやく輜重隊の船が見えてきた。
「まだだ」
呂布は逸る兵達を抑える。
先発隊の存在で安心して、のんびりと輜重隊が糧秣を降ろし始めた。
すると、全てを見届けずに公孫讚が動きだした。
寒さで動きの悪い公孫讚軍に対し、『劉』の旗を掲げた一千余の一隊の動きが良くて、呂布の印象に残った。
先発隊の土煙が消えるのと同時に輜重隊を乗せて来た船が離岸した。輜重隊は柵を使って簡単な屯舎は作ろうとしていた。
「よし、行くぞ!」
全員が馬に乗ると森から飛び出した。
蹄の音が響くだけで、声も無く殺到する蝗紅隊に輜重隊は気付いた。呂布には慌てふためく様子が良く見えた。
密かに渡河して洛陽に奇襲をかけようとしていたのに、自分達が奇襲されたのだから当然だろう。
闘争心を抑えられた蝗紅隊の兵一人一人の働きは凄まじいものだった。 五千余の輜重隊はその殆どが全滅した。
「ここにある物資から、あるだけの矢を持って来い」
輜重隊が輸送した矢が山積みにされた。
「全員持てるだけ矢を持ち、津にて待機しろ」
矢には魚油に浸した布を巻き付けて、火を着けられるようにした。
「奉先さん、敵を船ごと燃やすつもりですか?」
「そうだ」
「止しましょう。火がこちらに広がります」
風向きは強い北風だ。船に火が着いたら、津まで燃える。
「それが狙いだ。敵を焼き滅ぼして、津も焼いて使い物にならなくなる。一石二鳥だ」
日が傾いてくると多数の船団が近づいてきた。『王』の旗、王匡だ。
「構え!」
蝗紅隊は潜んでいた津から桟橋に飛び出した。接岸しようとしていた王匡軍は突然の事に対応出来ない。呂布も自ら弓を構える。
「放てぇー!」
合図と共に一千本の火矢が呻りを上げて飛び立った。
空一面、赤く染まる。全て敵の船に吸い込まれていく。次の瞬間には船は炎上していた。
ある船は漕ぎ手が全滅し立ち往生。またある船は突き刺さる無数の矢の重みで転覆した。
「水面の動くもの全てが的だ。一兵も逃がすな」
全ての船が使い物にならなくなると、今度は黄河に辛うじて浮いている兵に射かけはじめた。
しばらくすると、津に火が燃え広がった。
同時に西に土煙があがる。異変に気付いた公孫讚が引き返してきたようだ。
「退却だ。十日分の糧秣を持て」
蝗紅隊は素早かった。
公孫讚軍が辿り着いた光景。
それは荒らされた糧秣と陸上、河面を埋め尽くす死体だった。津には火が放たれ、黄河に浮く死体はどれも十数本の矢が突き立っている。
そこには地獄が造られていた。
蝗紅隊は中継拠点に辿り着いた。
「よく来た、呂布殿」
守将の徐栄が出迎えた。
「戦の疲れを癒してくれ」
「感謝する」
その日はそのまま留まる事になった。
「大活躍だったな」
成廉と魏越が馬の世話をしていると背後から声がかかった。
「あっ、遼!」
「おう」
三人は顔をほころばせた。
「しばらくだったな」
張遼は二人の仕事を手伝うと三人で酒屋に向かった。こんな風に三人が食事をするのは久しぶりである。
「兵法はどう?」
成廉は張遼に聞いた。
「うん。なかなか奥が深いよ」
「どうせ戦は力だろ」
魏越が肉に食らいつきながら言った。
「ははは。俺も前までそう思ってたよ
でも、兵法を上手く活用出来れば、力でも数でも劣っていても戦で勝てるんだ」
「確かに。先日も胡軫将軍は何倍もの兵力だったのに孫堅に負けた」
成廉は納得したように頷いた。
先日の孫堅軍の驚くべき動きも兵法が関わっているのだろう。その速さに胡軫は対応仕切れなかったのだ。
「それにしても奉先さんは何で遼に兵法を学ばせたんだろう?」
「ホントに不思議だよな。俺は越が勉学するべきだと思うぞ」
「どういう意味だ?」
魏越は手を止めた。
「お前勢いに任せて一騎打ちしたんだろ。しかも四天王の祖茂と」
「う……何で知ってんだよ」
どんなに強くなっても魏越は張遼に弱い。
「戦は力だけじゃないんだから、もっと自覚しろよ」
「ちぇっ、分かったよ」
魏越がそっぽ向くと成廉は慌てて二人に酒を注いだ。
「まぁまぁ、喧嘩は止そうよ」
三人の愉しげな声は夜が更けるまで続いた。
翌日、蝗紅隊は洛陽に帰還し、虎牢での戦況を報告した。
董卓は葉雄が死に、胡軫が敗退した事を知って怒り狂った。
呂布は北軍撃退の功により中郎将に任命され、新たに一万の兵がつけられた。
「五月蝿い連合軍を叩き潰してやる」
と、董卓も李儒の制止を振り切って、呂布と共に出撃した。胡軫は降格し、洛陽の守りにつかされた。
代わりに胡軫の残軍を指揮するのは徐栄である。
こうして虎牢を挟んで北軍の生き残りを含めた連合軍・約二五万と董卓軍十五万が対峙した。
徐栄は胡軫の残軍を掌握すると、守りを固めた。孫堅軍はかなり手強い。迂闊に手を出しても被害が増えるだけだ。
しかし、そんな睨み合いが何日か続くと、後軍の董卓から出撃を催促する使者が何人もやって来た。
「まったく、相国は何考えておるのだ」
「将軍、どうなさいました?」
徐栄が無茶な書状を読んで思わず愚痴をこぼすと、張遼が尋ねた。
張遼は校尉(部隊長)として徐栄を支えていた。徐栄はこの若き副将を気に入っていた。
「おぉ、張遼か。実は相国から出撃命令が何度も来ているのだ」
「この微妙な戦況でですか?」
虎牢はほぼ包囲されていた。
西に董卓率いる七万がいるものの、すぐ目の前に勝利で士気盛んな孫堅軍、北には北軍の生き残りである公孫讚軍が布陣している。
もう、北軍で連合軍に参加しているのは公孫讚だけだ。王匡は命からがら逃げおおせ、張揚は呂布の襲撃を待っていたかの様に、王匡軍が全滅すると晋陽に帰ってしまった。
とは言っても、今出撃したところで勝算はない。
「どうしようか……。何かしら行動を起こさねば罪を問われてしまう」
徐栄は困り果てた。
「それならば、俺に諜報をさせてください」
張遼の言葉に徐栄が眉をひそめた。
「何も校尉のお前がする事も無かろう」
「相手の内情を知れば戦機を見つけられるかもしれません。ただ諜報するだけではなくて、戦の際には内部から攪乱も出来ます」
張遼の言う事は正しい。徐栄は張遼に賭けてみることにした。
「よし、お前に五百の兵を与える。好きにやってみろ」
早速、張遼は配下から揚州出身の者を四名程選抜すると、孫堅軍の陣営に潜り込んだ。
孫堅の兵は使う言葉が違う。中原の言葉でも通じはするだろうが、怪しまれる事間違い無い。張遼は命令だけで終始口を開かなかった。
張遼が潜り込んだ隊にその日の食糧が配給された。渡された量は虎牢の守兵の半分以下だ。張遼からしてみれば腹の足しにもならない。
連合軍は大軍の寄せ集めな為、大体予想はしていた。しかし、この量はさすがに予想以上である。
張遼は配下の一人に食糧官に反抗的な態度をとるように耳打ちした。
「おい! 何で食いもんの取り分が少なくなったんだ?
こんなんじゃあ戦なんてやってられねぇぞ」
意外にも孫堅軍の兵からも声が上がった。
「そうだ、そうだ! かれこれ一月だぞ」
「孫堅様が俺達にこんな仕打ちをするはずがねぇ。理由があんなら教えろ!」
食糧官はかなり困った顔をして必死になだめようとしたが、兵達の騒ぎは広がる一方だ。
食糧官は諦めたのか状況を説明し始めた。
連合軍糧秣を管理している袁術から糧秣が届けられない、と言うのだ。
それを聞いた兵達は更に騒ぎ立てた。明らかに袁術が孫堅の緒戦の功を妬んでの行動だ。
――上手く利用すればこの状況を打破出来る。
張遼は配下に他の隊にも誰によって飯が食べれないのか話を広めさせた。すぐに袁術を批判する声と食糧を要求する声が上がった。
「兵達に知れ渡ってしまったか……」
孫堅軍はどこの隊も食糧配給を叫んでいる。孫堅はすぐに決断した。すなわち、本陣にいる連合軍総大将・袁紹に直談判したのだ。
袁紹と袁術は従兄弟である。孫堅は総大将であり一族である袁紹に命令してもらえば袁術も動くだろうと読んだのだ。
張遼は孫堅が本陣へ向けて出立した知らせを聞くと、すぐに闇夜に紛れて脱出した。袁術は絶対動くはずだ。
張遼は虎牢の南へ迂回した。虎牢の南には山と深い森が広がっている。その森からなら誰にも見つからずに虎牢へ帰還する事が出来た。
虎牢の守兵は驚いた。それも仕方が無い。急に張遼が南の森から現れたのだ。
張遼は城内に入ると、徐栄の元へ向かった。
「随分早い帰還だったな。それで、何が分かった?」
「連合軍は糧秣の供給が上手くいってません。孫堅軍は空腹状態ですが、ようやく新たな糧秣の輸送が決定しました。孫堅軍は士気盛んになるでしょう」
それを聞いて徐栄は目を閉じた。
「そうか……このままではまずいな」
「いえ、むしろ好機です」
「と、言うと?」
「糧秣が届いて士気が最高潮に達した時。その時を叩くのです」
即ち、張遼の作戦は袁術の輸送隊を密かに襲撃し、そのまま輸送隊になりすますと、兵糧庫に運び込んだ上で火を放つというものだ。
孫堅軍が混乱したところを徐栄が出撃する。
机上の作戦としては完璧である。ただし、本当にこうも上手く運べるか判らない作戦でもある。
特に輸送隊になりすます軍が危険だ。しかし、その役を張遼は勤めると言って、配下を二千まで増員してもらった。
「それでは、火の手を合図に総攻撃ということで」
「うむ、次に会うのは敵陣のど真ん中だ」
――張遼なら失敗は有り得ない。
徐栄にそう思わせるほど、張遼の信頼は厚かった。
その日の夜。張遼は騎兵一千、歩兵一千の構成で出撃した。
「隊長! 前方より一千程の隊がこちらに参っています」
袁術軍輸送部隊・隊長は眉をひそめた。
「旗印は?」
「『孫』です。孫堅軍からの護衛隊かもしれません」
「ふむ」
『孫』の旗を掲げた一隊は輸送隊の前で停止すると、隊長と思しき男が頭を下げた。
「主・孫堅様の命により護衛の増援に参りました。ここらで山賊が荒らし回っているので気をつけよとの事です」
「ご苦労、お主達は後方を頼もう」
「わかりました」
護衛隊の隊長、張遼は口元を上げた。
輸送隊がしばらく進軍していると、左右を森に囲まれたところで襲撃を受けた。
「山賊です!」
「軍を前に。孫堅軍は我々と待機」
――好機。
輸送隊は僅かの兵と輸送に駆り出された農夫、そして張遼率いる董卓軍のみとなる。
張遼は隊長の元へ行った。
「おい、所定の位置につけ」
気付いて隊長が言った。
「散れ」
「何?」
「散らなきゃ命は無いぞ」
張遼は抜刀すると隊長を斬り倒した。
「殺れ!」
獣達は牙を剥いた。
「なっ何しやがるんだ!」
輸送隊は突然の攻撃に混乱した。
北に敗走されては困る。孫堅にこの事が知られてはまずいのだ。張遼は農夫達を南へ追い散らすと、すぐに山賊と戦闘中の隊を挟撃した。
この山賊も勿論、董卓軍である。前線に出ずに怠けてばかりの袁術軍一隊では相手にならなかった。
その殆どを殲滅すると、張遼は配下に死体の甲冑と替えさせた。
こうして、兵は全て董卓軍の袁術輸送隊が出来上がった。
張遼率いる輸送隊は夕暮れ時に孫堅の陣にたどり着いた。
「これで明日から配給が増える」
「よっしゃ! 董卓なんかすぐにでも滅ぼしてやらぁ」
糧秣を担いだ兵や荷車が陣門を通るたびに孫堅軍の兵達は嬉しそうに騒ぎ出した。
「ご苦労だった」
孫堅自ら出迎えた。
「輸送した糧秣は夜までに蔵へ運び込んでくれ」
「かしこまりました」
張遼は頭を下げると作業に戻った。
しかし、張遼は孫堅がその背のある点を凝視している事に気が付かなかった。
張遼の背中側の甲冑に血痕が付いている事に孫堅は気付いた。
「これで最後です」
糧秣を全て納め終わった。
周りは既に真っ暗だ。空は厚く雲が垂れ込んでいる。
「将軍はもう出撃の手筈を整えているだろう。皆、例の物を出せ」
張遼は虎牢を出立するに当たって、配下に竹筒の水筒を持たせていた。ただ中身は水では無く、魚油で充たされている。
張遼の作戦の締めは、蔵の焼き討ちだったのだ。
「着火」
竹筒の口には布が通されている。張遼の号令と共に竹筒に火が灯される。火の塊が次々と各蔵に吸い込まれてゆく。冬の乾燥した北風が味方して、火は容易く燃え広がった。
天にも届かん勢いで燃え盛る炎を前に、張遼と二千の配下は雄叫びを上げた。
「孫堅様が仰ったとおり南への街道は死体だらけです」
報告の兵の知らせを受けて、孫堅は立ち上がった。
孫堅は輸送隊の隊長の背中の血痕がある事に疑問を持ち、兵に調べに行かせていたのだ。
「すぐさま袁術軍の輸送隊を捕縛せよ!! 抵抗するなら斬ってもかまわん。奴らは董卓軍の回し者だ!」
いきり立った孫堅は帷幕の外へ出た。
「ッ!!」
雲が赤々と染まっている。それは兵糧庫の方だった。
――遅かったか!
空が赤々と燃えている。それは日の出と見紛う程である。
「張遼め。派手な狼煙を上げよった」
徐栄は上機嫌に頷いた。
「これより孫堅軍に奇襲をかける! 皆の者、日頃城から出れない鬱憤を吐き出せ!」
五万の軍勢が孫堅軍に襲いかかった。同時に内部からも張遼が蜂起して、孫堅軍は大混乱に陥った。
「退くな! 堪えろ!」
孫堅自らは張遼の二千を食い止めた。
――このままでは危険だ!
孫堅配下、四天王の祖茂は孫堅の命を助けようと「御免」と叫んで、孫堅の赤い巾を取り上げて被り、身代わりとなって張遼を引きつけた。
その間にも孫堅軍は徐栄軍に包囲されかかっていた。なんとか孫堅は四天王の程普、韓当、黄蓋に護られて、包囲を切り抜けて脱出した。
付き従う百騎余りと共に南へと敗走していった。孫堅軍の半分は討ち取られ、残りは四散した。
祖茂を追っていた張遼だったが途中で見失い、徐栄と合流して虎牢に帰還した。
堂々の凱旋である。
城塞内は労いと大きな歓声に包まれた。
辺り全てが孫堅軍の兵の死体で埋め尽くされた戦場に『劉』の旗を掲げる一隊の軍勢が立ち尽くしていた。
「ちっ。……一足遅かったか」
その隊の先頭の三人のうち、一番体格の良い男が悔しそうに言った。なかなか髭の生え揃わないその青年の目は少年の様に澄んでいる。
「徐栄がここまで戦が巧いとは……にわかに信じられんな」
変わって、首が隠れる程立派な髭を生やした男が感心したように呟いた。
「徐栄じゃねぇ」
戦場にも関わらず、ひときわ目立つ洒落た服を着た男が遮った。その尋常じゃない耳たぶには沢山の装飾品で飾られている。
誰がどう見ても将には見えない。
「夜襲を考えたのは、自ら兵糧庫を焼いた張遼って奴の仕業らしい」
「兄者、それは本当か?」
「ああ、俺様の勘だ。間違いねぇよ」
二人の男は首をすくめた。
「また大兄の勘かよ」
「やはり徐栄の業だ。あの男、油断ならんな」
「おぃ!俺様の勘を舐めんな! 今まで救われた事が何回あると思ってんだ」
「アブナい目に遭った方が多いぞ」
「そうだ、その度に尻拭いすんのは俺達じゃねぇか」
非難された洒落た男は悔しそうに馬上で喚きだした。
洒落た男が劉備、字を玄徳。
髭の男が関羽、字を雲長。
大男が張飛、字を益徳。
この三人、未だ公孫讚軍の一介の将でしかないが、後に天下を騒がす男達である。
徐栄が孫堅軍を打ち破った知らせを受けて、董卓は歓んだ。
「李儒、この機に連合軍を叩くのじゃ」
今では董卓の知恵袋は李儒である。
最初、文優が下野したと李儒から聞かされた時、董卓はとても不安になった。自分の判断だけでは浅はかでは無いか、と常に文優の意見を聞いていたからである。
しかし、そこですかさず李儒は自分を売り込んだ。
李儒としては文優の意見をただ、董卓に伝えるだけの仕事など面白くもなかった。
董卓が顔も合わせていない文優の進言を実行し、李儒の進言を退けた時は屈辱にまみれた。
――私は館に籠もる者以下か!?
怒りと悔しさに堪えかねた李儒の行動は文優などいない者として振る舞う事だった。最初から董卓と文優の信頼性など薄っぺらい物だった。
李儒の非道な献策とそれを容れる暴虐の董卓から、文優はあっさり手を引いた。董卓への影響力は容易く文優から李儒へと移行したのだ。
自分の勢力を誇示しながらも裏では人民が己をどう見ているのか、とびくびくしているのが董卓という男の本性である。
著名な知識人を侍中に置いてはその意見を頻繁に聞いていた。
しかし、それでも李儒に及ぶ程影響力を持った者は現れ無かった。
孫堅が敗れて連合軍は動揺したがむしろ、その結束を強めた。総大将・袁紹は全軍を虎牢に前進させると、何重もの陣を組ませた。本気の全軍での攻城戦である。
流れるような連続的な攻めで、一気に要塞を抜く構えだ。
そこで李儒は一計を案じた。
「相国、一度連合軍とぶつかったら、洛陽を棄てましょう」
「そんなあっさりと棄てても良いものかな」
先日の遷都で民は一人も居ないが、それでもかつての都である。董卓は眉をひそめた。
「天下が固唾を飲んで見守るこの戦い。図らずも諸侯はどちらに着くべきか迷っておるでしょう。
そこで洛陽に火を放てば、連合軍が来たところでどうしようもございません。都でさえも意のままに出来る相国の力を見せつけてやるのです。
そうすれば天下が容易く相国の物になるのも然りかと……」
「なるほど。しかし、儂は戦がしたいのじゃ」
董卓は子供が強請る様に不満そうである。李儒はなだめながら
「どうかご辛抱を。相国の身の安全の為です。私は相国が戦だけで無く、戦略でも優れている事はよく存じております」
ふふん、と董卓は鼻を鳴らすと、まんざらでもなさそうだった。
「袁紹や曹操など次の機会に叩き潰せばよいのです。連合軍には呂将軍を出撃させましょう」
「よし! いいだろう。全軍に通達しろ」
夜明けと共に連合軍第一陣が城壁に寄せてきた。
盾を上に向けた兵が城壁に取り付こうと、駆け寄る。中には木製の兵器を運搬する者もいた。
『雲梯』
攻城戦では欠かせられない兵器だ。車輪のある移動可能な台に梯子を付けた物である。梯子の先端部には鉤があり、これを城壁に引っ掛けて固定する。
しかし、雲梯ですぐに優勢になるわけでも無い。あくまでも攻城戦において有利なのは籠城側である。
雲梯の鉤を掛けられそうになると、虎牢の守将・徐栄は兵達に鉄板を城壁から提げさせた。
鉤は掛かる事無く、弾き返された。引っ掛ける事に失敗した雲梯に火矢が集中する。冬の乾燥した空気の中、雲梯はあっさりと燃えてしまった。
「全軍揃いました」
成廉は呂布に報告した。
城塞の東門には呂布率いる一万の軍勢が集結していた。
董卓より出撃命令が下された。
同時に連合軍の中軍を抜けたら、引き返し、その日の内に徐栄と共に退却するよう命じられた。
――董卓は洛陽を棄てるつもりか。
そもそも、中軍まで突破しろ、という命令も無理難題だ。
それは一万の軍勢で十万もの軍勢を突破しなくてはならない。恐らく十カ所の陣を抜かなくてはならないだろう。
だが、呂布も成廉も魏越もやり遂げる自信があった。
――所詮、連合軍など烏合の衆。蝗紅隊と涼州で生き延びてきた騎馬兵なら可能な話だ
「開門!」
冷たく澄んだ空気に、呂布の声が響いた。
いきなり開いた城門に連合軍の兵達は驚いた。が、すぐに好機、と一人の校尉が突入体勢に兵を動かした。……と、そこでその校尉は城門に立ちふさがる巨大な黒い影に気が付いた。
その黒の先頭には雪の様に白い戦袍を身に纏った三騎が校尉の目に入った。そしてその後ろには『呂』の旗がはためいていた。
「貴様は! 呂ッ……」
校尉の首が吹き飛んだ。
彼の視界に最期に映ったのは燃える様な赤の体毛の馬と紅い肩当てだった。
「俺に続け!」
呂布が天高く、方天牙戟を突き上げると
「応!!」
と兵達も雄叫びを上げて、敵陣に突撃した。
先頭の呂布が横に一閃すれば血飛沫が上がって、道が出来る。
成廉は呂布の背後につくと騎射で援護した。成廉は騎射の腕を更に上げていた。当たれば即死、とまではいかないが、弦音がする度に敵兵に矢が突き立っていた。
成廉の隣りでは魏越が護るかの様に併走した。魏越はあまり兵卒に興味が無いらしく、繰り出される槍を弾き、近付く敵兵を殺すまでに留まった。お蔭で成廉は安心して弓を引くことが出来た。
呂布軍が近付けば敵兵の群れは畏れをなした様に左右に揺れた。連合軍の幾重もの陣はまさしく人の波だった。
次なる陣にぶつかれば、空気をも震わす衝撃と数多の兵の熱風が呂布の顔を打った。
呂布は二、三人程の将を討ち取っていた。校尉なら十人は超え、兵卒となればその数は数えきれなかった。
が、手柄に興味は無い。首級を挙げる事無く、打ち捨てた。今、優先すべき事は敵陣の突破だ。呂布は極力、自軍の騎兵を生還させたかった。
騎兵は敵陣で止まれば、苦戦は必至だ。騎兵とは走り続けなくてはならない軍なのである。
とにかく、駆けに駆け、ようやく連合軍の中軍に突入した。
そこには呂布の生涯の宿敵とも言える男達が待ちかまえていた。
中軍に突入すると、呂布は違和感を覚えた。勝手に道が出来ていたのだ。が、呂布は一抹の不安を捨て去り、とにかく軍を駆けさせた。今はすぐにでも退却したかった。
四方八方どこを見ても敵である。ここは『死地』なのだ。
中軍をある程度抜いた所で、呂布は素早く軍を反転させた。ギリギリ目の前まで迫っていた敵が急に反転したので、顔の引きつった連合軍の兵達は唖然とした。
突然の事に反応出来ず、兵達は呂布軍を見送るしかなかない。敢えて追いすがろうとする者もいなかった。
呂布軍は先ほど不気味に道を空けていた陣に近付いた。その軍勢の旗印は『曹』の文字。曹操の軍勢である。
「奉先さん! あの軍、曹操が率いてますよ!」
成廉が叫んだ。言いたい事は良く分かる。厄介な相手なのだ。
「分かっている」
曹操は黄巾の乱の際、その名を轟かせた。実戦経験の無い官軍を率いて、輝かしい功績を打ち立てている。
それは呂布だけで無く、皆承知だった。
――さあ、どう動く? 曹操。
このまま曹操が何もして来ないとは思えなかった。
呂布が二手に別れた曹操軍の間に飛び込んだ。兵達も後に続く。
その様子を曹操は見ていた。
「締め上げろ!」
曹操が叫ぶと二手の軍勢は一斉に呂布軍に向きを変えた。曹操軍の兵が手に握るのは全て矛だ。何千という矛が騎馬隊の横っ腹に突き込まれた。
馬が悲鳴を上げる。脚を折る馬。棒立ちになる馬。矛で躰を貫かれ、絶命する馬。
被害は甚大である。
しかし、呂布軍の兵は歴戦を勝ち抜いてきたのだ。落馬した者は止まる事無く走り続けた。
曹操の陣を抜くまであと少し。兵はほとんど失わなかったが、馬の犠牲が大きかった。
呂布が後ろを振り返ると騎乗している兵は七千程。およそ三千頭もの馬を失った事になる。
呂布は歯噛みした。勿論、応戦する事も出来ず、ただ退却するしかない。
「何処だ?! 曹操ー!」
思わず呂布は叫び、辺りを見回していた。と、呂布の視界に牙旗(大将旗)が映った。
――あれが曹操か?
曹操は牙旗を支える武将と二騎の武将を従えて、こちらを睥睨していた。大将としての気概は充分の堂々たる姿である。
だが、呂布の予想以上に曹操は小さかった。恐らく呂布の胸程しか無いだろう。その気概に反する体躯に若干の賤しさを覚えた。
「曹操!!」
呂布は矮小な男に叫んだ。
「この借りは必ず返す。覚悟しておけ!」
曹操は呂布が吠えるのを見て一笑すると、片手を挙げてそれに応えた。
呂布は赤兎の腹を締めた。更に軍を落馬した兵、ギリギリの速さにまで加速させた。曹操の陣はもう抜け出せた。あとは大した軍はいない。
呂布は虎牢まで一気に駆け抜けるつもりだった。
不意に一隊の軍勢が行く手を阻んだ。兵の甲冑はバラバラだが、驚く程動きが良い。
動きで呂布は北軍を奇襲した時の公孫讚軍にその軍勢がいたのを思い出した。掲げる旗は『劉』の文字。
「呂布! この劉備玄徳様が相手をしてやるぜ」
馬の上に立ち上がり、こちらを指差す中央の男は奇妙な出で立ちだった。
とにかく呂布は将と思えなかった。男の大きな耳にはジャラジャラと装飾品がぶら下がり、簪は遊女がするような華美で煌びやか、更に躰の周りを固める様に十程の璧が腰に揺れていた。風流人を気取った輩にしか見えない。
「っしゃあぁ!!」
劉備は馬を呂布まで寄せると剣で打ちかかってきた。それを合図に両軍共に激突する。
呂布は方天牙戟を両手に握ると劉備目掛けて振り下ろした。しかし、絶妙な角度でいなされる。
劉備は馬の上に立っているのにも関わらず、構えを崩すことも無い。劉備はかなりの使い手のようだ。
「それならば」
呂布は横に一閃した。が、外れた。飛び上がって避けたのだ。
「貰ったぁ!!」
呂布が方天牙戟を振り切ったその隙を突いて、劉備は飛び込んできた。
「ッ!?」
寸でのところで呂布は切っ先を避け、劉備を吹き飛ばした。
「チッ、この機を逃しちまうとは……」
劉備は三回宙返りして着地した。
「雲長!益徳! おめぇらの出番だぜ」
「どうした大将、お手上げか?」
「勢いに任せるからそうなるのだぞ、大兄」
呼ばれて関羽と張飛が現れた。二人とも兵卒と同じ甲冑だ。
「フッ、雑兵がしゃしゃり出て来るつもりか」
「へん! 親殺しの分際ででけぇ口叩いてんじゃねぇ」
呂布が吐き捨てると、張飛も負けずに言い返した。
「親殺し……?」
「今更とぼけるか!? 義父の丁原を殺したじゃねぇか」
どうやら丁原が諸侯の前で言った『息子分の呂布』という苦し紛れの嘘が天下に広まっているようだ。
その上、丁原は董卓の暴挙を咎めたから殺されたと認識されているようである。故にそれと対比して、丁原を殺した呂布の悪名は広まってしまったのである。
真実を言う訳にもいかない呂布は黙りこんだ。
「ケッ! 位や恩賞に目が眩んで董卓なんかに尻尾を振るたぁ、お前なんか狼と何ら変わりねぇぜ」
「くっそー! 黙れ!! 奉先様はそんな男じゃねぇ!」
思わず飛び出したのは、成廉と魏越だ。
「奉先様はなぁ……」
「魏越! 約束を忘れたのか?」
呂布が魏越を制した。
「ごちゃごちゃ意味分かんねぇよ!」
「いざ!」
張飛と関羽は呂布を挟み込むように斬りかかった。張飛が矛を繰り出し、関羽が避けた呂布の隙を突く。
単純な戦法だが相手がこの二人だと脅威である。張飛の振り下ろす矛を受けると、呂布の腕に衝撃が走る。手が痺れそうな程だ。想像以上の馬鹿力である。
張飛の顔つきに先程までの爽やかな青年の面影は無く、血管が浮かび上がり、眉はつり上がっていた。
関羽はというと、兵卒の甲冑でいても体中から殺気が発せられていた。武威の風格が呂布を威圧する。しかし、あくまでも冷静的確に呂布が居着いたところで大刀を閃かせる。並みの武では無い。
呂布は関羽と張飛の強さを信じられなかった。
――どうしてこんな男達が兵卒をしてるのだ……?
だが、身分など関係無い。呂布は笑っていた。ただ、目の前にいる、自分に匹敵し得る武人と手合わせする事に喜びを感じていた。血潮がたぎる。
――楽しませてくれよ。
呂布は方天牙戟を固く握り締めた。渾身の一撃を張飛に喰らわす。
急な反撃に張飛は慌てて矛で受けると、空気を震わす程の衝撃波が馬ごと張飛を弾いた。
「ぬん!」
関羽が背後から斬りかかった。が、呂布は上体を大きく横に避けると、その体勢から斬り上げた。方天牙戟の刃先が関羽の兜を飛ばした。
「チィッ!」
二人掛かりの張飛と関羽が押され始めた。汗だくで肩で息をする二人に対し、呂布は息は乱す事も無い。
静かな武人の至高の武を前に、張飛と関羽は打ち合うことは出来ても、討ち取る事など不可能だったのである。
少しずつ、二人の心に小さな隙が表れ始めていた。




