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魔王君臨


 呂布が配下となってから董卓が最初に行った事は弁の廃帝だった。新帝を陳留王の協に定め、董卓は幼い帝の為に相国(最高権力者)となった。

 陳留王の親族は何進との権力争いの末、処刑・暗殺されていた。一人ぼっちの協を立てる事は、事実上董卓が朝廷を牛耳る事を意味していたのだ。


 強大な兵力を背景に他の追随を許さなかった董卓に敢えて逆らおうとする者もいない。

 更に黄巾の乱の功労者は十常侍によって罷免されていたが、彼らを中央に呼び戻す事で軍を一つに纏めた。

 かくして董卓の勢力は西より涼州、雍州、司隷、豫州を直接支配下に置き、国土を横断するように伸びていた。


 もはや董卓を止められる者はいなかった。




「お前達が最初に選べ」

 董卓から駿馬一千頭が贈られてきた。どの馬も名馬と言っても過言では無いだろう。

 呂布の馬は『赤兎』という汗血馬だ。どの馬より速く駆ける。そしてどの馬より長く走り続ける。

 誇り高い馬で、呂布しか乗せない。

 成廉でも触る以上の事は許さなかった。赤兎に乗せてもらえる呂布が成廉は羨ましかった。


 だから、成廉は赤兎に負けないような馬を捜した。

 成廉の目に留まったのは巨大な馬だった。西域の馬は元々、漢の馬より大きいのだがその馬は中でも特に大きかった。鬣は長くて、顔にも掛かり無気力を装った感じがした。

 中でも目を引いたのは、大きな蹄だ。普通の二倍はある。


 ――この馬はきっと強い……乗ってみたい。


 成廉は自分に相応しい馬だと感じた。


「奉先さん、ちょっと駆けてきます」

 鞍も載せずに成廉はその大馬に跨り、馬腹を蹴った。

「夕刻には帰ってこいよ」

 呂布が言ったが馬が駆け出すとその声は風と共に掻き消えた。


 大馬はその巨体に似合わず、とても速かった。恐らく、赤兎の次に速い。成廉は風になった気がした。

 そして、成廉を驚かせたのはその足音だ。 一頭なのに何十頭も駆けてるような、雷のような音なのだ。あの大きな蹄がそんな音を発てるのだろうか。


 ――稲妻の如き速さに雷鳴の足音の馬か。


「…よし!決めたぞ。お前の名は『雷音』だ!」


 成廉の叫びに応えるように雷音は脚を速める。

 二人は日が暮れるまで駆け続けた。




 弘農王に格下げになっていた先帝・弁が死んだ。諡は少帝とされた。

 楼閣から落ちた、という事故死とされたが、董卓の手の者によって殺された事は明らかだ。


 李儒。


 という男が見え隠れした。

 常に董卓の傍らの控えており、頭の切れる男だ。弁殺害を進言・実行したのも李儒である。

 董卓がやりたい放題に暴政を行い、李儒がその反対勢力を裏から潰した。二人が上手く組む事で董卓の勢力は漢帝国最強となったのだ。


 更に董卓は少帝の葬式で、その死を悼む場にもかかわらず、少帝と関わりのあった者達を斬首した。

 少帝の霊前で舞った数多の首は喪服を赤く染めた。それを見て董卓は不快なガラ声で笑った。

 董卓は己の力の誇示と反対勢力への見せしめのつもりだった。が、逆にその行為は人々の反抗意識を確固たるものにしただけであった。

 そんな様子を呂布は醒めた目で見ていた。ここ二、三日董卓と話をした。彼は力が全てだと考えている。

 そして、いつ自分と取って代わる者が現れるのか、と怯えている。その怯えが過剰で残酷な行為をさせているのかもしれない。


 丁原の件以来、文優に会ってなかった。

  呂布はそもそも弁殺害は文優がしたと思っていた。先帝を殺すなんて文優の考えそうな事だ、と呂布は思ったのだ。

 だが、文優は献策をするどころか董卓の陣営では気に留められないらしい。同じ騎都尉の葉雄に聞いた時は、その存在も知らないと言われた。

 文優に会った時の印象とその扱いが違い過ぎる事に呂布は驚いていた。


 ――まるであの時会ったのが、幻のようだ。


 とにかく文優と話がしたくなった呂布は董卓に直接聞くことにした。


「相国」

「なんじゃ、呂布」

「相国の侍中の文優と申す男はどこに住んでおるのですか?」

「何?文優じゃと」

 何故か董卓は動揺した。

「文優に何の用じゃ」

「相国の元で働けるのも、文優のお蔭です。そのお礼ぐらいしたいので」

 董卓は何と言えば良いか迷っていたが、すかさずまたも李儒が耳打ちした。

「…そうか、呂布は良いと申したか」

 董卓は一人、合点すると文優の館を教えてくれた。

 呂布は意味が解らなかったがひとまず文優の館に向かうことにした。


 文優の館は洛陽の中でも、かなり端の方にあった。が、赤兎の脚だとすぐだ。

 本来、洛陽内では下馬するのが常識だったが、董卓の専横と共に乗り放題になってしまった。


 文優の館は質素でこじんまりした感じだった。妻や親族は居らず、使用人が二人いるだけだ。

 呂布が酒瓶を片手に入ると文優は歓迎した。


「これは呂布殿、よく来てくださった」

 文優は奥の部屋に通した。

 早速呂布は文優自身について質問した。


「一体、文優はどうゆう立場なのだ。董卓の侍中のはずなのに、余りにも人に知られてない」

 やはり文優は呂布がその質問をする事を知っていたようだ。

「それは、私がそれを望んでいるからです」

「と、言うと」

「今から言う事は誰にも言わないでください」

 文優は声を落とした。


「実は董卓様に常に献策し続けているのは私なんです。つまり、私は李儒を通して董卓様を補佐しているのです。

李儒という存在はいざという時に私を隠してくれます」

 少し愉快そうに笑った。

「やはり、少帝の件もお前か」


「はい、董卓様はご自分の権威を見せつける事が好きなので。

私はあまり目立っては意味が無いので、普段の生活は控え目にしております」

「李儒の言葉はお前の言葉か」

「李儒もなかなかの知恵者なのですが、董卓様は私の言葉を信用しているようです」

「董卓とも話はするのか」

「いえ、直接会った事は一度もありません。あまり会いたいとも思えませんがね……」

「李儒は信用出来るのか」

「さぁ……、人の心までは解りかねます」

 文優が悪戯っぽく笑った。


「難しい話は次で最後だ。

そんな風にまともに交流も無い董卓にどうして仕えているのだ?」

「知りたいですか?」

「焦らすな」「私は天下を穫りたいのです。

そして今、最も天下に近いのは董卓様。名君だろうと暴君だろうと私には関係無いのですよ」


 文優は初めて会ってから一番の真顔だった。




「いらっしゃい!」

「今日は塩が特売だよ!」

 董卓の専横が続く中、洛陽の市場だけはガヤガヤと騒がしかった。人と人がそれぞれ己のすべき事の為に行き交っている。

 成廉はこんなに賑やか街を見たことが無かった。故郷の馬邑と洛陽とでは大違いである。

 洛陽全体はどちらかと言うと落ち着いた雰囲気なのだか、市場だけ別の世界のように活気付いているのだ。


 成廉は裏路地に入った所の鍛冶屋を訪ねた。入口の露店には鍛え抜かれた剣がずらりと並んでいた。

「すいません、誰かいらっしゃいますか」

「あいよ」

 奥から親方らしき男がやって来た。たった今も鉄を鍛えていたのか、汗だくだ。


「坊主、ご用はなんでぃ」

 成廉は『坊主』という言葉に反応しそうになったが、敢えて大人になった。

「新しく武器を買いたいのですが」

「それで、何をお求めだ」

「戈です。戈に片刃を付けて欲しいです」

「戈だと?」

 親方は目を丸くした。

「また古臭い物を……特注品になるぞ。金はあんのか?」

 成廉は銭の束を見せた。

 呂布が董卓に仕えてから金に困るような事は無くなった。董卓はよほど自信が無いのか、金で信頼を得ようとする。呂布の従者というだけで大金が支給されたのだ。

「こりゃあ坊主だなんて失礼な身分の方だったか? これからはお客様とお呼びせにゃならんな」

 束を見て親方が言った。

「どの位かかりそうですか?」

「そうだなぁ……」


 洛陽では董卓による鉄の専売が進んでいた。それは悪徳商人より高値で売るという、かなり悪質なものだった。鉄の値は以前の倍以上だ。


「そんだけ金をちらつかれちゃあ、こちとら魂込めて打たにゃならんし……。一月たったらまた来てくれ」


「分かりました。では、また来ます」

「おぅ!まいどあり!」

 成廉は鍛冶屋を後にした。




 成廉が奇妙な少女に会ったのはちょうど、鍛冶屋から官舎に帰るために雷音を繋いだ所に来た時だった。

 雷音を物珍しそうに見上げている。

 少女の何が奇妙かと言うと、どう見ても幼いのに髪を結い、簪を刺している。普通、簪は成人するか、成人として見られる身分の者がする。

 少女の服装はこざっぱりとして、綺麗な物だ。が、華美と言うほどでも無いのでそんなに身分が高い訳でも無さそうなのだ。


 ――何だろう、迷子かな……?


「馬に乗ってみたい?」

 少女はパッと振り返った。

 息を呑む美しさだった。

 幼い無邪気さと色香の様な雰囲気が相まっている。

 思わず成廉は見とれた。大きな瞳は好奇で満ち満ちている。

「乗りたい!」

 元気な可愛らしい声で成廉は我に返った。

 少女を抱え上げると雷音に乗せた。


 雷音は赤兎程乗り手を選ばない、温厚な性格だ。


「君、名前は?」

「……白鈴。あんたは?」

「はは、あんたって……ま、いいか。僕は成廉、この馬は雷音」

「かっこいいね」

「そっそう? ありが…」

「馬の方だよ」


「…………」

「…………」


 ――ここは年上らしくしないと。


「こんな所に一人でどうしたの?」

「迷った」

「じゃあ、どこから来たの?」

「南安」

「なっ?!」


 南安といったら雍州の西の端だ。馬を使っても十日以上かかる。意外にも田舎ものである。

 仕方がないので成廉は白鈴を乗せたまま、雷音の手綱を引いて回る事にした。


 洛陽は広い。

 無闇に歩き回るのは無茶な気がした成廉は西門の方に向かった。白鈴が南安から来たのなら、捜している者も西門辺りから捜すだろう。


「白鈴は誰と来たの?」

「知らない人」

「へ?」


 ――まさか人攫いか?


「でも、おじぃの知り合いだよ」

「なんだ、おじぃってお祖父様の事?」

「うん。おじぃが偉くなったから、一族のみんなで洛陽に住むの」


 ――ということは董卓の配下の誰かの孫か。


 洛陽で出世した、と言えば董卓の配下だけだ。己の権力をいいように位もやりたい放題だった。特に涼州からの部下は高官を占めている。

 そうこうするうちに西門が見えてきた。

「どうしようかな……」


 ――どこかですれ違ったかもしれない。


 正直向こうが見つけてくれるのを待つしかなかった。


「あ!」

 突然、白鈴が声を上げた。

「姫様〜!」

 成廉は白鈴が指差す方を見て、ギョッとした。侍女、護衛、その他三十人余りがこちらに向かって走ってくる。


 ――姫って……。なんかとんでもない拾い物しちゃった?


 土煙を上げて、従者達は白鈴を囲んだ。

「姫!! 勝手気ままにどこそこ行かれては困ります!

お祖父様にお叱りを受けるのは私達なのですよ!」

「すまん、すまん〜」

「ったく。どうもご迷惑をかけました」

 侍女の一人が成廉に詫びた。

「いえ、馬に乗せて歩いただけですよ」

「なにかお礼をしましょう。是非ついて来てください」

「そんな、お礼だなんて」

 成廉は丁重に断ると白鈴を降ろした。

「それでは」

 成廉は一礼すると人混みに入って行った。

「廉れーん! またね〜」


 ――廉々て……。




 邑の略奪。

 呂布が董卓の配下になって初めての任務がこれだった。

 最初は耳を疑った。仮にも漢帝国の全ての権力を握る者の言葉とは思えない。


 ――まさかこれも文優が献策したのか?


 呂布は麾下軍が家々から金目の物を盗ってくるのを見ながら、ぼんやりと思った。

 兵達の赤い肩当てがちらちら光った。麾下軍の具足を新しくした。甲冑は自由だが赤い肩当てと黒い直垂で統一したのだ。

 既に襲撃した邑々では、『蝗紅隊』と呼ばれているらしい。略奪を行う様子が蝗が群がる様に見えるからだ。

 この不名誉な異名を呂布は気に入っていた。

 左右から溜め息が聞こえた。

 成廉も魏越も張遼も略奪はしなかった。

 こんな事を自分達の隊がするのが恥なのだろう。勿論、呂布も厭だった。

 だが、今は心を鬼にするしかないのだ。蝗紅隊には物だけを盗るようにし、乱暴や殺人を禁止した。

 呂布に出来るのはそれ位しかなかった。




「文優、邑の略奪はあんまりじゃないのか?」

 呂布は文優の館を訪ねていた。

 蝗紅隊は呂布が良く制御したため、略奪で済ませた。しかし、董卓率いる軍勢が通った跡は何も残らなかった。

 命さえも。男は首を跳ねられ、踏みにじられた。女は徹底的に陵辱され、最後には腑を晒された。

 その行為は董卓から兵達への慰安事業とされた。兵のご機嫌取りの慰安事業は、ただの殺戮だ。正に董卓が通る邑は地獄となったのだ。


 文優は少し考え込んでいた。

「その件は私も聞いております。しかし私の献策ではありません」

「何?」

「恐らく李儒が独断で進言したのでしょう」

「どういう事だ?」

「李儒は今の立場が面白くないのです」

「嫉妬……か」


 それなりの知恵者が他人の考えで動くのは屈辱以外の何物でも無い。董卓は李儒の言葉は文優の言葉と信じている。それでも李儒は文優の策では無く、自分の策を披露したいのだろう。

 呂布はこれ以上、彼らの関係を続ける必要があるとは思えなかった。

「文優、もう潮時ではないか?」

 文優は諦めた様に首を振った。

「無理です。どうしようもありません。

もう李儒は私の制御下ではありません。

直接董卓様にお目にかかろうにも、李儒に偽者と言われるだけです」

 文優は目を伏せたまま動かなかった。


 ――もう董卓を止められないのか……?


 呂布は一瞬、目眩がした。




 成廉と魏越は宮廷近くの酒屋にいた。毎朝の調練の後大抵二人はここにいる。

 張遼は将才を見出され、中郎将(将軍)の徐栄の元で勉学していて此処にはいない。


 その日は新しく発注した戈を受け取り、二人でのんびり飲んでいた。


「最近の相国の野郎はまるで鬼畜じゃねーか」

「ちょっ、越! ここ宮廷に近いんだから言葉に気をつけろよ」

 魏越は真っ直ぐな性格だ。思った事は基本的に口にする。成廉はいつもひやひやだ。


 ――遼がいたら叱りつけてるな。


 魏越は酔ったら手がつけられない。よほど連日の略奪が気に食わないのだろう。

 成廉もまた然りである。蝗紅隊が邑を襲う様子を見るのは耐え難かった。日頃、共に苦しい調練をしている兵達の見たく無い一面だった。

 明日も洛陽城外にある歴代王族の陵墓を盗掘しなくてはならないのだ。成廉の気は重かった。


「廉々!」


「ん」

 人混みから何か聞こえた。

「おい、誰か呼んでるぞ」

 成廉は通りを見回した。洛陽広しと言えど、成廉を『廉々』と呼ぶのは一人だけだ。

 人混みを掻き分けて白鈴が走ってくる。


「やれやれ……姫様のお出ましだ」

 白鈴は跳ねるように駆けてきた。先日よりも飾りの多い簪に、華やかな着物を身に着けている。

「廉々!! 雷音に乗せて」


 魏越が酔った目で見下ろした。

「ぷっ。お前『廉々』って呼ばれてんの!? ってか誰? こいつ」

「知り合い……かな。この間この子が迷子だったから一緒に従者を捜したんだ」

「ねぇ! 雷音に乗せてよ」

 相手にしてほしい白鈴は、成廉の着物を引っ張った。

「どうせまた勝手に館から出てきたんでしょ? 帰んなきゃ駄目だよ」

「随分懐かれているな

いっそ嫁に貰っちまえよ」

 魏越がニヤニヤしながら言った。

「冗談だろ。こんな齢十もいってないような子供だよ?」

「子供じゃないもん! 私、十四だよ!?」


「え?」

「嘘だろ? 十過ぎてるとは思えねーよ」

「失礼な! 本当だもん」

 白鈴は怒り出した。余りにもうるさいので行き交う人々は何事かと見てきた。


「おい! 廉!」

「何?」

 魏越はもう、うんざりだった。

「こいつの望み通りどっかに連れて行け。これじゃあ、旨い酒も不味くなっちまう」

「……わかったよ。ほら、白鈴、雷音に乗せてやるから、大人しくして」

「本当? やったぁ!」

 成廉と白鈴が出て行くと魏越以下、酒屋の皆が溜め息ついた。




「それで、お姫様はどこに行きたい」

「お城の外」

「外はまずいんじゃ……」

 白鈴の眉がつり上がっていたので言う事を聞くことにした。

 成廉は雷音に乗ると白鈴に手を差し伸べた。

 白鈴の手は小さくて白く、か細かった。下から見上げる様子が可愛らしい。

 鼓動が高まってしまった成廉は頭を振った。


 ――いかんいかん。こんな幼い娘に欲情してどうすんだ、僕!


「白鈴、何が見たい? どこにでも連れて行くよ」

「じゃあねぇ……。黄河が見たい!

向こう岸が見えないくらい広いんでしょ」

「よし!」

 成廉が雷音の腹を蹴ると駆け出した。

「うわあぁ! 綺麗!」

 白鈴が声を上げた。


 黄河の畔についた頃には夕陽が河面を朱に染めていた。周りは誰も居ない、二人だけの世界だ。


 黄河の近くで農業を営む者はいない。

 黄河は大雨の度にその流れを変えるのだ。ここらでは麦が盛んに作られるが、水田もある。水田を作るとき黄河から水を汲いたりしない。必ず、支流から汲くのだ。黄河はいつ氾濫するか分からない、暴れ河なのだ。


 その自然の力と闘いながら、あるいは上手く共存しながら中国王朝は栄えてきた。

 黄河の雄大な姿を見て、成廉は歴代王朝の努力を垣間見た気がした。


 ――しかし、四百年の歴史を誇る漢帝国はこの様だ。


 そう思うと、美しい夕陽も禍々しい血の赤に見えてくる。

 日に日に董卓のやる事は非道くなっていた。帝が幼いからと、今では後宮は董卓の物となり、毎夜女官を犯しているらしい。

 成廉は深い溜め息をついていた。


「どうしたの?」

「ん。ああ……明日からまた盗賊紛いな事をしないといけないと思うとね」

「盗賊……?」


 ――本当に『お姫様』なんだな。噂も聞かないのか?


「相国のせいだよ」

 白鈴の目が大きく開かれる。

「相国の欲望の為に僕達が略奪しないといけないんだ」

 白鈴は下を見ていた。

「廉々、兵隊さんだったんだ。大変……なんだね」


 暫し、静かな時間が流れた。


「でも……夕陽を見て、元気が出たよ。鈴と来れて良かった」

「本当?」

 白鈴がまた見上げるように顔を上げた。

 成廉は白鈴を抱き締めたい衝動を抑えながら、白鈴の頭を撫でた。

「本当だよ。また来よう」

 成廉は白鈴の手を握ると雷音の元へ歩いていった。




 呂布は最初、また董卓が気分に任せて人を殺したと思った。

 今日は呂布が董卓に顔を出す日だ。成廉は供の者として付いている。

 宮廷の中は騒がしかった。文官だけでなく武官もそわそわしているのだ。


 ――なんだ?様子がおかしい。


 異変を感じ取った呂布は、急いで董卓の元へ向かった。

「相国! 一体これは何事ですか?」

「おぉ、呂布。いや……実はつい先ほど曹操が陳留で叛旗を挙げたのじゃ」

「なんと」

 陳留は洛陽のある司隷のすぐ東だ。


「しかも各地の諸侯に相国を討伐しようと檄を飛ばしているのだ。ちょうど、その件について相国にお話が……」

 李儒だ。李儒は董卓の前に進むと衝撃的な事を口にした。

「相国、遷都をお考えすべきかと」

「何!?? 遷都じゃと!」

「陳留を中心に叛乱軍が集結すれば少なからず洛陽にも被害が及びます」

「何もこんな時にする必要も無いじゃろう」

「こんな時だからこそです。天下が大きく動いて人民は動揺しております。平時に遷都を実行したところで上手くは行きますまい。

しかし、動揺している人民程動かしやすいはずです。やるなら今です!」


 董卓の心は既に遷都へと傾いていた。心の隙に付け入る事に李儒は驚くほど長けている。

「して、次なる都はどこじゃ?」

 董卓が喜々としながら聞いた。

「長安です。あちらは相国の本拠・天水にも近いです。なんと言っても長安は漢帝国建国の地です。縁起も良いでしょう」


 ――このままでは本当に遷都しかねない。


「待たれよ! その言は文優の物か?」

 李儒が苦い顔をした。

「違う。しかし相国、この策は絶対実行すべきです」

「せめて文優の意見も聞くべきかと」

「ふむ。では一応、李儒は文優の意見を聞いてこい」

 李儒は舌打ちして下がった。


 呂布は自分でもなんで文優の肩を持つような事を言ってしまったのか、解らない。ただ、とっさに口が動いてしまった。

 文優が心配になった呂布は一人、文優の館を訪れた。


「冗談を言うでない!

長安に遷都などすれば戦の勝敗に関わらず、洛陽の支配は近い内に難しくなるではないか!

そうなれば函谷関(洛陽の西にある関所)より東を捨てたも同然だ」


「何を言う!

洛陽に敵の侵入を許せば、帝を捕られるかも知れん。そうなるよりは、最初から洛陽を空にした方がましだ!

関中(長安周辺の盆地)なら防衛も容易いのだ」


「その関中に籠もっては中原に二度と進出出来んと、なぜ解らん?」


「黙れ!!

館に籠もっているのはお主の方ではないか! お主なんかに戦略など解るはずがない」


 奥の部屋で待つように使用人に言われ、待っていると案の定文優と李儒の言い争いが聞こえてきた。

 呂布が文優がこんなに怒鳴るのを初めて聞いた。しかし、結局夜まで続いた舌戦も李儒が董卓に偽った報告で済まそうと決心したため、ようやく終わった。


 呂布は李儒が帰ると文優の室に入った。

「豪快な舌戦だったな」

「いや、お恥ずかしい。自分でもあそこまで熱くなるとは思いませんでした」

 少しだけ、文優は顔を赤らめた。が、直ぐにいつも通りの真顔に戻った。


「呂布様には今の内に別れを告げておきましょう」

「別れだと?」

「相国のお心を変える事は出来そうにありません。遷都の際に洛陽を離れようと思います」


 呂布は驚いた。

「下野するのか」

「私はかなり前から相国の臣下ではなかった。本当はもっと早く気付いたいたはずなのです。でも、天下に最も近い男から離れるのが惜しかったのです」

 呂布はまたも自分から離れてしまう、親しい者に帰す言葉が無かった。

「どうぞ、お引き取りください。呂布様と別れるのが辛うございます」


 大人しく呂布は帰る事にした。


「文優、俺の軍師にならないか」

 このまま埋もれる文優を惜しんだ呂布は室を出る前に言ってみた。

 文優は目を丸くしてから静かに閉じた。


「……近い将来に」




 曹操。字を孟徳。沛国の人である。


 祖父・曹騰は十常侍に匹敵するほどの大宦官である。

 その幼少時代は複雑だった。家は裕福だったので生活は豊かだったが、家柄の為に世間からは冷たい目をされがちだった。曹操の父・曹嵩は金で官職を買っていたからだ。

 才能豊かな曹操だったが、自分の境遇に半ば失望し、袁紹とつるんで悪童として名を馳せた。

 袁紹もまた、袁家の中でも妾腹の子として気にかけられていなかった。


 二十歳に洛陽北部尉(北門治安官)に任命され功績を上げ、黄巾の乱の際騎都尉に任命されて、この乱も大活躍だった。

 董卓の洛陽支配後、董卓は才能豊かな曹操を手懐けようとした。

 しかし、董卓の専横を目の当たりにした曹操は故郷に帰り、資金を集めて、陳留で旗揚げするに至ったのである。


 更に曹操は各地に董卓誅滅と反董卓連合の誘いを飛ばした。

 旧友の袁紹をはじめ、中原各地から諸侯が兵を率いてやって来た。その数は日に日に増え続けた。

 総数約四十万。

 全軍を纏めるのは並大抵の事では無い。そこで曹操は袁紹を総大将に指名した。名門・袁家の名において、全軍の統率を図ったのだ。

 しかし、表向きは董卓打倒の意志で纏まっているように見える連合軍は、あわよくば自分が第二の董卓に……、と天下に野心を持った者達の集団だった。




 函谷関を一匹の黒い蛇が通過している。よく見れば、それは全て人である。

 数少ない財産を背負う者。子供を連れている者。歩けない親を背負う者。全てを失い、ボロボロの衣服の者。

 どの目も虚ろだ。


 遷都が敢行された。

 何十万という人が羊の様に大人しく歩いている。少しでも列を乱せば、命は無いからだ。

 直ぐに戦が始まる。呂布の任務は函谷関までの『追い立て』だ。そこから先は董卓に雍州方面を任されている、李確、郭[シ巳]が管理する。

 呂布と蝗紅隊は進むことも無く、その異様で哀れな光景を見ていた。

 彼らのほとんどは平民だ。董卓は遷都の際もその強欲さを発揮し、金品財貨を略奪した。

 洛陽の富豪や豪族は袁紹との繋がりをでっち上げられて、皆殺しだ。更に洛陽に住む袁家の者も皆殺しだった。


 呂布は初めて蝗紅隊に兵以外の人を殺すよう命じた。魏越も殺した。成廉も殺した。幸いにも張遼は徐栄の元にいたので、手を汚さずに済んだ。

 成廉は何人も殺した。戦の様に何も考えずに。女子供も殺した。必死に命乞いをして、見上げる上目遣いが白鈴を連想させた。

 躊躇いや憐れみは後々、禍根を残す。自分達の為にも手加減はしてられないのだ。

 成廉はただただ、鬼になるように努めた。




 洛陽に戻ると軍議が始まった。

 報告の兵が連合軍の全貌を伝えた。連合軍の攻撃は多方面からだ。


 まずは西涼の馬騰、韓遂。約四万で雍州を荒らし回っている。雍州は李確と郭[シ巳]が十万の兵で守備している。


 次に北軍として冀州の韓馥、河内の王匡、北平の公孫讚、そして上党の張揚。約八万で河内に駐屯している。


 本軍は南陽の袁術、豫州の臧洪、エン州の劉岱、東郡の橋瑁、

山陽の袁遺、済北の鮑信、北海の孔融、広陵の張超、

徐州の陶謙、長沙の孫堅、渤海の袁紹、陳留の曹操、張藐。


 兵力約二二万で、その陣は黄河沿いに三百余里(約120キロメートル)にも及んだ。


「配置を言う」

 李儒が諸将を前に言った。今や李儒はすっかり軍師気取りである。

「馬騰は雍州の四将軍に任せます。

北軍は黄河を渡河したところが好機です

動きがあるまで放っておきます。

本軍には大将を一人任命して、要塞・虎牢に十万の兵を置けば安心です。

相国は残りの軍と洛陽に駐屯なさって、万全の備えで迎え撃てば、連合軍など者の数で無いでしょう」

 董卓は立ち上がり叫んだ。

「よくぞ申した! 皆の者、連合軍など恐れるに足らずじゃ。

胡軫!お前を総大将に任ずる。副将に呂布と葉雄をつける。虎牢へ出撃しろ」

「応!」


 呂布は官舎に戻ると成廉に黒の甲冑と白の戦袍を持ってこさせた。

 この白装束は黄巾の乱以来、呂布と成廉、魏越、張遼の四人に欠かせない物だ。


「成廉、この戦本気で行くぞ」

「僕はいつだって全力です」

 成廉は肩当てを留める手を止めて言った。

「では、いつも以上の実力を出せ」

「……どういう意味ですか?」

「天下は広い。俺より強い豪傑がいるかもしれないぞ」

 成廉は噴き出した。

「無いですよ。奉先さんは天下一の漢です。戦の前に謙遜ですか」

 呂布がいつもより小さく見えた。

「成廉、天下は俺達が思うより、遥かに大きいぞ。まぁ、とにかく全力だ。蝗紅隊がどの程度、天下に通じるのか試すいい機会だ」


 胡軫率いる十万の軍が粛々と洛陽を出立した。虎牢に入城したのは二日後の夕方だった。


 ふとすると、成廉は独りになりたくなる。正確には雷音と共に。

 その日は戦の前の重たい空気に押しつぶされそうになった。そんな時、成廉は着物だけ、雷音に鞍も載せず鬣を掴んで駆けさせる。


 成廉の気持ちを汲み取って、雷音も全力で駆けたり、軽く駆けたりする。


 ――風になれる。


 成廉は馬邑の頃より大きく、立派な武人に成長した。しかし、心まで武人になりきれないのだ。

 今でも呂布の足下にも及ばない。いつでも成廉に見えたのは呂布の背中までだった。


 ――でも、風になれれば横に並べられる。


 雷音に乗った時。呂布に最も近付けるのはその時だけだ。他はだめだ。


 ――未だに死ぬのは怖い。自分が人を殺すのも怖い。

でも、呂布に置いてきぼりを食らうのはもっと怖い。


 未熟でも成廉は呂布を追いかける事を止めるわけにはいかなかった。


「走れ!雷音!」

 雷音が加速する。


「もっと……もっと速く!」


 その言葉は成廉自身に叫ぶかのようだった。

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