狼を追いかけて
徐州は例年稀に見る大雪に見舞われていた。積もる雪は深い所で足が半ばまで埋まる。
騎乗する騎馬は漢の馬に較べて巨大な蹄の持ち主だが、それすら雪に食い込む。辺りは一面の銀世界で一里先の距離感も掴めない。
少しばかり後ろから追いかけて来る少年は寒さで鼻の頭と耳だけを紅くする。騎馬が雪に脚を取られたのか、下馬して手綱を引っ張っている。
「虎、やはり残っていろ」
振り返って、まだ視界に残る彭城を示した。しかし、少年は瞳を子供特有の執着心に染めると首を振った。
「やだ」
「それじゃあ、その馬は置いていくか」
さすがに寒さに強い馬も雪に足を取られている状態で放置すれば死んでしまう。
「やだ」
苦笑いしながら降りる。
「ったく……。それなら虎が雷音に乗れ」
少年を軽々と持ち上げようとして僅かに負荷を腕に感じる。
「お? 少し大きくなったか?」
そう言って老馬に乗せる。
「少しじゃない」
ぶっきらぼうな声が降ってくる。この老馬以上の巨馬にはまだお目に掛かってない。
少年の顔は見上げる様にしないと見えなかった。
「……そんなに会いたいのか」
その言葉で少年は憤然とする。
「父上が母上以外の妾に毎年会いに行くのが悪いんだ」
「だから、妾じゃあ無いと言っただろう」
雪で脚を取られる馬を慎重に支持しながら答える。
「父上は昔から女癖が乱れていたんでしょ?」
「誰から聞いたのかは知らんが、それは遠い昔の事だ」
馬の片脚が抜けると予備の草鞋を応急処置として括り付ける。
「張文遠ともあろう者がそんなんで恥ずかしくないの?」
一瞬、手を止める。そしてぎこちなく笑いかけた。
「悪かったな。恥ずかしい親父で」
冗談を認めるとは思ってなかったのだろう。少年は二の句が継げない様だ。
「本当、恥ずかしい人間だ。俺は」
小さく独り呟く。
草鞋を結び終わると立ち上がった。思ったより雪が深い。この調子では泰山まで十日は掛かりそうだ。
「よし、行くか」
張遼は生きていた。
呂布が曹操に敗れ、その殿軍を務め、曹軍に特攻した張遼だったが、手勢が全滅すると下[丕β]目指して落ち延びた。
しかし、騎馬が脚を折り、早い段階で徒歩となった。困った事に追っ手から必死に逃れる為に手近の山に逃げ込んだところ、迷子となってしまったのだ。あちこちに矢を受けて重傷だった張遼は遂に崩れ落ちた。
目が覚めるとそこは付近の住民の寝台。徐州の民は呂布が自分達の敵である曹操と闘った事に感謝していた。そのお蔭で敢えて落ち武者狩りを行おうとする者は居なかったのだ。
張遼は己が先の敗戦から半月近くも気を失っていた事を知ると、完治を待つまでもなく礼を残して恩人を後にした。
馬も無い帰路。手負いの張遼には少しばかり遠かった。
ようやく下[丕β]に辿り着いた時、白門楼には『曹』の旗がはためいていた。
夢でも見ているのではないか。そう思い、張遼は何の躊躇いも無く政庁へ向かい、拘束された。そして、曹操の前に引き立てられた。
政庁に見知った顔ぶれがちらほら窺えたが、親しい者達は一人として居なかった。
「これは夢か」
張遼は曹操にそう訊ねた。曹操は答えなかった。
代わりに二つの首級を持ってこさせた。どちらも人間の首とは判るが原形を留めていない。勿論、誰の首か判断出来るはずもない。
「呂布は死んだ」
聞けば呂布と成廉は籠城の末、侯成らの降伏を契機に玉砕したと言う。
張遼は笑った。
有り得ない。呂布は史上最強で、常にその傍らに侍る成廉は安全が保証されているのだ。張遼は曹操が嘘を言っている様にしか聞こえなかった。
だが、続いた言に自信を無くした。
「陳宮と高順は殉じて死んだ。……お主はどうする?」
目の前が真っ暗になった。全ての物から輝きが消失した。
張遼は殉死を選んだ。
刑場に連れて行かれ、曹操の面前にて刑が行われる。
刑吏が斧を振り上げた時、不意に恐怖が湧き上がった。縛られ、身動きがとれない経験が今まで無かったせいか、自由が効かないという現実が尚更恐怖を掻き立てる。
「止め」
見かねて曹操が刑を中断した。
「何か言い残す事でもあるのか」
張遼は頭を垂れた。
「……死にたくない」
刑吏が耳を疑い、息を吸うのが聞こえた。
「曹公に降る」
見上げると有能な将の仕官を喜ぶ曹操の顔があった。
一瞬、それが嘲笑に見えた。実際に心底嘲笑っていたに違いない。
首級は替え玉で呂布と成廉は生きている。陳宮と高順は真実を知らずに殉死を選んだに違いない。
そう己を納得させた。そうしないと曹軍の幕下で生きる事が出来なかった。
以来、張遼は曹軍の将として数々の戦に参加する。これまで通り漢帝国の為、飛将の配下だった事だけを頼りに呂軍の残軍を率いた。
そこに宋憲、侯成、魏続の姿は無かった。
張遼が彼らと再会したのは河北の袁家平定戦役の際、并州に赴いた時だった。彼らは故郷で自警団を組織し、引き連れていた。
そこで初めて張遼は呂布が毒に冒されていた事を知った。
彼らもまた、降伏してから曹操から明かされたと言う。
それを聞き、自分達の降伏は呂布を救うものでは無かった、と悟った。尊敬して何時だって気を配っていたはずなのに、そんな重大な真実に気付けなかった。己に失望した彼らは下野し、歴史の表舞台から消えた。
「お前はどうするのだ」
その問い掛けに張遼は毒の事を信じなかった。
「それは曹操の嘘だ。
俺は奉先様と廉が還ってきた時、居場所を確保する為に曹操に仕え続ける」
と答えた。
しかし、返ってきた言葉は無情だった。
「毒を盛ったのは曹操だ。お前は主の敵に仕えると言うか」
「俺はあの方を尊敬していた。死んでもそんな事は出来ん」
「結局、己が可愛いのだろう」
彼らは冷ややかな視線を突き刺して去っていった。
張遼は言い返せなかった。
もしかしたら、それが事実なのかもしれない。だが、呂布と成廉はもしかしたら生きているのかもしれない。そんな考えにとらわれ続けた。
そして、その愚かな考えに縛られた者がもう一人。
泰山は更に雪が積もっていた。その様はさながら銀世界に山が侵攻されている様にも見える。
深い雪を掻き分け、小さな邑に宿泊しながら辿り着いたのは簡素な、しかしそれなりの敷地を有する邸である。周囲の垣根は低い為、雪に半ば埋まっている。
張虎が指摘した様に張遼は毎年、冬に此処を訪れる。
門を叩こうにも出来ない為、張遼は邸に向けて呼ばわった。
「誰ぞ居らんか、遼だ」
「お待ちください!」
直ぐに母屋の戸から張虎より少し年長の子供が一人飛び出してきた。雪に足を取られながらも二人の元まで来ると、嬉しそうに笑った。辺りの景色の様に白い歯が眩しい。
「お久しぶりです。文遠様」
「君も大きくなったな」
その言に張虎はあから様に警戒の目を少年に向けた。まるで、己の存在を脅かすものを対したかの様な視線に少年も気付いた様だ。
「? この方は?」
少年が張遼に訊ねる。
「俺の息子だ。名を虎と言う。君の母上の是非お会いしたいそうでな」
「そうなんですか」
少年は張虎の礼儀正しく礼をとった。
「越です。宜しく」
「よ、宜しく」
まだ警戒を解かない張虎を見て、張遼は苦笑いした。
「俺も戦に出てばかりだ。良かった礼儀の一つでも教えてやってくれ」
「じょ、冗談ですよね?」
その切り返し方が一瞬、呂布の言に困惑する成廉と重なる。
「あっ、申し訳ありません。立ち話なんかさせてしまって。……どうぞ中へ」
母屋の奥の室に案内された。
中に一人の女が待ち受けていた。艶やかな黒髪に吸い込まれそうな瞳で張遼を見つめている。齢は全く予想出来ず、ともすれば少女にさえ見える。
かつて呂軍に追従した董卓の孫娘・白鈴である。
「お変わりありませんか?」
張遼が優しく声を掛けると白鈴はふんわりと微笑んだ。
「何時もお世話になっています。遼さ……ごめんなさい。字を改めたんでしたね、文遠様」
「どちらでも構いませんよ。……それにしても酷い雪ですね」
「ええ、本当に。屋根が潰れないか心配です。……あら?」
白鈴の視線を追うと戸口から覗く張虎がいた。
「何だ、まだ其処にいたのか?入ってこい。お前が会いたがっていたのがこの方だ。
失礼、息子の虎です」
「ああ、この子が」
そろそろと張虎が入ってきた。
「私に何か用でもおあり?」
微笑む白鈴を張虎は直視出来ない。
「?」
暫しの沈黙の後、問い掛けられたのは張遼の方だった。
「さっきの越って子、僕の兄上なの?」
それを聞いた途端に張遼と白鈴は目を大きくした。そして互いに顔を見合わせた後、大笑いした。
「違う違う。あの子は成越、姓は成だ」
「じゃあこの人は」
そう言って白鈴を指す。
「だから俺の親友の妾だと常々説明していただろう」
「言い訳だったんじゃないの?」
白鈴は悪戯っぽい笑みを浮かべ、張遼を見た。
「余程、信用ならないお父上ですこと」
「何処ぞで昔の噂を拾ってきたようでしてな」
「あら、文遠様は本当に何処の城へ行っても女子の評判が良かったではありませんか」
「それを言わんで下さい」
白鈴が成廉の子を宿している事に気付いたのは、呂布と成廉が曹軍へ特攻した翌日だった。
下[丕β]が落城した後、噂を聞きつけた曹操は庇護を受けるよう提案した。聞こえは良いが、要は妾の一人になれ、と言っている様なものである。
白鈴は頑としてそれを固辞した。
あくまでも成廉の子は一人で育てる。
それが白鈴の決意だった。
結局、曹操は手を引いた。これはとても幸運な事だった。何故なら、曹操は人妻だろうと美女に目が無く、直ぐに召し上げてしまうような男だからだ。
それから白鈴はずっと徐州から離れなかった。
生活の手当は張遼が世話した。下[丕β]の中でも大きな邸が提供され、従者も沢山つけられた。
やがて、白鈴は元気の男児を産んだ。名は成廉の親友であり、白鈴自身も大分助けられた魏越から貰った。
しかし、成越の出産を境に泰山へ移ると言い出した。張遼には求婚の誘いが煩わしいとの理由が届けられた。
白鈴は幾つになっても少女の様な可憐な容貌を維持した。その美しさで独り身と聞いて地元の土豪達が黙っていなかったのだ。
以来、従者も家財も売り払い、泰山の麓に簡素な邸を求めると、そこで母子二人でひっそりと生活している。
成越が茶を持ってきた。こういう細かいところでは贅沢している様だ。
退出しようとする成越に白鈴が言った。
「越、阿虎と遊んできなさい」
『阿虎』と聞いて張虎は反発的な目をする。成越は首を傾げた。
「でも、外は雪が積もってますよ」
「だからよ。雪がこんなに積もるのは滅多に無いのよ。普段、一人では楽しくなくても、二人ならきっと楽しいわ」
「……」
首を捻りながら成越は振り返った。
「それじゃあ……外に行こうか、阿虎」
「阿虎って呼ぶな!」
張虎は先に飛び出す。慌てて成越も続いた。
「ああ! 待ってよ」
その微笑ましい様子に張遼と白鈴はまた笑い合う。
「ごめんなさい。『遊ぶ』って事がよく解らないのよ、あの子。
長い間、従者みたいな事をさせてしまいましたからね」
少し悲しそうに白鈴は呟いた。
「それで、」
張遼は改めて向き直った。
「何かお話があるのでしょう?」
二人だけにしたのだからそれなりの訳があるはず。
「あらあら、さすがは張将軍でございますね」
白鈴は適いませんと肩を竦める。
「実は越の事ですの」
「?」
「あの子に四歳から従者として申し分無い様に教育している事は見ての通りです」
「ええ」
「最近は只の棒切れですが素振りもさせています」
張遼は見た目に違う荒い教育に驚いた。
「どうしてそこまで……?」
暫く俯いていた白鈴は急に両手を付いた。
「っ!? 何を?」
「戦場でも足手纏いにならぬよう、最低限の事は教え込んでいます。どうか、越を遼様のお供に加え下さりませんか」
「何故そんな事を」
訳の分からない張遼は狼狽した。
「廉々は、あの人は奉先様に忠義を尽くし、漢として生き通しました。今も何処かで付き従っている事でしょう。
あの人も息子に『漢』として生きて欲しいと願っているはずです」
「……」
忠義を尽くす、という言が心に痛い。
「役に立つかは分かりませんがどうか……」
「しかし、越が居なくなればあなたは、」「金子なら遼様から十分頂いてます。従者の一人や二人、容易く雇えるでしょう」
張遼はうなだれた。
「少し……、考えさせて下さい」
雷音を連れて少し歩いた。
雷音は下[丕β]の戦いで生き残った。名馬とも言える馬だった為に曹操は自分の物にしたそうだ。
しかし、秣に全く口を付けようとしなかった。まるで長年の相棒を失った人間の様な哀愁が漂っていたそうだ。
日に日に痩せる雷音を見かねた曹操は張遼に下賜した。生きる気力を無くしていた雷音だったが、張遼の寝ずの世話に漸く回復した。
以来、張遼は移動には雷音に騎乗した。戦場には決して連れて行かなかった。
十年以上も共にすると目に見えて年老いた。それでも極力、傍に連れていた。雷音だけが成廉との繋がりの様に感じられたのだ。
「少し躰に堪えるか?」
雷音の耳の後ろを掻きながら語りかける。
異例の寒波。
今年の冬は中原では有り得ない寒さだ。遥か北で育った張遼にとっては温い。春の様なものである。
対して雷音は西域の馬。伝え聞いた話では西域は荒涼としているが漢ほど寒くはない様だ。雷音にとってこの寒さはさぞかし辛いものだろう。
しかし、雷音は気にするな、と憂いを湛えた眼差しを返す。元来、穏和な馬である。年を重ねる毎にそれに磨きが掛かった様だ。
その時、雷音の目つきが急変した。
辺りは積雪で木々も覆われ、白い世界と化している。険しい視線を追って顔を上げると、白い視界に何か見えた。雪が動いている様にも見える。
――何だ……?
遠くの雪の中に黒い双眼が見て取れた。雪が動く。
それは見事に擬態した純白の狼だった。
時折見せる鋭い牙、たった今まで血を舐めていたかの如く、朱の舌が見え隠れする。荒々しい容姿なのに不思議と危険を感じない。雷音を何事も無い様に狼を見つめている。
張遼らを見る狼の目には不器用な優しさが見えた。まるで――。
「越!」
張遼は泗水の畔で失った友の名を呼んだ。
直感でしかなかったが、張遼は確信する。
近付こうとすると白狼は一定の距離を保ちながら歩みを進める。柔らかな毛並みの尾を微かに動かしながら、立ち止まっては振り返る。
――ついて来い、という事か。
高ぶる胸を抑えながら追いかける。雪に足を取られながら、熱い何かが込み上げる。
辺りに木々が増えてきた。雪に覆われた薄暗い森を奥へ奥へと進む。
暫く歩き、雷音の息が僅かに荒くなった頃。開けた場所に更に二頭の白狼がいた。
伏し目がちの視線、日で淡く光る毛並み。小柄な方は柔和な印象を受ける。
――あれは……廉か! それでは、
開けた場所の中心に鎮座した白狼は子牛程もある。雪の上に伏せていながら、その存在感は威風堂々たるものだ。張遼には神性を纏っている様にも見えた。
「奉先様……」
張遼は力が抜けた様に崩れた。
「何だ。皆、此処にいたのか」
長年捜し求めたものが其処にある。自然と張遼は安堵した。
その様子を呂布は静かに見ている。その瞳から何らかの感情を見出す事は出来なかった。
沈黙。
辺りからは雷音の息以外、何も聞こえない。白の世界にただ四頭と一人が存在した。
雲の切れ間から陽の光が差し込む。それが合図かの様に呂布は徐に立ち上がった。成廉と魏越も従う。
「何処に行くのですか?」
白狼に張遼は訊ねた。無論、返事は無い。視線が交錯したかと思えば、三頭は踵を返した。傍らの雷音もそれを追って駆け出す。
「待てっ!? 雷音まで何処に」
誰も待ちはしない。
「ま、待て。待ってくれ! あっ!」
慌てて追いすがる。が、雪に埋もれた何かに蹴躓いた。三つの白と雷音が小さくなっていく。
「俺はどうすれば良いんだ?! 置いていくな!
俺も連れて行ってくれ!!」
悲痛な叫びが森に響く。
三人は白い息と共に消えた。遂に三人は振り返らなかった。
うなだれたまま固まっていた張遼だったが、ふと何かに取り憑かれ様に足下の雪を掘り返した。手が悴むが構い無しに掘り続ける。
張遼が躓いたのは一つの墓標だった。
『飛将
驍将
健将
忠臣と共に此処に眠る
泰山王』
決して美麗とは言えない荒々しい字体。しかし、魂の隠った字が彫られていた。
――嗚呼、
張遼は言葉を失う。
『忠臣』の二文字が胸に突き刺さる。
何時だって呂布の忠臣だと信じていた。いや、信じたかった。
しかし、その願いは脆くも崩れ去る。呂布、そして、成廉、魏越、文優、高順、陳宮の顔が浮かび上がった。
――俺は、……俺だけが生きている。
「そうか、……俺は、もう独りなのか」
つい先程まで何とも感じなかった北風が芯骨まで凍みていった。
〜終〜
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
皆様の心の片隅にでも残るような作品になれたでしょうか?
せっかく最後まで読んだのですから感想やレビューもよろしかったらどうぞ。