飛将失墜
「これより配置を命ずる」
軍師として陳宮が諸将を前に次々と通達する。
曹軍は二手に攻め寄せてきた。
まず、泰山に程近い拠点が兵站線の強化として狙われた。
寄せ手は約三万。
しかし、この周辺は嶮しい山内で守りに有利。少数でも十分だ。
「私が行きます」
陳宮はこの拠点の守備を五千の兵で買って出た。同時に臧霸との共同戦線を張る事が出来る。北の侵攻は問題無い。
下[丕β]には秦宜禄、王楷らに州兵五千を残し、彭城の守備に陳珪を任じた。
陳珪の嫡子、陳登の知勇は本来ならば前線にて発揮されるはずだが、造叛の疑いがある以上、下手に前に出す訳にいかない。
監視役として曹性と一万の兵を付けた。これで彭城の守りは十分だ。
そして彭城の西八十里の所に大本営が設置された。左翼に高順の一万、右翼に張遼の一万、本軍に呂布の二万。侵攻されながら攻める様な陣容。これで曹軍本隊約十万を迎え撃った。
曹軍先鋒は留まる事が無かった。虐殺こそ無いものの、数多の歩兵が街道を埋め尽くす様は徐州の民に先年の惨劇を連想させる程だった。
遂に先鋒が大本営の西十里の所まで迫る。
呂布は出陣した。
騎馬を中心に歩兵で編成した一万で先鋒に襲い掛かる。勿論、その周囲は蝗紅隊が固める。
曹軍の先鋒は楽進。校尉から戦場を生き抜き、叩き上げられた軍人だ。曹操に負けず劣らず小柄だが、体格に相対して攻撃性は激しい男だ。
呂布は徐州の兵を率いるのが初めてとの事もあり、いきなり突撃はしなかった。
歩兵と騎兵の連携で上手く捌きながら、騎射で攻撃した。特に呂布と成廉は百発百中の腕前で、弦音が響く度に敵兵が崩れ落ちる。それを目の当たりにした敵兵の最前線は畏れおののく。呂軍は勢いづいた。
そこに戦況を打開しようと楽進が自ら出て来た。
呂布は相手にせず軍を引き返した。直ぐ様、好機、とばかりに楽進は追撃する。
戦とは逐う者に有利だ。無闇に背を向ければ多大な被害を出す。しかし、それは時と場合による。
大本営まで五里を切った時、呂布は指揮旗を振らせた。左右の山腹より高順、張遼の軍が現れる。それを楽進が視認する前に襲い掛かった。
猛進する軍は急に止まれない。曹軍先鋒は横っ腹に杭を打たれ、身動きがとれない。更に混乱した曹軍に呂布は引き返すと突撃を繰り返す。
楽進は潰走した。大地を埋め尽くすのは曹軍の兵ばかり。
「上手く行きましたね」
成廉が嬉しそうに言う。
曹操を討ちやすくするには極力此方の流れに持ち込まなくてはならない。
その上、短期決戦で臨まなければならない。長期戦に構えられれば疲弊している此方に不利だ。
その為に陳宮は緒戦の戦術を呂布に残していた。
あくまで単純、基本の伏兵法だったが、大軍という精神的安心感にとらわれた曹軍には有効だったのだ。
曹軍との緒戦は陳宮の戦術勝ちで終わった。
「死傷者は二千に上ります。以上、先鋒からの伝令です」
楽進敗退の報せを受けて曹操は苦い顔になった。
「やはり先の叛乱で陳宮も始末しておくべきだったのではありませんか」
そう訊ねるのは参謀の郭嘉。
「あの程度の揺さぶりで混乱する軍です。あの者達を使って内から崩せば宜しいのでは」
軍師祭酒、つまり参謀長の荀攸が提案した。
荀攸は荀或の甥にあたる。しかし齢は八年上である。過去に董卓暗殺を計画し、死刑となった事がある。しかし、執行前に董卓が呂布に殺された事により命を取り留めている。
その為、荀攸自身は此度の呂布征伐は乗り気がしない。良策は呂布を降伏させる事だ。
その意見に曹操は揺れ動いていた。
「まだ、あの者達を使うべきでは無いだろう。陳宮も殺すべきではない。彼の者は我が軍に必要な人材だ」
「此度の戦はそれも目的の一つでございましょうか?」
「そうだ」
曹操は陳宮を気に入っていた。
基本的に曹操は『使える』人材が好きだ。その能力を愛し、性質は二の次だ。郭嘉などその筆頭である。荀或、荀攸の様な上流階級の名士はその性格品行は目を覆う程。司空府ではよく監督役、程立の激昂が炸裂していた。
陳宮もまたその部類に入る。いや、近いと言う方が妥当だ。
陳宮は品行に問題は無い。性格にかなりの癖がある。精神が幼いのだ。
他を凌ぐ能力はある。しかし、捻りが足りない。基本に忠実、と言うより不器用と言うべきか。その上、内心では己は誰よりも優れていると信じている傾向があり、他者が賛美される事に憤りを感じている様な男だ。
実際、優れているのだが上には上が居る。呂布がエン州で挙兵する以前、そう戒める意味で曹操は陳宮をわざと張藐の下に遣わした。
それが発端となったのか、陳宮は拗ねた。逆効果だったのだ。
――私の能力を理解出来ぬなら凶刃を向けさせて頂く。
そんな声が聞こえてきそうな裏切りだった。曹操は張藐の裏切りに驚きながら、陳宮の行動には苦笑いしたものだった。
まだまだ青い。率直にそう思った。
だから、陳宮は今でも青いのだ。呂布に忠誠心など在ろうはずも無い。ただ、曹操に意地でも従わない、右と言えば左を進む様に逆らっているのだ。
――陳宮は我が軍に戻って初めて成長するのだ。
曹操はそう信じていた。
文優とか言う謎多き呂布の知嚢は間者と共に始末した。その時点で呂布は死んだも同然だ。もう曹操に障壁など無い。
敢えて注意するなら呂布の人外の武。隠密部隊の報告によれば毒に冒されているはずの呂布の武は未だ健在らしい。だが、それだけだ。
既に呂布の軍を破る為の下準備も進んでいる。
例え、甚大な被害を出そうとも絶対負けない、絶対勝てる自信が曹操にはあった。
「陳宮を取り返しに行こうか」
曹操は本陣を更に東へ動かした。
曹操自らが本軍を率い、本格的に前線へと兵力が投入された。
曹操を討つ絶好の機会。そして恐らく最後の好機である。呂布は必殺の突撃の為に諸将を大本営に召集した。
「皆、今日まで長かった」
呂布の朗々とした声が幕内に響く。戦を求める獣が猛々しさを抑えている様にも、また、感激を言葉に表す詩人の様にも見える。成廉だけで無く、諸将の目にも呂布は何時に無く感傷的に見えた。
「全力を出し切れ。目標は曹操只一人。それで戦は終わる」
成廉は呂布の言に耳を傾ける諸将を見回した。
高順は呂布の一言一句を噛み締める様に目を閉じている。その部下の宋憲らは呂布の言に目を輝かせ、戦意は最高潮の様だ。
そして、張遼は表情を崩す事無く、静かに呂布を見つめていた。
呂軍が今、一つになる。そう成廉には感じられた。元々、将の殆どが古参ばかり。連携は間違いないだろう。
――これが飛将の軍。
そして成廉は毒の影響を微塵も見せない呂布を見上げた。
――これが飛将の生き様。
ふと、成廉は己の目頭が熱くなっている事に気付いた。それが何を意味しているのか成廉にも見当がつかない。ただ、何かに感化された。
これが最後の戦と躰が教えているのか。
呂布の秘めたる感情が他方に昇華されているのか。
――どれでもいい。
諸将の視線が呂布に集まる中、成廉は微笑した。
――僕はただ、天命を追いかけるだけ。
「この大本営を放棄する。我々に帰る場所は必要無い」
呂布は変わって淡々と告げる。諸将の戦意は高揚する。
「下[丕β]に帰る時。それは曹操の首級を挙げた時のみと心得よ!」
「御意!!」
呂軍は呂布と蝗紅隊を中心に守備に回した兵力を除いて、全軍を動かした。
斥候の報せを受けた曹軍もまた、軍を動かした。
呂布は成廉と蝗紅隊と共に先頭に立った。その後ろに歩騎二万、左右に高順、張遼は布陣する。
今、遥か霞む曹軍を前に呂布は大きく息を吸う。
「成廉」
「はい」
「俺は生きているのだな」
「……はい」
「敵を前にした時、生きていると実感出来る」
「そうですか。それなら奉先さんはまだまだ死ねませんね」
「?」
呂布は振り返った。
「天下に奉先さんの敵は曹操一人どころじゃありませんからね」
途端、破顔一笑する。内心、その言に隠される呂布に死なないで欲しいという願いも受け止めた。
「ハハハッ。その通りだ、成廉。そうと決まれば早く曹操を一捻りにしてやらねばな」
赤兎に跨る。
「お前も俺も老けたものだ」
一瞬、赤兎もしみじみとした表情になった気がした。
「では、皆、行こうか」
蝗紅隊は何時もと変わらない笑顔で応えた。
両軍激突した。
呂布を先頭に蝗紅隊は曹軍に突撃する。
曹軍の兵士は下手に前進せずに突っ込む呂布を待ち受ける。
深紅の巨馬が、それに跨る真白の戦袍が迫る。まるで喪服、天より舞い降りた死者の様な装束に畏怖の念が広がる。
最高潮に達する恐怖と闘いながら、絶対的な距離で曹兵は呂布目掛けて戟を一斉に繰り出した。
戟の刃が鈍く光る。しかし、どの兵も手応え一つ伝わらなかった。
そんな、と声にならない叫びが口々から漏れる。
次に瞬いた時には最前線の曹兵五人分程の手足首が宙を舞う。次列の兵は何が起きたのかも知る間も無く、次々と駆けてくる蝗紅隊に斬り飛ばされる。 ひぃと言う息吸い、目を見開く曹兵は為す術も無く呂布の戦場を赤に染める。
呂布に誰一人、触れる事も出来ない。
呂布と蝗紅隊が通った後に続く隊にとっては戦にもならなかった。恐怖でおののく曹兵を討つだけ。それは動かない的に矛を突くのと変わりなかった。
とは言え、曹軍も精兵揃い。他の軍もそう上手く突破出来るはずがない。直ぐに呂布は単独突出してしまう。
呂布は繰り出される戟を弾きながら敵の軍容を目視する。眼前に広がるのは無数の甲冑。そしてぽつりぽつりとそれぞれの敵将の旗がはためく。
曹操の牙旗はまだまだ霞んで遠い。
見回す事、周囲に約三万余り。遠くの高順と張遼も一、二万程の軍と激突していた。
一見、無秩序な曹軍だが、指揮系統がしっかりしている。曹操の指揮の元、更に一隊が既に軍中に食い込む呂布の背後に回った。
敵に後ろを取られては危険だ。
「高順と張遼に伝令! 俺が両翼の横を削る
その隙を見極めて攻めるよう伝えよ」
伝令が勢い良く放たれた。
同時に呂布も現前線に沿って軍を滑らす。呂布の軍は前線に触れる度に血飛沫を作り出す。
曹軍の前線は呂軍を留める事が出来ない。
暫く北へ進むと砂塵が近付く。高順ともあろう者が拮抗している様だ。
呂布は高順と交戦する曹洪の軍に殺到した。高順の軍の反対。丁度、挟み撃ちする様な形で攻め込む。 目に見えて曹洪の軍は狼狽える。
容赦無い攻撃に自然と曹軍の兵力が呂布側に偏る。そうしないと呂布の猛攻を支えきれないからだ。蠢く曹軍に僅かだが亀裂が入る。それを高順は見逃さなかった。
「続け」
騎馬隊で小さな曹軍の切れ間に飛び込む。途端に曹軍は竹を割る様に容易く分断されていく。
その様子を見て、呂布は攻め手を止めた。これ以降は高順の手腕で十分だ。
「次は張遼だ、行くぞ」
馬首を返すと来た経路を引き返す。
再び曹軍の中軍に会敵しようという頃、呂布の前に巨大な陣が現れた。
小さく纏められた小隊が密集している。
「これは……魚鱗の陣!」
成廉が声を上げる。
魚鱗の陣。
その名の通り、一隊を一枚の鱗と見立てて、幾重にも並べられている。一枚の鱗が剥がされようとも、直ぐに待機している別の鱗が穴を埋める。
大軍だから布陣出来る、ただ守る事にのみ特化した陣だ。軍としての進軍は極めて難しく、大抵は防御力を求める本陣に用いられる。
――まさか曹操が出て来たか。
魚鱗の陣を運営するのは高い指揮能力が求められる。末端まで自在に動かすのは本当に困難なのだ。
しかし、呂布の予想に反して中央の旗には『夏侯』と印されていた。
報告に因れば張遼が交戦する軍は夏侯淵が率いている。
つまり、――。
「盲夏侯の方か」
曹操に旗揚げの頃から従う、股肱の臣・夏侯惇。
先年、隻眼になってからは命知らずの誰かから一族の夏侯淵と区別する為に『盲夏侯』などという仇名を献上された。夏侯惇はこの不名誉な仇名を良しとせず、鏡をみる度に映る己が気に入らない様に放り投げている。
隻眼となった今でも曹操の信頼は絶対のものだ。前線に出る事は少ない代わりに指揮官として軍を束ねたりとなかなかの大将ぶりという噂は呂布の耳に入っていた。
「お手並み拝見とするか」
一声上げると、呂布は赤兎を締め上げた。それを合図に成廉、兵が続く。呂布が方天牙戟を一閃すると鱗が一枚、消し飛んだ。
しかし、次の鱗が矛を突き上げながら迫る。難い。思う様に進む事がままならない。
少しずつ大魚に刃を突き立てる様に呂軍は進んだが、最後尾が陣に飛び込んだ途端、呂軍は包囲された形になってしまった。
出口が無い。辺りは矛を携えた無数の鱗しか見えない。突破しようと斬り込んでも、次の鱗が邪魔する。次第に呂布は己が陣の何処に位置しているのかも定かでなくなった。
そんな時、思わぬ助け舟が現れた。夏侯惇が正面より現れたのだ。則ち、張遼の交戦地点は右方となる。夏侯惇のお蔭でどの方向へ抜ければ良いかは分かった。
問題は夏侯惇をどうするか、である。
夏侯惇本人は何かする訳でも無く、幾層か離れた所に麾下を引き連れて呂布の奮迅を眺めているだけである。
不敵な笑みを浮かべつつ、夏侯惇の指示が飛ぶ。呂布らを包囲する魚鱗が徐々に締め付ける。
呂布自身、遮二無二斬りまくれば突破出来ない訳でも無い。只、追撃の心配だけがそれをさせない。
――こうなったら僕が……。
成廉は決意した。
「奉先さん」
「何だ」
振り返らずに呂布は聞き返す。
「先に行って下さい」
「……しかし、」
呂布は一瞬手を休める。
「兵を千程貸してくだされば暫く足止め出来ます」
「信じて大丈夫か?」
足止めの件では無い。足止めして生還出来るのか。
その意を込めて呂布は訊ねた。
「早く遼の援護を。あの旗の下で落ち合いましょう」
そう言って成廉は砂塵に霞む『曹』の牙旗を指差した。
二人は頷き合った。
「死ぬな」
「はい」
「二手に別れる! 蝗紅隊と騎兵千を残す。残りは突破を図る」
呂布と兵一万余が魚鱗に突っ込む。
呂軍のいた空間に成廉と騎兵千のみが残された。追撃の軍が呂布を追わんと動いたが成廉が行く手を阻む。
成廉には如何にすれば呂布が易く抜けられるのか、それだけを考えた。
辿り着いた答え。それは――。
「盲夏侯殿に一騎打ちを所望する!」
呼ばれて夏侯惇が鱗群から現れた。
地味な戦袍。しかし、曹軍で統一された鈍色の甲冑と相まって、堅実な強さが滲み出る。
「飛将の側に常に侍る驍将あり。成廉と言ったか」
余裕の笑みで成廉の挑戦を一蹴する。
「片目の借りを返したいところだが今回はそうはいかんのだ」
しかし、成廉はその笑みが一瞬固くなるのを見逃していなかった。
夏侯惇は片目を奪い、『盲夏侯』などと言う仇名の生みの親・成廉を八つ裂きにしたくて堪らないのだ。挑発を繰り返せば乗ってくると成廉は読んだ。
「盲夏侯の意味は隻眼を表していると聞いたが、聞き違いだったかな?
まさか、度胸の盲い事とは思わなかったぞ」
「勝手にほざくがいい」
言い返す夏侯惇の腕は震えている。
「そうか! 盲夏侯殿は呂軍に味方してくれているに違いない。小沛でも倍の数で高順殿に負けてくれたんだな。
だから、一騎打ちなんてとんでも無い訳か」
「貴様ぁ、言わせておけば……。望み通り捻り殺してやる!」
夏侯惇は徐に剣を抜いたかと思えば騎馬を飛ばして迫る。
「来い!」
成廉は左手より繰り出される矛を躰を捻って避けた。そして横薙を浴びせる。戈に付属させた小型の片刃が風を切って夏侯惇に食い込まんとするが、寸でのところで剣に阻まれる。
直ぐに刃を返すと柄で撃ち合う。
頭、首、胴、腕。先に仕掛けるのは成廉で夏侯惇は一拍遅れる。それでも反応してからが速い。どんなに攻めても夏侯惇に届かない。
成廉の額に汗が滲む。粘着いた厭な汗だ。
夏侯惇の殺気は苛烈である。
片目でどれ程の者か、と些か侮っていた成廉にとって夏侯惇の殺気は焦りを助長した。攻めだった攻撃が次第に受けに回っている。
――くっ……。まずいか。
呂布が突破するには充分撃ち合った。
しかし、如何にしてこの窮地を脱するか。成廉は思いつかない。
普通に夏侯惇に背を向け、突破しようとすれば呂布の時と同じ様に追撃と言う問題がある。蝗紅隊を含む騎兵千とは言え、背後を突かれればひとたまりも無い。
そして、力任せに夏侯惇を討って魚鱗の陣を崩壊させるのは難しい。討つには成廉は力不足だった。予想外に夏侯惇は強い。
援軍もまた無い。せめて、援軍の一つでもあれば、立ち回り次第で互角にやり合える。少なくとも生還は可能だ。
そんな時、示し合わせた様に一騎打ちする空間の曹軍右手に道が出来た。
「成廉! 無事か?!」
矛を振り回しながら駆けてくるのは高順。
「高順殿!」
「馬鹿な……!!」
互いに二、三歩離れると夏侯惇は驚きの声を上げた。
当初の成廉の読みが当たった事により、魚鱗の陣は夏侯惇の指示が行き届かなくなり、その固さが削がれた。呂布が突破し易くなったと同時に呂布の残した陣の亀裂の修復も停滞していたのだ。
そして曹軍左翼を破った高順が偶然にも曹の群れに埋もれる『呂』の旗を見つけ、呂布の通った跡を辿ったのだ。
お蔭で高順も激しい抵抗を受ける事無く、中軍の中央まで来れたのである。
夏侯惇が唖然としているうちに高順の引き連れる軍は成廉らを包み込む様に回収する。そしてそのまま来た方向へと脱する。
「夏侯将軍!」
夏侯惇の副将は追撃の命を求めて駆け寄る。夏侯惇の顔は険しく、しかし、目は諦めが表れていた。
「追撃はせんよ。孟徳殿の指示通り、次の態勢へ移行する」
魚鱗の中、消えていく呂軍を見て夏侯惇は溜め息を吐いた。
「もう、会う事は無いだろうな……。なあ、孟徳殿」
夏侯惇の向く方角は本陣の牙旗では無く、北。泰山の方を見つめながら、眼窩が疼くのか、しきりに眼帯を弄った。
泰山麓拠点。
陳宮は五千の兵で斉南方面より進軍する曹仁の二万を受け止めていた。
この拠点は両方を山に挟まれ迂回するにも辺りは隘路だけ。険阻な山々に囲まれ、天嶮の地である。
陳宮は緒戦を大勝利で飾った。
進軍する曹仁を砦に取り付ける距離まで手出しせずに引き付けた。
そこで泰山の盟友、臧霸の出番である。足場の最悪な山を容易く進軍出来た彼の私兵は正に神出鬼没。曹仁の軍を後方から幾度と無く攪乱した。左右が深い山な為、何処から攻められているのかも把握出来ない曹軍は遂に混乱した。
それを待ち受けていた陳宮は自ら率いて出撃する。挟み撃ちに遭った曹軍は半壊した。道を埋め尽くす死体は曹軍の進軍を阻む程だった。
――ざまあ見ろ。
陳宮は心底喜んだ。曹軍を、曹操を撃ち破ってやった。自分の力を見抜く事も出来ずに左遷した男を嘲笑う。
――この戦は呂将軍の言う通り、私を用いなかった曹操への復讐戦。
いや、そんなものでは無い。罰だ。私を用いなかった罰なのだ。
曹仁の軍は拠点に近付く事も出来ずに二十里程北で動かなくなった。
――曹仁の報告を耳にすれば曹操はさぞかし悔やむ事だろう。だが、私は負けても二度と与しない。
それに、……私が負けるはずが無い。
一つ気掛かりがあるとすれば、楽進を破ってからの本営と連絡が途絶えた事だった。
しかし、勢いは呂軍にある。あの無双の主が負けているとは陳宮に想像出来ない。
大方、彭城の定期伝令が勝利に酔って怠慢しているのだろう。
全てが自軍に傾いている。陳宮はそれしか考えられなくなっていた。
顔面蒼白の見張りが飛び込んで来たのは臧霸に祝いの酒宴を設けようとしていた時だった。
「南方に……」
報告を聞いた途端、陳宮は立ち上がった。見る見るその顔が赤紫に染まる。
陳宮は物見櫓によじ登り、彭城への街道を見て硬直した。
「こんな……馬鹿げた話が……」
眼下には街道を埋め尽くす鈍色の甲冑。『曹』の牙旗が風にはためいていた。
成廉の足止めにより中軍を脱した呂布は高順の時と同じく、張遼と交戦する曹軍一万に突撃を仕掛けた。
夏侯淵は奇襲を得意とする将。攻撃を受ける事は不得手としていた。呂布と張遼に挟撃された形になった曹軍は奮戦虚しく瓦解した。散る曹軍を呂布は追撃しなかった。
直ぐに進軍態勢を整えると、張遼と共に『曹』の牙旗を目指す。
中軍の右側を駆けていると丁度、高順の部隊が曹軍の尻から突破してきた。その軍中に真白の戦袍を赤く染める一騎と黒光りする騎兵隊を見て取れた。
どうやら成廉らも何とか窮地を脱した様だ。
「三方より攻撃する、曹操を逃がすな」
「御意」
速度を緩める事無く、高順が左翼、張遼が右翼と陣容を変形する。呂布はそのまま直進した。
曹操は本陣を馬防柵と塹壕で何重にも囲い、即席の砦を築いていた。陣門に千程の一隊が布陣していた。
立ち塞がる将は若い。子供の様な澄んだ目をしているが乗馬していないのにも関わらず、目線は同じ高さだ。
呂布は何処かで見た覚えがあった。軍を止める。
「お前は確か……」
「許[ネ者]だ」
呂布はエン州で曹軍の将と闘った時を思い出した。辛くも曹操を逃し、夏侯惇が片目を失った時である。
「典韋はどうした」
曹操の護衛として、親衛隊を率いていたのは典韋だった。しかし、その親衛隊は今、目の前に許[ネ者]と共に此方を睨みつけている。
「……漢武猛殿は死んだ」
漢武猛校尉は典韋の最後の官位だ。
「それは残念だ」
――つまり、こいつが典韋の後継か。
「成り代わって俺が此処から先は通さん!」
許[ネ者]は拳を突き出し宣言した。手に持つ武器は見覚えがあると思えば、典韋が愛用していた双鉄戟だ。
呂布は笑った。
「良い度胸だ。典韋の代わりにお前が死ね!」
呂布は方天牙戟を高く掲げた。両軍ぶつかり合う。許[ネ者]の相手を呂布が務めた。二人が得物を振るう度に風が切れる。
許[ネ者]は典韋の後継なだけあって、その膂力は並み一通りではない。五十斤はあろうかという双鉄戟を軽々と振るう。
何より油断ならないのは、許[ネ者]が騎乗していないのにも関わらず、対等に打ち合ってくる事だ。
その周囲の親衛隊もまた、圧倒的不利な形勢でありながら良く保ち堪えている。
――こんな所で時を費やしている場合では無い。
呂布は焦りを感じた。想像以上に許[ネ者]は勇猛な将だった。早く撃退して先へ、と気持ちが逸る。
呂布は更に息吐く間も無く打ち据える。馬上からの攻撃はそれだけで優位になる。許[ネ者]は防戦一方になった。
次なる斬撃に備えて許[ネ者]が双鉄戟を構えた瞬間、呂布は手綱を精一杯引きながら赤兎の腹を蹴った。
赤兎が棹立ちになる。蹄が双鉄戟を蹴り上げた。
「終わりだ!」
許[ネ者]は目蓋を閉じて、竦む。呂布はその首目掛けて一閃する。
瞬間、時が止まった。
「……何っ?」
呂布は理解不能になった。
許[ネ者]の首は何事も無く、胴と離れない。代わりに宙に舞ったのは髻だった。
勿論、許[ネ者]は微動だにしていない。絶対に討ち損じる事など有り得ない状態。
「?」
討ち死にを覚悟した許[ネ者]も訝しげに呂布を見た。
「馬鹿な、」
そう言って己の拳を見て、呂布は愕然とした。
拳が小刻みに痙攣を起こしている。
丸薬の効果はまだ切れてない頃だ。普段なら一月は保つ。最後の一粒を下[丕β]で飲み下してから、まだ半月もたっていない。
幾度と薬を使用すれば中毒を起こす。薬に慣れた躰が更なる量を求めているのだ。当に今の呂布はこれだった。
呂布は己の目が信じられなかった。嘆息が漏れる。
――俺に曹操を討ち殺す事など出来ん。
天命というものが存在するなら、そう初めから決まっていたという事か。
何度、曹操を討とうとしただろう。その度に呂布はその武を全て出し、部下達の協力までもあった。それでもあと少しというところで取り逃がす。
曹操本陣から銅鑼の音が響く。許[ネ者]はサッと表情を和らげた。
「孟徳様も無茶をさせてくれたわ」
そう言って親衛隊を纏める。
「……」
呂布は追うべきか迷った。このまま曹操のところへ行ったところで討てるのか。
「それでは飛将軍、次に会うのはあの世だ」
そう言い残して許[ネ者]は退却していく。
成廉が近付いた。
「奉先さん!」
呂布の震える手を見て、一瞬顔を強張らせる。
「……最後です。これで最後なんですよ!
飛将がこんな所で足を止めるんですか」
「だが、……いや。お前の言うとおりだな」
呂布は本陣への突撃態勢を整えた。
さあ行かん、という時。何故か曹軍本陣から呂軍の伝令が駆けてくる。
「何だ?」
高順からの伝令だ。
「報告! 我が軍は南方から突撃。しかし、曹軍本陣はもぬけの殻です!」
「!!」
――しまった! 謀られたか。
呂布は目の前の『曹』の旗にとらわれ過ぎていた。撃破した軍の事など何も考えていなかったのだ。
案の定、斥候を四方八方に放つと全ての兵が曹軍を発見して来た。
西より曹洪と許[ネ者]の五千と楽進の一万。
南より夏侯淵の一万。
北より夏侯惇の二万。
総勢約五万の曹軍が罠に掛かった呂軍二万余目掛けて猛進していると言うのだ。その上、肝心の曹操率いる本体が見当たらない。
そして最も呂布を驚かせたのは東より帰ってきた斥候の報告だった。
「彭城が陥落だと?!!」
呂布だけで無く、集結して来た高順、張遼も耳を疑った。
「確かな情報なのか!?」
普段、私情を面に出さない高順もさすがに我を忘れる。
「詳しく話せ」
「城の旗は……『劉』、と。どうやら陳親子が劉備を手引きした様でございます」
まさか、と一同騒然となる。
成廉だけが唇を噛み締めた。
先日、小沛に赴いた時、確かに劉備は呂布を止める、と宣言した。
劉備は高順に撃ち破られて行方不明になっていたが、呂布も誰も斥候を放とうとはしなかった。曹操との決戦で一杯だった事もあるが、西に向かわず南に下りながら東へ迂回するなんて誰も予想しなかったのだ。
そして、陳珪、陳登。その怪しい動きを誰もが曹操との内通と疑っていた。いや、劉備が曹操に汲みしていれば結果としては同じである。ただ、曹操にばかり目のいっていた呂軍は見えなかったのだ。
そして次なる不安が生じる。
曹操の本軍はその大軍で何処へ進軍しているのか。
陳親子が曹軍側となると彭城を中心に情報は操作されている。陳宮の安否も不明だった。
「曹(性)将軍は斬首。守備兵一万余も大きな抵抗も無くその下に降伏しました」
重苦しい空気が漂う。周囲の曹軍はこうしている間にも呂軍目掛けて迫っている。一番近い曹軍の喚声が風に流れてきた。負けを見越した兵は既に後退りしている。
「如何します、将軍?」
俯き加減の呂布に視線が集まる。呂布は答えない。
「奉先さん!」
成廉が揺さぶって、ようやく虚ろな目の焦点が定まった。
「……土豪の私兵と州兵は散れ。散ってそれぞれ帰還するのだ。
お前達の戦は終わった。曹操を討てなかった、それだけ謝っておく。……すまなかった」
諸将、息を呑む。
確かに此度の戦は徐州の兵にとって復習戦にならなくも無い。だからと言って呂布が謝る事では無い。呂布も皆も全力を尽くした。
しかし、負けたのだ。
徐州の民は泣く泣く解散し、それぞれ元の居場所へ還り始めた。
責任は上に立つ者に否応無しにのし掛かる。
呂布は残りの兵を無事に下[丕β]まで撤退させなくてはならない。蝗紅隊、将に配属する軍も含め、騎兵約五千。歩兵は残った州兵も含め一万五千といったところだ。
「陳宮を回収し、下[丕β]への撤退を図る。軍を小さく纏めろ、俺が先頭を切る。矢の陣を採用する」
直ぐ様、軍が動く。
「追撃を避ける為、夏侯惇の軍を突破する。続け!」
赤兎の腹を蹴ると呂布は駆け出す。その後を皆、追いかけた。
夏侯惇の前衛が迫る。
曹操は呂布の凶悪な騎馬軍の対策として槍を装備させていた。
槍は矛と違い、突く事しか出来ない。しかし、楯を持っても扱える軽さがあり、横に振る動作が必要無い為に柄の長さは倍以上ある。騎兵を相手にする為に絶好の武器なのである。
夕日に赤く染まる無数の槍を前に呂布は怯まなかった。速度も落とさない。
貸せ、と言って後ろの兵から矛を取り上げると、前衛目掛けて無造作に投擲した。唸りを上げて矛は楯を掲げる曹兵を貫通し、その後ろも巻き込む。曹兵の躰は余りの勢いに爆裂し、その臓腑は周囲の兵に降り注いだ。
怯む前衛だが、まだ足りない。変わらず槍先は呂布に向いていた。
呂布は剣を抜き放った。そのまま横薙に投げつける。回転する剣は幾つもの首を飛ばす。
前衛はさすがに怯んだ。槍先が僅かだが上に反れる。呂布は見逃さなかった。槍を弾き上げると曹兵三人を掬い上げる。その穴を次々と呂軍は駆け込んだ。だが、態勢を整えた夏侯惇は左右から槍と弩を打ち込む。
ようやく呂軍の最後尾が脱し、曹軍が見えなくなった頃には兵が半数になっていた。
沈む太陽が駆ける呂軍を照らす。
夕陽に赤く光る甲冑が血に染まった戦袍と同化する。辺りは自軍の蹄の音しかしない。
――負けたのか。
戦場では頭が興奮していたのか、今になって現実がのし掛かった気がした。
初めて曹操と相対した虎牢。まさか、生涯賭けて闘い続ける事になるとは予想しなかった。
あれから七年。幾度と曹操を死の淵まで追い込み、そして逃した。
天命という言葉は便利だ。それを一度口にすれば、どんな事にも諦めがつく。
――俺の勝利は始めから何処にも無かったのか。
「将軍! あれをご覧ください」 兵の一人が前方を指差した。
『陳』の旗。陳宮である。
「無事だったか」
諸将から喜びの声が上がる。が、直ぐにそれも止んだ。
必死に此方へ駆けてくる陳宮の軍はせいぜい千余り。しかし、その背後には天にも昇らん程の砂塵があった。
長年、戦場を駆け回れば砂塵だけで敵軍のおおよその数は判るものである。
夕陽に照らされる程の砂塵は三万を超える数を示していた。誰もがその光景に声を失う。
更に合流した陳宮の報告に意気消沈する。
「無事だったか陳宮」
ぼろぼろの戦袍で陳宮はやって来た。恐らく陳宮自ら剣を手に闘ったのだろう。
「報告します」
陳宮の声は酷く萎びていた。
「緒戦で我が軍は曹仁率いる二万を臧霸との連携で撃ち破りました。
しかし、砦の背後に突如出現した軍により潰滅致しました。臧霸は泰山の奥へと一時退却した模様」
「その出現した軍が曹操か」
「はい。……率いるは青州兵三万。更に後続に曹仁の一万」
消え入る様な報告が終わると陳宮は無気力に自軍に戻った。
諸将の顔から次々に生気が抜けていく。その間にもその総勢四万の曹軍は此方に向けて猛進している。
「帰ろう、下[丕β]へ」
呂布はそれだけ告げると退却を再開した。
辺りがどっぷりと闇に浸かった頃、伏兵が現れた。前方の左右にそれぞれ五千。
暗闇で旗印が視認出来る距離まで肉迫する。その距離では率いる将も確認出来た。
関羽と張飛。
呂布は感覚が麻痺して驚きもしなかった。ただ、ぼんやりとする頭で一瞬、劉備を捜した。最後に戦場で会えなかった事が悔やまれる。
呂布は方天牙戟を成廉に押し付けると、成廉と己の剣を抜き放った。それを認めて関羽、張飛も身構える。
少し微笑む。
――悪いが今は撃ち合えそうも無い。
擦れ違う一拍前に剣を関張の騎馬に投擲する。刃が騎馬の胸に吸い込まれる。擦れ違う頃に騎馬は爆散した。
そのまま左右の伏兵の間を抜ける。兵が歩兵を中心にごっそりと減る。
赤兎の息が今までに無く荒い。足並みもかなり乱れている。
呂布は振り返ってみた。何とか追い付いているのは成廉だけ。蝗紅隊でさえ、遅れをとっている。呂布は少し速度を落とした。
それだけではない。ほぼ休憩無しの騎馬は限界が訪れていた。
遂に曹軍の追撃部隊に最後尾が捕捉される。
張遼が一人上がってきた。
「奉先様」
呂布は虚ろなまま無言で張遼を見た。
「兵を募って殿を勤めさせてもらいます」
それだけ言って張遼はまた下がり始める。
「遼!」
成廉が悲鳴を上げる。呂布もまた、急に慌てだす。
「駄目だ! 張遼! 行くな!」
「大丈夫です。必ず帰ります。
奉先様を頼んだぞ、廉」
それだけを残して張遼は馬首を返した。
見る見る小さくなり闇に消えてしまう。
張遼は帰ってこなかった。