偽帝立ち騒乱
それは突然だった。
袁術が帝位を僭称した。
時世は二つの袁家に分かれていた。袁家の嫡流にあたる袁術と冀州にて勢力を拡大する袁紹である。その趨勢は袁紹に傾きつつある。
袁紹は黒山賊を除き、并州を併呑。更に北方最前線の麹義が公孫讚を北平に追い込んだ事により袁紹の勢力は一気に拡大し、河北の大部分を治めるに至った。袁紹は後漢末期において最大の勢力を築き上げたのだ。
そこで巻き返しを図った袁術はこの様な愚挙をとった。
何を根拠に袁術が帝位を語ったのか、その真意は諸侯には誰一人と理解出来る者は居なかった。大義があろうと無かろうと袁術の傘下に入っていた勢力は次々と離叛した。
友好関係を築いていた呂布もまた例外では無かった。
下[丕β]政庁――。
「呂将軍、袁術の元から使者が来ています」
「そうか」
呂布の気の無い返事に陳宮は眉をひそめた。
「お会いにならないのですか」
「捕縛しろ」
「はい?」
陳宮はひっくり返った声で聞き返した。
「獄に放り込んどけ」
「御冗談を! 曹操に対抗する為には袁術との同盟が不可欠です」
呂布が向けてきた目はやけに冷めていた。
「陳宮、お前は噂を知っているか」
「噂?」
「伝国の御璽。今は使われない大昔の御璽を手に入れた、ただそれだけであの袁術は帝位を僭称してるのだぞ。そんな者、同盟するだけ時間の無駄だ」
「……」
不気味さしか感じられないその無表情を陳宮は今まで見た事が無かった。
呂布に出会って二年。それより以前の事は全く知らない。だが、その二年で陳宮は呂布の大きな変化を垣間見た。
子飼いの腹心・魏越の死、そして軍師・文優の死。段階を経る毎に呂布は陽とした笑顔を失っていった。いや、表情の変化に乏しくなったと言うべきか。
その意志を汲み取れず、陳宮は苦労していた。
「それでは、袁術とは敵対するとでも仰るのですか」
「そうだ」
呂布は平然と答えた。
「徐州が血の海になります」
呂布が友好関係を築けないなら、袁術は必ず徐州を攻める。袁術は陶謙が牧を勤めていた頃から徐州を狙っていた。
「そこでだ……お前を大将に任命する」
「え……!!?」
今話しているのは対袁術の外交についてだ。つまり、袁術との戦に於いて陳宮を総大将に任ずる、という事だ。
「将軍、私には……」
「文優は、」
呂布は陳宮の反論を止めた。
「文優は死ぬ前にお前を後継に推薦した」
「私……ですか?」
意外かつ納得だった。
陳宮は戦略よりも内政と戦術に長ける両極端の男だ。軍師というには少し役不足である。その上、先日はあらぬ疑いを掛けられ、諸将の信頼は崩れた。
徐州は優秀な文官が数多くいる。しかし、軍事面にまで精通した者がいないのだ。呂布軍に内外共に進言出来そうなのは陳宮しかいないのである。
「とは言え、俺は文優の言を信じてない。人物評はともかく、あいつが推薦した者でまともな奴はいないからな」
それは陳宮も体験済みだ。
「それなら尚更、」
「だからこそお前を大将に任命する」
「?」
「文優の、最後の進言だ。俺は信じたい」
「つまり、汚名返上の機会を与えると同時に使えるか判断する、という訳ですね」
呂布が少し満足そうに笑った気がした。
「そういう事だ。俺達の目標は打倒曹操だ。それと較べれば袁術など粕だろう。俺の軍は精強だ、負けるとすればそれは将の責任だ。抜かるなよ」
陳宮は返事をする前に一つ引っ掛かった。
「我々の目標は天下ではないのですか?」
「お前は曹操が憎くないのか」
「それは私個人の念願であって勢力の目標ではありません」
「ならば打倒曹操は俺の念願だ。それに沿った進言を心掛けろ」
「戦略に私情を交えますか」
「天下統一もまた支配者の私情でしかない」
「……魏将軍の敵討ちですか」
呂布は黙った。が、徐に口を開いた。
「そうだ、家族の仇を討とうとして悪いか」
「……」
呂布が不可解だった。
――呂布はこんな男なのか。
陳宮の知っている呂布はこんな者では無かった。最強の武を持ち、それを誇り、傲慢で私利私欲の塊の様で、平気で人を裏切る。それが陳宮の知る、天下を駆け巡る呂布の姿である。
陳留にて対面して以来、呂布とこんなに深く話すのは初めてだった。だから新たな発見が出来た。
呂布は部下思いの男だ。
これまでその行動から何となく感じてはいた。だが、まさか部下の仇の為に勢力を挙げて対抗しようとは思いも寄らなかった。
「曹操を討つ、それならば尚更、袁術との協力が不可欠です」
「駄目だ、単独で望まなければ天下を語る事も出来まい」
――どっちなのだ!? やはり最終的には天下を狙うのか?
その支離滅裂な主張に陳宮は混乱する。どちらにしろ一度に対する敵は少ない方が良い。陳宮は何度も説得を試みたが無駄だった。呂布は決して口に出した言を撤回しなかった。
そうこうしている内に一月以上が過ぎ、遂に袁術が進軍を開始したとの報告が入った。
「陳宮を大将に高順、張遼、曹性、侯成、宋憲、魏続をつけ、州兵二万に俺の騎馬軍三千を委ねる。州境にて防衛線を張り、袁術軍を撃退せよ」
呂布から正式に指令が下った。
「呂将軍は如何なされるのです?」
「私用がある、後は任せた」
陳宮は呂布の言に首を捻った。相変わらずその無表情からはその真意を図る事は出来なかった。
自室に戻った呂布は途端に崩れ落ちた。待機していた成廉がそれを受け止める。
「すまん」
「いえ」
呂布は支えられながらもなんとか寝台に辿り着いた。
呂布の症状は更に悪化していた。医者より処方された丸薬は初めこそ呂布の力を取り戻す為に大いに働いた。しかし、服用する量は日に日に増えた。少ない量では効果が小さくなってきたのだ。効果の続く時間も比例して短くなっていった。
一度、宴会の最中に躰の痙攣が再発した時があった。酒豪の呂布が酒に酔ったという言い訳が通用するはずも無く、一同からは疑惑の目を向けられた。
このままでは皆に毒の事が知られてしまう。そう危惧している頃に丸薬が切れてしまった。
「奉先さん、やっぱりみんなに、せめて遼や高順殿にだけでも……」
「駄目だ」
「どうしてですか!?」
呂布の目が鋭利なものに変わった。
「俺はお前の何だ」
妙に低い声で呂布が訊ねた。
「……僕の天命です」
「では天命に従え」
何時に無く厳しい。
「せめて理由くらい説明して下さい」
「張遼については以前話した」
「ですから、遼は奉先さんを捨てる様な奴じゃありません!」
気まずい空気が流れる。
「この話は止めよう。それより例の手配は?」
はぁ、と溜め息を吐いて成廉は答えた。「出来ております。赤兎と雷音を邸内に繋いでいます。衛兵には賄賂を渡しておきました。従者には二十日程、泊まりがけで狩りに行くと伝えてます。
万が一皆に知られても臧霸殿の元へお忍びで外交していた事にすれば良いんじゃないんですか」
「ご苦労だったな、今夜発とう」
成廉は医者の診察と新たな処方を呂布に勧めた。すると医者を訪ねるのにも内密で行う様に指示したのだ。あらゆる手を尽くして手配した。
しかし、諸将の中には必ず怪しいと気付く者が現れるはずだ。特に張遼は勘が良い。袁術との戦の最中に君主が狩りなど普通に考えて異常だ。呂布は臧霸の元へ行ったなどの苦し紛れの言い訳で上手くいくと考えているのだろうか。
夜。
夜陰に紛れて赤兎と雷音の元へ向かった。やはり呂布は成廉の補助無しでは歩けない。
近付くと二頭は嘶きながら騒いだ。
「しっ、静かに」
考えてみれば赤兎は主を乗せるのは久方振りである。鈍らないように蝗紅隊の調練の度に駆けさせてはいたが、やはり馬にとっての喜びは主を背に駆け回る事なのだろう。
「どうした? 寂しかったか」
成廉に助けられながら跨る呂布は赤兎の鬣を震える手で撫でながら呟く。それに応える様に赤兎はゆったりと目を閉じる。
「大丈夫だ、お前も死ぬ時は共に在る」
実際の軍馬の最期は殆どが戦場ではない。戦の最中に馬に何かあるのは、則ち騎乗者の死に繋がる。だから大抵の馬は衰えが見えれば直ぐに引退となる。優秀な駿馬ならば種馬としても高く売られたりする。
だが赤兎は別だ。彼は誇り高い馬である。呂布以外の者に触れる事さえ赦さない。
最近は年月を重ねただけあって成廉には慣れ始めた。赤兎の世話は専ら成廉が雷音のついでで担当している。それでも跨ぐ事は赦されない。試そうとも思わせない何かが赤兎にはあった。
そしてその闘争心。赤兎をやわな馬と同じ囲いに入れると彼は馬を蹴り殺してしまう。戦に出れない所為でもあるが、どうやら漢の馬は同族として認識していない様である。西域の汗血馬と漢の馬では体格からして別物なのか。
当に戦の為の軍馬。『馬中の赤兎』と評されるのも納得である。
だから、そんな赤兎も己の最期は主と共に戦場で、と覚悟があるのかもしれない。
「お前はどうだ? 雷音」
そう訊ねながら跨る。雷音は何を訊ねられたのか解らない様に耳を振っただけだった。
それを見て成廉は何故か笑みが零れた。
――お前も赤兎と同じなくせに。
雷音もやはり普段から呆としているだけに戦場では活き活きとしている。
「行きましょうか。泰山まで夜通し駆ければ明後日の夕方には着きます」
成廉を先導に二騎は駆け出した。
――徐揚州境、呂布軍前線。
「張遼、お主最近の殿の事どう思う」
高順がさり気無く張遼に訊ねたのは袁術との戦も正念場といった時だった。
張遼はわざわざ帷幕を訪ねて来た事にも驚いたが、それよりも話の内容の方が大
きかった。
「不自然と思います。何か隠し事をしている様な、そんな感じがします」
「実は下[丕β]を留守を守る王楷殿から密かに書簡が届いたのだ」
王楷は陳宮と共に曹操から離叛し、呂布に仕えている文官である。曹操の性質には予てから嫌っており、呂布が陳留にて旗揚げした時に喜んで従った。
「書簡? 紙を使うとはよっぽどですね」
紙は貴重である。同時に機密性が高い。竹簡に較べてかさばらず、処分も容易だからだ。
「それで何と」
高順は張遼に顔を寄せた。
「今、下[丕β]に殿はいらっしゃらないらしい」
「っ! 一体何処に」
「それが従者は狩猟に出掛けたと言っているらしいのだが……」
それは有り得無い。
そこまで呂布が呑気でない事くらい二人は承知している。つまり、他言出来ない何かを行っている。
「この事を大将や他の者は?」
「陳宮殿は先日の事もあってか報せなかったらしい。他の将も同じだ。それから……」
確かに今の軍中は誰が敵で味方か定まらない。王楷が一番信頼出来るだろう、と考えたのは古参の高順と張遼だけだったのだ。
「それから?」
「陳親子に怪しい動きがあるとか」
陳親子とは陳珪、陳登の事である。
陳珪は陶謙に仕えていた男だ。劉備、呂布と徐州の主が代わっても動ずる事無く重鎮に収まっている。劉備が牧だった頃はその不品行を堂々と諫言していたらしい。
陳登はその息子だ。文武両道の男で将としても有能。既に一千の兵の指揮権を持つ。父とは対照的に劉備の人柄に惚れているらしい。
両名とも現在は呂布に仕えてはいるが不気味なまでに控えた動きしかなかった。
陳珪は徐州に於いては大きな力を持っているはずが、軍議にて全く発言しない。
陳登もまた、委ねられた兵の調練を普通にするが書記官以上の官位を求めない。
そんな二人が何事か行動しているなら益々怪しい。
「陳登も殿と同じで行方知れず。陳珪は密かに家財を売っているとの噂だ」
「また謀叛でしょうか」
「決めつけるのはまだ早い。が、殿の行方だけでも気になるものだ」
張遼はある事に気が付いた。
「廉は? あいつはどうしているのです?」
「成廉……については何も書かれてなかったが」
――廉が奉先様を放っておくはずが無い。となると、あいつも絡んでいると考えた方がいいな……。
「とりあえずこの戦を終わらせましょう」
呂布と成廉は当初の予定を大幅にずらしてしまった。
泰山までの道のりは二日どころか一週間もの時を要した。今の呂布には休憩無しの出掛けは負担が大きかったのだ。
以前と同じ医者の庵を特定すると、直ぐに呂布を連れて行った。
「むぅ……」
「どうですか」
医者が呂布の躰を隅々まで診察する様子を見守りながら成廉は訊ねた。
医者は無視した。診察が終わるまで診断はしないようだ。隣室から得体の知れない植物の根や動物の干物を持ってくると擂り鉢に放り込み、音を発てて摺り潰し始めた。
そこに沸かしていた熱湯を注いだ。湯気と共に鼻腔を刺激する匂いが室内に充満する。医者はその液体を呂布に差し出した。
「飲みなされ」
黙って受け取った呂布はその匂いを直に嗅いで顔を顰めた。
「何だ、これは」
「薬湯です」
「それは見れば分かる」
「発汗と利尿作用があります。老廃物を排出するのを手助けします」
呂布は試しに口を付けてみた。途端に口に独特の香りが広がる。
「これを全部飲むのか」
「はい」
悪戦苦闘した呂布だが何とか飲み干した。
「あの、診断は」
成廉が訊ねると医者は座るように促した。
そして二人の顔をそれぞれ見て口を開いた。
「奉先様、酒をお止めください」
「それは出来ん」
「奉先さん」
成廉が窘める。
「酒は病状の進行を促します。自覚されてないようですが肝の臓に毒が蓄積しております。白目の部分に黄色味が掛かっているのはその為です」
言われて成廉が見てみると、成る程確かに黄色味が掛かっている。
「一年保ったのはお見事ですがこれ以上を望めません」
「そんな事はどうでも良い」
どうでも良くない。が、呂布は延命したいとは考えていなかった。戦に出た時に己の力を発揮出来れば良かった。
「以前、処方された丸薬をもっと貰いたい」
「これ以上はお渡し出来ません」
「もう使い切った」
「まことですか」
医者は驚きの声を上げた。頻繁に服用してはまずかったのだろう。
案の定、医者はその丸薬が使い方を間違えれば劇薬となる事を説明した。
「あの丸薬は全身の神経に直接調節する効果があります。その為に効果が切れてからの副作用が大きいのです。あれを全て飲み干したとなれば絶対にお渡し出来ません」
「そこを何とか頼む」
医者はなかなか良しとしなかった。
「ならば二回分、二回分だけ処方してくれ。頼む」
呂布は頭を下げた。慌てて医者が止める。
「お止めください。そんな事をしても渡せない物は渡せません」
その様子を見ていた成廉も居ても立ってもいられなくなった。
「先生、どうか僕からもお願いします。奉先さんの最期が掛かっているのです」
成廉は医者に土下座した。
遂に医者が折れた。
「知りませんよ。毒で毒を制しているだけなんですからね!」
そう言って医者はそっぽ向きながら薬袋を手渡した。
「感謝する」
「ありがとうございます」
呂布は心から感謝した。成廉の言う通り、この丸薬には呂布人生の最期を飾る為に不可欠なものだ。最後の戦で症状が悪化するようでは意味が無い。
「あのお代は……」
成廉が訊ねると医者は知らん顔した。
「何の事ですか? 何も処方してませんよ」
「……本当にありがとうございます」
深々と頭を下げた。
「さて、」
早速、薬湯の効果が現れたのか、厠から戻ってきた呂布は清々しい顔をしていた。
どうやら既に丸薬も服用してしまった様だ。
「もう飲んでしまったのですか」
「おう」
「それはまたどうしてですか」
貴重な二回分である。
「少々予定を変更する」
「?」
「下[丕β]には戻らず、小沛へ赴く」
「はぁ?」
驚くのも当然だ。泰山から小沛などに寄れば二十日で帰還なんて不可能である。
そもそもが行きに時を要しているのでこのまま直行しなくてはならない。
その状況下でのこの言は、やはり成廉を惑わす以外の何物でもなかった。
「どうして小沛なんかに寄るんですか。それよりも早く下[丕β]に戻り、袁術との戦に集中すべきです」
「それは陳宮に任せて大丈夫だろ」
面倒がって呂布は答える。確かに守備に必要な州兵二万と蝗紅隊以外の兵権は陳宮に委ねられている。
「今頃、奉先さんが居ない事が前線にも伝わる頃です。皆、帰りを待ち詫びているに違いありません」
成廉は不思議でならなかった。
どんな時でも『戦』というものに執着していた呂布がこうも無関心なのは奇妙である。
が、成廉は呂布の本心だけは理解していた。
「俺はな、」
「曹操以外の戦は興味無い、ですか」
面白がって呂布は成廉を見やる。
「なんだ、解ってるじゃないか」
「解りませんよ。何で曹操と戦がしたいのに小沛なんかに行くんですか」
小沛には現在、劉備が駐屯している。
劉備は豫州牧に任命された。帝を手元に置いているのは曹操なので、即ち曹操が任命した様なものだ。
小沛はエン州と徐州に挟まれる所に位置する。大方、徐州から追い出された劉備を取り込もうといった魂胆だろう。だが、だからと言って劉備は曹操に味方する訳でも無く、また、呂布に味方する訳でも無かった。
天下に流布する風評こそ未だ地味だが、劉備は人を惹き付ける魅力が有る様だ。その兵力は日に日に増え続け、一万を超えた。
呂布はこれを懐柔しようとでも考えたのだろうか。
――違う、奉先さんはあくまでも曹操とは単独で挑むはずだ。
呂布は楽しそうな表情を一変させて答えた。
「劉備に喧嘩を売りにいく」
「……」
成廉は何も言えなかった。
呂布の突飛な言に慣れたからではない。真顔で言う内容に呆れたのだ。
「おい、貴様、何者だ?」
二人は小沛に到着した。
甲冑に、上から戦袍を羽織り、しかも帯刀している。門番に止められるのも当然と言うものである。
本当に来てしまった、と成廉は頭を額を押さえた。
咳払いをして呂布が応える。
「我々は城から城へ流れる武人。此処に手柄と金子を求めて参ったに過ぎん」
どうやら傭兵にでも扮しているらしい。だが呂布がその武威を抑えようともそれ
が強過ぎる。
何よりも騎馬でばれてしまった。
もう一人の門番が赤兎に気付いた。
「お、おい。あいつが乗ってんのって……」
「ん?……あ……」
「燃える様な赤の体毛に漢に無い巨躯……」
「……と、……いう事は……」
・
・
・
直ぐ側の路地に足音が響く。約十人余りといったところだ。
「どこに行った? 本当に呂布がいたんだろうな」
戦場で聞いた事のある声。劉備の腹心・張飛だ。
「はい、この目でしかと」
「とりあえず大兄にも伝令を。……今日も南門の酒屋だろう。最近、お気に入りの娘がいるしな」
「はっ」
そんな会話を二人は物置の中から聴いていた。
「おかしいな。何でこんな事になった?」
呂布が不思議そうに尋ねる。
「それはあなたが呂奉先だからですよ」
「まあ、歓迎されないのは予想してたが」
赤兎と雷音は門外に放しているから安心として、問題は今の自分達である。
「とりあえずその南門の酒屋に行ってみるか」
「本気ですか?」
「ああ」
短く答えると呂布は人気が無くなったのを見計らって戸を開ける。
成廉は小さく溜め息を吐いて、呂布に続いた。
「なぁ、俺様と遊ぼうぜ、な?」
「ご自分の身分をわきまえたらどうです、玄徳様」
本日十回目になる劉備のしつこい誘いを酒屋の娘は軽くあしらう。
――くぅ〜、堪んねぇ。仮にも只の町娘のくせに俺様の誘いを断るなんて、落としがいがあるぜ。
実際は牧という地位を武器にそこらの女を召し上げる事くらい、何の造作も無い。
が、昔からの癖とやり方は変わらない。
地位に頼らずとも全ての女を虜に出来る自信が劉備にはある。勿論、根拠など無い。
「じゃあさ、じゃあさ。酒注ぎ足しあって先に酔った方が言う事聞くってのは、どう?」
「私はお酌しかしません。そう約束しましたよね」
なかなかの強敵である。
「琳ちゃん、手厳しいなぁ。どうしたら抱かせてくれんの」
「ですから、玄徳様には興味ありませんってば」
――じゃあ、躰に直接聞いてやる。
「俺様我慢出来ないよぉ」
酔った振りをして娘の胸元に寄りかかる。
「ちょっ、玄徳様!
駄目なもんは駄目です! いい加減にして下さい!」
娘は拒否しながらもそこまで押し退けようともしない。
――ん? さっきは拳で殴ってきたのに。……いける!
「琳ちゃあん」
劉備の手が胸元に伸びる。
「……楽しそうだな」
「おう、楽しいぜ。誰だか知らんが、邪魔するな」
「俺も混ぜてくれるかな」
「はぁ?」
劉備は振り返った。
「また会ったな、劉玄徳」
「……は……?」
劉備は目の前に立っている巨体が一瞬、誰だか理解出来なかった。
あっさりと劉備を見つけた呂布は成廉が止めるのも聞かずに話し掛けた。
丁度、張飛の言っていたお気に入りの娘と話していた劉備だったが、しばらく呆けた顔で呂布を見上げた後に絶句した。
「おまっ……呂布じゃねーか!!」
声を荒げる劉備を訝しんで店内の視線が集まる。傍らの娘など今にも悲鳴を挙げ
そうだ。
「しーっ、少しは察しろ」
呂布が目配せする。
柄に手を掛けていた劉備だったが呂布の他に成廉しかいない事を確認すると大人しく座った。
「何の用だよ。こないだの借りなら返す気なんてさらさら無ぇからな」
ちびちびと酒を舐めながら劉備が小さく毒吐く。
「内密に話がある」
劉備は溜め息を吐いた。
「普通は書簡なり送って断りを入れておくのが礼儀ってもんだ」
「これは俺の個人の独断なのだ」
呂布が答えた途端に劉備は声を出して笑った。
「何時だってお前は独断で天下を渡り歩いてきたんじゃないか?」
「とにかく、内密なのだ」
呂布が劉備を見つめる。普通の者だったら見つめられる、と言うより睨まれているように感じる様な視線を劉備はしかと受け止めた。
「ちっ、分かったよ。琳ちゃん、盗み聞きされない個室はあるかい?」
「あ、ありますが……危険過ぎます玄徳様」
震えた声で娘が答えた。
呂布が劉備を手に掛ける事も十分考えられる。
「大丈夫だよ。俺様を誰だと思っているんだよ? 天下無双の劉備様だぜ? ささ、案内しちゃって」
劉備の言に成廉は眉を上げる。呂布は愉快そうに笑みを浮かべた。
三人は店の奥、恐らく私用の客間に通された。
「足、悪いの?」
劉備が杯に酒を注ぎながら訊ねた。
「何の事だ」
呂布は普通に返したが、いきなり質問に成廉は肝を冷やした。
「先年の紀霊との一件の時。戟を射る前に剣を支えに立っただろ」
「ああ、」
成廉は掌が湿っていくのを感じた。呂布が毒に冒されている事は味方のみならず外部に洩れる事も絶対に避けなければならない。
――この男、やはり油断出来ない。
「まさか気付いていたとは……さすがとしか言わざる負えまい」
「まあね、俺様くらいになると些細な事でも目が行くようになるんだよ」
自慢げに語る劉備の様子を見て、成廉は少し安心した。少なくともその呂布の様子から何かを察した訳では無いらしい。
「ま、飲みな」
劉備が酒の入った杯を呂布に回した。
「忝ない」
受けようとする呂布を成廉は止めた。
「ちょっと、奉先さん」
酒は医者に止めるよう言われたはずだ。
「ん? お前が先に飲みたいか?」
不思議そうに劉備が聞く。平生の劉備は身分に拘らないともっぱらの噂である。
どうやら本当の様だ。
「いえ、そうではなくて……」
「何だ? 成廉?」
呂布までとぼける始末。成廉は諦めた。
「何でもありません」
早速、一杯交わした呂布と劉備だったが、直ぐに劉備は本題に入った。
「で? 内密の話ってのは?」
「ふむ……」
呂布は腕を組んだ。
「まさにお前の言った俺の足に関係する」
「??」
「!!!?」
成廉は開いた口が塞がらなかった。呂布は毒の件を劉備に明かさんとしているのだ。
「劉玄徳、」
「うん?」
「小沛を棄てて曹操の元へ行ってはくれまいか?」
「冗談は止せ」
「冗談抜きだ」
「はぁ??! お前の足と俺が小沛から出るのと、どう関係があるってんだ?!」
劉備は驚き半分、怒り半分といった表情で吼えた。怒るのも当然だ。徐州を横取りされた上に、今また居城から出ていけと言われたのだ。
「まあ、もう少し話を、俺の願いを聞け」「駄目なもんは駄目だ」
「……俺は……毒に、」
「奉先さん!!!!」
成廉は思わず叫んだ。
呂布の秘密を知られる訳にはいかない。天下に名高い飛将が弱っていると知れば、今の隙を狙う者は山程いる。
「駄目です、帰りましょう」
「お前は黙っておれ!!」
戸が振動する程の大声が客間に炸裂した。
呂布は劉備の方に向き直ると居ずまいを正した。
「玄徳、俺は先年に曹操に撃ち破られ、腹心を亡くした」
成廉ははっとする。
呂布がその胸中を語らんとしている。その相手が劉備という事が気に入らなかったが、成廉は止めたい気持ちを抑えた。
「俺は復讐戦を誓った。曹操もまた、今は俺を目障りと思っているだろう」
「だから、それは俺様には関係無いだろ。戦がしたいなら勝手にしてくれよ!」
と、劉備の目つきが豹変した。
「それとも、その楽しそうな祭りに俺様も交ぜてくれんのか?」
獣の眼。血に飢えた軍人の顔だった。
「違う、お前には関与してもらいたくない」
劉備が固まった。直ぐに為政者の顔に戻る。
「俺か曹操が果てるその時まで此処から離れてて欲しいのだ」
今度は劉備は驚きも怒りもしなかった。ただ、問う。
「どうして、そこまで……?」
「死んだ腹心は家族同然の者だった。俺が死ぬ前に敵に一矢報いたい」
「そんなんだったら尚更退けねぇな」
劉備も腕を組んで呂布を睨み付けた。
「俺様は曹操は好きじゃねぇ。だが、嫌いでもねぇ。それはお前も同じだ。だからどちらにも友好を示さなかった。
……それでも一応はこないだの事を感謝はしている」
この間の宴に於ける戟を射た事だろう。「だから退けねぇ。
お前は間違ってる。戦で苦しむのは民だ。本来なら戦は民の為にやるものであって、私怨でやるもんじゃない」
呂布は黙って目を閉じた。
劉備は卓を叩いた。杯が倒れる。
「ここでお前の言う事を聞けば民を裏切るだけじゃねぇ。道を誤った者を見ているだけなのは義に悖る!」
劉備は一息吐いた。
「それでもまだ、」
「否、と言うなれば」
呂布は目を開いた。劉備を捉える。
「武力を以て排除する」
劉備は少し焦りを見せた。
「ちょっ、ちょっと待てよ。どうしてそんなに急ぐ? 仮に曹操を倒す為に軍を起こそうってなら力を蓄えてからでも良いだろ?!」
「俺には時間が無い」
「はぁ?」
「俺の躰は猛毒に冒されている。……曹操の仕業だ」
「……!!?」
「本来ならば即死の量を盛られたが、天命なのか奇跡的に死なずに今に至る」
――『天命』……そんな言が俺の口から出るとはな。
「……じゃあ、あの足は……」
「毒の影響で躰の自由が利かなくなってきている。今も丸薬で症状を抑えているに過ぎん」
劉備は半信半疑の様だ。
「これは俺の人生が、いや、天下に轟く最強の武の最期がかかっているのだ。……頼む、お前を巻き込みたくない」
成廉は劉備を見た。何を思うのか。迷っているのか。劉備は口元を一文字に結んでいた。
そして漸く震える声で答えた。
「……出来ん」
決裂だ。
呂布の肩が僅かに揺れた。
呂布は分かっていた。劉備が言う事を聞いてはくれまい事を。
ただ、劉備はそういう男なのだ。民の為――それは勿論、大義名分でしかない。己の信念を貫き、それに違う者は正そうとする。それが劉備という男の魅力だった。
「ならば、」
呂布と劉備の視線が交錯する。
「次に相見えるのは、」
「戦場で」
呂布と成廉は酒屋を後にした。
劉備の好意なのか、小沛から出るのは容易かった。
追っ手も無い下[丕β]への帰路。
成廉は訊ねた。
「奉先さん。奉先さんは劉備の事をどう思っているのですか?」
のんびりとした農道を進みながら、呂布は蒼天を見上げた。
「劉備は俺に似ている」
「どこがですか」
「不器用なところだ」
「不器用?」
「そうだ、不器用だ。俺もあいつも」
「どんな風に」
「俺は戦と己の武だけを支柱に生きている。あいつは信念と義侠を支柱に生きている」
呂布は自嘲の混じった笑みを見せた。
「だが、あいつの方が一枚上手だ。俺はあんな風に天下を渡れない」
「確かに、奉先さんの世渡りは危険でいっぱいでした……」
「……迷惑ばかりだな」
成廉は呂布の横まで駒を寄せる。
「そんな事ありませんよ。なんたって天命が示す世渡りですからね」
「天命か……」
「僕は今までもこれからも後悔しないです」
「そうか」
二人は笑い合う。
「成廉」
「はい」
「次で最期の戦だ」
「……はい」
「曹操が死のうが俺が死のうが、最期だ」
「……」
「返事!」
「はいっ」
「行くぞ、ついて来い」
「はいっ!!」
二人は終わりへと駆け出した。
袁術との戦は呂軍に軍配が上がった。
大軍を頼りに多方面に渡って展開した袁術軍だったが、陳宮の策と張遼、高順の働きにより脆くも崩れた。
袁術軍には楊奉、韓暹という将がいた。
彼らは李確の元部将である。帝が長安を脱出する際に全面的に協力した。今、帝が生きているのは彼らのお蔭と言っても過言ではない。
しかし、曹操が現れた事で彼らの扱いは地に落ちた。別に帝が愛想尽かした訳では無い。曹操が政権を握った事により、目障りな彼らが追放されたのだ。
そうして流れに流れた二人は袁術を頼った。名家の下でなら、また帝に取り入る
機が有るかもしれない。楊奉と韓暹の動機は軽いものだった。
そこで袁術の僭称だ。彼らの忠誠心は皆無なのは誰が見ても明らかだった。
愚かにも袁術はその二人を先鋒に任じた。驕りが頂点に達すると見えるものも見えなくなる。
陳宮は有り難く楊奉、韓暹を使わせてもらうことにした。
陳宮にとって二人を裏切らせる事は造作も必要無かった。
楊奉と韓暹がそれぞれ叛旗を翻せば袁術軍は混乱した。そこを総攻撃した。
張遼や高順からしてみれば、敵と呼ぶにも憚る程の弱さであった。寿春まで帰還出来た袁術軍は半数以下とも報告された。
特に高順の戦功は大きなもので、攻め立てた陣は全て陥れた。その為、『陥陣営』などと言う異名まで出来る程だった。
陳宮らが下[丕β]に帰還した時、呂布と成廉は丁度到着した。
直ぐ様ら臨時の軍議という名の質疑会が開かれた。
「聞いたぞ陳宮、圧勝だったそうだな」
「……」
陳宮は答えない。形の整ったその眉を釣り上げるだけである。
「此度の戦功は次回の禄を加増する」
「……将軍」
陳宮の声は静かだが怒りが込められていた。
「無礼を覚悟で諫言し申し上げます」
怒りの中に失望も見え隠れする。
「ご自分の立場を把握していますか?!
自軍が戦の真っ最中だというのに行方を眩ますなど、古今東西何処を見たってそんな者はいません!!
大体、」
呂布が手で制す。
呂布は最初からこの問責を真面目に受け止めるつもりは無かった。
「陳宮、曹操と戦をするならお前はどうする?」
突飛な問いに諸将の目が点となる。陳宮に至っては何を聞かれたのか解らない様な顔をしている。
成廉は眉間を押さえた。普通はこの機に言うべきではないだろう。何て言ったって戦が終わったばかりだ。誰が賛同するだろう。
「……いいですか、私と将軍は会って五年も満たないですが、」
「俺の質問にのみ答えよ」
呂布が一睨みする。が、他の諸将が大人しく下を向く中、陳宮は引き下がらない。
「将軍が何時だって御自身の判断で天下を渡り歩いてきたのは存じています。しかし、これだけ身勝手で、かつ配下を顧みない様ならば、誰も将軍に付いてきませんよ!?」
「俺は曹操の攻略を問うている! お前が君主だとしてどうするのか答えよ」
「いい加減にして下さい!!」
二人の剣幕に周りはただただ見守るばかり。陳宮の叫びと共に重たい沈黙が漂う。
呂布と陳宮は睨み合った。
成廉は何もしなかった。曹操との戦は呂布の求めるものだ。
戦にどういった形で臨むのか、それは呂布次第だ。
「今一度問う、質問にのみ答えよ。曹操と戦をするとしてその戦略を言え」
「……」
陳宮は答えない。ただ呂布を睨み付ける表情は思い通りにいかない駄々っ子にも見れる。
呂布は長い、長い溜め息を吐いた。
「陳宮、思い出せ。お前はどうして曹操に背いた」
「それは!…………私を用いなかったからだ」
なんて自己中心な考え方だろうか、と諸将の表情が微かに曇る。
「お前の主がその憎き曹操を討たんと諮問しているのだぞ」
「……」
「陳宮だけではない!」
諸将が身を竦める。呂布は見回した。
「長年、俺に従った者はエン州での敗戦、徐州の者はあの進軍を思い出してみよ!」
諸将が明らかに動揺する。
毒の混入によりまともに闘わずして散った者。呂布を或いは同僚、友を守るべく大軍に消えた者。
徐州では青州兵によって罪無き民、一族、愛する者が黄土に臓腑を晒した。
それぞれの思いが諸将を駆け巡る。
「次なる戦は曹操への復讐戦
これは決定事項である」
有無を言わさぬ調子で呂布は言い放った。
対曹操の攻略が始まった。
曹操は強大な兵力を擁する。青州兵である。その数約十万。そして正規兵、土豪の供出を含めれば総兵力十八万に及ぶ。
対して呂布は騎馬軍五千、州兵四万、土豪の供出を含め総兵力は七万。敵総力の半数にも満たない。
その上、袁術との戦直後だ。兵の疲労も取れていない。
更に兵糧の問題もある。輜重隊を展開するにも兵站を伸長するにも、総じて備蓄が無かった。
そこで陳宮の示した策は曹操を徐州まで引きずり出し、討ち取ると言うものだった。
意外にも文武諸官が渋る中、陳珪はその策に賛同した。曹操を倒すにはそれしかない、策が成る為に全力を尽くすと宣言したのだ。
曹操をおびき寄せるには生贄が必要だ。呂布が示したのは小沛の劉備だった――。
そして小沛攻略の軍が下[丕β]を発つ前夜。
張遼は高順と共に密かに成廉の邸を訪ねた。呂布の邸と連結されている邸を前に張遼は気を鎮めて、大きく息を吐いた。
門番の従者は四人もいた。先日の謀叛の後では当然かもしれない。だが、あの呂布がそこまでして住まいを固めるだろうか。
「呂将軍に面会願いたい」
張遼らに気付いて従者は軍礼をとった。
「誠に申し訳ございません。将軍は面会謝絶でございます」
予想通りだ。この頃、呂布の姿を月一の軍議以外で見た者は殆どいない。どういう訳か邸に籠もって飛将の名を腐らせている。
「では、従者長に取り次いでくれ」
従者長とは成廉の事だ。呂布が語ろうとしないなら成廉に聞くまでだ。
張遼は近頃の呂布を理解しかねていた。 前までは例え離れようとも何となく呂布の考えている事を知る事が出来た。周りも己も一時は惑わされようとも、呂布の真意を信頼してその言に従う事が出来た。
それが急に見えない壁でも在るかの様にぱったりと無くなったのだ。呂布を理解出来ない。全幅の信頼を持てない。
張遼と高順はそんな状態で戦に臨みたくなかった。せめて今の呂布の考え一欠片でいいから知りたい。それが二人の正直な気持ちなのだ。
暫く待つと奥へと通された。
簡素な客間で待機していると白鈴が白湯を運んできた。
「初夏と言っても夜は少し冷えませんか」
「これはありがたい」
高順が受け取る。
「遼様もどうぞ」
「え、ええ」
白鈴とは数年前までは言葉遣いも知らないかの様に屈託無い会話が出来た。その上我が儘なお姫様だった。それがすっかり様変わりしている。
「ごゆっくり」
退出する白鈴を張遼は白湯を啜りながら見送った。
入れ替わりに成廉がやって来た。
「遼も高順殿もお待たせしました」
張遼はまじまじと見た。しかし、白鈴同様、成廉は張遼の知る成廉より遥かに成長した。その表情からは何も読み取れない。
「驚いたよ、白鈴が客の世話なんか出来るなんて」
「ああ、従者も付けてないし、身の回りの事を自分でやるのにも慣れたみたい。最近はしっかりして余裕も出てきたよ」
「そうか、良かったな。そろそろ娶るのか?」
冗談交じりに訊ねる。しかし、予想と違って成廉は少し寂しそうな色を見せた。
「いや、……それは多分無い」
「そう、か。まあ、俺は何時でも応援してるよ」
「……ありがとう。ところでどうしたの? 高順殿まで」
成廉の方から話を振ってくれるのは好都合だった。張遼は座り直すと成廉に向いた。
「奉先様の事だ」
成廉の肩が僅かに揺れる。堅い笑みを浮かべると成廉は訊ねた。
「奉先さんがどうかした?」
「どうもこうも、このところ邸に籠もりがちじゃないか。先日、諸将に吐いた気炎に比べて心配なんだ」
「それなら大丈夫だよ。そもそもあれだけ元気なんだから心配いらないよ」
「……」
沈黙していた高順が突然口を開いた。
「将軍は病でも患っているのではないか」 成廉は目を逸らした。
「根も葉も無い噂です。病だったら戦なんて出来ますか」
「あの方ならやりかねん」
張遼も同意見だった。呂布は常識から僅かばかり外れている。
「……」
成廉が返答しない事で、室内は沈黙に包まれる。
「奉先様自身の事だけじゃない。今回の戦も疑問を抱かずにはいられない」
「と言うと」
「第一に早計過ぎる。第二に戦力差がありすぎる。第三に軍内部に不審な動きがある」
「特に陳珪、陳登。彼らの動きは余りに不自然だ。こんな状況で戦を始めようなんて負けようとしている様にしか見えない」
張遼は目を閉じた。
「つまり、奉先様が何を考えているのか、全く分からないんだよ」
成廉は俯いた。何かを答えようと必死になっているようだが、口を動かすだけで何も発しない。
「……それでも、僕達は奉先さんについて行こう」
ようやく発したのはそれだけだった。
張遼は高順と顔を見合わせた。
――これ以上聞き出すのは無理か……。
「そうか、そうだな。俺達はただ己の務めを果たすのみ」
「邪魔したな、廉。戦場で待ってる」
張遼と高順は邸を後にした。
「どう思う、張遼」
「やはり、何かあると思います。しかし……」
高順は足を止めた。
「しかし?」
「考えるのは止しませんか。例え、奉先様が道を踏み外しても俺達が引っ張ればよいのです」
高順は満足げな笑顔を見せた。
「同感だ」
翌朝、高順、張遼率いる歩騎一万が小沛に向けて先発した。
「本当に、本当にいいんですか」
『高』と『張』の旗が小さくなる。城門から次々と吐き出される先発軍を楼上から見下ろしながら成廉は訊ねた。
「何がだ?」
「全部です」
「……ああ、戦は始まれば何人にも止める事は出来ん」
「最後の薬は飲まれましたか」
「ああ、これで最後だ」
呂布は成廉の横まで来ると地平線に消える砂塵に目を細めた。
「陳珪、陳登が怪しいとの事です」
「内密に調べられるか」
「難しいです、直接問い質すしか……」
つまり、尻尾を出さなければ彼らが何を企んでいるのか見当もつかないと言うことだ。そして、相手は徐・揚州に聞こえる大物。尋問したところで体のいい言が返ってくるだけだ。
――文優とあの間者が生きていれば。
「俺は本当に惜しい男を失った」
呂布がしみじみと呟く。
文優とその間者がいないだけでも思う様に事を為せない。あの間者は文優だけでなく呂布にとっても重要なものだった。
先年の謀叛以来、一人も帰還しないところを見ると本当に全滅したのか。はたまた、主の死を前に解散してしまったのだろうか。
「陳親子の件は尋問するしかなさそうだな」
翌月の軍議で陳親子の尋問が行われた。しかし、予想した通り二人の言い分は公正な物だった。
陳登が行方を眩ましたのは袁術との戦の策略で楊奉、韓暹を説得するため。陳珪が家財を売ったのは身を軽くするためではなく二人への贈与のため、と答えた。
計略の贈与なら州庫から出せばよいと追い詰めると、陳宮の指示、と答えた。
陳宮も戸惑いながら認めた。まさか、己の指示で陳親子を守る事になってしまうとは予想もしていなかったのだろう。
結局、非がある訳でもなくどうしようもなかった。
小沛陥落の報せが下[丕β]に齎されたのは、更に一月を数え、残暑の中だった。
「……高将軍は劉備の軍勢一万余を散々に撃ち破り、小沛を占拠。続いてエン州から劉備の要請により夏侯惇の増援が来襲。これも撃ち破り、我が軍は小沛に待機中で御座います」
さすがは陥陣営、と諸将から賞賛の声が上がる。
「直ぐ様、備蓄と共に彭城まで退却するよう伝えよ」
陳宮の命を受けた伝令が退出すると、入れ替わりにエン州の間者からも伝令が着いた。
「曹操! 東征の軍を起こしました!
その数、およそ十万!」
広間の空気が引き締まる。
「来たか」
陳宮が呂布に目を向けた。頷くと呂布は立ち上がった。
「俺達も彭城へ赴くぞ」
その一声で諸将は慌ただしく準備を開始する。その命令は下[丕β]に広がる。
蝗紅隊の調練を行っていた成廉にも早馬が訪れた。
「成廉様、出撃命令が発令されています。直ちに準備されたし」
成廉は指揮鞭を掲げる手を下ろした。
「遂にこの時が来ましたな」
蝗紅隊の一人が言う。
「そうだ」
「腕が鳴るぜ」
蝗紅隊の誰もが曹操へ敵の念が強かった。飛将に率いられる最強の騎馬隊。それが蝗紅隊だ。
それを傷付けた罪は重い。四百騎まで討ち減らされた蝗紅隊はこの日を心待ちしていたのだ。
「では、みんな行こうか」
成廉の呼び掛けに皆、笑顔で応える。どんなに復讐の修羅になろうと、戦を唯一の楽しみと捉えるのが蝗紅隊。
四百の黒塊は駆け出した。
曹操、東征。呂布、これを迎え撃つ。
天下に飛将の咆哮が響き渡る。
それは河内の張揚、泰山の臧霸にも届いた。
だが、張揚は袁紹の相手で手一杯だった。輩に手を貸すにも司隷と徐州では余りに遠い。
一士官からエン州、司隷、豫州に跨り、帝を手中に置く英雄・曹操。
騎馬民族から飛将の再来と謳われ、誰一人適わない神性を備える武人・呂布。
両者の闘いを天下が固唾を呑んで見守る中、臧霸だけが只一人、呂布に加担した。