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名も無き軍師


 徐州、州都・下[丕β]。

「はぁ? 呂布だと?」

「はっ! 泰山方面から街道を進軍しておりますが武装は解いております」

「なんでだ?」

 劉備はとにかく不機嫌だった。悪い事ばかりが頻発するからだ。


 陶謙は先年に曹操が徐州より撤退してから劉備を豫州刺史に推薦し、劉備は小沛に駐屯していた。しかし陶謙は間も無く病死してしまった。

 陶謙には息子がおり、てっきりその息子が州牧を継ぐと思っていた。そんな時、政庁に召集させられた劉備に待っていたのは徐州牧の代任という大役だった。

 州牧という官職は州刺史とは比べものにならない。州刺史の任務は各郡の太守の監督。兵も持てるのは私兵のみである。

 対して州牧は州全体を統轄し、州兵を率いる権限まで有する。思ってもいない話である。この乱世に於いて天下に名乗りを上げる一番の近道である。

 しかし、問題はそこが徐州だと言う事だ。劉備からしてみれば迷惑極まりなかった。

 何故なら徐州は土豪の力の強い州。陶謙が死んだ途端に叛乱、とまではいかずとも連絡の途絶える城が相次いだ。要するに新たな州牧に見知りもしない新顔が就任するのが気に入らない、と言う訳である。

 それでも陶謙が遺した遺言は

『劉玄徳以外に徐州は治められない』

 と言う物だった。

 この遺言を直接承った者が徐州別駕であり、土豪の中でも数少ない劉備の協力者である縻竺である。字を子仲、代々商業でも富を得て、小作人は一万も抱える大土豪である。

 文武に長けた縻竺に対して弟がいた。名を芳と言う。縻芳は統率力があり、将として劉備に仕えた。

 この二人の協力と劉備の人柄もあって、土豪の件は約一年の歳月を掛けて解決した。ある者は劉備の人柄に惚れ込み、ある者は縻竺の説得に応じた。

 しかし、半数の土豪は中立という立場止まりで積極的に協力する者は少なかった。劉備の魅力を理解出来ない者も勿論いたのだ。

 それでも敵対勢力が足元からいなくなっただけましだった。


 州の外を見回せば厄介な事は沢山あった。その中でも一番大きなものが直ぐ南に居座る袁術だった。

 袁術は陶謙が死ねば徐州が己が物になると考えていたのだ。

 二つの『袁』で分かれるこの乱世で袁術は陶謙の宗主だった。

 袁術は劉備が徐州牧を継ぐという報せを受けて激怒した。劉備はまだ名の知れた群雄として数えられていなかった。そんな劉備が州牧に就任するのは異例であり袁術は己に州を献上して当然としていたのだ。

 更に袁術を怒らせたのが劉備の対応だった。袁術を宗主として仰がない、と通達してきたのだ。袁術からしてみればそれは叛逆行為だったのだ。徐州と揚州の州境では袁術の兵が展開され、緊張状態が続いていた。


 呂布出現――。

 下[丕β]の政庁はその報せだけで慌ただしくなった。ただ、劉備だけは冷静だった。と、言うより面倒だった。群臣が飛将だ飛将だ、と騒ぎ立てるのを鎮める気にもならなかった。土豪の件だけで劉備は疲れていたのだ。

 土豪達と宴会を開き、杯を傾け合い、音曲を奏でるのは楽しい。が、宴会に招くだけで土豪が協力してくれたら苦労しない。


「州牧様、呂布は危険です、早々に討伐の軍を上げなされ」

「何を言う! 呂布は天下に轟く武神。殿、触らぬ神に祟り無し、様子を見守る方が宜しいでしょう」

「いや、寧ろ此処で保護し、恩を売っておくべきです。あの男は使い様によっては強力な武器となります」

「それは使い方を間違えば破滅を導きかねん!」

「いやいや、殿の器量なら為せるはずだ」


 皆、言いたい放題になってしまった。関羽は臣達を放っておく劉備に呆れ、張飛はどうすればよいのかオロオロするばかり。縻竺は静かに顰めっ面の劉備を見つめていた。

 その時一人の男が声を上げた。

「黙らんかい!!!」

 どら声に群臣は一斉に声の方を見て、あから様に厭そうな顔をした。

 声の主は簡雍だった。

 字を憲和、幽州の挙兵の頃から劉備に付き従う男である。劉備は深い信頼を置いていて、簡雍にだけ字で呼び捨てする事を許していた。

 簡雍は人情味溢れ、洒脱な言動から劉備同様、民や将からは人気がある。ただ、元来劉備と共にごろつき同然の生活をしていた為か礼儀というものを知らなかった。お蔭で知識人からは顰蹙を買っている。


「憲和、勝手に言わせとけよ」

 劉備の言葉に群臣はムッとする。

「そうじゃない。玄徳、続報だ」

 簡雍が指差した先には困惑した伝令が立っていた。群臣の喧騒に呑まれて気付かなかったのだ。劉備は指で招くと報告させた。

「報告! 徐州南部にて袁術軍が侵入!

確認されているだけで三手一万に及びます。各地の土豪が抵抗して凌いでおりますが既に食糧庫が二カ所落とされ、救援を要請しております」

 群臣にどよめきが広がった。

「北に飛将、南からは袁家、一体どうすれば良いのだ」

 ただ、愚痴を吐くばかりで大した策も生まれない群臣。

 その様子を見て劉備は溜め息を吐いた。

「今は呂布より袁術が厄介だ。誰か我こそはこれを討たん、と言う者はいないか?」

 劉備が問うと、一同黙り込んだ。

「……だろうな」

 攻めて来たのは一万とは言え、袁術は十万を超す軍を抱える大勢力。明らかな罠である。ノコノコ討伐軍を出せば叩き潰されかねない。

「大兄、俺が行こう」

 名乗り出たのは張飛だった。だが劉備は首を振った。

「いや、俺様が行く。雲長は付いて来い、益徳は城に残れ」

「だが……」

 張飛の言は群臣の反論に掻き消された。

「州牧ともあろう方が自らご出馬とは、お止めください」

「そうでございます、誰ぞ他の者にお命じください」

 劉備はジロリと群臣を見渡した。

「ではお前らが行くか?」

「そっ、それは…」

「ふん、」

 どうやら自分は智に生きる者達とは気が合わないようだ、と劉備は思った。口だけは達者だが己は動こうとはしない。苛立ちと相まって群臣がこの上無く目障りに思えた。

 とにかく劉備はこの城から離れたかった。

「では玄徳、呂布はどうするのだ?」

 簡雍が尋ねた。

「下[丕β]に招待する」

 またも群臣が騒ぎかけたが一睨みで黙らせた。

「縻竺、縻芳に留守を任す。憲和は呂布の応対しろ」

「ははっ」

「曹豹には州兵を一時委ねる、守りは抜かり無いように。益徳は丹陽兵一千を委ねる、遊軍として呂布を監視しろ」

「分かった」

 曹豹の返事が無い。

「いいな? 曹豹」

「……承知した」

 劉備は立ち上がった。

「俺様は丹陽兵四千で各地の救援へ向かう。後の者達は縻竺の指示通りに動け。以上、解散」

「たった四千で行くのか」

 関羽が訝しげに聞いた。

「俺様が出るんだ、寧ろ多い位だぞ」

 劉備は屈託無く笑いかけた。




「どけどけぇい! 劉玄徳様のお通りだ!」

 劉備が先頭に立ち、馬上で双剣を振り回しながら『袁』の軍勢を突き崩す。後に続く丹陽兵も勢いづいて盛り上げる。


 後方の関羽は血飛沫の中、戯れる様な劉備を見て目を細めた。

「兄者とは不思議な人間だ」

 関羽が思わず口にした言葉に傍らの青年・田豫も同意した。

「はい、最初は丹陽兵四千だけで出陣などと申されたので心配しました。ですがたった十日程でこれです」

 そう言って田豫は後方を見た。


 兵は一万を超えていた。劉備が自ら救援に来た事により、感じ入った土豪が多かったのか次々と兵を供出したのだ。

 土豪が馳せ参じる様子を見て、劉備以外の者達は成る程これを見越して防備を割かず救援に来たのか、と納得したものだった。

 が、不思議な事に誰よりも驚いていたのは劉備本人だった。劉備は本気で一万に四千で勝つつもりだったのだ。

 勿論、この様に兵が増大する事など予想しているはずなど無く、直ぐに兵糧不足という大きな障壁が現れた。

 それで困惑するかと思えば、今は平気に兵を率いて、袁術軍と闘う。


 ――自然体でいて人が集まり、率いる。こんな大器が天下に二つとあるはずが無い。


 兵糧不足で苦しい状態のはずなのだが、関羽は己が兄として慕う男に誇りを感じていた。

「しかし、」

 田豫は眉をひそめて唸った。

「玄徳様の人気は寧ろ此度の戦では障壁となっています。兵糧然り、袁術軍を警戒させて後続が投入された事で劣勢は否めません」

「……」

 関羽の感心した様な驚きの視線に気付き、田豫は慌てて謝った。

「もっ申し訳ありません! 出過ぎた言でした」

「いや、お前の言う通りだ」

 関羽はポンと田豫の頭に手を乗せた。

「お前はきっと良い将になれる」

 田豫はまだ幼さの残る顔を赤く染めた。


 ――だが、しかし……。


 関羽は袁術軍に険しい目を向けた。袁術軍の狙いが判らなかった。

 劉備の率いる丹陽兵。これは陶謙が編成した揚州の賊やごろつきを束ねたもので、徐州の軍の中では絶大な攻撃力を誇った。纏まりとして弱い面があったが、陶謙が丹陽兵を劉備に与えて以来、関羽と張飛を中心に調練し今や最高の軍勢である。

 そこに土豪の協力が加われば劉備軍が圧倒的に有利で袁術は早々に軍を引き上げさせても良いはずなのである。

 しかし、袁術軍はめげずに後続を投入し続け、その軍は三万にまで膨らんでいる。明らかにおかしい。まるで戦を長引かせようとしている様なのだ。

 確かに長期戦で構えられては劉備軍は苦しい。しかし、関羽には何か別の目的があって長引かせようとしている様に見えるのだ。


 そして関羽の心配は一月としないうちに的中した。




 劉備軍の本陣に夜半、密かに一軍が辿り着いた。

「何ぃ!!? 曹豹が下[丕β]で謀叛だぁ!??」

 曹豹謀叛の報せを告げに来たのはボロボロの張飛と丹陽兵一千だった。

「すまねぇ! すまねぇ! 大兄!」

 張飛が跪く。

「何も益徳が謝るこたぁねーだろ。お前には呂布の監視を頼んでたんだしな」

「いや、それが……曹豹はもう死んだんだ。……呂布が殺した」

「はぁ?」

 劉備だけでなく関羽も訳が解らず首を捻る。

「呂布が混乱を収集して下[丕β]を奪っちまったんだ!

縻兄弟も簡雍も大兄の女達もみんな捕らわれた。…………本当、申し訳ねえ」

 重苦しい空気が漂う。遂に張飛は啜り泣き始めた。そこに劉備が明るく声を掛ける。

「そっか、そっか、益徳のお蔭で助かったぜ」

「ぅえ……?」

「徐州の統治は面倒臭いし、腹も減ってたし、丁度良かった。呂布とこに行こう」

「何言ってんだ兄者! あの呂布だぞ!?」

 関羽は憤慨して問い詰める。

「分かってるよ。だがな、あっちには縻竺も簡雍も居るんだ。あいつ等が良いように取り計らってくれるって」

 劉備の楽観視に関羽は一瞬、目を見開いた。


 ――そうだった、この男はこういう人間だったな。


 関羽は太い笑みを浮かべた。

「そうだな、兄者がそう言うならそうしよう」

「か、関兄!?」

 張飛は勿論、劉備に反対するであろうという予想を裏切る関羽に叫んだ。

「よし、そうと決まれば重たい荷物は置いていかなきゃな。雲長、土豪に通達だ、領地に帰って別命あるまで待機。さあ、みんな、下[丕β]に還るぜ」


 こうして劉備は軍を解散させて丹陽兵四千のみ従えて下[丕β]に帰還した。




 ――下[丕β]城政庁。

 呂布と四人の男が集っていた。

一人は物を知らないのか、半ば強引に徐州の主となった呂布を前にたじろぐことなく跪く事もしない。横の二人はそんな男をとがめる事無く呂布を見据える。

「玄徳を保護しろ」

 立ったままぞんざいに提言する男、簡雍だ。

「ご無礼をお許し下さい。しかし、この簡雍が申すように玄徳様を即刻保護すべきでございます」

 跪く縻兄弟の内、縻竺が請い願った。

「ふんっ、そう言って我が軍と袁術軍を敵対させる魂胆でしょう」

 すかさず文優は呂布の傍らより見下ろした。

「将軍、軍師殿が疑いになるのも致し方有りません。が、玄徳様は徐州牧に就任して以来、各地の豪族と誼を結び、既に玄徳様無しでは徐州の統治は難しくなるでしょう。どうかお考え直し下さい」

「残念ですが、」

 文優は勝ち誇った表情をした。

「軟禁されているあなた方の耳には届いていないでしょうが、土豪達は呂布様が此処を占拠した報せを受けた途端、次々と服従を申し出ております」

 縻竺は苦々しく顔を伏せた。

「だが、保護が出来んのなら、せめて和睦の仲介役だけでも引き受けてもらわなければならん」


 前線から撤退した劉備だった。が、退くこと十里程で袁術軍の猛将・紀霊の伏兵に遭った。まるでそれを待っていたかの様なものだった。

 不意を討たれた劉備は丹陽兵を崩しつつ下[丕β]郊外二十里の所まで逃げ延びた。しかし、執拗に追撃する紀霊もまた、徐州の奥深くまで侵入してきている。

 呂布とは争うつもりは無いらしいが既に紀霊の軍は万を超し、対する劉備は一千足らず。絶望的である。

 もう、呂布の協力無しでは手も足も出ない。呂布の行動次第で劉備の命がどうなるかも決まるのである。


「こんな所で玄徳は死んではならんのだ」

 簡雍の言に文優は嘲笑った。

「あなた、自分の立場を把握出来てますか?」

「解っとる、そこで俺の首だ」

「ぇ?」

「俺の命と引き替えに劉玄徳を救ってほしい」

「!!?」

「憲和殿! それは……」

 縻芳が声を上げる。

「いや、あのお方は必ずこの乱世を治める為に闘い続ける。その為に俺が出来る事はこれなんだ」

「しかし、……」

 終始黙っている呂布は軟禁されていながらも面会を求めた三人をまじまじと見つめた。


 ――何がこの者達を突き動かすのか……。


 呂布は劉備に会った事がある。戦場で敵として、僅かだが手合わせもした。その時の印象は強烈だった。

 しかし、大器としての印象では無い。戦場にあるまじき華美な服装、装飾。明らかに意味の無い騎馬の曲乗り。まるで軽率な言動。何処の賊か、と見紛うた。

 同時に劉備の軍は群を抜いて動きが良かったのも事実だ。兵には烏丸族が混じっていた。兵の質が良いだけと言えばそれまでだが、質の良い軍を率いるのもそれなりの力量が要求される。

 そして何よりも二人の豪傑、関羽・張飛だ。劉備もかなりの武人だがこの二人は呂布が出会った武人の中で最も強い。何故これほどの者が劉備の様な者に仕えているのかと思った。

 しかし、呂布は一太刀切り結べば理解した。関羽と張飛は主従として劉備に仕えていない。主従という形を壊し、それでいて己の固い信念を以て劉備の左右に侍っているのだ。

 成廉は呂布が天命だと言った。

 それならばこの二人も劉備に天命の様なものを感じているのかもしれない。己の志を劉備を通して見ているのかもしれない。

 そして今、目の前で呂布に請う劉備の臣。彼らもまた関羽や張飛と同じなのだ。


 ――彼らを其処まで突き動かす劉備はどんな男なのか。


 死ぬ前に少しで良い。劉備という類い希な者の胸の内を見てみたい。

 呂布は無性に劉備に会いたくなった。


「分かった、劉備を助けよう。あの男は死ぬには惜しい」

 呂布の言に文優は目を白黒させた。

「なりませぬ! 徐州を拠点に曹操に対するには袁術の協力が必要です。今関係が悪くなるような行動は慎むべきです」

「分かっておる、それは俺が何とかしよう」

「何とかって……!」

「もう決めた」

 こうなると誰も呂布を止められない。文優は諦めた。

「成廉!」

 呂布が呼ぶと成廉が入室した。

「はい、何でしょうか」

「蝗紅隊に出撃命令だ」

「?……はぁ、了解しました」

 訳の判らぬまま成廉は直ぐに退出した。呂布も立ち上がる。そこで簡雍が呼び止めた。


「おい、俺は……?」

「劉備を助けるのだからその家臣を殺してはだめだろ」

 少し考えてから呂布は答えた。

「一応、貸しとしよう」

 太い笑みを浮かべて呂布は退出する。

 その後ろ姿に簡雍は深く頭を下げた。




 呂布は成廉と蝗紅隊のみを率いて下[丕β]郊外へと向かった。


 蝗紅隊は僅か四百余騎にまで激減していた。勿論、先年の曹操との決戦にて呂布をエン州から脱出させる為に犠牲となったのだ。騎馬軍は早々に解体して敗走させたので兵糧の毒の被害を免れた者は殆ど生き残れた。

 しかし、蝗紅隊は呂布の麾下軍であり、盾でもある。呂布を曹操の追撃から最後ま死守するには僅かな犠牲だけでは済まなかったのだ。

 呂布が毒に冒され、日々の調練は専ら成廉の任務となった。そして成廉は誰しも抱くであろう感想を呂布に知らせた。

 以前は呂布が率いれば黒く巨大な闇が後に付いている様だった。それが今では赤兎の立ち上げる砂塵の様なのだ。

 明らかに見劣りするのである。

 一千騎だった軍が四百騎になったのだからそれも当然だ。成廉は直ぐに兵の補充を提案したが、呂布は拒否した。死を待つばかりの主に兵の補充は必要無いと言うのだ。

 蝗紅隊は言わば『呂布信者』とでも呼べる者の集まりである。呂布を己の目標として定め、崇める。闘えと言えば闘い、殺せと言えば獣の様に虐殺し、守れと言えば命を賭して死守する。そして死ねと命じれば喜んだ首を差し出すのだ。成廉もその内の一人である。

 呂布はそんな人間を増やしたくなかった。

 呂布を守る為だけに蝗紅隊の半数以上が死んだのだ。蝗紅隊の兵は呂布から厳しく調練されている。力量で言えば、何処の勢力で軍を指揮していても不思議では無い。

 呂布は自責の念に苛まれていた。どうしても彼らの蝗紅隊以外の道を考えてしまう。何処か他の勢力に居れば今頃は校尉を勤めていたかもしれないのだ。

 その為、呂布は所謂『私兵』を徴募する事は無かった。


 そんな五百にも満たない兵を呂布は率いて何をするのか。成廉には見当もつかない。 やがて、呂布が軍を停止させた。丁度、劉備の陣と紀霊の陣の中間地点だった。

「帷幕を張れ」

 普段から携帯している本陣用の資材が組まれていく。そしてそこに準備されたのは宴席だった。丁寧に下[丕β]の蔵にあった美酒まで揃えられている。


「奉先さん、これは……?」

 劉備を守る為に紀霊の軍と戦をすると思っていた成廉は驚いた。成廉が蝗紅隊に指示した訳ではないので、これは呂布の命令だろう。

「見ての通り宴会の準備だ」

「一体誰を招くと言うのです? 劉備ですか」

「ああ、あと紀霊もだ」

 成廉は耳を疑った。

「正気ですか!?」

「文優が言うには袁術軍とは争わない方が良い様だ。しかし、劉備を見捨てる訳にもいかん。そこで宴会でも開こうと思ってな」

「そんな事で紀霊が手を退くとでも思っているのですか」

 呆れ顔の成廉は主の考えが読めない。

「そこでだ…」

呂布は密かに成廉に何事か言い含めた。

「……どうだ? 何とかなりそうじゃないか?」

「確かに成功すれば両者共に納得はするとは思いますが……ご自分の躰の事分かってるんですか?

失敗してどうなっても知りませんよ」

「決まりだな、劉備と紀霊に使者を遣わせろ」

 呂布は悪戯っぽく笑った。今までに無く楽しそうだ。

 こんな表情をした事があっただろうか。成廉は首を傾げながら使者の手配をした。




「一体どういうつもりだ」

 劉備、張飛が少数の者と呂布の帷幕にやって来た。

「てっきり助けてくれると思えば出した兵はたったこれだけか」

 がっくりと劉備が肩を落とす。それを見て傍らに立つ張飛が励ました。

「大兄、呂布の軍は強い。それ位知ってるだろう」

「解っちゃいるけど……、」

 五百に満たない軍では心許ない。

「ところで飛将軍殿よお、一体何時になったら酒宴始めんの? 俺様もう待ちきれないよ」

 劉備は駄々を言う子供の様に尋ねた。

「まあ、もう少し待て。あと一人、客人が来る」

 呂布は上座に鎮座したまま微かに笑う。

「おい、益徳。あと一人って誰だと思う?」

 声を潜めて尋ねる。

「ん〜、憲和か縻兄弟のどっちかじゃないのか」

「やっぱ呂布が動いたのもあいつらのお蔭だよな」

「だろうな」

「再会出来たらいっぱい褒めてやんなきゃな」

 そこで帷幕の外が騒がしくなった。

「どうやら来た様だな」

 呂布が立ち上がる。

 その時、劉備は呂布が何気無く剣の鞘を突いて立ったのを見逃さなかった。が、特にそれに気付いた素振りも無く呂布に倣った。

「酒宴の招待、誠に有り難く存ずる」

 入って来たのは紀霊をはじめとする袁術軍の将だった。


「!!!??」

「なっ?!! なんでこいつらが来るんだよ!!!」

 一瞬、躰を強張らせた後、劉備と張飛は柄に手を掛けた。紀霊は早々と剣を抜きはなっていた。

「呂将軍、これはどういう事なのか説明していただきたい」

 そう言いながらも袁術軍の将は嬉々としている。ちょこまかと逃げ回る劉備を容易く討ち取る好機だ。


「呂布!! てめぇ、俺様をこいつらに売るつもりかっ!!??」

 劉備は目線を紀霊から逸らす事無く、怒りを露わにした。張飛に至っては先程の爽やかな面影は息を潜め、化け物じみた形相で紀霊では無く呂布を睨みつけている。


「両者共、剣を収めて気を鎮められよ」

「うるせぇ! まずは説明からだ」

「呂将軍、説明せずともよいわ。これで袁呂の関係は永遠に良好だ」

 紀霊がじりじりと距離を詰めると劉備と張飛は遂に剣を抜いた。張飛はその切っ先を呂布に向ける。

「裏切りを繰り返す卑劣漢は潰す」

 幕内の空気は最悪だった。劉備側も紀霊側も此度の宴会は劉備を誘い出す罠と勘違いしている。

「とにかく座れ」

 呂布は落ち着いて諭すが両者共に聞く耳を持たない。

「失礼します」

 あわや斬り合いかと言う緊張が最高潮の時、幕内に入って来たのは成廉である。しかし両者共に眉一つ動かさない。


「準備が出来ました。……酷い雰囲気ですね」

 何事かの準備が整った事を告げると小さな溜め息も付け足した。


「両者共に此度の宴会の説明する。俺に免じて剣を収めてくれ」

 紀霊は訳が分からないといった表情で剣を収めた。劉備も渋々半歩下がって剣を収めた。張飛だけは抜刀したままだった。

「それで、これはどういうつもりなんだ?」

 劉備は疑惑と怒りの目を向ける。呂布は皆の視線を物ともせずに口を開いた。

「お前達は『天意』と言う物が存在すると信じておるか」

 劉備と紀霊は意表を衝かれた様に目を見開く。張飛も片眉のみ上げて驚きの意を表した。


 ――呂布の口から『天意』だと……?!


 皆の胸の内はそれで一致していた。

 『天意』という言葉程、呂布という男からかけ離れたものもないだろう。呂布が呂布なのはその破天荒で非常識な行動故である。

「まあ、俺は信じてはいない。お前達がどうかは知らんが」

 劉備も紀霊も脱力した。


 しかし、と劉備は思考を巡らす。


 ――『天意』とは一体何なんだ?

俺様は今まで自分に天意があると信じて止まなかった。だが、本来の天意は本人も気付かないのではないか? 無意識に従ってしまうのが天意ではないか?


 劉備は以前見えた時より些か窶れた呂布の顔をまじまじと見つめた。


 ――そうならば呂布は既に天意を己が物としている……!


「お前達、両軍は現在敵対中だ。俺は劉備に死なれては正直困る。が、紀将軍と争うつもりはない。そこでだ…」

 呂布が手で合図すると一方の幔幕が開かれた。

「天の意思に委ねてはどうだ」

「……?」

 二百歩はあろうかという距離に一本の戟が直立していた。他に何も無い。淋しい景色だ。

「これからあの戟目掛けて矢を射る」

 呂布は弓に弦を張りながら言った。

「外れれば、各自陣に戻り戦をするがいい。俺は下[丕β]に還る。だが、もし戟の枝刃に当たれば……、両軍和睦をし軍を退け」

「なんだそりゃ!」

「何と!!」

 劉備も紀霊も憤然と見やった。命のやり取りを賭博の様な方法に託すと言うのである。

「これだけの距離だ。天がお前達の戦を望まねばもしも、と言う事もあるかもしれん」

 幕内が騒然とした。紀霊の部下はそんな方法では劉備に逃げられてしまう。張飛はと言うと己の戦を侮辱されたかの様に益々青筋を立てた。

 そんな周囲が目に入らないのか、呂布は劉備と紀霊しか見ていなかった。周りがどう言おうが最終的に決定するのは大将である二人だ。

 最初に胡床に腰掛けたのは劉備だった。

「この話、乗ったぜ!!」

 張飛が軽く飛び上がる。

「なっ何言ってんだ大兄!?」

「大丈夫だって、俺様博打は負けた事ねえだろ」

「だが、」

「儂も乗った」

 紀霊もどかっと腰掛けた。

「将軍! 軽々しくそんな事をしてはなりませぬ」

「そうです! 呂将軍は神性を備える武神。こんな申し出を自らするという事は相当な自信あっての事に違いありません」

 紀霊の部下は口々に反対する。しかし、紀霊はお手並み拝見を決め込んだ様だ。

「どんな弓の名手でも胸を張って百発百中と言うのはせいぜい百歩だ。二百歩の距離でも的中を自在に出来るならば、是非とも見せてもらおうじゃないか」

 呂布は満足げに笑った。余裕の笑みだった。

「両者共に相違無いな」

 そう言うと戟に目を向ける。

 空気が変わった。

 呂布の目つきが戦場のものに、獣の目に切り替わった。空気がじわじわと鋭くなる。まるで時が止まった様である。

 急に誰も声を発する事も、大きく息を吸う事も出来ない。呂布の集中力が気となって発せられているのか。一同の肌を突き刺す。

 矢一本のみが入った矢筒を取ると矢をつがえた。弓を構えると徐に引き絞る。弓がその膂力に耐えかねて悲鳴を上げた。

 呂布は気にしない。弓は真円を描いて止まった。

 時が止まった。誰もがそう思った刹那、呂布の手から矢が消えた。一拍遅れて高い金属音が響く。

 幕内に畏怖にもとれる沈黙が流れる。紀霊は目の当たりにした光景が信じられないのか、しきりに目を擦っている。

 救われた劉備までも喜ぶどころか身動ぎ一つしなかった。


「的中だ」


 呂布が振り返って宣言した。

 戟の枝刃は折れ吹き飛んでいた。




 一方、曹操は李確の暴政から逃れて長安から脱出した時の帝・協を保護した。帝を招き、新都として創建が決定したのが許である。後に許都と改称される。

 長安の李確、南陽の張繍、寿春の袁術、河内の張揚、そして徐州の呂布。外敵に四方を囲まれている曹操だが今は漢帝国の権威を手に入れた。青州兵の十万を抱え、飢饉で荒れてはいるものの、エン州、豫州は地力は未知数である。

 領内に叛乱分子は点在しているが土豪の大半は曹操に協力的だ。何より各地の名士が仕官してきたのが曹操にとって有り難かった。

 権威、領地、兵力、人材と揃った曹操が次に行ったのは屯田だった。毛[王介]の献策である。


 田に常主無く、人民に常居無しと言われたこの時勢。賦穀を効率良く納めさせる為、所有者の居なくなった土地を全て国有化し、流民に貸し出したのだ。

 この政策は成功した。一度は郷を捨てた人民が少しずつ帰ってきたのだ。荒野が耕されていく。しかし、長年放置されていた土地は痩せ、充分な収穫が望めるのはまだまだ先である。


 次に行った張繍征伐。これは失敗した。完敗を喫した。

 曹操は張繍を討つ為に荊州北部の南陽を攻めた。しかし、張繍は特に抵抗する事も無く降伏した。兵力差が二倍あった上に外敵の多い曹操は疑う事も無くこの降伏を喜んだ。

 南陽には雛氏と言う美女がいた。張繍の伯父、張済の妻であり、未亡人である。張済は荊州に入った際に土豪との戦で命を落とした。その為、勢力を張繍が継いだのだ。

 曹操はその噂を耳にして早速、雛氏を召し上げた。曹操は大層気に入り、館に籠もる事、十日に及んだ。

 しかし、それは罠だった。

 張繍の下には賈栩がいたのである。

 李確の暴政に嫌気がさしていた賈栩は長安を離れる張済に従っていたのだ。稀代の策士は雛氏を餌に曹操の気を逸らし、夜襲を仕掛けた。主がその餌に敬慕の念を抱いていたのを知りながらである。

 賈栩の策は大成功だった。三万の征伐軍の内二万以上を討ち取り、曹操の股肱の臣・典韋、長子の曹昂、親族の曹安民を始めとする多くの臣を戦死せしめた。

 曹操が心に刻み込んだ大敗北である。




 ――豫州、新都・許。


「……徐州の呂布は更に小沛に劉備を配置。領内の土豪も手懐け、袁術とも関係は良好で御座います。以上、間者の諸州の報告で御座います。続いて、……」


 曹操は無気力に伝令の報告を聞いていた。その様子を見て郭嘉が前に出た。

「もうよい、残りは別室で私が聞きましょう」

 そう言って郭嘉は曹操を見た。曹操は無言で頷いた。


「司空、傷心も解りますが軍議にまでそれを持ち込まない様にしてくだされ」

 郭嘉を見届けると荀或が言った。司空は現在の曹操の官職である。三公の一つであり、曹操は最高職の一つに就いた事になる。

 曹操は何処か一点を見つめたまま動かなかった。荀或には南陽での戦以前と比べるとかなり年をとった様に見える。皺が深くなっていた。肌も張りが無い様に見える。

 だが、一見すると虚ろな目はまだ瞳の奥の光を失っていない。

「傷心していた訳では無い」

 曹操が嗄れた声で答えた。

 その言が本当なら真に冷徹な人だ、と荀或は思った。南陽の一件で曹操は息子を失っただけでは済まなかった。息子を犠牲に帰還した事に正妻が激怒し、遂に引き留めも虚しく故郷へと帰ってしまったのである。曹操は酷く傷付いているに違いない。


 曹操は立ち上がると窓際へと進んだ。外には急造される宮殿や施設が見える。労働者の熱気が乗り移ったかの様に慌ただしい。 曹操は本当に別の事を考えていた。

「今すぐ兵を挙げるとしたら何万集まる?」

 荀或は驚き、呆れた。

「復讐戦ですか?!!

お止めください、兵も休めなくてはなりませぬ。そもそも兵糧の蓄えが底を付いております」

 荀或は曹操より主に内政に於いて一任されている。まだ、屯田制を行っても収穫は充分では無かった。兵を動かせられる兵糧が無かった。

「少なくとも半年は軍を動かせません。小規模な叛乱も捨て置くしかありません」

「やはり、そうか」

 曹操が考えているのは己を惨敗せしめた憎き敵の事である。張繍、賈栩に敗れた。そして呂布と陳宮。では無く、文優と呼ばれる謎多き軍師。

 濮陽での戦は自覚する事も出来ずに罠に嵌った。何にも気付かなかった。初めての事である。怒りは深かった。まるで心を見透かされている様な感覚は陳宮では味わえない。

 呂布の表向きの軍師は陳宮であり、真の軍師は文優なのだ。つまり曹操を出し抜き、遣り場の無い怒りを生み出したのも文優なのだ。

 文優がいては呂布を倒す事は皆無である。


 ――呂布の所に潜ませている諜報部隊は十四人。呂布は殺せなくとも文官一人を殺すには充分な数だ。

後は……決戦の切り札に、と思っていたが……使い時は今か。


「郭嘉を呼べ」

 奸計と言えば郭嘉。曹操は兵を動かさずに呂布を弱体化させる事にした。




 何処までも暗い青が続く。空の蒼とは別物で、いつぞや見た地平線に広がる蒼ともまた別物である。

 成廉は重厚な色に今、己の立つ場所が呑み込まれる様な錯覚を覚えた。事実、それは白い泡を起てながら浜辺を舐めている。

「これが……海か」

 隣りに立つ張遼がぽつりと呟いた。

「血の匂いがする」

 海は戦の匂いがした。


 今、成廉と張遼は兵の調練がてら、広陵の海西に訪れていた。

 十年以上も昔、成廉は呂布に連れられ草原を見た。荒涼とした并州の更に北、馬上に生きる民族の国は景色からして力強かった。見ているだけで力が湧いてきた。そんな光景に幼い三人は歓喜したものである。

 しかし、今、成廉の横には一人しかいない。

 海は力強さよりも何か胸の奥がざわざわとする感覚を覚えた。巨大な物を目の前にする己が変わったのか、海がそういった性質なのかは成廉には判らない。それが畏怖だと気付くには少し時間が掛かった。


 そして、匂い。吹き付ける風は生臭い。これだけ巨大でこんな匂いを発する物を成廉は戦以外に思いつかなかった。

 匂いのせいか否か、海と対峙すると精気が吸い上げられる様だ。頭が朦朧とする。その場に座り込んで何もせずに永遠に動きたくない気持ちになった。


「雷音は楽しそうだな」

 張遼の視線を追うと、確かに兵達の騎馬と共に雷音は海に入り、波にじゃれていた。彼らはこの巨大な物を前に畏れを抱かないのか、成廉は思った。


 ――違う、抱かないんじゃない。

海は自然で雷音達も自然の一部なんだ。何を畏れると言うんだ。


 そしてふと思う。


 ――それならどうして僕達は、僕は海がこんなに怖いんだろう。


 それは人が自然から外れた異端者だからか。成廉にはやはり解らなかった。


 暗い青は日が傾くと闇の上を炎が揺らめく様に赤く染まっていく。太陽が海に交わっていた。


「そろそろ暗くなる、還ろう」

 張遼が言った。海西の土豪が寝床を提供してくれる。しかし、まだ成廉は動かなかった。

「廉……?」

「越と」

 成廉は振り返った。

「三人で来たかったね、海」

 夕陽が二人を柔らかく照らす。

「……そうだな」

 水面で反射する光が眩しかった。




 成廉が半月の調練から下[丕β]に帰還すると辺りはどっぷりと闇夜に浸かっていた。

 直ぐに呂布の邸に向かった。毒に冒された呂布が何時容態が悪くなるかも見当がつかない今、その秘密を知る成廉は従者として万全の構えでいなければならない。

 成廉が下[丕β]を留守にする間は文優が呂布の側に付いていてくれている。


「文優殿、只今帰還しました」

「これは成廉様、お疲れ様です」

「後は僕が引き受けます。どうぞ休んで下さい」

 文優は微笑んだ。

「そっくりそのままお返ししますよ。成廉様こそ調練でお疲れでしょう」

 そうは言っても体力を使って精神を擦り減らしているのはお互い様である。

「ですが、」

「大丈夫です、政庁は陳宮様にお任せしていて、私もそう忙しかった訳でもありません。それに……」

 文優が悪戯っぽく笑う。

「大分、白鈴様が寂しそうでしたよ。早く帰ってあげてたらどうです?」


 成廉の邸は呂布の邸に隣接した所に与えられていた。と、言うよりも廊下で繋がっており、ほぼ一棟に近い。邸は呂布のものも、成廉のものも質素だ。呂布がそれを好み、自然と成廉もそうなった。

 だから白鈴の室まではあっという間だった。


 白鈴は成廉が訪れると飛び跳ねて歓んだ。そして、自分の振る舞いに気付いてから頬を赤らめて居住まいを正した。

「お帰りなさいませ」

 無邪気な少女は少しだけ成長していた。

「驚いた、何時の間にそんな事言える様になったの」

 それを聞いて白鈴は頬を膨らます。

「ちょっと! これでも貴族だった事あるのよ」

 相変わらず華美な簪を揺らす。

 笑いながら成廉は白鈴を抱き寄せた。こうすると白鈴はとても小さくて壊れやすく感じる。

「寂しかった?」

「すっごく」

 大きな瞳が見上げる。少し潤んだ、成廉しか見ていない瞳が愛おしい。成廉はそっと口付けした。白鈴もそれに応える。

 口付けは激しさを増した。もう止まらなかった。成廉は服をはぎ取りながら寝台に押し倒した。

「んんっ、あ……」

 白鈴から切ない吐息が洩れる。

 成廉の全身を脱力感が覆った。白鈴は傍らで小さな寝息を発てている。二人は何時の間にか恋仲に発展していた。どちらからか言い出した訳でも無く、自然とこうなった。

 白鈴の寝顔を見つめる。この瞬間が成廉の至福の時でもある。

 長い睫毛にきらきらと宝石の様に光る涙。少しだけ拗ねた小さな鼻。柔らかな薄紅の唇。少し火照りの残る頬。幼さの残る顔立ち。艶やかな黒髪。

 全てが美しい。

 こんな美女は天下に二人といない、そう感じた。それは呂布への敬愛とも張遼、魏越への友愛とも異なる感情。言葉にするならば愛憫の情だった。成廉は白鈴が愛おしいと同時に憐れみを感じていた。

 白鈴はきっと夫婦になる事を望んでいるだろうし、成廉も同じだ。皆に報せれば反対する者など一人もいないだろう。しかし、それはあってはならないのだ。

 成廉にとって呂布が死ぬ時が己の最期と決めている。それが天命だと信じている。天命に従い生きる事が成廉の人生なのだ。

 だから白鈴に永遠の愛を誓う事は出来ない。その手に抱きながら傍にはいられない。痛い程、残酷な生き方ではないか。


 ――なんて自分勝手な生き方なんだろう。


「ごめんな、」

 聞こえないのは分かっているのに消え入る様に懺悔する。少し視界が霞んだ。


 遠くから破鐘の音が聞こえる。その金属音が寝入りそうな成廉の脳漿を揺さぶった。


 ――敵襲……!!?


 夜が更ける下[丕β]を警鐘が叩き起こした。


 ――馬鹿な!

下[丕β]は隣接する敵対勢力や土豪はいないはず。どうして何にも阻まれずに襲撃など出来るんだ。


 焦る頭が出した答え。


 ――謀叛……!!!


 そうなれば早く呂布を信頼出来る軍中に移動させなくてはならない。

 寝台から飛び起きた成廉は一瞬、呂布の母屋と寝息を発てる白鈴を見比べた。

「白鈴! 起きろ!」

「ん……ふぁ?」

 揺さぶると白鈴は寝ぼけ眼を擦りながら起き上がった。

「まだ夜じゃない……」

 白鈴は警鐘に気付いて顔を強ばらせる。

「……何?」

「分からない。とにかく服を着て」

 何処からか喧騒が聞こえる。敵は既に城内に侵入している。

 ゆっくり羽織る白鈴に苛立ちが募る。時間がとてつもなく長く感じた。

「もう、身なりはどうでもいいから早く!」

「あっ、ちょっ……」

 成廉は白鈴の手を掴み、剣を一振り無造作に引き抜き母屋へと駆け出した。


「奉先さん!」

 呂布の寝室に飛び込むと、丁度文優に支えられて立った所だった。

 半月以来の呂布を見て、成廉はその急な衰弱ぶりに驚きを隠せなかった。当の本人は一人で立てると嘯いているが怪しい。

「成廉様、一体何が」

「襲撃を受けているのは判るのですが。敵の詳細についてはまだ判りません」

 白鈴は脅えて辺りを見回した。謀叛なら此処が呂布の邸と知られている。攻撃を受けるのも時間の問題だ。

「文優殿の間者は?」

「それが毎晩報告する時刻になっても誰も訪れないのです。恐らく……」

 成廉は息を呑んだ。

 文優の間者は董卓時代からの精鋭だ。非力な文優の代わりに影で闘う者達でもある。

 それが全滅、或いは阻止されているのならば……。


 ――敵は今襲撃している軍だけではない。


 何故なら呂布軍中で最も優れる隠密部隊は文優の下の間者なのだ。それを全員押し留められる部隊が呂布軍にいるはず無いのである。

 即ち敵には支援者がいてその勢力の同じくする隠密部隊が侵入していると考えた方が良い。


「不味いな」

 呂布は状況が思わしくない事に焦りを感じた。己の死に場所は戦場であって邸では無い。しかもその相手は因縁の曹操以外有り得ない、と考えていた。


 ――こんな所で犬死にする訳にもいかん。


 呂布は懐から以前、診察してもらった医者がくれた丸薬袋を取り出した。中の丸薬を適当に飲み下した。丸薬がどの程度効く物なのか判らなかった。

 だが無いよりは良い。せめて自力で走り、剣を振れれば十分だ。


「とりあえず此処から脱出して合流しなくてはなりませんね」

 文優の言に成廉が頷く。

「門から出るのは危険です。厠の横の垣根が低くて政庁に近い」

「では厠へ」


 丁度、呂布に肩を貸す文優が中庭に背を向けた。

 その瞬間、呂布は風を切る音を聞いた。

 文優の動きが止まる。文優の背を見ると矢が突き立っていた。

「文優!」

「敵襲です!」

 成廉に突き飛ばされて呂布は白鈴と共に物陰に隠される。

 その間にも文優の躰を更に三本の矢が襲い掛かる。堪えかねて倒れ込んだ文優は何事も発さない。それが不吉な結果を予測させる。

 呂布は直ぐにその手を掴むと物陰に引き入れた。何時の間にか躰の自由が利いた。


「しっかりしろ」

 先程と代わって今度は呂布が背負う様に文優を支える。白鈴は脚が竦んで立てないのか柱に縋っている。

「奉先さん、一人で立てるんですか?!」

「丸薬だ。何時まで保つか分からん」

 成廉は目に入った戸を開けると埃を被った弓矢一式を取り出すと使えるか調べ始めた。

 廊下の角から静かに駆ける足音が近付く。音から兵の数は判断しかねた。

「援護します。早く厠へ向かいましょう。白鈴をお願いします」

「分かった」

 そう言うと白鈴を片手掴み、文優を背負った。毒の害が嘘の様に躰がいう事を聞く。

 兵の一人目が角を曲がった。が、待ち受けていた成廉が放った矢が頭蓋を貫通する。敵の後続はそれに一瞬怯む。

 その機を逃さず呂布と成廉は駆け出した。




 ――下[丕β]政庁前。

 騒ぎを聞きつけた高順は部将の侯成、魏続と手勢四千と共に政庁へ駆け付けた。


「陳宮殿、現状はどうなっている」

 騒々しい政庁で陳宮は一人、右往左往する文官を取り仕切っていた。

「これは高将軍」

 陳宮は少し安堵の表情を見せた。

「現状はあまり思わしくない。指揮系統がズタズタにされてしまった」


 予想はしていたが状況は最悪だった。何者かが伝令を阻んで各軍と連絡が取れないのだ。その為城内の軍が続々と集結してきたのだが、それは謀叛の軍を隠した。

 どの軍が敵で、どの軍が味方なのか判断のつかない状況なのだ。

「敵に関する情報は」

「全く掴めない。それどころか……」

 陳宮は言い難そうに口を開いた。

「呂将軍との連絡も途絶えている」

「なんと!」

「文優殿の隠密部隊と常々連絡をとるようにしているのだが、それすら……」

「敵の隠密部隊が暗躍しているのか」

「敵勢力は未知数。背後に支援者がいてもおかしくない」

「では、すぐさま将軍を救わねば」

「いえ、既に張将軍を向かわせています。……無事、脱出しているとよいが」

 陳宮はゆっくりと歩きながら思案した。

「問題は謀叛の軍です。城内が混乱している今、此方は迂闊に動けず、敵にとって好機。早く手を打たなくては手遅れになる」

 陳宮の言う通り、混乱した軍程脆いものは無い。今の城内は彼我兵力に関わらず危険だ。

「一度軍を城外へ出してはどうだ」

 そうすれば少なくとも敵軍を見つける事が可能だ。

「駄目だ。それこそ敵に容易くこの城を与える事になる」

「しかし、このままでは……」

 手を出そうにも敵が見えない。無理に戦闘を起こせば今の城内では同士討ちもしかねない。手も足も出ないとはこの事である。


 と、そこへ陳宮が周囲の様子を調べさせていた兵が血相を変えて走り込んできた。「大変です! 我が軍があちこちで同士討ちを始めております」

「!!」

「恐らく敵の隠密部隊に偽の情報を吹き込まれたのだろう」

 唇を噛みながら陳宮が答えた。

 高順は閃いた。

「攻撃を受けてない軍が謀叛の軍だ」

「成る程! おい、攻撃を受けてない軍は?」

 希望の光が差した。陳宮はその兵卒に尋ねた。

 しかし、兵卒は少し困った表情をした。

「此処です」

「何っ?」

「確認出来る限り、攻撃を受けてない軍は此処の軍のみです」

「くそっ」

 陳宮は苛立った様に近くの卓を蹴り飛ばした。

「落ち着け!

それでは一方的に攻撃を仕掛けている軍はどうだ?」

「櫓の見張りによれば張将軍の騎馬軍、宋将軍の軍と[赤β]将軍の軍です」

 その軍のどれかが謀叛を起こしたと考えられる。

 だが、張遼は別だ。高順は確信していた。張遼の呂布への忠誠心は篤く、謀叛など有り得ない。宋憲も董卓の時代から呂布に付き従ってきた。彼も裏切るとは疑わしい。


 ――となると怪しいのは[赤β]萌の軍。


 [赤β]萌はエン州にて呂布に仕え、司隷出身の兵三千と州兵二千を預かっている。兵力的に謀叛を画策し得る数だ。しかも、元曹軍である。益々怪しい。

 そこに高順の予想を裏付ける報告が入った。


「最初に攻撃を受けたと申す兵を見つけました」

 連れられてきた兵は肩に矢傷を負っていた。

「敵の旗印は? 数は? 何処で襲撃された?」

 陳宮が矢継ぎ早に問い詰める。

「あの、えと……数も旗印も分かりません。襲撃は白門です。ただ……」

「ただ、何だ?」

 陳宮は苛立ちを隠せない。


「ただ、敵の会話は河内で聞いた訛りでした」


 兵の言で高順は確信した。

「[赤β]萌だ。あの者は河内の出自の兵を抱えている」

 陳宮も同意した。

「謀叛の首謀者は[赤β]萌でほぼ確定だ。高将軍、頼みますぞ」

「承知!」

 高順は手勢三千に弓を携帯させると政庁を後にした。




 [赤β]萌の陣に高順が到着した時、既に所属不明の軍が戦闘していた。


「どうやら留めを刺すだけの様だな」

 [赤β]萌の軍の混乱ぶりに此方の勘違いかと少し戸惑った高順だった。が、可能性として最も疑わしい軍を討たなくてはならない。

 これ以上、状況が悪化する事態だけは避けなければならない。

「弓を構えよ」

 数多の兵が矢をつがえる。

「放て!」

 無数の矢が[赤β]萌の軍に降り注ぐ。突撃する前に[赤β]萌の軍は瓦解した。我先にと最寄りの門から脱出を図る。

 高順は掃討を開始した。

 瞬く間に血が花開く。逃げる兵を背後から討つのは藁束を相手に矛を振るうのと何ら変わらない。

 と、高順の視界に魚鱗の甲冑が目に入った。大将の鎧、[赤β]萌だ。

 負傷したのか腕の無い肩を押さえながら兵卒に混じって逃げ惑っている。直ぐ様距離を詰めた。


「ッ!?」


 [赤β]萌が背後の脅威に気付いた時、既にその首は高順によって斬り飛ばされた。


「高将軍!」

 高順が[赤β]萌の首級に矛を突き立てると五百に満たない軍が近付いてきた。どの兵も傷だらけだらけで、声を掛けてきた先頭の将もまた返り血で戦袍を赤く染めていた。

 恐らく[赤β]萌の軍にいち早く攻撃していた軍だろう。将は高順の前に来ると倒れ込む様に跪いた。

「曹性か」

 高順は警戒を解かずに答えた。

 曹性は[赤β]萌の副官として就いていた将だ。謀叛後、[赤β]萌の軍を脱出しなかったところを見ると謀叛に協力していたとしか思えない。

 高順は兵に顎でしゃくって見せた。

 途端に兵が曹性を取り囲む。抵抗は無かった。曹性は縄で拘束された。


「現状で事態を説明出来るのはお主しか居らん。が、しかしだ、お主に疑いがある事も事実だ。殿の元まで連行させてもらう」

「承知しております。全てを説明しましょう」




「文優、気を確かにしろ」

 呂布は文優を空いた寝台に横にすると、慎重に矢を抜いた。抜く度に文優の躰が弱々しく痙攣する。


 辛うじて政庁まで辿り着いた呂布らだったが、文優の意識は半ば飛びかけていた。

「医者を手配してくれ」

 成廉は兵に指示しながら考えた。


 ――もし……もしも、文優殿が今死ねば、呂布軍はどうなってしまうのか。


 呂布が帆なら文優は舵。

 武の才無く、兵を率いる才も無ければ、人を見る才も無い文優だが、その戦略的指針だけが呂布軍の支えだ。文優が死ねば、呂布軍は舵を無くして乱世という大海原に迷う事になる。

 その上、帆は毒に冒されている。正に未来は天のみぞ知る状態だった。

 しばらくすると兵に引っ張られる様に医者が室に入った。

「診断を頼む」

 呂布は成廉と共に退室すると政庁の広間へ向かった。 広間では曹性の尋問が始まろうとしていた。

 呂布が入ると集合していた主だった将は立ち上がった。

「呂将軍、ご無事で何よりです」

  陳宮は座していた上座を譲ると呂布の傍らに立った。成廉はその横に控えた。

「現状は」

「既に高将軍の活躍で謀叛の軍を撃滅しました」

「やはり、謀叛か。陳宮、ご苦労だった」

「いえ、お褒めに預かる程ではありません。丁度、これから詳しい経緯を知る為に尋問をするところです」

 陳宮は無感動に答えた。それに眉を顰めながら、呂布は引き立てられて来た将に目を向けた。


 ――曹性か……。


 曹性はそれなりに有能な将だ。

 ただ、主の武が目立ちすぎて高順、張遼が霞む位なので曹性や侯成といった将は軍中でもかなり地味である。

 それでも[赤β]萌の副官ではなく[赤β]萌と肩を並べても良い実力の持ち主だ。副官という職は曹性が自ら望んだものだった。

 今回の件はこういった実力のある将に兵を与えながら、それを軽視した結果でもあった。


「それでは、これより曹将軍の尋問を始める」

 進行は陳宮が担った。


「では曹将軍、謀叛の発端から此処に至るまでを知る限り話してもらおう」

「しょ、承知しました」

 動きづらそうに曹性は立ち上がった。

「縄を解いてやれ。縛られてると出る物も出て来んぞ」

 呂布は陳宮に命じた。

「はぁ」

 直ぐ様、縄が解かれる。

「有り難く存じます」

 曹性が深々と礼をする。


「それでは……、事の発端は[赤β]将軍の周囲で見え隠れした間者の噂です。彼は州兵と麾下を多数擁していましたから、某は密かに探る為に彼の副官を志願しました」

 陳宮が問う。

「何故その時点で報告しない?」

 曹性は当惑して眉を寄せる。

「その……その時点で[赤β]将軍の叛意を確認出来ず、濡れ衣だった場合に責任を取れないと判断したからです……」

「続けろ」

「は……それからしばらく目立った動きは無く、普段通り調練の毎日です。

しかし、ある日唐突に謀叛を起こす事を告げられ、意見を求められました。急な話だったので勿論、反論しました。ですが、背後に指示者がいて既に日時が決まっているとの事で、どの軍を襲えば効率良く打撃を与えられるか問われました。判らないと答え、再度引き留めようとしましたが翌日には謀叛を起こされ、不本意ながら軍に組み込まれ、また、充てられた兵も少なくて迂闊に動けなかったのです」


「その黒幕は何者だ」

 呂布には陳宮の問いに曹性は相当焦って見えた。先程まで毅然とした態度で話していたのに、陳宮が問うと動揺する。

 曹性は陳宮の問いに答えなかった。

「遂に軍を挙げた[赤β]将軍は政庁に向けて周囲の軍に偽報を流布しながら進軍を開始しました襲撃は成功し、某は極度に心配したのですが急に進軍を止めてしましました。どうやら指示者の合図と共に政庁に突撃する手筈にも関わらず、その合図が無く立ち往生してしまった様でした。そこで[赤β]将軍が焦るその時しか裏切る好機は無いと考え、某は[赤β]将軍を斬りつけ、片腕を奪いました。

その後は高将軍が駆け付けて、後は高将軍が知っている通りです」

「それで……その指示者とは誰なのだ?!」

 陳宮の問いに曹性は驚いて目を見開いた。

「ま、誠に答えて宜しいのですか」

 その問いは陳宮に向けて発せられた。

「当たり前だ。知っている事を全て話さなければ尋問にならない」

 困り果てた曹性は驚愕の名を口にした。


「…………陳将軍です」

「何っ?」

 呂布は陳宮を見た。一同の視線が一斉に陳宮へと向けられた。

 陳宮は何も発さなかった。ただ顔を赤く染まらせて曹性を睨み付ける。

 さすがに呂布が笑いながら確認する。

「曹性、冗談が過ぎるぞ」

「確かに[赤β]将軍は陳将軍の指示と言っていました。合図があれば陳将軍は政庁内から兵を挙げる手筈になっていました」

「……」


 軍師として文優に次ぐ陳宮が裏切るとなれば誰が味方で敵なのか。今この場に敵勢力が混じっていても不思議ではない。一同が騒然となる。当の陳宮が何も答えないので益々疑いは深まる。

 呂布は正直、困った。こういった状況に於ける対応を持ち合わせて無い。

「静まれ! 静まれぃ!」

 とりあえず場を収拾する。

「陳宮……」

 呂布が声を掛けようとした時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。兵が一人駆け込む。


「文優様が……! 早くお越し下さい!」


 兵の報告にまたしても広間は騒然となる。

「曹性の件は保留、追って通達する。陳宮は不問に処する。以上、散会」

 そう告げると呂布は立ち上がり広間に背を向けた。

 文優の室へと急行する。


 文優――、という言葉で呂布は嫌な予感がした。そしてそれは的中した。

「文優!」

 戸を吹き飛ばす様に開けた。最初に目に飛び込んできた文優は弱々しく微笑んでいた。

 医者に目を向ける。医者は俯きながら小さく首を横に振った。

「手遅れで御座いました」

 その言葉が呂布に突き刺さる。


 ――何故だろうか、己の死の宣告に比べてこの衝撃の違いは何だ。


 重い足取りで寝台横の胡床に腰掛けた。

「二人にしてくれ」

 医者が退室する。

 文優はゆっくりと首を呂布に向けた。

「申し訳、御座いません」

「何故謝る」

 文優は喋るどころか呼吸するのにも難渋している様に見える。


「共に天下を穫る夢は叶いそうもありません」

「端から期待などしとらん。俺がこんな躰だからな」

「ですが、あなた様ならもしや、と私は信じておりました」

「所詮、夢なんてこんな物だ。成廉の言う通り、人は天命に抗えない様だ」

「そんな事は御座いません。私は今でも信じております。呂布様は天下を掴める才をお持ちです」

「だが天下を統べる才は無い」

 呂布の言葉に虚を突かれたのか、文優は少し眉を上げる。

「仮に天下を穫った後、統べるお前が居なくては何にも成らんではないか」

「……本当に申し訳御座いません」

「責めている訳ではない。寧ろ謝らなければならないのは俺だ」

「何を仰いますか」

「俺はお前を死なせるのだ。俺がお前と出会い、共に来いと誘い、危険に晒した。俺は毒に冒された時点で軍を解散させるべきだったのだ。そうすれば……」

「そうすれば私は死ぬ事など無かった、そう仰いますか」

「……そうだ」


 暫しの沈黙が室を満たす。

「まさか私の死を契機に軍を解散するなんて言わないでしょうね」

「そのつもりだ」

「駄目です」

「何故だ」

「あなた様は本当に下々の事を思い遣りながら、私達の真意にお気付きになりませんな」

「……」

「あなた様は何者ですか」

「呂奉先だ」

「あなた様は何者ですか」

「……」

「あなた様は天下無双の武を持ち、最高の将が忠誠を誓い、精強なる騎馬軍に愛され、今徐州に割拠する呂布軍の君主・呂奉先です」

「……だからどうした」

「あなた様が中途半端に軍を解散すれば彼らはどうなるのですか」

「何処ぞの勢力でそれなりの位を得よう」

「本当に分かっておられない。……いえ、これは仕える者にしか解らないのかもしれませんね」

「?」

「彼らの事を本当に思いやっているなら、呂奉先ならば死ぬその時まで闘い続け、その至高の武を天下に示し続けて下さい」

「……文優」

「それが、一度天下に名乗り挙げた君主の道であり、最強の武人が生きる道であり、私の信じるあなた様の道です」

「俺がそうする事で更に死ぬ者が増えてもか」

「この乱世、誰だって死の覚悟はあります。呂奉先の為に死ねるなら皆、本望というものです。この軍はそういった者ばかりです」

 文優は少し笑った。

「まぁ、陳宮様はどちらかと言うと曹操への怨みで仕えるているようですが」

 文優は大きく息を吐いた。

「少し、……疲れました」

 呂布は立ち上がった。

「休め」

「そうさせてもらいますよ」

 呂布は退室しようとした。


「残りの命、使い方はあなた様の自由です。が、もし死ぬその時まで天下を諦めないのなら、陳宮を私の後任に」

 戸に手を掛けた時、文優が投げかけた。

「己が何者か忘れないで下さい」

「……」

 呂布は戸を開けた。

「お休み」

「はい、またいずれ」

 呂布が退室する時、文優はその目が光を湛えているのを見逃さなかった。


「本当に……疲れた」




 名も無き軍師、その名を歴史に刻む事無く散る。

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