忠義越
「暇だな、成廉」
「はい?」
「棍を持てい」
「は?」
「それから魏越と張遼も連れてこい」
呂軍、曹軍の戦はかれこれ半年も戦線が膠着している。兵糧はどんなにかき集めても現状を維持するので精一杯だ。騎馬軍一万を除いて殆どの軍を各任地へ分割している。
曹軍もまた同じなのか去年の惨敗以来、曹操はケン城から一歩も出ない。それは不気味な程だ。そんな訳で両軍共に次の一手を出せずにいた。
つまり、州治を文優、陳宮に任す呂布は暇なのである。
「破っ!」
魏越の大振りは呂布を捉えたかの様に見える。
しかし、呂布は涼しげな顔でそれをいなし、突きで逆襲する。
「こうやって稽古するのは何年ぶりかな」
呂布は成廉の薙払いを受け止めながら聞いた。
「俺は五年以上手合わせしていません」
そう言って張遼は棍を振り回しながら打ち掛かる。
「おう、そう言えばそうだな」
相変わらず張遼は小細工の効いた技で攻めてくる。
「だが、まだまだだぞ」
的確な突きで成廉と張遼は同時に吹き飛ぶ。目にも止まらぬ二段突きだ。愛用の方天牙戟からしてみれば棍など棒切れに等しいのだ。
「奉先様! 卑怯な手で向かわせていただきます」
三人は三方から同時に打ち掛かった。魏越の斬撃が喉元を捉えかける。呂布は笑って受け流した。
――三人とも強くなった。
成廉と魏越はともかく、張遼には別任を与える事が多かった。それでも三人の息はぴったりで、連携も上手くとれている。笑う余裕があるとは言え、気を抜けば負けてしまうだろう。
呂布は正直嬉しかった。自分が蒔いた『武』の種は着実に育っている。そう思えた。
それでもまだまだ彼らは若い。伸びしろは無限であり、将来の楽しみな三人である。
――この戦が終わったら、また本格的に稽古しようか。
「さあ、次々! そんなんじゃあ最強は見えんぞ」
呂布の稽古は日が暮れるまで行われた。
陳宮が少し苛立った様に質問してきたのは軍議の最中だった。
「呂将軍! 李乾の件、如何なさるおつもりです」
李乾とは土豪に影響力のある、エン州でも名の知れる名士である。
しかし、李乾は呂布に非協力的だった。呂布は李乾への対応をエン州別駕の薛蘭、治中の李封に一任していた。
別駕、治中と言えば州治に於ける高官。曹操がエン州を支配する頃から着任するこの二人なら地元の事情に詳しいだろうと委任したのだ。
進言したのは文優だった。
呂布は忘れていた。文優は知謀に長けていても人物眼は皆無。
案の定、薛蘭と李封は蛮行に走った。何を思ったのか、強硬姿勢を採った二人は李乾を殺害してしまったのである。
李乾程の名士を呂軍が殺したとなると、エン州土豪との信頼関係も揺らいでしまう。陳宮はその処遇を質問しているのだ。
「お前はどう思う」
「両名処断すべきです」
呂布は片眉を上げて、ぐっと陳宮に近付いた。。
「土豪はそれで納得するだろう。だが、曹操時代からの官の筆頭のあの二人を殺してしまえば、他の曹操に背いた官に動揺が表れるのではないか」
「う……それはそうですが」
陳宮は困った様に目を泳がせる。
「ようは為す術無し」
土豪とエン州の官、どちらか一方を選ぶ事は出来ない。どちらもエン州を支配する上で必要不可欠だ。
「現状維持が妥当だろう」
「お待ち下さい」
黙り込んでいた文優が口を開いた。
「両名から官職を取り上げない事には賛成ですが、軍は合流させるべきです」
薛蘭、李封には兵四千を付けて鉅野へ駐屯させている。土豪を牽制させる為の治安兵である。戦闘には不向きな軍だ。
「出来ればすぐにでもご命令を」
「何故そう急ぐ」
「曹操麾下の腹心に李乾の甥がいます。報復戦を進言して曹操が承諾すれば、いえ、動きの無いこの戦況では絶対に曹操は攻撃して来ます。そうなれば薛蘭の軍は壊滅です」
人には得手不得手というものがある。薛蘭と李封は戦となると後方支援に回す程度の実力だ。
それでいて率いる兵は呂布の軍からすれば雑兵である。確かに今、彼らが襲撃を受ければ壊滅必至だ。
「分かった、二人を呼び戻そう」
しかし、伝令が退出する前に別の伝令が室内に飛び込んで来た。
「報告! 薛蘭殿、李封殿の軍が曹軍五千と交戦。抵抗虚しく半数を討たれ、将軍の救援を求めています」
「遅かったか……!」
陳宮が声を上げる。曹操の即決即断が発揮されている瞬間である。
「いや、まだ間に合う。俺が救援に向かおう」
呂布は立ち上がった。
「!」
「お供します」
「俺も」
魏越らも次々と立ち上がった。
「お待ち下さい!」
文優もまた立ち上がった。
「罠の可能性があります」
「罠?」
魏越は馬鹿にした様に見下ろした。
「罠だったら何だってんだ。奉先様は曹操などとっくに超越しているわ!」
「局地での戦を危ぶんでいるのではありません。戦略的に兵力を分散させるのは危険だと言っているのです」
文優は冷静さを少し失った様に反論する。
成廉を除いて、この場に集う者全てが少し冷静さを失っていた。
陣内に苛立ちが募っている。それも先年から曹操に勝っていると言うのに、何処か思惑通り行かないからである。
一度降った土豪達は不利なはずの曹操に靡き始めている。減り続けるはずだった曹軍は踏ん張りを見せ、未だに七万を維持している。そして飢饉に重なる飛蝗の被害。兵を動かすにも先を見て計画的に動かさなければ兵糧は尽きてしまう。
決して呂軍は不利では無い。戦況も士気も寧ろ此方の有利だ。しかし、なぜか解らないが曹軍は揺るぎない何かを示しているのだ。
成廉は昔から己の弱気を怨んできたが、今回ばかりは呂布が定陶を離れるのは賛成しかねた。
危うい、のである。薛蘭の軍を破ったのが曹操とは限らないのだ。もし、曹操が本隊に控えていれば、呂布のいない呂軍一万余は曹操率いる五万の軍勢に襲われるのである。
しかし、だからと言って主の意を曲げる事は不可能である。呂布は一度口にした言を必ず実行する。
――僕には何が出来るのか。
「勢力を保つ為にも薛蘭と李封は捨て置けん。
ただでさえ土豪との信頼関係は揺らいでおる、行動で示さねばならん。例え間に合わなくても、だ」
呂布は有無を言わさず一同を見渡した。
「俺は蝗紅隊と騎兵二千で救援へ向かう。陳宮には文優と高順を残す」
呂布は踵を返し、室から出ようという時、成廉は告げた。
「奉先さん」
呂布は立ち止まった。
「僕は残ります」
「なっ! 何言い出すんだよ、廉」
魏越は己の耳が信じられない様に詰め寄った。
「お前は俺の従者だろう。従者は何処であろうと付き従うものではないのか」
呂布は何の感情も見せなかった。ただ、問うた。
「主の留守を守るのも従者の仕事です」
「……」
呂布は真っ直ぐ成廉の瞳を見つめて動かない。一同、呂布の答えを息を呑んで待った。
「ふん。勝手にしろ」
「御帰還をお待ちしております」
成廉は深々と頭を下げた。呂布は瞳から何かを悟ったのかそれ以上何も言わずに室を後にした。
「正直、成廉様が残っていただき有り難いです」
文優は息を吐きながら言った。
「やはり、曹操は動きますか」
「其処まで考えてましたか、流石です」
成廉、文優、陳宮、高順だけになった軍議は続いた。
文優はエン州の地図を広げた。
「曹操はケン城に五万の兵で待機しています。このうち幾らかが鉅野に割かれたとしても、対する此方は騎兵八千」
圧倒的に不利だ。
「ただし、機動力で此方が遥かに勝るのでこの機動力を生かして策を組み立てます」
「して、その策とは」
高順は必要事項のみ聞いた。
「定陶の陣営を棄てます。南城まで退いて曹軍の兵站を延長します」
「兵糧攻めか」
「兵力差は縮まらず、士気が高いのも騎馬一万のみ。更に土豪の心も離れつつある今、残された手はこれしか有りません」
「しかし、文優殿、」
陳宮が疑問をぶつける。
「それしか手が無いという事は曹操に予測されやすい事も意味しませんか」
「その通りです。ですから呂布様に進言する前に皆さんの意見が聞きたかったのです」
「……他に手が無いのだろう」
高順は表情を崩さない。
「俺は軍師の言う通りに動こう」
「成廉様は」
一同の視線が集まる。
「異論はありません」
定陶の陣では密かに撤退準備が進められた。
濮陽を棄てた際、白鈴も陣内で生活していた。無論、撤退準備は白鈴にも影響した。
「留守番しろって言ったかと思えば、今度は鎧を着ろって言うの?!」
「うん、……ごめん」
白鈴は少し戸惑いながらも大人しく甲冑に袖を通してくれた。
「戦は……嫌い」
何を思ったのか急に白鈴はポツリと漏らした。
「白鈴、僕は戦場で生きてるんだ。これはしょうがないん、」
「分かってる」
成廉は目を瞬かした。
白鈴の瞳は何時に無く頼もしい。ここ一年、白鈴は留守番をする事で強くなった気がした。
「分かってるから、立派に闘って、無事で還ってきてね」
「……うん」
成廉は今なら誰にも負ける気がしなかった。
ただ、今回の戦は曹軍の攻撃を上手くかわす撤退戦である。文優と陳宮の指示通り動かねばならない。
「曹軍が動きました。定陶より東に約六十里を進軍中」
伝令が報じる。
「遂に来たか」
「高順様、成廉様。直ちに騎馬二千をそれぞれ率い、定陶まで十里の所で敵の先鋒を攪乱して下さい。囲まれた場合は無理をせず、軍をばらして南城を目指して下さい。
本隊は敵軍の進軍が滞らせている間に撤退します」
「高順殿、行きましょう」
「うむ」
「文優殿、白鈴を頼みます」
「警護を固めさせます、ご安心を」
成廉と高順は幕内から出るとそれぞれの軍に向かった。
成廉は二千の騎馬軍の前で雷音を止めた。兵は皆、出撃準備は出来ているのだろう。成廉をじっと見ていた。
此度の戦は成廉が『軍』を率いる初陣である。常に呂布の傍らで闘ってきた成廉が率いた軍と言えば、蝗紅隊の調練の時ぐらいだ。今まで兵を率いた事が無い訳でも無い。しかし、殆どが呂布から一時的に兵を預けられたぐらいなのだ。
自分一人だけを兵が注目する今の状況に些かだが、高揚した。雷音も成廉に感化したのか、少し落ち着きが無い。
――こんなんじゃ駄目だ、雷音。
『武』を修める者が状況に流されちゃあ駄目だ。
いつも通り、ただ僕の武を振るうだけだ。
成廉は剣を抜いて掲げた。
「此度の戦は撤退戦であり、手柄を立てる戦に非ず! ただ速さのみを求めよ!」
「応!!!」
「出陣!」
真白の戦袍を先頭に、若き将の率いる軍が解き放たれた。
「間も無く曹軍が来ます」
「別地で待機する高順殿にも報せといてくれ」
「御意」
軽装の伝令は音も無く駆け去った。
成廉は指示通り定陶を背に十里の所で兵を伏せさせていた。
炊事はさせてない。曹軍に気付かれる恐れがあるからだ。だが、それだけが理由では無い。そもそも携行出来る兵糧が呂軍には無かった。
やむなく成廉は兵に付近で調達するよう命じた。略奪である。成廉は抵抗があったが兵達はまんざらでも無い様だ。
蝗紅隊と違って董卓の頃からの兵は涼州出身の荒れくれ者ばかりだ。力のある者が物を手に入れるのは当然とするところがある。呂布に忠誠を誓う優秀な騎兵だが、どうやら根本的な気質が違う様である。
二千もの兵が伏兵しているというのに甲冑のぶつかる金属音どころか衣擦れ一つ聞こえない。
やはり優秀な兵だと成廉は改めて感心していた。彼らは当然な顔つきで待機しているが朝食を摂らせて今の状態のまま半日が過ぎようとしている。しかも、既に此処に伏せてから二日経っているのだ。
彼らを調練するのは張遼、高順だ。厳しく命令だけを遂行する様に調練されているのだろう。
個々の実力が高水準の蝗紅隊の何処か愉しげな、自由な雰囲気とは別なのだ。本来なら彼らの在り方が軍として正しい。蝗紅隊は呂布にしか率いれないがこの軍は汎用性があるのだ。
林内でも風が心地良い。初夏を匂わせる風は山々を吹き抜け、木々をさざめかせた。何処からか鳥の囀りが聞こえる。
成廉は何と言う鳥か判らなかった。ただ、のどかだった。ここらは先年の飛蝗から免れたのだろう。今から戦が始まるとは思えない程のどかだ。
「成廉殿、間も無くここは曹軍の斥候範囲内になります」
最後の伝令だった。戦の合図。
成廉は擬態の枝葉を取り払った。
「行こう。後は街道沿いに駆けに駆けよう」
斥候よりも速く。斥候が此方を発見する前に、発見して引き返すよりも速く。
駆ける事三里、前方に『曹』の旗が見て取れた。向こうは此方が敵軍だと気付いていないのだろうか。のろのろ進軍していた。
馬上に生きる成廉にとってそれは鈍牛以下。
「首級は打ち捨てろ。とにかく騎馬を止めるな」
曹軍はその兵の顔を目視出来る距離で漸く狼狽し始めた。次々と矛が此方に向けて突き立てられる。
成廉は手に馴染んだ戈で難無くいなすと先頭の兵の首を飛ばした。
軍が激突する。吹き飛ぶのは曹軍の兵ばかり。
丁度、機を見計らって高順の軍も攪乱を開始した。曹軍の先鋒は二つの剣でずたずたになった。
指揮系統が混乱し、右往左往する。街道で軍が止まれば後続も詰まる。――はずだったが曹操が兵を動かした。
左翼から曹仁、右翼からは夏侯淵が、中央を曹操が典韋と共に上がってきた。先鋒の兵とは明らかに力量が違う。新手の右翼へと突撃するが、容易く前進出来ない。先鋒と比べると末端の兵卒まで力強かった。 成廉は違和感を禁じ得ない。
――後続の兵は飢えてない……?
兵力の劣る呂軍でさえ兵糧不足に陥っているというのに、全軍七万にも及ぶ曹軍が飢えている様では無い。
「おかしい……」
成廉は無造作に戈を振り回して、活路を見出そうとしたが、遂には突破も適わず、高順と混乱する曹軍先鋒と共に包囲されてしまった。
「高順殿! これは一体……?」
「どうやら曹軍は我々よりも飯にありつけられるらしいな」
高順は額の汗を拭って吐き捨てた。
「囲まれました」
左右より上がってきた曹軍は回り込んで退路を塞ぐ形で攻めてくる。
退却しようにも前に曹仁、夏侯淵、後ろに曹操と、正に挟み撃ちだ。
「是こそ真の死地であろう」
高順が息を整え、前を見据えた。成廉もそれに倣う。退路を阻むのは約一万といったところ。
「己を信じて前進あるのみ」
「了解しました!」
死地に置かれようとも高順は成廉の知っている平生の高順だ。成廉と高順を先頭に騎馬軍は自然と錘行の陣へと移行し、退路を阻む曹軍へその矛先を向けた。
「退けぃ! 退けい!! 我ら飛将の旗本、高順!」
「成廉なるぞ!」
鈍色の甲冑と白の戦袍が呼ばわる。
両軍、激突した。
曹操は隊列を組み直す先鋒の軍を見下ろした。傍らには郭嘉と典韋が控える。
「餌とは言え、派手にやられた。なぁ、郭嘉」
囮だった先鋒のはたった四千の騎馬軍に散々掻き廻された挙げ句、二千余もの兵が死傷した。
「それだけでは御座いません。戦果が無かった訳ではありませんが敵将を取り逃がしております」
成廉と高順は辛くも包囲を突破した。しかし、騎馬軍の半数を失うと言う代償を払った。
「報告致します」
追撃した曹仁から伝令がやって来た。
「敵の二将は驚くべき速度で逃走、追撃は不可能とのこと。恐らく本隊と共に南城に向かったと思われます」
「ご苦労、仁には屯営出来る所を探し、布陣せよ、と伝えよ」
伝令は一礼すると来た道を帰った。
「さて、今頃呂布も無駄足喰って本隊と合流しているだろう。其処で郭嘉、策を示せ」
此度の戦で曹操は呂布の騎馬軍があの黒ずくめの麾下隊に負けず劣らず精強だと感じた。呂布が直接率いれば、その強さは何倍にも至るだろう。
「河北より兵糧の目処がついたとは言え、兵糧は充分に行き渡ってはいません」
曹操は兵糧不足の問題を袁紹の支援で辛うじて補っていた。曹操は始め、増援部隊を送ると申し出た袁紹の提案を断りながら、密かに済南経由で兵糧支援を受けたのだ。
全軍にはとても足りる量では無いが、この支援のお蔭で軍を維持出来た。
「彼方に長期戦の構えを採られれば依然として不利を否めません。策を用いて短期決戦は妥当で御座いましょう。
しかし、相手はあの呂布、戦術戦略を超越した武の持ち主です」
「それで、お主の策は」
曹操は隊列の整いかけた先鋒から視線を逸らさず訊ねた。
「呂軍の強さとその源は呂布とその麾下軍。つまりそれらを何とかすれば我が軍の勝利です。
直接対処出来ない武には『刺客』を使うしかないでしょう」
「刺客??」
曹操は振り返った。
「刺客で何とかなる男だったら此処まで苦戦せんぞ」
訝しげな曹操に郭嘉は怪しく笑いかけた。
「殿に仕官する以前、私は河北を旅していました」
曹操は次を促す様に頷いた。
郭嘉は河北を一巡りした事があり、袁紹にも面識がある。
「その時に渤海沿いのある邑で私は一人の隠者に出会いました。
彼は密かに医術を修める者なのですが、医術を極める内に最強の『刺客』を発見したのです。
興味をそそられた私はその『刺客』の造り方を大金を叩いて教授してもらったのです」
「最強だと?」
「はい、虎をも容易く殺します」
「して、その刺客とは?」
郭嘉は曹操に近付くと耳に口を寄せて何事か説明した。
見る見る曹操の表情は固くなる。
「成る程、確かに猛獣も呂布も殺し得る最強の『刺客』だ。
それにしても、お主は鬼畜の様な男だな。しかし、有り得ぬ進言をしてこそ曹操の参謀であろう」
郭嘉は軽く頭を下げただけだった。
「如何為さいます」
「すぐに手配せよ」
「御意」
曹操は余りにも卑劣な郭嘉の策に半ば呆れながら典韋に顔を向けた。
「きっとこの『刺客』を用いれば私は天下から卑怯者呼ばわりされるぞ」
言に反して悪びれない曹操を見て、典韋は顔をしかめた。
薛蘭、李封の救援に向かった呂布だったが鉅野に到着した時には、既に薛蘭と李封は死んでいた。曹軍の姿も見当たらなかった。
どうしようもない、と思い、残兵の収拾を命じようとして、呂布は自分がまんまと誘い出されたと気付いた。呂布と蝗紅隊のいない騎馬軍は一万に満たない。そこに曹軍が攻め寄せればどうなるか。
「いかん! すぐ引き返すぞ」
呂布は己の浅はかさを悔やんだ。形だけの救援を臣と土豪に示すのなら、一将に軍を与えて向かわせれば良かったのだ。何も呂布自ら出陣する必要は無かったのだ。
鉅野から定陶まで昼夜駆けても一日以上かかる。しかも蝗紅隊だったらの話であり、騎馬二千に合わせれば二日かかるだろう。
こうなれば軍を二分して先行するしかない。
「兵を二分する! 張遼は騎馬二千と普通に退却しろ。蝗紅隊は俺に付いて来い」
「ははっ」
張遼は何となく現状を察したのか、大人しく騎馬を下げた。
「一体どうしたんです?!」
魏越は戸惑いを隠せない様だ。魏越は騎馬を寄せて驚きと一つの不安の入り混じった顔を向けてきた。
「俺達は罠に嵌ってしまったのだ」
「それでは、廉達は……!」
「定陶は既に落ちているかも知れん」
蹄の音が騒がしい中、呂布には息を呑む魏越がやけに萎んだ様に見えた。
「将軍! あれをご覧下さい」
兵の一人が小さな火の玉を見つけたのは、駆け続けて日が暮れ、辺りがどっぷりと闇に浸かっていた時だった。
何やら此方に合図している。
「あれは我が軍の伝令です!!」
呂布は蝗紅隊を振り返った。騎馬の息遣いが異常だ。赤兎も珍しく息が上がっている。
――流石に無理をし過ぎたか。
「全軍止まれ」
伝令が報告した内容は定陶が陥落し、文優らが騎馬二千余を犠牲に南城まで退却したとの事だった。
安心した様に魏越が息を吐くのが聞こえた。
「それでは南城に向かうぞ。張遼にも伝令を」
南城なら定陶より近い。呂布らは朝日が昇る頃、南城に到着した。張遼が正午過ぎに到着すると、今は使われていないボロボロの官舎で諸官が集まった。
南城はポツリポツリ民家があるだけの城だ。城壁は半壊してその機能を果たさず、兵糧の蓄えは皆無。しかも、定陶を曹軍に占拠された今、南城はエン州で孤立してしまった。
「申し訳ありません、定陶は守れなかったのでは無く、放棄しました」
軍議が始まって直ぐ、文優が跪いて額を床に擦り付けた。成廉も慌てて倣おうとすると呂布はそれを制した。
「頭を上げよ。お前達に責任は無い、全て俺の采配に責任がある」
「呂布様……」
「あの状況では定陶の死守は不可能だ。兵を生き残らせただけでも大手柄だ」
呂布は床の一点を見つめた。表情は変わらなかった。変えられなかった。どんな表情をすればいいのか分からなかった。
「成廉も高順もよく闘った様だな」
二人の戦袍はあちこち千切れ、まだ血がこびり付いていた。他の諸将も疲れ切った冴えない顔だ。
それでも現実を受け止めなくてはいけない。
「文優、現状を分析しろ」
「はい……まず我が軍の被害は二千余、兵糧も底を尽きます。
土豪は各個撃破され、無傷の軍は張藐の一万のみ、曹軍には兵力で劣る上に土豪も彼方に靡く事でしょう。圧倒的に不利です」
一同、悲痛な面持ちになる。
「対して曹軍は莫大な量の兵糧を消費します。しかし、間者の報告では曹軍は袁紹の支援を受けています。兵糧は定期的に輸送されている様です」
「成る程、それで俺達はどうすべきだ」
呂布の問いに文優は一瞬瞳を閉じた後、迷いを振り切る様に進言した。
「定陶を奪われた今、曹軍の兵站は延び切っています。則ち、軽騎兵による兵糧強奪と後方攪乱を繰り返し、転機を伺うしかありません。
曹軍の維持は兵糧が必要不可欠です。今は圧倒的に不利でも兵糧を攻めれば必ず隙が出来ます。
その時が好機でしょう」
苦肉の策か、そんな考えが皆を占めた。
しかし、反論する者はいなかった。それだけ呂軍は追い詰められていた。
魏越は決意した。
「文優殿、」
「なんでしょう?」
魏越が文優に声を掛けたのは遂に兵糧が尽きた日だった。
「俺に、兵糧強奪を任じて欲しい」
文優は予想していたのか、それとも誰かが名乗り出るのを待っていたのだろうか。特にこれと言って表情を変える事は無かった。
「四方に曹軍が布陣しました。それでも行きますか?」
「ああ」
魏越は即答した。
南城は古城で籠もるには難い。このままジッとしていても干上がるだけである。それなのに呂布も文優も陳宮もあの軍議以来、一度も強奪部隊を出陣させなかった。
と言うのも、此処南城がほぼ包囲されているからである。北は曹仁の五千、南は夏侯淵の五千、西は片目となった夏侯惇と程立の四千、そして定陶に曹操の四万だ。張藐のいる陳留とは分断され、援軍も期待出来ない。
「城外は極めて危険です、最悪、帰還出来ません。本当にそれでも行きますか?」
「しつこいな……」
魏越は歯痒そうに視線を逸らした。無意識に掌が拳になる。
「……俺は、あんな奉先様を見るに堪えられん」
原因は呂布の食事だった。
呂布はただでさえ少なくなった麦飯を食べず、更に少ない、しかも粟飯を食べ始めたのだ。
以前から呂布が極力兵卒と同じ様な食事をするのを魏越は知っていた。しかし、呂布の要求した量は並みの兵卒以下なのだ。
流石に魏越も成廉も止めたのだが呂布は聞き入れない。「俺の飯を増やせる位あるのなら、まずお前達が食え」と言い出す始末。
大将たる者が一番良い物を食べて、誰が非難するだろうか。日に日に呂布の頬が痩けるのを見て、魏越にはやるせない思いに駆られるのだ。
兵糧が少ないから食べない、と言うならば全体の兵糧を増やせば良い。魏越はその答えに至ったのだ。
「全軍に兵糧が充分行き渡れば奉先様の食事も自ずと増えるはずだ。だから、俺は行く」
「……分かりました。明日の軍議で進言すると良いでしょう、私からもそれとなく促します」
文優は魏越の決意が固い事を悟ったのか、諦めの色を覗かせながら言った。
「但し、進言理由には決して呂布様の食事について触れぬよう、単に兵糧不足を提言なさいませ」
「それ位解っている」
魏越は背を向けた。
「俺らの主はそういう男だ」
翌日夜半、軍議で魏越が強奪部隊として出撃した。
最初は渋っていた呂布だったが魏越の兵卒が飢えている、という言であっさりと出撃を許可した。
率いる兵力は騎兵千、そして空馬千。兵糧輸送の人夫は現地調達。目標は冀州から輸送される兵糧だ。済南を経由して定陶までの経路を狙う。
馬にも兵にも枚を咬ませている。移動は夜中のみ。間道を慎重に進み、とにかく曹軍に発見されない様に北東へ進軍する事、五日間。
魏越は漸く曹軍の輸送部隊を発見した。目視した限りその数、牛車が千台余り。武装した兵は二百余りだ。呑気な事に欠伸しながらのんびり警戒する事無く街道を進んでいる。
襲撃は容易かった。魏越を先頭に騎兵は素速く敵兵を殲滅した。人夫達は血の海を掻き分けたが包囲され、降伏した。
「雑魚は捨て置けぃ。牛車は捨てて兵糧を空馬へ、残りは焼き払うのだ」
空馬に充分な兵糧を載せ、人夫に誘導させた。
「さあ、あとは城まで突っ走るぞ!」
輸送部隊が襲撃されたと知れば曹軍の追っ手が来る。それに追い付かれれば元も子も無い。昼夜問わず全速力だ。
魏越は行きに五日掛かった道程を二日で帰還した。
夕陽が妙に禍々しい。もう直ぐ日没だった。
南城に辿り着いた時、既に兵達の限界が訪れていた様だ。騎馬が五百頭減っていた。
戦に於いて貴重な兵器である馬を食わざるおえない状況なら呂布はどうしているのか――。
魏越は即刻兵糧を全軍に配給すると呂布の分の麻袋を自ら担ぐと廃墟の政庁に急いだ。
「奉先様っ!!」
静けさの占める政庁を慌ただしく進み、室に入ってみれば案の定、呂布は以前に増して顔面の影を濃くしていた。
「なんとお労しい姿に……」
魏越は麦の詰まった麻袋を音を発てて床に置くと礼をとった。
「魏越、曹軍の兵糧を奪い、只今帰還致しました」
「よく、戻った」
呂布はその肌だけで無く、声音からまでも張りを失っていた。
「先ずは兵達に飯を分け与えよ」
「既に配給しております、今頃炊事を開始している頃でしょう」
窶れ果ててもまだ兵卒を気遣う呂布に魏越は若干の苛立ちを覚えた。
――こんな体になって……。あなたに何かあったら俺達がどうなるのか考えているのか!!?
「成廉! 早くこれを調理してくれ!」
「で、でも毒味しな、」
「そんなんよりも先ずは奉先様の口に何か入れなくちゃなんねえだろ!」
炊事が早速行われ、呂布に椀大盛りの麦飯が運ばれた。
「お前達は食わんのか」
「直ぐに食べます。さあ」
魏越としては兵糧の無い中、最初に呂布が食事をとれる事は当然だった。
呂布は箸に手を伸ばすと一口運んだ。ゆっくりと魏越の忠義を噛み締める様に二口。直ぐに呂布の箸は進む、進む。あっと言う間に平らげた。二杯目が装われる。
「俺達も夕餉に加わろうか」
「そうだね」
張遼の言に成廉も頷き、食事の準備が整われた。
不意に呂布が椀を落とした。麦飯が床に飛び散る。
皆の視線が集まる。
呂布も不思議そうにその手を見つめた。呂布の手は小刻みに震えている。次は箸を取り落とした。
「如何なさいまし……」
「っ!?」
魏越は呂布に駆け寄った。呂布は魏越の知っている顔をした。それは戦場で何度も見ている、敵兵が腹部を貫かれた時のそれと同じだ。
ただ、呂布の表情がそうなる事を魏越は一度も見た事が無かった。
「ぐぉお ……、」
「奉先様!!!」
皆が呂布を取り囲む。誰も何が起きているのか理解出来なかった。
呂布が苦痛に身を捩る。躰の痙攣が止まらない。
魏越が励ます様に声を掛けながらさするが収まる兆しは見えなかった。
「ハァっ、……毒だ……越」
呂布が喘ぎながら魏越だけに聞こえる様に呟いた。直後呂布は血を吐瀉した。
魏越は全身に衝撃が走った。腹に底冷えする物が居座った。
弱々しく首を横に動かしながら後退る。
「嘘だ……嘘だ」
口から己の物とも思えない声が漏れた。「……毒だ」
魏越の声に皆振り向く。
「一体、どうして」
成廉が目に涙を溜めて呂布を支える。そしてその視線は魏越に向けられた。それは疑惑の色だった。
「っ! 俺じゃない!!」
「でも! 毒味をしなくていいって言い出したのは越じゃないか!!」
成廉が珍しく吼えた。魏越は成廉からこんなに怒鳴られたのは子供の頃以来だった。
「二人とも止めろ」
張遼が割って入る。
丁度、報せを受けた文優と陳宮も駆け込んできた。
「あぁ、なんて事だ……」
陳宮は似合わなくも取り乱す。
「静まらんかっ!!!」
絞り出す様な声が室に響いた。何処にそんな余力があったのか、呂布だった。
「奉先さん! 喋らないで下さい!」
呂布は成廉を無視した。血走る目が忙しく皆を捉える。
「早く兵達に通達せんか!! このままでは全滅だぞ!?」
一番此処に居づらかった魏越は慌てて弾かれた様に飛び出した。
政庁から出ると炊事の煙があちこちから立ち昇っていた。馬に乗ると城内を駆け回った。
「兵糧に口を付けるな!!」
声が涸れるまで叫び続けた。
「食べた者は直ぐに吐き戻せ!!」
空は何時の間にかのっぺりとした暗雲がのし掛かっていた。
兵の半数以上が既に毒に口を付けていた。そこら中から苦痛に呻く声が広がる。魏越の叫び虚しく、兵達はバタバタと膝を突いていく。
「急報!! 急報!! 曹軍が四方より攻めてきます!」
伝令が報せながら魏越と擦れ違う。まるで呂軍がこうなる事を知っていたかの様な襲撃だ。
西門から火の手が上がった。火の番をしていた兵も毒に中ったのだろうか。闇に染まりだした城壁が煌々と照らされる。
――全て、俺が招いた結果だ。
魏越は手綱を持つ手を下ろし、頭を垂れた。躰が、四肢が緊張して動かなかった。西門の火は勢いを増し、周囲の呻き声もまた大きくなった。
――何故、俺は一人だけ焦って食糧を手に入れようとしたんだ。
奉先様も飢えを耐え凌いでいたと言うに、俺は奉先様への心痛を抑える事も出来なかった。 良く考えれば皆だって、あんな奉先様を見て心を痛めていたはずじゃないか。
それなのに俺は……。
迎撃態勢を執ろうと何処かで部隊長の号令が聞こえた。しかし恐らく指揮下の兵は微々たるものだろう。
――何故、俺は敵の輸送部隊に違和感を覚えなかったのか。曹軍にとっても貴重な兵糧がたったあれだけの護衛なはずが無い。やけにあっさりと発見出来たのはおかしいじゃ無いか。
それなのに俺は……。
退却、と何処からか聞こえた。それも当然だろう。毒に冒された呂軍で闘えるのはせいぜい四、五千。曹軍は五万。多勢に無勢である。
――そして何故、俺は毒味をしなかったのだ。俺は何を焦っていたのだ。奉先様か? 今の戦況か?
それとも何も出来ない俺にか?
「魏越様! 大丈夫で御座いますか?」
伝令が魏越の肩を掴んで揺さぶった。気が付けば直ぐ側まで火の手が及んでいた。
「早く配下の方々に脱出の命を。南城は放棄されます」
「分かっておる」
上の空に答えた。
――俺は……
俺は兵達を殺した。
皆の希望と奉先様の天下を殺した。
そして今、奉先様は瀕死の状態だ。
俺は俺自身の目標を殺そうとしているのだ。
空を見上げると見えると予想していた星空は微塵も無かった。力の抜けていた拳が甦る。
――目標を殺せば俺も生きられない。
魏越は馬に鞭打つと自分の幕舎へ駆けだした。
毒に冒されなかった兵を中心に呂軍が東門から脱出を開始する。
「脱出します! 隊列は密集陣形を採る! 負傷者は陣の中央へ、騎馬を失った者は散って下さい! 皆、生き延びるのです!」
矢継ぎ早に文優が指示を出す。
「呂布様、早く赤兎にお乗り下さい」
文優はそう言うが吐血の収まった呂布は全身の痙攣が収まらない。成廉と張遼は二人で呂布を支えながら赤兎に乗せた。
「文優殿! 何処へ退却するのですか?! 陳留ですか?」
呂布を乗せた成廉は既に白鈴も乗った雷音に跨って聞いた。しかし、文優は静かに首を振った。張遼が息を呑む。
「どう言う事だ!?」
「とりあえず泗水まで退きます」
「エン州を棄てるのか!!?」
「仕方ありません!!」
文優は責められて何かが吹っ切れた様に叫んだ。成廉も張遼も一瞬、その気迫に圧される。
「私達の天下は消えて無くなったのです」
文優は顔を背けると兵の群れに紛れてしまった。
「文優殿……」
成廉は憐れむ様に文優を見送った。
「そういえば越は何処だ?」
張遼が辺りを見渡しながら呟いた。丁度、伝令が駆け込んできた。
「たっ大変です!! 魏越殿が退却命令を無視して百騎余りで敵軍に向かって行ってしまわれました!」
「!!!」
成廉は息が詰まった。
「あいつ! まさか……討ち死にするつもりか!?」
張遼の言が胸に突き刺さる。
――越の奴、この責任を一人で背負い込むのか……!!
「奉先様! 白鈴を頼みます」
「へっ? ちょ…」
きょとんとしている白鈴を抱き上げると無理矢理赤兎に跨らせた。途端に赤兎の毛が逆立つ。蹄で大地を蹴り、怒りを露わにする。赤兎は呂布以外の者に触られたがらない。
しかし今は緊急時だ。我慢してもらうしかなかった。
「奉先さんと一緒にいれは絶対安全だ」
有無を言わさず白鈴の手に赤兎の鬣を掴ませた。兵達は命に代えて呂布を護ろうとするだろう。それならば赤兎の上は一番安全だ。
「我らが主・呂布に成り代わって命じる!」
呂布を取り巻く蝗紅隊は半減していた。よく知る顔も幾らか見当たらない。
だが、成廉には心を痛める暇が無かった。
「身命に代えてでも奉先さんを死守せよ!! 我ら、天下無双の飛将と共に在り!!」
「御意!!!」
「行こう、遼」
「ああ」
成廉と張遼はそれぞれ百騎程連れると、皆と逆方向へと駆ける。
仲間の死を目の当たりにし、呂布もまた死にかけているというのに蝗紅隊は笑顔で二人を見送った。
腰の引けた歩兵一隊が意を決して目標に跳び掛かる。が、全員胴から上下に分離した。
魏越は白の戦袍が返り血を浴びて染まろうとも気にも留めなかった。呂布の方天牙戟を模した大戟を頭上で振り回して構える。
「どうしたぁ! 曹軍は十倍の兵力で殿百騎も呑み込めんのか!?」
追従してきた騎兵は全滅した。残って足止めしているのは魏越一人。しかし、負ける気がしなかった。武威が溢れ出す。曹軍の歩兵はそれに怖じ気づいていた。
曹軍の校尉の一人が迂回しようと別方向へ馬を鞭打つ。
「させるかよ!」
魏越は足下に刺さった剣を手に取ると無造作に投げつけた。一拍置いて校尉の半身が宙を舞う。それを見て曹軍は尚更怖じ気づく。
「何をしている?」
曹軍が二つに裂けた。中央に出来た道を一騎の将が駒を進める。左目に当てがわれた布は血が滲んでいた。先の濮陽で目を射られた夏侯惇だ。
「曹孟徳に従う者に弱者は必要無い。たった一人の男に恐れを抱くとは笑止千万、自害しろ」
淡々と告げながら夏侯惇は矛を構えた。
「片目で俺とやろうってか」
夏侯惇は鼻で笑った。
「片目を無くして漸く同じ力量だ」
「飛将の麾下を舐めんなよ」
魏越は駒を寄せると夏侯惇目掛けて戟を振り下ろした。一撃一撃に激情を乗せて。夏侯惇は隻眼とは思えない対応を見せた。
――確かにかなりの使い手と見た。
反応も一撃の重みも違う。あわよくば、と首を掻き斬ろうとする。夏侯惇に励まされた様に曹軍の兵達も魏越の隙を狙い突いてくる。
脇腹を一筋刺し傷を許したが、魏越は夏侯惇と撃ち合いながら周囲の兵の首も飛ばす。
――強い。……だが、これならどうだ!
魏越は夏侯惇の左側から集中的に斬撃を繰り返す。虚と実を組み合わせながら攻撃すると、左側の視力がないせいか反応が若干鈍る。
遂に夏侯惇の矛を弾き上げたその隙を捉えた。魏越の戟が腹部を抉る。しかし、浅い。
「ぐ……」
「覚悟!」
とどめを刺そうと戟を振り上げると左右から別の将が飛び出した。双鉄戟の切っ先が胴を掠る。魏越は飛び退いた。
「夏侯将軍、助太刀致す」
「惇、無理は禁物だぞ」
典韋と夏侯淵だ。相変わらず典韋は怪物の様な形相で怪物の様な戟を両手にぶら下げている。
「一角の将に御大層な事だ」
「軽口叩けるのも今のうちだぞ」
典韋と夏侯淵は同時に打ち掛かってきた。典韋の常人離れの膂力が襲い掛かる。
必死に受け止める魏越だったが次元が違う。騎馬ごと吹き飛んだ。地に投げ出される。夏侯淵の剣が魏越に向けられる。
「終わりだ、若いの」
――我ながら呆気ない最期だな。
魏越は静かに瞼を下ろした。
「越ー!!」
成廉と張遼の声が聞こえる。喧しい蹄の音は雷音だ。魏越は目を開けた。
「来るな!」
来たら二人も死んでしまう。そうは言っても心の隅に嬉しさが込み上げる。
典韋と夏侯淵は新手に向かう。夏侯惇が成廉を見つけて殺気立った。
慌てて魏越も騎馬に跨る。
「越! お前は充分頑張った。奉先様はもう無事に退却した、俺達と還ろう」
「越! 早く!」
成廉と張遼は二人掛かりで典韋の猛攻を止める。そうこうする内に躰を張って夏侯淵を留める騎兵はどんどん減っていく。
二人に駆け寄る魏越は擦れ違い様に典韋の騎馬の脚を薙払った。典韋が転げ落ちる。その隙に三人は曹軍に背を向け逃げ出した。夏侯淵は騎兵に阻まれ追う事が出来ない。
夏侯惇は――、三人目掛けて追いすがる。復讐心に燃えるその目が捉えているのは成廉ただ一人。
「片目の借り今返してやる! 死ねぃ!!」
夏侯惇は矛を投擲した。唸りを上げて成廉に迫る。
――まずい、……。
考えるより先に躰が動いた。魏越は騎馬ごと雷音にぶつける。
「!? 越っ!!?」
光の筋が魏越に吸い込まれた。
空模様が怪しい。今にも雨が降りそうな天気だ。
南城から脱出して一晩。朝陽が雲で見えない中、呂布は泗水の畔に佇んでいた。
周りに居るのは僅か千騎余りの兵のみ。黒ずくめの蝗紅隊もちらほら見える程度。辺りは疲れ切った脱力感に覆われていた。
文優、陳宮、高順は直ぐ追い付いてきた。しかし、成廉、魏越、張遼の姿は無い。続々と到着する兵達の中には呂布の元に辿り着いた途端、力尽きる者が少なくなかった。
それが呂布を不安にさせた。
――この胸に居座る異物感は何なのだ? 毒の所為か?
それともこれが不安と言うものか……、この俺が不安だと?
初めての感情だった 。
今まで自信に溢れていた訳では無い。ただ、不安を覚えなければいけない程、物事に重大性を感じた事が無かったのだ。
呂布は西の地平線に目を細めた。白鈴が気遣う様に呂布を見上げた。
「あっ!」
白鈴が西の一点を指差す。呂布にも見えていた。小さな砂塵が一筋。次第に大きくなり三つの点が確認出来る。呂布はほっと一息吐いた。
三人とも血塗れだ。真白の戦袍だった事が全く分からない程に染まっている。
ここで呂布は奇妙な事に気付いた。何か違和感が有るのだ。三人の顔が見てとれる程になって呂布の全身に衝撃が走る。躰が震えた。それは毒に因る痙攣では無い。
成廉は嗚咽を洩らしながら泣きじゃくっている。張遼は涙で頬を濡らしていた。
そして魏越の背には在ってはならない物が屹立していた。その顔に生気は無い。
「なん……どうし……て」
呂布は赤兎を寄せた。上手く手綱を捌けない。
「越!! しっかりしろ!」
「越、着いたよ、ほら! 奉先さんだよ」
魏越は騎馬から降ろされると横に寝かせられた。
「魏越!」
魏越の四肢は全く力強さが無かった。
魏越が弱々しく呂布を見上げる。口が微かに動いた。
「何? もう一度言え」
呂布は跪くと魏越の顔に近付いた。
「至らぬ、……部下で申し……訳……ありません」
「馬鹿野郎」
掠れた声にヒューヒュー風音が重なる。矛は完全に魏越の肺を貫通していた。
「主に……毒を献……上するよ……うな部下……死んで当然……です」
「馬鹿野郎」
「ずっと……奉先様を追い……かけて、遂に追いつけ……ませんで……した」
「バカ野郎!」
騒ぎを聞いて兵達が集まる。皆決まって様子を覗いた後に誰もが魏越が絶望的な状態である事に首をうなだれた。
暫し沈黙が流れる。成廉の嗚咽と張遼の鼻を啜る音と魏越の気管の風音だけが響く。
「しょ、将軍! あれを!」
兵の一人が声を上げた。空気が濁って定かでは無いが、明らかに軍勢の砂塵が見える。曹軍の追っ手だ。この速さでは残軍の回収もままならない。
「呂布様、お早めに……」
躊躇いがちに文優はそう言い残すと泗水を渡る手筈を整えに行ってしまった。
「奉……先様」
「何だ?」
「最後に俺の……願いを……聞き届け……」
魏越の口から赤黒い液体が湧き上がる。
「いいだろう、何だ?」
「剣を……奉先様……の剣を頂……きたい」
「分かった」
呂布は腰に佩いた一振りの剣を取ろうとした。しかし、毒で手が痙攣して紐の結び目を解く事が出来ない。
傍に立っていた白鈴が代わりに解き、魏越に手渡す。すると魏越の手が白鈴の頭に伸びた。
「廉を……頼んだ……ぜ」
「っ――、」
魏越の口周りを拭いて、目に涙を溜めていた白鈴は遂に堪えきれなくなり、同じく泣きじゃくる成廉に飛び付いた。
魏越は剣を愛おしそうに抱えると、死ぬとは思えない安らかな表情となった。まるでその剣が己への『赦し』の証の様に。
「俺は……無理です……行っ……て下さい」
目を閉じたまま魏越は囁く様に言った。呂布が立ち上がる。何時の間にか雨が降り出していた。
「皆、行くぞ」
「嫌だっ!」
成廉は魏越に縋って動こうとしなかった。
「前……に進め、廉」
魏越が呟く。
「嫌だ! 嫌だ、いやだぁ。越、一緒に行こう」
魏越は返事をしなかった。張遼が思わず顔を背ける。
呂布は成廉の肩に震える手を置いた。
「武人らしく、『武』の終焉を受け入れてやるんだ」
呂布の頬を雨が伝った。