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濮陽決戦



「曹操率いる本隊はケン城に入城し、東阿、范に兵力を分配。輸送路を強化した後、六万の軍勢で此処、濮陽に進軍中。

曹仁率いる別働隊は迎撃する土豪を次々と下し、エン州東部の我が軍による影響力が弱まっています」


 濮陽の政庁で軍議が行われた。

 現在、濮陽の兵力は一万五千。次に多くの兵力を擁するのは陳留の一万である。残りは各城に点在していて、総兵力は四万を超えた。

 当初、脱走兵が相次いで兵力を減らすだろうと予測された曹軍だったが、八万を切った辺りから脱走兵がパタリと途絶えた。流石に曹操がエン州に帰還した事は大いに影響している様だ。

「曹操は兵站をかなり気にしている様ですね」

 文優が分析して言った。

「そうなのか?」

 文優は呂布の問いに頷く。

「はい、曹操が青州から黄巾賊を移民させてからエン州は戸籍が著しく増加しました。一時的には兵糧の収入は増えたでしょうが、地力に限界があります」

 エン州は飢饉に見舞われていた。急激に増えた人口に対して人民の耕作が追いつかず、先年の徐州侵攻で食糧は徴発されて邑々の蔵に蓄えは無い。濮陽もまた然り。

 厳しい状況だった。文官達は何処から徴収すべきか多忙な事だろう。

「文優、お前はこうなる事は分かっていたのだろう。どうしてここで旗揚げさせたんだ」

 飢饉になると分かっていて兵を挙げる者など普通はいない。

「曹操が恐らく一番天下に近い男だからです」

 呂布は片眉を上げた。

「確かに叩いておいた方がいい相手だ。だが……袁紹ではなく、曹操か」

「曹操は努力の英雄です。学問を疎かにせず、常に陣頭に立って鼓舞します。

己に無い才を敬い、重用するので曹軍の陣営は人材で潤い、勢力全体が一人の万能者として機能しているといえるでしょう」

「一人の万能者?」

「はい、分業し専門性を濃くする事で個の才が最大限に発揮されるので、全てに於いて万能を可能にしています。

確か曹操は背丈が意外に低いとか?」

「ああ、俺の胸程しか無かった」

「恐らく己が小さい事を無意識に劣等感として抱く事で、己の分身とも言える勢力に『完璧』と『万能』を過剰に求めているのでしょう」

 呂布は感心した。実際に会った事の無い男を間者からの情報だけでこうも冷静に分析出来るだろうか。

「そこで――、」

 文優は卓上の駒を動かした。

 卓上にはエン州北部が描かれた地図が広げられている。地形も詳しく精密な物だ。その上には千単位の木製駒が両軍の分が報告通りに布陣されている。


「呂布様には一万で出撃し、曹軍に負けていただきます」


 黙って聴いていた魏越、張遼が荒々しく立ち上がった。

「奉先様に負けろだと!!?」

「はい」

「ふざけるな。作戦に於ける囮なら俺達だけで行えばいいだろう」

「駄目です」

 文優は顔色一つ変えずに答えた。

「張遼も魏越も腰を掛けろ、文優が説明する。……で?」

 呂布は説明を促した。

「本来の曹軍ならば例え策の為でも一度の敗退が命取りでしょう。恐れながら我が軍と曹軍が同じ兵力、充分な兵糧で戦すれば惨敗します」

「うむ」

「しかし、今現在は状況が違います。信頼していた盟友の裏切り行為、叛旗の予想以上の広がり、そして飢饉による兵糧不足。全てが曹操を焦らせています」

 室内は息をするのもはばかれる程静まっていた。

「そして曹操は我々を力しか能が無いと考えています。今回のエン州強奪も裏切りと運が重なっただけと考えているはずですし、絶対に謀略を練って戦に挑むでしょう。下手すれば此方が壊滅します。

そこで曹操が計略を実行する前に負けます。一度ではありません、濮陽城に達するまで負け続けていただき、軍勢を城内に引き上げてください。拮抗状態を保ちます」

「それでその後は」

「後は私にお任せください。呂布様は曹軍を追撃するだけです」

「は……?」

「曹操が濮陽に達した頃には計略の心配などしていないです。土豪に城門を開け放つと曹操に密書を送らせればすぐに飛び付くでしょう。城内に兵を伏せて、必殺の罠で曹操を待ち構えます」

「なるほど、城内に誘い込んで待ち伏せか」

 呂布は合点したが魏越はまだ不満顔だ。

「やっぱり、奉先様自ら出撃する必要性が解らん」

「今回の作戦はあくまでも曹操の抹殺です。この機に討たなくては後々に禍根を残しましょう」

「それは解った」

 魏越は苛ついて声を荒げた。魏越は呂布の戦績に傷がつくのがどうしても嫌だった。

「問題は、どうして奉先様なんだ」

「これは感情論になってしまうのですが……」

「?」

「知恵者と言うものは己より格下と見なす者に出し抜かれた時に一番怒りを感じるのです。曹操で言えば呂布様がエン州を奪った事がそれです。

だから、曹操は絶対に呂布様を殺そうと躍起になるでしょう。盲目的になって呂布様しか見えなくなるのです。別の将にこの囮を努めてもらっても、曹操は自ら出て来たりしないのです。

つまり、この作戦は呂布様無しでは成立しえないのです」

 漸く納得したのか魏越は渋々、分かった、と小さく答えた。

「暗に俺を馬鹿にしていた気がしたが……まあ、良いだろう。作戦自体は気に入った」

 呂布は口角を少し上げると愉快そうに言った。

「『英雄』曹操を狩ってやろうではないか。

成廉、魏越、張遼は俺と一緒に来い。囮以外の編成は文優に一任する。

皆、文優の指示に従うように。以上、解散!」


 諸将が慌ただしく動き始めた。




「何で駄目なのっ?」

 成廉が白鈴に留守番を任せると、伝えると駄々こねが始まった。

「何で今更留守番なのよ」

「当たり前でしょ、もう自分達の城が手に入ったんだから」

 今回はさすがの成廉も厳しく言いつけた。

「む〜!」

 濮陽城という帰るべき処を獲たからには、今まで通り白鈴を戦場に連れ回す訳にはいかない。しかし、白鈴はそれが不満そうだ。

 一方、戦の度に毎回ひやひやさせられた成廉は安心だった。白鈴が傷付く可能性もあり、迂闊に戦闘に参加出来ない。

 蝗紅隊の兵達の好意で周りを固められると出来る事は騎射しか無かった。何となく兵達には申し訳無く感じていたし、一人だけ思う存分暴れ回れないのは少しだけ面白く無かった。


「一応、文優殿達がいるから安心だけど、留守番しっかり頼むよ」

 成廉の念押しに返事は無かった。代わりに白鈴が飛びついてきた。腰に回される手が痛い位締め付ける。急な甘えに一瞬何も出来ない。

 ただ、締め付ける手から自分を心配してくれる暖かみが伝わった。


「絶対に……還ってきて。……絶対」

 成廉は腕で白鈴を包み込む様に抱き締めて応えた。

 真新しい戟矛が青空に向けて群れ立つ。戟矛の林は風を受けても整然としていた。それを手にする屈強の騎馬軍が濮陽城の南門に集結する。

「出撃準備、整いました」

 純白の戦袍に身を包んだ成廉が報告した。頷く呂布も傍らに控える魏越、張遼も同じく白の戦袍に身を包む。漆黒の蝗紅隊の中なだけに際立っていた。

 一万頭に及ぶ馬も鎧に固められ、銅製の祭器さながらである。重装騎兵は騎兵の長所であるその速さを打ち消してしまう。代わりに防御力は大きく補強される。

 今回の作戦では始めから敗退が決まっている。そうなると如何にして被害を最小限出来るか、が重要だ。単純な兵力差なら呂軍は曹軍に劣る。

 今は一兵でも生き残らせたい。呂布はその為に重装備を選んだのだ。


「開門!」


 呂布の号令と共に十人掛かりで門が放たれる。白の四騎が飛び出すと漆黒の蝗紅隊、重騎兵隊が怒涛の如く地鳴りを響かせて続く。

 駆ける事一舎、遠目に土煙が立ち昇る。濮陽郊外にて呂布は曹軍と対峙した。曹軍の六万の軍勢、その先鋒が掲げる旗には『曹』の文字。

 曹操自らが率いてきた軍勢は数に対して覇気に乏しかった。雑兵の中には甲冑が欠けている者もいる。無理も無い。曹軍は徐州侵攻から引き返し、補給さえままならずにまた戦を強いられているのだ。

 しかし、それは言い替えれば呂軍の有利だ。しかし、好機だからと言って撃滅する訳にはいかない。本気を出したい気持ちをぐっと堪えて曹操を濮陽城まで誘い込まなくてはならないのだ。


「皆の者、ほどほどにして怪我しないように」

 全軍で突撃を開始する。呂布が最前衛の曹兵を方天牙戟で掬い上げる。三人が同時に宙を舞った。

 成廉も手に馴染んだ戈で騎兵を引っ掛け落とす。魏越も張遼も無闇に敵を殺さない。蝗紅隊も然り。身の安全を保ちつつ器用に手綱を捌いた。雑兵が矛を繰り出すが難無くいなしてしまう。


 風評に名高い呂軍が意外にも圧してこない事に曹軍の兵達は拍子抜けた。本拠地を奪われ気概を奮い立たせるべき曹軍は大半が尻込みしていたのだ。

 『呂布』『飛将軍』『最強の騎馬隊』、呂布に関する風評はそれだけで士気に影響を及ぼす程なのだ。


 押すにも退くにも出来無い戦が続く。激突して二時が経とうとしても両軍の被害は微々たるものだ。戦況は拮抗していた。

「奉先様!」

 張遼が呂布に駆け寄る。

「この戦況、不味いですよ。一体何時退けばよいのでしょうか?」

 呂布は一騎で一隊を相手にしながら答えた。

「知らん」

「……ですよね」

 曹軍は予想以上に弱腰だ。

 本来、兵力は六万と一万という圧倒的に不利なはずであり、戦況が拮抗するのは此方の作戦上あってはならない。


 ――まさか文優曰わくの『曹操の計略』に嵌っているのか?


 呂布に一抹の不安が過ぎる。

 今までの戦とは違う。呂布一人の武勇では補い切れない勢力差が呂軍と曹軍の間にある。

 文優の言う通り、曹操の裏をかく戦略で破らなくては敗北してしまうのである。曹操の考えている戦略より先に、曹操を此方の流れに乗せなくてはならない。

 しかし、今は退けない。

 少数の敵軍と拮抗していて、相手を侮る者などいようか。今退いては絶対に曹操は警戒する。もしかしたら追撃すらしないかもしれない。

 だからと言ってこのままでは数で劣る呂軍が全滅してしまう。この戦況では機を掴めない。

 普段の戦で流す物とは異なった、粘つく厭な汗が噴き出している。呂布は少々焦りを感じていた。


 そんなだらだらとした戦闘が続く中、動かない戦況に曹操もしびれを切らしたのかある将が呂布の前に立ち塞がった。


「我が名は典韋! 名高き飛将軍と一騎打ちを所望する」


 典韋は九尺はあろうかという偉丈夫で、乗馬が小さく見える。両の腕に収まるのは双鉄戟と大刀。明らかに豪傑の格だ。

「奉先様、俺にお任せを。典韋とやらこの魏越が相手だ!」

 強者との手合わせを好む魏越が前へ出ようとする。しかし、呂布は止めた。


「俺が相手をする」

 呂布は魏越に目配せした。途端に何か悟った魏越は悔しそうに下がる。

 拮抗を破る者が飛び込んで来た。


 典韋――。

 元は張藐に仕える者である。豪傑と名高く、その膂力は牙門旗を片手で支えられる程。陳留を訪れた夏侯惇に目をかけられ推挙された。

 以来、曹操からもその武勇を認められ、親衛隊隊長と校尉を兼任する。

 太目の眉、見開かれた真円の眼。真一文字に結ばれた口を開けば鋭利な歯が垣間見れる。

 容貌は極めて奇怪で伝説の饕餮を彷彿させた。

 獰猛な見た目にそぐわず平生の典韋は慎ましく、曹操に絶対の忠誠心を持っていた。仕えて僅か数年足らずだが、典韋は曹操の股肱の臣として武勇と忠義心をエン州に響かせていたのだ。

 勿論、呂布も典韋の武名を耳にした事はある。しかし、人並みはずれた豪傑、という事しかしか知らない。どの程度の武勇なのか、呂布は試す様に攻める事にした。

 互いに馬を寄せ合うと、呂布が先に手を出す。唸りを上げる方天牙戟が目に留まらぬ速さで襲い掛かる。

 あくまでも小手調べ。それでも常人にとっては脅威である。呂布は典韋を侮っていた。

 だが、典韋は呂布の予想を遥かに超えていた。典韋は斬撃全てを受けたかと思えば、反撃の一撃が呂布を襲った。呂布は落ち着いて受ける。

 しかし、その怪力に呂布は目を見開いた。その衝撃は赤兎ごとよろめかせたのだ。典韋はその両腕以外、微動だにしていない。


 ――これは全力でいかねば、対等に渡り合う事も出来ん……!


 方天牙戟を握る手に力が入る。風を切って突きを繰り出す。典韋が寸でで避けた所を横に薙ぐが受けられる。返し技が迫るとそれに応じて技を返す。両者共にその繰り返しである。

 典韋は力も俊敏さも備えていた。

 暫く拮抗した一騎打ちが続き、僅かながら典韋の息が乱れてきた。対して呂布はまだまだ余裕を見せた。体力に於いては呂布が一枚上手だ。

 荒い典韋の息遣いで呂布は今回の作戦をふと思い出した。呂布は己に匹敵し得る武を目の前にして、知らず知らず興奮していた。

 しかし、あくまでも勝ってはならないのである。


 ――そろそろ潮時だろう。


 呂布はわざと隙を作った。すかさず典韋がそこを突く。

「ぐっ!」

 巧みに躰を操り掠り傷を作る。

「これはいかん。今日は出直しだ」

 典韋は一瞬呆けた後、すぐに追いすがろうとする。

 しかし、呂布の騎馬は赤兎。追い付けるはずがなかった。成廉ら呂軍の騎馬軍も主を追って敗走する。

「ちっ! 天下に名高い飛将軍! その名が泣いておるぞ!!」


 肩で息をする典韋は目一杯叫んだ。




――曹軍先鋒大将本営。


「典韋殿と呂布が前衛にて一騎打ち。典韋殿は此度で四度目になる勝利を上げました。

我が軍は散々に呂軍を蹴散らし、呂布は濮陽城まで退却した模様です」

 伝令が高らかに報告する。

 曹軍と呂軍は激突する事、五回に及んだ。その度に呂布は敗走した。しかし、被害は殆ど出ていない。それでも曹操はそれを怪しく思う程冷静では無かった。


「よし! ここも濮陽城前八里まで進めるぞ」

「殿!」

 帰還していた典韋が前に進み出た。

「殿、呂布の撤退の速さは尋常ではありません。郭嘉が到着するまで動かないべきでは?」


 郭嘉は新入りの参謀である。齢二十四の若輩だがその知謀は海淵の如く深く、曹操はその言に感心させられる事も度々あった。此度の戦では曹操の参軍として参加している。

 しかし、突出した先鋒と本軍は分離してしまい、郭嘉が濮陽城に到達するまで二日は掛かるだろう。

 濮陽城の兵力は呂布の一万余のみ。対して曹軍先鋒は二万を超える。曹操が檻に籠もった呂布を前に二日間も待機する事を出来るはずもなかった。

「その必要は無い」

 曹操は余裕の笑みを浮かべた。

「何か策がおありですか?」

 籠もる敵を撃ち破るには倍以上の兵力が必要である。

 しかし、曹操には自ら指導した間諜部隊がいた。潜入、情報収集、変装、暗殺など普通の者では困難な任務を得手とする。

 既に間者は濮陽城内に潜入している。

 そして掴んで来た情報は兵の配置と城内の土豪・田氏からの密書だった。

「守備配置を統括する陳宮は南門ばかりを固めて、東門は手薄らしい。田氏は合図と同時に東門を開けると言って来ておる」

「では東門から攻めますか」

 曹操は首を振りながらくぐもった声で笑った。下卑た、傲りを含んだ笑いだった。

「濮陽城に詳しいのは嘗て領有したこの曹操だ。東門は城壁が半壊している。財源不足で修復が充分では無かったのだ。そんなボロボロの東門を手薄にするはずは無い」

「つまり……」

「罠だ」

 曹操は看破した。

「そこで典韋、お主は明日、誘い通りに東門を攻めよ。私の替え玉を用意させる。お主は罠に掛かった振りをして素速く反転、脱出しろ。

呂布は必ず追撃する。その隙に空の城を私が占拠する」

「おお! これならば例え呂布が相手でも殿の圧勝でしょう」

 典韋の賞賛を曹操は一身に受けた。

「この曹操が相手になれば呂布など小者よ」

 曹操は典韋に出撃の準備をするよう命じて下がらせた。


 誰も居なくなった帷幕で曹操は一人ほくそ笑んでいた。

 勝利は確実だ。呂布は蛮勇だけの男なのだ。例え呂軍に陳宮が居ようとも遥かに曹操の知謀が上を行く。その証拠に陳宮の罠は一重の罠である。真の奸計とは二重三重と罠を重ねるものだ。

 陳宮は基本に忠実過ぎる男だった。陳宮の立てる計略では曹操を倒せない。

 曹操の思考は傲りに支配されていた。小癪な呂布がエン州を奪った事は全くの予想外だった。しかし、それは天運に恵まれた偶然だ。そして天運は永くは続かない。

 曹操は自分が負ける事など考えられ無かった。

 ただ一つ、曹操は報告内容の一部に気掛かりがあった。陳宮の傍らに常に控える知恵者がいると言う。

 その者は幾ら調べさせても身元不詳だった。果たして自我の強い陳宮が誰かの進言を聞くだろうか。


 ――呂布も愚か者よ、陳宮がどんな人間かも見抜けんか。


 曹操はその男、文優について思考する事を止めた。


 翌日、曹操は自ら南門を攻め立てた。確かに守りはそこそこ固かった。被害が大きくならない程度で曹操は軍を最寄りの山中まで下げた。


「典韋、用意は良いか」

「ははっ」

 辺りが暗闇に浸かる中、夜陰に乗じて偽曹操を大将に典韋が一軍を率いて東門へ向かう。歩騎合わせて一万。これなら万が一罠から抜け出せなくなっても典韋が討ち死にする事は無い。

 替え玉は間諜部隊の一人。その他にも三人程を典韋に貸し与えた。田氏に合図を報せる為だ。


 出撃から二時ばかりで典韋は東門前に到着した。曹操の言う通り城壁は崩れが目立つ。それなのに守備兵は全く見受けられ無い。武に生きる典韋でも罠だと判る。

 早速、城内と内通するとあっさり城門は放たれた。

「行くぞ! 突入!」

 典韋率いる一万が雪崩れ込んだ。


「掛かったな!!」


 爆竹を鳴らして左右から『呂』の旗が湧き上がる。先頭の張遼と高順は雄叫びを上げて斬り込んできた。

 典韋は数を把握しようと目を細める。肉眼で確認出来るのはざっと八千以上。この軍全てを引き付ければ城内に兵力は殆ど残らない。

 典韋は混乱を装って、軍勢を纏める事無く逃走した。同時に間諜部隊の一人を早馬として曹操の下へ駆けさせた。


「逃がすか曹操!」

 敗走を始める囮の軍を追って張遼、高順は東門から飛び出す。続く騎馬軍の速さは凄まじい。五里と行かない内に追い付かれる。それがかえって曹操を討たんとする呂軍を釘付けにする。

 張遼、高順の武勇は強烈だった。青州兵を赤子の様に扱う。

 しかし、呂布はまだ姿を見せない。あの漆黒の騎馬隊も見当たら無い。


 ――まさか……!!


「これはいかん! 罠だ! 付いて来い」

 親衛隊を連れて典韋は駆け出す。


 ――この罠は二重の罠だ!




 典韋の早馬が来たので曹操は意気揚々と東門に急行した。思わず馬を速めてしまう。まるで曹操の気持ちに染められる様に騎馬も脚を速める。東門が見えると曹操は剣を引き抜いた。


「さあ! 曹軍の真の強さというものを見せてやろうではないか」


 背後から怒涛の雄叫びが応える。曹操の一万が誰も居なくなった東門に殺到する。

 何の抵抗も受けずに門をくぐった曹操は勢い付いて、政庁まで一直線に突撃――、と言う時、一人の男が駆け寄ってくる。

「曹様、曹様! 留まり下さい!」

 曹操は軍を止めた。男は典韋に貸し与えていた間者だ。

「何だ? 何があった?」

 訳の分からない曹操は馬を寄せると問い詰める。

 しかし、間者が答える前に曹操は己の置かれた状況を悟った。


 辺りの家屋の上に弩兵。その矢先は全て曹操を射据えて微動だにしない。

 周囲には情報以上の歩兵。

 そして正面には蠢く漆黒。先頭の三騎はまるで発光している様な純白。

 どの軍勢も掲げる旗印は『呂』。


「ば……馬鹿な」


 獲物が罠に掛かった。


「曹操! 己の才を過信した結果がこれだ」

 屋上から見下ろす陳宮が合図する。上から矢の雨が降り注ぐ。千の弩から射撃される千の矢が曹軍の兵を次々に射殺していった。

 同じく蝗紅隊も正面から騎射を開始する。

「ぐぁっ!」

 曹操も肩に受けた。だが、踏みとどまる。曹操は肩を庇いながら矢継ぎ早に指示を始めた。重装歩兵が大楯を構えて方陣を作る。

「守れ、守れ! 脱出を図る」

 しかし、それを陳宮は赦さない。松明を振ると、家屋に潜んでいた歩兵が飛び出す。接近戦で出来た方陣の亀裂を陳宮は見逃さなかった。

「将軍! 今です!」

「よし、皆、俺に付いて来い」

 呂布は赤兎の腹を蹴ると一直線に飛び出した。成廉と魏越がすぐ後ろに続く。蝗紅隊も弓を長矛に持ち替え続く。

 目指すは曹操ただ一人。


 ――おお、天下が見える。曹操の賤しい体躯の向こうに天下が手招いておるぞ!


 雑魚は目もくれない。人馬の群れなど取るに足らない。

 ただ一閃すれば其処に道が出来る。首が、腕が、半身が、呂布の狩りを彩る。

 誰一人として呂布を傷付ける事も留める事も出来無い。

 修羅となった呂布はただ曹操に、天下に一直線。

「曹操!」

 方天牙戟を闇に染まる天に突き立てる。

「ここが、」

 曹操はもう目の前。引きつる貧相な顔が恐怖に歪む。方天牙戟を振り上げた。力み過ぎて躰が軋む。


「――貴様の死に場所と心得よ!!」


 幸か不幸か、天の悪戯か。曹操を粉砕するはずの渾身の一撃は偶然振り上げていた曹操の剣にいなされる。曹操を喰らうはずだった方天牙戟は虚しく騎馬を肉塊に化した。

 敵味方問わず一瞬時が止まる。

 曹操は己が生きているのか死んでいるのかも判らないのか、呆然として動かない。対する呂布も騎馬を貫通した方天牙戟が大地に食い込み動けない。

 今更気付いたかの様に、慌てて親衛隊が主を護ろうと駆け寄る。それを見て成廉と魏越も呂布を援護しようと動いた。

「奉先さ、」

「来るな!」

 呂布は援護を撥ね退けた。


 ――此処で、俺の武のみで曹操を討てないようなら……俺は天下を掴む機を見出せない。


 曹操を逃す事は天下を逃す事。そしてこの有利な状況下で誰の力も頼らずに曹操を仕留められなければ、今後二度と好機は訪れないだろう。

 呂布は方天牙戟を諦めて剣を抜いた。脇から突いて来た兵を三人纏めて叩き斬る。親衛隊が味方の血飛沫を浴びて怯むのを呂布は見逃さなかった。

「覚悟しろ」


 正に曹操の首目掛けて剣を閃かせんという時、曹軍の一角が開けた。

「殿ー!!」

 たった数十騎の救援。先頭は典韋。曹操と呂布以外何も見ていない。

「ちっ、こんな時に厄介な奴が」

 やむなく典韋の相手をする。しかし、手にするのは剣一振り。対する典韋は双腕に戟を構えた。

「殿! 早く空馬にお乗り下さい」

 油断を見せない典韋が促す。腰が抜けた様子の曹操はそろそろと立ち上がった。このままでは脱出されてしまう。

 呂布は陳宮に目配せした。こうなってしまえば最終手段しかない。陳宮が素早く頷き、視界から消える。


「逃がすと思うたか」

 呂布は一振りの剣のみで立ち塞がる典韋に攻撃した。典韋は踏み留まって斬撃を受け止める。尋常で無い膂力がぶつかり合う。

 曹操を逃がそうと曹軍の兵達も呂布を取り囲んで矛で突いてくる。

 呂布は全身を錐揉みさせて擦れ擦れで避けた。しかし、半身が数多の矛に取り囲まれ身動きとれない。

 その隙に曹操は典韋に支えられ馬の尻を打った。曹操が小さくなっていく。だが、呂布は慌てなかった。己を拘束する矛を纏めて弾き飛ばすと取り囲む兵を一掃した。

「奉先さん!」

 成廉と魏越は取り残された曹軍を一通り討ち散らしていた。

「曹操が……!」

「わかっておる」

「早く追いませんと!」

「陳宮が既に手をうっている。奴らは城から出られんだろう」


 呂布の視線の先には夜空を赤々と照らす東門があった。




 炎が城門を舐めていた。頬を焼くかと言う程の熱風が吹き付ける。

 曹操と典韋は馬上で呆然と東門を見上げていた。東門に至った時には城楼まで飛び火していた。先読みした陳宮が東門に火を放ったのだ。

「ぐっ……何処か抜けられる場所は」

 立ち尽くす二人の周囲を喊声が包み込む。三方から呂軍が迫るのが目視出来た。

 正に絶体絶命、此処は死地。曹操は唇を噛んだ。


 ――此処で曹孟徳の覇道は途絶えるのか。


 曹操は弱々しく傍らの典韋を見上げた。

 驚いた事にこの窮地に在って典韋は微笑んでいた。曹操の焦り、不安、絶望、全てを包む様に無言でただ、微笑んでいた。


 ――まだ死ねない。私には信頼出来る部下がいるじゃないか。


「典韋!」

「は」

「脱出する、追従せい!」

「承知!」

 曹操は全ての余念を捨て去り、勢い良く燃え盛る城門に飛び込む。

 二人は炎に消えていった。




「凄まじい男よ」

 溜め息を吐く様に呂布が呟いた。

 曹操が東門を脱出した。燃え盛る城門からである。誰しも曹操が逃れられるとは考え無かっただろう。呂布も然り。

 取り囲んだ報せを受け、東門に向かおうという時にこの報せ。ただただ悔しさよりも驚きだった。

「呂布様、驚いている場合では御座いません」

 何処からか文優湧いてきた。

「高順と張遼は曹軍の第一派を破って待機してましょう。呂布様は合流して曹操を追撃すべきです」

 尤もである。呂布は頷いた。

「文優、陳宮、此処は任せた」

 呂布は五人掛かりで地面より引き抜いた方天牙戟を受け取ると、南門から蝗紅隊を率いて出撃した。


 曹操と云う名の天下は遥か遠くへ駆けていった。

 だが――。

 呂布が跨るのは天下一の名馬・赤兎。そして最強最速の蝗紅隊。

 呂布は一万の騎馬軍に重装備を施しても、蝗紅隊は別だった。蝗紅隊は呂布の手足である。重装備はその速さと攻撃力を相殺してしまう。


 ――まだ諦めるのは早い。


 餓狼は追い掛ける。


 ――まだ追い付ける。


 呂布に同調して赤兎もぐんぐん脚を速める。その速さは蝗紅隊をも引き離す程。

 少し蝗紅隊が気になった呂布は振り返った。そして、その心配は愚考だったと気付く。

 戦場に身を置いてこそ蝗紅隊。呂布を追い掛けてこそ蝗紅隊。何より戦を愛してこそ蝗紅隊。

 成廉、魏越以下、千名の戦士は呂布に笑顔で応えた。


 暫く駆けると高順、張遼の騎馬軍と合流した。

「曹操はケン城に向かわず東の本軍に向かった模様です」

 張遼の放っていた斥候から報告が入る。すぐ様、呂布は騎馬軍一万に馬鎧を外して身軽になる様に指示した。東へ追跡を開始する。

 夜通し駆けて辺りもすっかり明るくなった頃、曹操に追い付いた。

 しかし、その行き先には高く砂塵が上がっていた。一足遅かったのだ。


 呂布はこのまま曹軍本軍に突撃を仕掛ける事にした。

「兵を分ける。高順、張遼はそれぞれ四千を与える。両翼から騎射しろ。残りは俺と共に中央を突破する」

「了解」

「お任せ下さい!」

 騎馬軍は止まる事無く三分した。

「さぁ曹操、これで全てが決まる」

 曹軍の大軍に消える曹操を呂布は静かに見据えた。




 曹操は本軍の中央に位置する本陣まで一度も振り返らず、止まる事無く逃げおおせた。

「おお、殿!!」

「郭嘉殿から聞いた時はまさかと思いましたが、ご無事で御座いましたか」

「手当てを。おい! 誰か手当ての用意をせい」

 帷幕に駆け込むと深刻な面持ちだった一同が声を上げた。


「戦だ!」


 幕内が静まる。曹操の言葉に一同は何を言っているのか分からない。

 曹操は呂布が此処に襲撃してきたという伝令より速く駆けてきたのだ。


「迎撃だ!! 呂布はすぐそこだぞ!?」


 平生が冷静な主の乱れ様に漸く本陣が慌ただしくなる。

 しかし、前衛ではこの時既に両軍激突していた。


「報告!」

 伝令が駆け込んできた。

「呂布襲来! 騎馬軍三手で先陣に突撃を仕掛けております。その勢いは鬼神の如き様、突破は時間の問題です」

 曹操は息を呑んだ。ジワリと背筋から昨夜の恐怖が忍び寄る。


 ――あの軍なら既に先陣は突破されている……!


「惇!」

 呼ばれて夏侯惇が進み出た。夏侯惇は全軍の校尉の統率を任せている。

「夏侯淵、曹仁、曹洪、楽進を本陣に集めろ」

「っ?! しかし」

 皆、此度の陣容に於ける主力とも言える面々だ。


「ここでお主と典韋を含め六名で呂布を食い止めろ」


 呂布らは高順、張遼の援護射撃で難無く中軍まで突破しようとしていた。曹操のいる本陣はもう目の前。大将旗が近付いた時、一軍が、いや幾隊かが行く手を阻んだ。

「?」

 中央にいるのは曹操だった。

「呂布よ、天下無双の武が本当かここで証明して見せよ!」

 途端に六人の将が呂布に襲い掛かる。

「小癪な奴よ」

 呂布は不敵に端正な顔を歪めると応戦した。

 同時に騎馬軍も止まる。敵中で騎兵が止まる事は自殺行為である。成廉は円陣をとらせる事で防御を高めた。

 何にせよ進むも退くも呂布に掛かっているのだ。

 呂布の闘いぶりは曹操の言う通り、天下無双だった。六方から同時に襲い掛かる戟矛を華麗に受け捌き、寧ろ六将を威圧する。

 典韋と互角に近い一騎打ちをした呂布だったが六人を相手に更に奮い立ち、武威盛んになる。まるでそれは薪をくべればくべる程燃え盛る炎の如し。

 遂に苛烈な猛攻に気を呑まれたのか、楽進と曹仁を方天牙戟の柄が捉える。呂布は落馬した二人にとどめを刺そうとするが典韋が阻止する。その怪力に呂布は一瞬手を止めたが、「諄い」の一言でその肩に一突き喰らわした。

 苦痛に典韋が歪む。その様子で明らかに残りの三人の手数が減る。

 曹操はただ、色白の顔を更に蒼くして動かなかった。


 ――こいつらを片付ければ後は曹操のみ。


 呂布の脳裏を天下が掠めた時。周囲がやけに静まった。円陣を組んだ呂軍も対する曹軍も手を止めた。そしてある方向を皆凝視している。

 両軍の兵、成廉、魏越、曹操、呂布を目の前にする夏侯淵さえも、皆北を見上げていた。

 思わず釣られて呂布も見上げる。呂布は目を見開いた。

 青々とした空を北から闇が近付いてくる。それは呂布が今まで見た事も無い程巨大で邪悪な程、黒い。

 側にいた兵から


「飛蝗」


の言葉が漏れた。


 ――天はここにきて俺の前を阻むのか!?


 見る見るうちに闇は接近し、曹呂共に呑み込んだ。

 辺りが騒然となる。

 両軍共に混沌たる様になった。周囲からは兵糧をしまえ、と悲鳴が聞こえる。戦闘どころでは無かった。


 呂布はどさくさに紛れて後退る曹操を見逃さなかった。此処で逃せば呂布に天下は有り得ない。

 だが、距離が有りすぎる。今日に限って弓を携帯してなかった。

「成廉! 手柄をくれてやる。曹操を射殺せ!」

「はっ、はいっ!」

 慌てて成廉は弓を引く。


 ――どうか、天よ……、


「当たれ!」

 矢が放たれた。

「孟徳!!」

 儚くも矢は標的に到達する前に夏侯惇の眼球を以て止められてしまった。

 そして曹操は自軍に紛れて、見えなくなってしまった。


 ――嗚呼、


 呂布は力無く方天牙戟を下ろした。


 呂布の天下は脆くも潰えた。

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