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蟄龍咆哮




 冀州、平原――。 黄河流域にあって肥沃ながらも、黄巾の乱以来、重税で生きる事に絶望した民衆が耕作を放棄して焦土と化していた。賊に身を落とす者や流民化で人口は激変した。

 しかし、ある男が為政者となってからまるで恵みの雨でも降ったかの様に土地は潤った。人々が少しずつ帰ってきた。民衆に笑顔が戻り、田畑の耕作が再開され、半分以下に下げられた賦粟はしっかりと蔵に納められた。

 民衆は男を慕い、巡察すれば子供達が集まり、邑の祭りには引っ張りだこだった。

 この仁政の男、宗主を公孫讚とする劉備玄徳その人である。


「退屈だ〜」

 劉備はブツブツ文句を言いながら竹簡を眺めていた。が、おもむろに竹簡の束を抱え上げると全て張飛の卓上に積んでしまった。

「後は宜しく」

 鼻歌しながら劉備が室から出ようとした。

「オイ!」

「ん」

「どこ行くつもりだ」

 張飛が低い声で問い詰める。

「ちょっと巡視に……」

「兄者の巡視は酒屋しか行かんのか」

 関羽の突っ込みに劉備の目が泳ぐ。

「げ……知ってたのかよ」

「関兄の地獄耳を舐めんなよ。大兄のお気に入りのおなごだって知ってんだぞ」

 張飛が恨めしそうに睨み付ける。

「大体、自分の仕事は自分でする決まりだっただろ」

「それはな、政が苦手な益徳君の為に沢山経験をさせようと思ったんだよ」

 そう言いながら劉備はジリジリと出口にうごく。

「不謹慎な事を口にしない方がいいぞ」

「いいんだよ、なんか民草も勝手に懐いちゃうし。一旦豊かになると暇になるんだよなあ。

戦でもないかな、戦」

「その手腕を生かして漢帝国を巡って天下に太平をもたらしてみたらどうだ」

「そうだな、そうするよ。そしたらまずは民心を掴まなきゃあな! じゃ!」

「あ」

 仕事の進まない関羽が少し目を離した隙に劉備はあっと言う間に消えてしまった。

 こうなっては翌朝まで帰ってこない。

「関兄、どうしようこれ」

 張飛が卓上の山を示した。関羽は特大の溜め息を吐いた。

「半分よこせ」


 劉備玄徳――という男は実に面白い、と関羽は思った。初めての対面は今でも印象的だ。

 あの時は黄巾の徒が乱を起こす直前だった。

 関羽も張飛も別の手下を引き連れ、偶然、安冀県の酒屋で鉢合わせとなった時、部下が酔ってくだらない諍いになった。

 険悪な雰囲気が二、三日続く中、関羽と張飛は話し合いで決着をつけようと会合を設けた。

 そんな所にいきなり割り込んで来たのが劉備だった。

 酒屋の一室に入って来た劉備は今の劉備と変わらず、煌びやかで飾りのついた簪に腰回りに璧をぶら下げ、二振りの剣を佩いていた。耳は大きく、腕は長い。異形と言えば異形だが不思議とそう感じさせない。悪戯を好みそうな童顔でありながら自信と正義感溢れる顔を垣間見せた。


 ――ただ者じゃない。


 関羽を始め同席した者全てがそう感じた。皆知らず知らず背筋を正していた。初めは大分派手だが、郡の官吏と思った。今までこういった騒ぎを聞きつけた物好きな官吏が冷やかしに来ることが度々あった。

 しかし、官兵は連れておらず、連れは女が一人。女は娼か遊女といった類だ。そして劉備は関羽と張飛の間に胡座で座り込むと膝に女を座らせて堂々と乳房を愛撫し始めたのだ。か細い声が女から漏れ出す。

 異様な状況に誰もが口を開けない。劉備はその状況を楽しんでいる様だった。

 関羽は先に口を開いた。

「貴公は何者だ、名を名乗れ」

「玄徳」

 劉備はそう短く答えた。そしてこう問いた。

「お前ら、帝に会いたくないか?」

 皆、『帝』という言葉に反応したのか耳を傾ける。帝に謁見するという事はそれだけで名誉あるものである。

 しかし、その後に続いた言葉に呆けてしまった。

「会いたければ俺様の下に来い」

 嘲笑が広がる。むしろその僭越な言葉に怒りを露わにする者もいた。

「貴公は俺達に部下になれ、と申すか」

「そうだ」

 劉備は対立する関羽と張飛の双方を丸め込もうと言い出したのだ。

「何を根拠にそう申す」

 今度は張飛が口を開いた。この時の張飛はまだ二十を数えもしないのにも関わらず、侠として完成された青年だった。

「俺様の姓は劉で中山靖王の系譜、つまりは皇族だ。俺様の下にいるだけで名誉を手に入れられるのだ、悪い話じゃあ無いだろう」

 これが本当ならば確かに魅力的な話である。侠とは己の信念に従い生きる者。

 関羽は漢帝国に忠誠心があると言えばあった。だが、劉備の言葉に確証は無い。

 しかし、徐々に劉備に惹かれていく己がいたのも事実だった。

 関羽と張飛はその余りにも自信満ちた言い様に感化されていた。偽称とも判らないのにである。

 しかし、鈍感な者もいる。いや、劉備の漂わせる雰囲気が高等過ぎると言うべきか。部下の一部、特に気の逸る者達が反発した。そもそも話し合いに納得いかず鬱憤も溜まっていたのだろう。

 剣を抜いたのを見て酒屋の者がやはり一騒動起こすのか、と逃げ出す。関羽と張飛はお手並み拝見と決め込んだ。

 主になりたいと言うならばそれなりの腕を見して貰いたい所だ。此処で死ぬ様な者だったら、劉備にただならぬものを感じた関羽と張飛が間違いとなる。

 しかし、劉備は動じた様子も無く、女を関羽に押し付けると立ち上がった。そして男七人を抜刀する事無く鞘で打ちのめしたのだ。

 早かった。力任せの攻撃を無理に受ける事無く流して、急所を一撃しただけで終わらせた。

 さすがに関羽は唸った。雰囲気に負ける事の無い、武勇もかなりの男だ。

 再び劉備は関羽、張飛、その部下達を前に演説した。

「こいつらは剣を向けたから仕方無く倒した。見たところお前らは皆腕っ節の強そうな男ばかりだ」

 そう言って劉備は関羽、張飛を交互に見下ろした。

「だが、腕っ節だけじゃあ天下は渡り歩けん。

では知識か? それもそれ一つでは有って無きに等しい。

英雄ならこの知勇を兼ね備え、更に加えなければならねぇものがある。それは狡猾さ、だ」

 皆息を呑む。

 侠たる者は己の法、価値観で行動する。一般的に卑怯卑劣な事は赦されない諸悪の一つだ。


「お前らの持った原石一つ一つ、武勇、叡智、政才、仁徳、統帥。全て俺様がどう天下に活用すべきか導いて満溢の光に変えて見せる。

どうだ、幾ら優秀な才を持とうと使いこなせなきゃあ空振りだ。俺様に全てを委ねようじゃないか」

 しばらく誰も口を開かない。関羽は部下達を振り返り見て驚いた。一人二人と静かに深々と頭を下げ始めたのだ。

 思わず向かい合っていた張飛と目が合う。驚きと確信の混ざり合った複雑な表情だ。恐らく自分も同じだろう、と関羽は思いながら劉備を見た。

 もう一度張飛を見た。張飛はただ瞼を閉じて関羽に同意する考えを明らかにした。

 そして関羽は両手をついて深々と頭を下げたのである。人に対してこんな事をするのは初めてだった。しかし、不思議と違和感は無い。劉備の命令だったら何でも実行出来る、そう感じた。

「我々、流浪の身ながら玄徳殿の為なら手足となって働き、喜んでこの身を捧げよう」


 それから関羽と張飛は劉備を主として定め、後の黄巾の乱より天下へと飛び出し今に至るのである。

 酒屋の件の後日。一度だけ劉備が屋敷に招待したのは挙兵する前夜だった。そこで漸く明かされた事は関羽と張飛を大いに驚かせた。

 劉備は劉姓ではあるが中山靖王の子孫といえる確たる証拠は無かったのだ。

 先祖代々土豪として支配していたが早くに父を失った事で家は没落し、劉備はたった一人で母を養わなければならない程だった。

 屋敷は辛うじて手放さずに済んだが土地のほとんどを失ってしまった。お陰で一度は支配者の嫡子という立場にありながら、一人生計を立てる為、草鞋や筵を売り歩く羽目になってしまったのだ。

 そんな辛酸を舐めた過去と生来の気質の為か表向き民衆には好感を持たれる方法を無意識に手に入れたのかも知れない。挙兵の際、劉備を見込んで大金を融資する商人が現れる程だった。それでいて遊興に目が無い点はある意味劉備の影の魅力とも言えた。

 普段の劉備はごく普通の好青年だ。それでいて口から出るのは利己的だったり卑劣だったりと、時に冷徹な言葉に関羽は薄ら寒いものを感じた事も良くあった。目の前の劉備が何か得体の知れない、油断なら無い化け物に感じられるのだ。

 しかし、遊興にふける劉備はのびのびとして自然体だ。関羽はそれを見て初めて安堵するのである。

 屋敷に訪れた時、関羽はどうして真実を打ち明けたのか劉備に尋ねた。

 すると劉備は何時に無く寂しそうに『お前ら二人を信頼してるからだ』と答えた。

 その時関羽は直感的に劉備は『人』に飢えている、と感じ取った。劉備は父がいない幼少時代を過ごし、本当に心細かったのだ。

 もしかしたら普段の自信満々な態度は自信の無さの表れなのかも知れない。途端に劉備が頼れる主に見え無くなった。


 関羽が兄弟として劉備を支えていこうと心に決めたのはそれからの事であった。


 ふと気がつくと全く仕事が進んでいない事に関羽は気付いた。

 また、劉備の事ばかり考えてしまった。劉備が本当は頼り無いと考えてから頭にあるのは何時も劉備の事ばかりだ。恋をしている訳でもあるまいし、と苦笑した。

 伝令が駆け込んで来たのはそんな時だった。

「報告! 曹操が徐州侵攻の軍を挙げました」

「なにぃ?」

 張飛が顔をしかめる。別に曹操を非難してでは無い。公孫讚を通してその報せが来るという事は出撃命令だという事は容易に想像出来る。

 戦があるという事は無茶をする劉備の尻拭いをしなければならない。張飛は劉備に振り回されるのにうんざりしていた。


「劉太守はすぐさま青州刺史田楷殿と徐州に応援されたし、との事です」

 そうなればすぐにでも劉備を呼び戻さなくてはならない。

「田豫」

「はい!」

 関羽が声を上げるとひょっこりと別室から青年が顔を出した。

「兄者を呼んでこい」

「はい!……今日は何処の店ですか?」

 終始劉備の事を考えている関羽には容易い質問だった。

「今日は気分的に北門近くの酒屋だ。子供が群がっているからすぐ判る」

 青年は元気良く飛び出していった。


「さて――、」

 関羽は張飛を見た。無言で頷き合う。

 すぐに二人は軍の召集に取り掛かった。




 鈍色の甲冑で大地が埋め尽くされる。

 半数近くの兵は他の兵と異なり、小柄で少々栄養不足に見える。しかし、その眼光は爛々と輝き、飢えた猛獣を連想させる。

 数多にはためく旗印は『曹』。済南より猛進した曹操率いる十万の軍勢である。既に侵攻された徐州の大部分は曹軍に蹂躙され、特に軍編成の半数を占める『青州兵』がもたらす戦果は曹操の予想を遥かに超えた。

 元々、太平道を篤信する黄巾賊から選抜された青州兵は一端降ると、曹操に忠実且つ獰猛だった。そこに曹操の父を討たれた、という陶謙への怒りの感情が乗ったのである。

 州城を包囲して漸く曹操が我に返った時には徐州は甚大な被害を露呈していた。彼らの進軍した後は命一つとして残らない。河川が進軍の妨げとなれば、虐殺した住民で流れを堰止めた。数万という命が此処に至るまで犠牲となったのである。

 この傷痕は今後百年は響くだろう。


 ――やりすぎたか……。


 そんな後悔が曹操の胸の隅に腫瘍の様に居座る。だが、本来の目標は目の前。己の犯した重罪を加味しても、ここで引き返す訳には行かない。

 陶謙は州城に籠もり、援軍の到着を待つと決め込んだらしい。約三万の徐州軍はなかなか動きが無かった。強いて言えば曹豹という部将が細々と城壁に近付く兵に抵抗している位だ。曹操は動きがあるまで包囲を徐々に絞めることにした。

 周辺の豪族達は脅えるように成り行きを見守っている。これは好都合でもあり、今の均衡が破られれば何時こちらに刃向かうか、という危うい状況でもある。

 しかし、豪族達が陶謙に協力したとしても、それでも彼我戦力はこちらが圧倒的に有利だ。

 寧ろ、何か動きがあってほしい、そう願った時現れたのは劉備の援軍だ。

 報告に因れば後続で更に田楷がいるらしい。

 こんな日が来るとは、と曹操は思った。劉備と敵対する日が来るとは。

 劉備は賢い男だ。いや、知識という点では勿論曹操が優る。劉備は兵書も史書も学問という物に精通しているとは言い難い。しかし、世渡りという点で曹操よりも優っているのではないか。

 先年、話をする機会があった。

 最初は凡庸な男と思った。興味の対象は寧ろ付き従っていた関羽、張飛の二人だった。

 しかし、互いに杯を傾け合う内に劉備は『凡庸』を演じている、曹操にはそう感じられたのだ。

 尤も未だそれが意図的に発揮されたようには見え無いが。恐らく周囲に雰囲気や時勢を察知して、無意識にそうなるのだろう。

 とにかく、劉備の印象は曹操と対等に話す時点で侮れず、認めざる負えないといったものだ。ただ、知ってか知らずしてか『天下』というもの中の己の存在意義を悟っていない。

 劉備の能力は野放しにしておくには危険でいて、それでいて手元に置きたい魅力溢れるものだ。劉備は曹操の陣営にいて然るべきなのだ。 そんな時、伝令が血相変えて帷幕内に駆け込んで来た。


「劉備率いる三千の軍が包囲網をすり抜けて入城しました」

 劉備の手腕が露わになる。大器の威は例え隠そうとしても滲み出る。ましてや己の能力に気付いていない劉備では尚更だ。

 報告から前衛の異様さが容易く想像出来た。

 劉備が入城したのは北門。周囲は夏侯淵率いる二万が固めていた。それを『すり抜け』て進軍したのだ。

 兵数三千。いかにも動き易そうな数ではある。しかし、夏侯淵もただ見ていただけではあるまい。夏侯淵は曹軍屈指の猛将である。勿論、通しまいと迎撃したはずだ。 しかし、劉備は入城した。

「私には到底出来ん行軍だ」

「は?」

 口から漏れた感嘆に隣りの夏侯惇が眉をひそめる。

「いや……。明日には敵軍は出撃するだろう。準備を怠るな、惇」


 翌日、予想通り州城の門が放たれた。

 しかし、駒を進めるのは『劉』の旗印の三千だけである。

「潰せ、劉備を捕らえて此処に連れてこい」

 曹操の命令が行き届くと前衛が動いた。劉備の軍も進軍を始める。

 その小勢に向けて前衛は突撃をかける。襲い掛かる青州兵と小勢がぶつかるか、というその刹那、小勢が先頭の三騎を中心に小さく纏まった。すぐに前衛に覆われ見えなくなる。しかし、兵の層の薄い点から湧き出る様に小勢は突破していた。

 無傷である。血飛沫すら付いてない。前衛の兵は何が起きたのか解らなかった。更に迫る軍勢に先頭の三騎は刃を向ける。手捌きは見事としか言い様が無い。返り血を浴びないように器用に首を刈っていく。

 その光景は本陣の曹操にもよく見えた。恐怖よりも驚嘆が、そして印象は荒々しさよりも優美さが先行する。曹操は多勢の自軍を正に『すり抜け』る劉軍にただただ見とれていた。とは言うものの、次第に接近する劉軍に相乗するように危機感が湧き上がる。


 ――十万の軍勢をもってして留むる事が出来無いのなら、如何にして対処すればいいのか!?


 数を物ともしない進軍。それは大将の首を直接穫る事だって可能だ。せめてもの救いは劉軍はこちらの軍勢を傷付けるつもりでは無いらしい。こちらが危害を加えない限り反撃は無い。余りに攻撃を掛け無さ過ぎだ。

 思い切って曹操は道を空ける事にした。彼らが目指すのは曹操の所以外何物でも無い。

 曹操は劉備の真意が知りたかった。降伏か、和睦か、はたまた予想を裏切る何かか、そして襲撃か。とにかく劉備と相対しなくてはどうにもならない。

 劉備とその軍が本陣前で止まった。

 幕を上げて曹操が帷幕から出ると劉備は剣の血糊を拭うと鞘に収めた。

「よぉ、曹操殿」

「久しいな劉備殿」

 劉備は以前会った時と全く変わらず派手な格好をし、左右に関羽と張飛を控えさせていた。少し気になったのは劉備が下馬して待っていた事だ。こんな事をするのは劉備の人物像に当てはまらない。

 日頃己の身長を気にしていた曹操は悪い気がしなかった。

 しかし、劉備の口から告げられる言葉で曹操の機嫌は最悪になった。

「曹操殿、エン州へ帰りな」

 急に何を言い出すかと思えば、帰れと言う。曹操は鼻で笑った。

「孝行の志を留めんとするか」

 此度の出兵は一応、父の敵討ちとなる。本心は徐州を望んでいるが、そうなっている。

「貴殿は己の立場を理解しているのかな」

「それはこっちの台詞だ」

 ニヤリと劉備が白い歯を見せる。左右の関羽と張飛が得物を構える。その様子を見てすぐさま曹操の前に親衛隊による人の壁が作られた。

「貴殿の用兵は褒めてやろう。だが、一度止まり、包囲された時点で此方が優位だ」

 嘘だ。曹操は悟っていた。劉備は強い。関羽と張飛はもっと強い。

 呂布に函谷関で追撃された際、圧倒的な武威を前に人の壁など無意味だと気付いた。恐らくこの三人を一度に相手に親衛隊は容易く破られる。

 しかし、そんな事実を表に出す訳にはいかない。態度まで弱気になればそれこそ敗北の一歩だ。

 劉備は周囲を包囲されても余裕の笑みを浮かべた。

「よく言うな。俺様の強さを直に見なきゃあ気付けない程曇った眼を持っている訳じゃあ無いだろう?」

「……」

 言い返せなかった。だが、もう退くには遅過ぎる。余りに犠牲を出し過ぎた。曹軍の進軍した後を見ればそれは明らかだった。だから此処で退く訳にはいかない。

 例え相手が劉備であっても。非道と言われようが、命が危険に晒されようとも退けないのである。

 曹操が腹をくくって殺すように合図しようと手を挙げた時、背後が騒がしい。何事だ、と言う前に伝令がやって来た。

 エン州からの急使だった。何だと想像がつかなかった。留守を守る荀或と程立は信頼出来て、命じなくても考察して最善を尽くす部下だ。よっぽどの事が無い限り、この様にいちいち使者を発たす者達ではない。

 曹操は劉備を含め全ての兵に待機するよう伝えて本陣の帷幕に戻った。


 使者は顔色が悪い。

「一体何事だ?」

「陳留にて呂布が叛旗を挙げました」

「何ぃ!!?」

 夏侯惇が声を荒げる。

「張藐と張超はどうした?」

 曹操はまだ冷静だった。だが、使者が続けた言葉に曹操は目眩がした。

「手引きしたのは張超です。更に前もって話が付けられていたのか呂布が兵を挙げると同時に各郡、県が蜂起しました。

現在、北部を除いてエン州の大半が呂布に付き従っていたおります。

我が軍が押さえているのはケン城、東阿、范の三城のみです。

主、荀或様は速やかな援軍をお待ちしております」

 たった三城。それ以外は皆、曹操に背いたと言う。曹操は絶望を感じていた。

 しかし、頭だけは正確に働く。いや、働かさなければならなかった。同じく絶望に蒼く染まる幕内に次々と指示を始めた。

「惇、軽騎三千を率いてすぐに発て。手薄な城を死守せよ、私もすぐに参る」

「承知」

 夏侯惇は勇んで幕内から消えた。

「劉備には和睦を受けるよう伝えろ。全軍に通達!エン州へ退却だ」

 そう言って曹操も幕内から消えた途端、弾かれた様に諸将は慌ただしくなる。

 曹操は漸く全軍が動き始めた頃には既に馬に跨り鞭打っていた。




 并州晋陽のとある酒屋――。男二人が酒を飲みあっていた。

「大将! 次持って来い!」

 卓上には既に四つの酒瓶が空かされている。

「お客さん方、飲み過ぎは躰に悪いよ。だいたい勘定出来んのかい?」

 酔った目で二人のうち下品な笑みを浮かべた方が懐から銭の束を見せた。身なりに不相応なこの大金は元々彼らが働き、手に入れた物では無い。これらは金造りの簪と璧を換金したものなのだ。

 ならば、なぜ彼らの様なごろつき同然の輩がそんな宝物を持っていたのか。

 彼らはある男の下で戦士として生きていた。しかし、ある事情によりその軍は解散してしまった。宝物はその時の退役土産だ。二年程前の事である。

 以来、郷里に帰ってから、今更耕す土地も無く、退屈な日々が待っていた。腕が鈍らないように狩りに向かうか酒屋で酒浸りになるしかする事が無かった。こうもなってしまうと辛かった日々の調練が無い事が物足りなさを痛感させる。

 今彼らに残っているのは『最強』の名を冠した男と共に闘った、という誇りだけだった。後は何も無い。今の彼らは生きていても死んでいた。

 男は必ずまた旗揚げすると言い残して行った。必ず――。その日をどれだけ思い描いただろう。しかし、街中で流れる男の噂は輝かしいものばかりで、以前の身分を伏せて生活する彼らを惨めにさせる。


 ――あの方はやはり我々が邪魔だっただけなのか……?


 そんな考えが頭を過ぎる。少ない兵で十分だというのは確かに納得だ。男は強い。まさに最強だ。匈奴の民からは古の李広になぞらえて『飛将』と仇名される程だ。

 それでも、今まで、正確に言えば『魔王』より男の下への配属を通達されて以来、苦楽を共にしてきた。それなのにこの扱いは不当ではないか。彼らは更に杯を重ねる。惨めになっていく。いや、貧民にでもなっていく気がした。心が貧しいのだ。

 男の下にいた頃と較べると潤いが無かった。


 ――このまま平民として埋もれていくのか。


 そんな考えが頭を掠めた時、慌ただしく酒屋に男が一人駆け込んできた。挨拶する店主には目もくれない。


「魏続! 宋憲! 此処にいたか」

 彼らの友人の侯成だ。同じく男に仕えていた。

「なんだ、騒がしい」

 非難がましい視線が侯成に集中する。

「最高の報せが入った」

「最高を軽々しく使うな」

「俺が最高と言う事はお主らにとっても最高のはずだが」

「……」

 酔った頭はなかなか冴えない。しかし、一拍置いて瞬時に思考が元に戻る。

「ま……まさか」

「そうだ! 遂に奉先様が陳留で旗揚げだ!」

 大人気も無く三人が飛び上がる。

「こうしちゃいられねぇ! すぐに行くぞ!」

「大将! 釣りはいらねぇ」

 バンッと銭束を置くと三人は嬉々と酒屋を飛び出す。

 店主はそれを唖然と見送った。




 甲冑に身を固めた呂布の騎馬軍一万余が陳留を出立した。

 騎兵と歩兵が混成するのが常識な当時、それは異様な進軍として人民の目に映った。ささやかな抵抗を示していた些少な県城もその姿を最後に旗を変える。

 エン州で曹操の力が及ぶのは東北部の僅か三城のみ。しかも腹心が固める本拠地である。残り、つまり曹軍部将は尽く呂軍に与したのだ。さぞかし曹操も無念に違いない。

「報告、援軍先発の夏侯惇が騎兵三千で濮陽に入城」

 濮陽近隣からの伝令だ。しかし誰もその報告に慌てない。

 成廉は笑みを浮かべて呂布を振り返った。

「文優殿の言った通りですね」

 呂布は赤兎に揺られながら無言で頷いた。

「言った通りって?」

 雷音に同乗する白鈴が聞いた。甲冑に身を包む少女は男だらけの軍中で浮いて見えるが蝗紅隊の者は皆慣れた。


「とにかく、僕達は戦をしないで濮陽に入城出来るってこと」

 意味が解らず小さく首を傾げる白鈴を見て呂布と成廉は悪戯っぽく笑った。




 濮陽城に入った夏侯惇だったが息吐く暇も無く急報が届いた。

「呂軍が動きました。陳宮率いる五千と呂布の騎馬軍一万余がケン城目指して進軍中」

 夏侯惇は顔を歪めた。予想以上に速い。そもそも兵がこうも容易く集まるだろうか。

「不味いな……」

 荀或は曹操が徐州より引き返すと聞くと各城の結束を固める為に程立を范と東阿に派遣していた。程立はそのまま故郷である東阿に籠城する事になっている。

 今のケン城の戦力では危険すぎる。その上ケン城は曹操の居城だった。曹操の妻子はケン城にいた。親族の間柄としても戦略的にもケン城を奪われる訳にはいかなかった。

「すぐ出立するぞ、全軍だ」

 副将の韓浩は驚いた。

「濮陽はどうするのです!?」

「棄てる」

「むざむざ敵軍に城をくれてやると申しますか」

「仕方無かろう。あそこは孟徳の妻子がおる。我が軍には荀或とケン城が必要なのだ。行くぞ!」


 夏侯惇は濮陽を放棄してケン城へ急行した。

 知り尽くしていたはずの東郡。夏侯惇は不意打ちの心配など全くしていなかった。 夏侯惇だけでは無い。韓浩以下、配下全軍が奇襲など有り得ないと考えていた。会敵するのはまだまだ先の事で、そんな心配よりも敵軍との戦力差をどう覆すか、そちらに気が向いていた。

 平地の中、森の近くを進軍していた。そんな時に伏兵が牙を剥いた。

「ッ! 何だ!?」

 最初、夏侯惇は森全体が動き出したのか、と錯覚した。しかし、よく見ると甲冑に枝葉を付けてまで擬態した一軍だと気付いた。

 駆けに駈けまくっていた夏侯惇の軍勢は縦に伸びきっていた。その横合いを突かれた事で軍勢は前後に分断されてしまった。伏勢が後方の兵に襲い掛かる。風上にいながら喊声が耳に響く。

「夏侯惇殿! 伏兵ですぞ!」

 夏侯惇は一瞬迷った。


 ――このまま捨て置きケン城に向かうか。それとも一刻を争うケン城を目前に迎撃するか


 夏侯惇は義よりも仁を取った。

 則ち伏勢の迎撃を選んだのだ。例え、ケン城が落城寸前でも、夏侯惇はすぐ目の前で苦しむ部下を見捨てる事など出来なかった。

「迎撃しろ! 俺に続け!」

 しかし、夏侯惇は馬首を巡らせた所で、ある致命的な事実に気付かなかった。

夏侯惇の後方から土煙が上がり、『高』の旗がはためいた。

「久方振りでしたかな、夏侯将軍」

「裏切り者が面を見せるな」

「その様子では将軍の部下を説得だなんて無理そうですね」


 夏侯惇が陳宮の前に引き立てられた。

不意を突かれた夏侯惇はあっさりと高順に捕縛されてしまった。今は十里程離れた所で副将の韓浩が残軍を纏めているだけだ。

 そしてその背後四十里にケン城。遮る者は微々たるものだ。


「こちらの予想通りに動いていただき有り難う御座います」

 陳宮の横に立つ文優の言葉に夏侯惇は反応しなかった。

「今頃呂布様の騎馬軍が濮陽に入城している事でしょう」

「ふんっ、敗軍の将に言う事はそれだけか?」

 おちょくり詰るつもりだった陳宮は夏侯惇の意外にも淡白な受け答えに片眉を上げた。

「ええ、本当は何も言う事など有りませんでしたが……」

「ならば、早々牢に戻してもらおうか。お主らの顔を見ていると虫酸が走る」

 陳宮の微笑みが一瞬堅くなった。




 呂布率いる軍勢が濮陽に入城した。

 迎える目は恐々としている。呂布はとりあえず次の令までは今まで通りの生活をしろと城内の人民に通達した。

 文優の描いた戦略通りに進めばこの後早々とケン城が陳宮、文優、高順の手で落城する事になっている。その後エン州に入った曹軍本隊と決戦である。

 彼我戦力は三万余と八万だ。しかし、これは土豪が供出する兵力を差し引いたものだ。エン州の主な土豪からの協力を得られれば一気に五万まで膨れ上がる。そして、既に発生しているのが曹軍の脱走兵である。徐州侵攻に参加したエン州の土豪が皆帰るべき処へ帰ったのだ。これからも脱走兵は増えるだろう。

 そして呂布自身の武。戦況は有利になりつつあるはずだった。


 未明、城壁上のざわめきで呂布は目が覚めた。

 呂布は何かあった時にすぐ出撃出来るように城門近くに己の館を構えていた。耳を澄ませば楼上の衛兵が城外の何者かと話している様である。暫く間があってから館に伝令が駆けつけた。


「どうやら陳宮殿達がケン城の包囲を解いて帰還して来たようです」

 床から出た頃には既に従者の長でもある成廉が取り継いでいた。腹に響く、岩を掻くような音がした。城門が開けられた様だ。

 呂布は彼らの急な帰還の真意が読めなかった。これも策だというのだろうか。気になった呂布は袍を着たまま陳宮と文優、高順を館に呼び寄せた。


「一体どうしたというのだ」

 入室するなり陳宮と文優は跪いて謝り続ける。高順だけが冷静だった。

「実はケン城の救援軍を撃滅して、夏侯惇を捕縛したのですが……」

「おお、戦場で顔を合わせた事がある。お手柄だったな」

「逃げられました」

「は?」

 高順が説明し始めた。 捕らえられた夏侯惇は仮設の牢に入れられ、ある将が一人監視役として付けられた。陳宮が曹操に仕えていた時からの付き合いのある者だった。数ある土豪のうちの一人だ。呂軍に与する土豪を疎かには出来ないがその将は余りに戦が弱い。監視役位は出来るだろうと陳宮は配属させた。

 しかし、将は夏侯惇の価値に目が眩んだ。

 夏侯惇を解放する事を条件に曹軍から金目の物を手に入れようとしたのだ。軍令違反を犯してまで、である。将は密かに夏侯惇を連れ、五百の配下と共に残軍を纏める韓浩の下に訪れた。だがその目論見は失敗した。韓浩は夏侯惇が敵の手に在る事を知りながら、問答無用で突撃を敢行したのである。将は四散して三百に足らない軍に惨敗したのだ。

 陳宮らが事実を把握した時には既に夏侯惇は曹軍に奪還され、ケン城は堅く城門を閉ざしてしまった。そこに曹軍本隊がエン州に入ったとの報せが届き、陳宮と文優は話し合った結果、呂布の本隊と一度合流する事にした。

 曹軍本隊の到着よりも先にケン城を落とせなくなった今、配置の再編が必要だった。


「――という訳です。力足らず申し訳ありません」

 高順は立ったまま頭を垂れた。

「陳宮も文優殿も責任を感じています。どうかお赦しください」

「ふむ」

 陳宮と文優の二人は無言だった。

 陳宮が任命した部下が軍令違反したなら勿論上官にも責任がある。文優は副官として就きながら部下の本質を見切れなかった事に責任を感じているのだろう。

 董卓といい王允といい文優は些か人を見る目が無いのだろうか、と呂布は疑問に感じたが、その結論に至ると己も彼らと同じ道を進む気がした。文優の人を見る目について考えるのは止める事にした。

「二人とも顔を上げろ」

「ははっ」

 顔を上げた二人がなんとも間抜けな顔で呂布は愉快だった。

「そう力むな。それより曹操がエン州入りしたとか」

 呂布にとってはたった今知ったその情報の方が重要だった。

「はい、編成は先年手に入れた青州兵を中心に五万余と二万余に分け、本隊は直接ケン城へ、別働隊は豫州との州境の郡県を占拠するのが目標の様です」

 文優がおずおずと説明し出した。

「相変わらず間者を回すのが早いな」

「既に曹軍に潜伏させております」

 何時の調子を少しだけ取り戻した文優が胸をやや張って答えた。

「大戦は目の前だ。陳宮、失敗は誰にでもある、気にするな」

 呂布はポンッと陳宮の肩を叩いた。

「皆、戦の準備を怠るなよ。成廉、朝餉だ」

「え……あ、はい」

 呂布が引き戸を開けると眩しい朝日が差し込む。既に朝食の時間を迎えていた。

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