陳に拠りて立つ
呂布、張[合β]ら討伐軍が大勝利を収め、各地の黒山賊は一斉に息を潜めた。
張[合β]は[業β]に帰還する事になった呂布を見送る為、ささやかな宴を催してくれた。
「将軍、またお会いする機会があるでしょうか?」
張[合β]が呂布の杯に酒を注ぎながら、ぽつりと呟いた。
「さてはて、天がまた巡り会わせてくれるかどうか」
その言葉で悟ったのか張[合β]は下を向いた。
「冀州を……出て行かれますか」
[業β]に滞在するならば黎陽の張[合β]に面会など造作も無い。
「まあ、そうなってしまうだろうな」
呂布は豪快に杯を空にした。
「……残念です」
そう言って張[合β]は呂布を見つめた。それは呂布の『武』に心酔し切ったものだ。
「某は将軍の御武運を祈り続けます」
「俺の事は早く忘れろ」
呂布の言い様は自嘲気味だった。
「どうしてそんな事を申します?」
呂布は卓の杯から視線を外さなかった。やはり自嘲を顔に貼り付けたまま、である。
「張[合β]殿が俺の『武』に何を感じているのか知らんが、俺を目標にするのは止めた方が良い」
「それはまた、……なぜですか」
「成廉や魏越を見てみろ」
呂布は離れた席で蝗紅隊と盛り上がる二人を目を細めて見た。
「俺に出会った事で天下に於いて『武』を俺の中にしか見い出せなくなっている」
「主を至高の武と仰ぎ、忠誠を誓うのは幸いな事ではないでしょうか」
張[合β]は眉を寄せた。
「それにそれは間違っていません。呂布殿こそ最強の『武』です。まさに天下全ての『武』を具現化したものこそ呂布殿でしょう」
「張[合β]殿は何が真の『武』と心得る。やはりあいつらと同じで俺か?」
「はい」
「そうか……」
そのまま呂布は押し黙ってしまった。宴もお開きとなった頃、不意に呂布が口を開いた。
「……真の『武』とはな、」
呂布の視線は自然と穏やかに成廉、魏越の二人に向けられた。
「己自身しかその答えを持っていない」
「?」
張[合β]は良く解らないという表情を向けた。
「今の天下ならば俺は最強だ。だが、俺自身未だに己を超えて、真の『武』を見つけておらん。
もし、天下に己の中に真の『武』を見つけ出した者が現れたならば、その時俺はその者に敗れてしまうだろう」
「その様な……ものなのですか、『武』とは」
張[合β]はまだ解らない、といった表情だ。
「そういうものなのだ」
呂布は最後の一杯を一気に煽った。
張[合β]との別れを惜しみつつ、一行は[業β]へと帰還した。
州城の城門をくぐるのはこれで二度目となる。彼らを見る人民の目は明らかに変わっていた。
初めては天下に名高き飛将とはどの様な者なのか、といった好奇の目だった。しかし今はどうだろうか。冀州に入ってからまだ三月も経っていないというのに、その目は地元の名士を迎える如く敬意に満ちたそれである。否、畏怖ともとれる。既に黒山賊討伐の戦果は知れ渡っているのだろう。
――あの呂将軍とは言え、一千に満たない一隊で万を越す黒山賊を相手にまさか勝つはずが無い。
誰しもそう思ったに違いない。しかし、呂布はそんな予想を裏切って大戦果と共に還ってきた。驚愕と畏怖でもって受け入れられるのも当然だ。
それは袁紹も然りであった。
無理難題として押し付けたはずの黒山賊討伐をこうも容易く大戦果を収めるとは予想だにしなかったのだ。しかし、そこは袁紹。その驚愕を上手く隠し通した。
「……以上、戦果は賊の首級五千余に上ります」
成廉が代弁して報告をすると、袁紹はそれで当然だ、という態度だった。相変わらず座してふんぞり返っている。そして幾らか蔑む様に口を開いた。
「我が赴けば賊も平たく服するものを……。呂将軍、賊を殺すだけ殺して服属出来なかったのか?」
「?」
何を言っているのだろうと成廉は首を傾げる。黒山賊の『討伐』が命令だったはずだ。
「そもそも服属が目的とは初耳だぞ」
呂布が声を荒げたが、責める調子では無い。この砕けた態度を改める気は無いらしい。
しかし袁紹は聞こえないのか一人で話を進める。
「此度の戦では無駄な血が流れた」
袁紹は嘆く表情を作るとわざとらしく溜め息を吐いて見せた。
「賊を平らげるのに殺すのは必要な者だけでよいでは無いか。いずれ我が民となるのだ。為政者の威光を示せば民はたちどころに平伏すのだ。
……と言っても戦に明け暮れる将軍には解らないかもしれぬが」
「王道か」
王道――。いわゆる徳治主義である。徳で以て人民を支配し、あくまで武力行使で治める覇道と相対する。袁紹の場合は名家の威光という点で若干の違いはあるものの、特に変わり無い。
「そうだ、我が求めるものは王道だ」
しかし、袁紹が言う様に王道を良しとするならば、先年の虎牢での強行進軍と矛盾してしまう。あれは明らかに覇者の決断だ。
呂布は袁紹という器を見切った。袁紹には王道と覇道が混在しているのだ。それでいて雑念が無いので、王道にしろ覇道にしろその決断に迷いが無い。
敢えて彼が決断に迷うとすれば、それは王道、覇道の利害が衝突した時だけなのだ。
呂布はこれだけで満足した。
元々、袁紹とはどの様な人物なのか知りたくて、天下の広さを体感したくて冀州に来た。
袁紹は天下を統べる器だろう。しかし、呂布の居場所はここでは無いのである。呂布は己自身を王者とも覇者とも思ってない。
呂布は武人なのである。古来から武人が政を行うのは道理に反するが、それでも武人として天下を統べる事が果たして出来るのか試したかったのだ。
それならばここに用はもう無い。呂布は既に冀州を出る方法を思いついていた。
「話が変わるが将軍、公孫讚との前線の緊張が高まりつつある。そこで南皮の方へ移ってもらおうか。先日の武をまた示せ」
袁紹の試す様な言葉。その内容はまさに呂布が待っていた言葉だった。
「断る」
呂布は顰めっ面を作って即答した。
――さあ、どうする? 袁紹。
袁紹は包荒的な笑みを浮かべながら
「では、ここから消え去れ」
と言いはなった。
「こことはどこだ? 冀州殿の前か。[業β]か。冀州か」
「天下だ」
袁紹の余りの無礼さに成廉と魏越が顔色を変える。死ねと言っている様なものだ。
「……と言いたい所だがここは我の広さを見せよう。冀州から出て行け。戦をせぬ武人など必要無い」
「承知した、今日中に支度して出奔しよう」
成廉と魏越は突然の決定に驚き、呂布を見た。
「そんな……。これからどうするのですか」
「いいから、行くぞ」
呂布は二人を相手にしないで政庁から退出した。
「殿! 呂布を手放すとは如何なる考えあっての事か?」
初老の参謀が袁紹を諫める。
田豊、字は元皓、冀州別駕である。身分に拘らず讒言する者で、袁紹は他者の意見を吸収する上で重く用い、側に置いていた。しかし、最近では余りにも目に余る発言が多く、袁紹も次第に疎んじ始めていた。
「呂布は目障りで危険過ぎる」
「何を情け無い、獣一匹飼い慣らせない様では天下は遠いですぞ」
袁紹はジロリと睨んだ。
「天下にあの男を飼い慣らせる奴が居るとは思わん」
あるいは孟徳なら……、と袁紹は旧友を思い浮かべたが、あいにく曹操は青州黄巾賊を相手に苦戦している。
「呂布をどうするおつもりです?」
「殺す」
「お得意の無理難題がまたしても出ましたな」
「無理と言うか」
「飼い慣らせない獣をどうして殺せるでしょう」
「しかし、やってみなくては分からん」
「では何故飼い慣らそうとは思わなかったのです? いえ、当てましょう」
「言ってみよ」
暫し一考した後、田豊は口を開いた。
「主より強く、名声を博する部将は必要無いと考えてますな」
「……」
「二度も裏切りを犯した。しかも己より強い獣だ。確かに側には置きたくない。違いますかな?」
「その通りだ。さすがは我の知嚢よ」
表向きは褒めても腑は煮えくり返っていた。観察眼は認めるが、ずかずかと人の思考を読まないで欲しい。
「成る程、殿は畏れていらっしゃるのですな、呂布を」
「悪いか」
「いえいえ」
田豊は小さく首を振った。
「儂も呂布の武には驚かされましたよ。しかしあれは蛮勇の塊、まさに猛獣と変わりありません。
殺そうと考えるなら暗殺が宜しいでしょうな」
「我もそう考えておった」
呂布の武は正面から立ち向かって何とかなるものでは無かった。
「隙の大きい、そうですな……就寝時を見計らって襲わせるのが良いでしょう」
「出来れば冀州を出てからが良い」
袁紹の言葉に田豊は眉を上げた。が、すぐに主の心境を読み取り、悟った。
袁紹は己の名声に汚点が付くのが赦せないのだ。天下の飛将を殺しただけでなく、正々堂々でなく暗殺すれば、呂布を慕う者に怨まれる。下手すれば少なからず人民の心も離れかねない。卑怯者よ、と囁かれる事態だけは避けたかった。
「間者と我の親衛隊から三十人程選抜して小隊を編成せよ。くれぐれも直接戦闘しない様、命じよ。弩を携えさせるように」
承知、と田豊は答えたが袁紹が見ると退出しなかった。
「何だ? まだ何かあるか」
「帝の件でございます」
畏まって田豊は答えた。途端に袁紹は嫌そうな顔をした。
「またそれか。何度も言っておるだろう、却下だ」
「良くお考えなされ。今しか帝を手元に置く機会は無いのですぞ。帝を保護すれば殿の天下は決まった様なものですぞ」
「ふんっ、帝を保護して名を馳せようとは思わん」
田豊は袁紹陣内でも数少ない、漢帝国に忠誠を誓う者だ。かつては中央にて従事していたが、宦官がのさばり始めた頃に下野した。そして今は袁紹に仕えているのだが、その忠誠心はまだまだ篤い。
田豊の献策は長安で董卓の遺臣・李確の傀儡となっている帝の保護だった。長安は李確らが支配してから荒れに荒れていた。仲間内で小さな諍いが起きるとすぐに戦で決着をつけようとしていたので、死者の数は日増しに増えていた。
農商業も衰え、帝の日々の食事さえままならない有り様らしい。そんな帝を今保護する事は人道的にも政略的にも正しかった。
しかし、袁紹はそれを拒否した。 帝は足枷にしかならない。勢力の中に己より威徳のある者が在ってはならない。そして、袁紹は帝のその威徳を借りて天下に号令する己を想像して、それはあってはならないと考えた。
あくまでも天下は己の器で手に入れる。それしか頭に無かった。
一方、洛陽で呂布らと別れた張遼、文優、高順はエン州にいた。
黒ずくめの一隊が賊軍に殺到した。
「突撃!」
そう叫びながら白装束を身に纏う張遼も自ら大刀を片手に賊の一群に飛び込んだ。間髪容れずに大刀が振るわれると赤い軌跡が鮮やかに舞い上がった。賊の面々が引きつる。
どっと退き始めると、その目の前に同じく黒ずくめの一隊が立ち塞がる。先頭の高順は銀の甲冑を鈍色に光らせていた。
「お主らに逃げ場など無いぞ」
高順が剣を振り下ろすと黒ずくめの一隊、蝗紅隊はそれを合図に突撃した。
賊軍は抵抗も出来ずに刈られていく。そこら一帯は血を吸って泥濘と化していた。それでも蝗紅隊の騎馬は脚を取られる事無く駆け回った。
彼らの騎馬は全て選りすぐりの名馬なのだ。駿馬であり、農耕馬並みの踏ん張りもある。速さと馬力を兼ね揃える馬はそうそういない。漢の馬とは比べ物にならなかった。
全て、今は亡き董卓の下賜した馬である。本意では無いが、こういった場で張遼と高順はその有り難みを感じていた。
「張遼、そろそろ良かろう」
「そうですな。邑に帰るぞ」
張遼と高順は身分としては同格だ。しかし、張遼はあくまでも年長の高順に敬意を表していた。名は呼び捨てで、というのが張遼の意見だった。最初は渋った高順だが張遼の心遣いを無視出来ず、今では「高順殿」、「張遼」で呼び合っている。
張遼率いる第二の蝗紅隊はエン州陳留のある邑に滞在していた。旗印は『呂』のままである。これは文優の計略が込められていた。この一ヶ月、張遼と高順はエン州内を駆け回り、賊の討伐に尽力していた。
賊がいると少なからず県の蔵に影響が及ぶ。何より人民への被害が酷い。治安が行き届いてない証拠なのだが、賊討伐の軍を興すには各地が兵力不足だった。エン州牧の曹操が青州に残る黄巾賊と対陣中だからだ。
そんな時勢に張遼らは現れた。必要な兵糧を供出するだけで守備兵を動かす事無く討伐出来る。そして凄まじく強い。
蝗紅隊は各県令からとても厚遇された。大抵の県令は旗印を見て呂布と面会したがった。その度に張遼は呂布は別隊と共に他の賊に当たっている事として説明した。
どうしてこんな事をしているのか。
全ては文優の計略だ。即ち呂布旗揚げの地をここエン州と定めたのだ。
とは言っても、初めは張遼も高順も反対だった。何故なら牧の曹操は一筋縄でいかない知恵者だからである。函谷関で一度は呂布と徐栄の軍に破れたものの、それは洛陽炎上という心理的要因があったからである。あの時の董卓打倒という憤怒に燃えた盲目の曹操なら張遼が指揮しても勝てただろう。
文優の曰わく、言い替えれば、例え平生の曹操が打ち破るのに難き相手だとしても、心理的に何らかの揺さぶりを掛ければ必ず隙が出来る。その隙を先手で立ち直る余裕も無くなる程の迅速な攻めを行えば、優位に立てるのは確実だ。
それが可能なのが人、騎馬共に逸材の揃った蝗紅隊だけなのだ。そして優位に立つには各地の太守、県令、豪族の協力が必要だ。
賊討伐はそれだけで呂布の名を各地の支配者に刻み込んだ。エン州各地の町では呂布の武、賊討伐という無償の義、有能な部下を抱える徳が噂で持ち切りだった。
当然その話は曹操の耳にも入っているはずだ。登用か追放かはたまた討伐か。曹操がどんな対応をしてくるか張遼は予想も出来無かった。
「文優殿、もう時間が無いぞ」
張遼が遠くを見つめて呟いた。蝗紅隊が滞在する邑に文優の姿は無かった。
文優もまた蝗紅隊が思う存分暴れ回れる舞台を造る為、エン州各地を駆け回っていた。
文優は陳留の官舎を訪れた。ある男に会う為である。
その男は姓を陳、名を宮、字を公台、エン州東郡の人である。曹操軍の将だが、以前まで参謀として貢献していた者である。それが急に曹操の本拠地から幾らか離れた陳留に配置されたのだ。
文優は当然何かあると考えた。間者を放って暫くすると、見えてきたのは荀或という者だった。荀子の子孫であり、名家である。人材発掘に於いて曹操に貢献しており、知恵者として評判もある。どうやら名声や風評を含めて荀或を重用した結果、陳宮が本拠地から外された様である。
使える――、文優はそう直感した。
不遇を囲った知恵者程扱いやすいものは無い。陳宮はエン州で顔が広いとの事だ。今の境遇にも不満を持っているに違いない。
呂布がエン州で旗揚げするに於いて、最大の協力者になるに違いなかった。
従者に案内されて一室に入った。
文優はそこでまた待たされるかと思っていたのだが、驚いた事に通された先は執務室だった。
卓に山積みされた竹簡を前に陳宮が待ち受けていた。
「お待たせして申し訳無い。多忙なもので、失礼を承知でこのままで用件を」
そう言って陳宮は一瞬顔を上げて、すぐに手に持った竹簡に視線を戻した。
予想よりも遥かに若い。三十台後半といった所だ。文優より一回り若い。しかし、態度は尊大でいて自信に溢れたものだった。
「お名前は?」
「名乗る程の者ではありませんが人は私を文優と呼びます」
「聞かない名ですな」
興味無さそうに陳宮はやはり顔を上げなかった。
「それで? 用件は?」
世間話から入っても時の無駄な気がした文優は単刀直入に本題に入った。
「陳宮殿の今後についてです」
「今後?」
ピクッと陳宮の頭が動いた。
「私の今後が何か?」
「どうなさるつもりですか? 志をお持ちでしょう」
「これはこれは、異な事を仰る」
陳宮は竹簡を束ねて卓に置いた。
「私は曹エン州の臣下です。これからも忠義を尽くすのが志ですよ」
「つい先日エン州を回りましてな、陳宮殿の忠節は耳にしています。曹操殿がエン州を手に入れたのも陳宮殿あっての事とか」
いつの間にか陳宮は文優の話に耳を傾けていた。
「しかし、悪い事も耳にしまして……」
「ほう」
「曹操殿は陳宮殿の忠義に価する扱いを施して無い様で」
「何故そう思われる」
陳宮はまだ揺るがない。
「それは陳宮殿が一番ご存知でしょう。今の境遇は望んだものですか?」
「……私は常に未来を見据えているのだ。曹エン州がいかなるお考えあって私を今の地位に置いたのかは知りませんが、留守を守るのは信頼されている証です」
青州黄巾賊を降伏せしめた曹操は戦後処理と慰撫の為に未だ済南に本営を置いていた。その背後を狙って袁術が動き始めていた。
現在、天下は袁紹派の曹操、劉表の連合と袁術派の公孫讚、陶謙の連合によって二分されていた。公孫讚は平原に劉備を置いて曹操の牽制とし、陶謙は軍備を整えている。形としては包囲された曹操が今にも袁術に攻め込まれそうな状況にある。
そうなった場合、陳留は重要な拠点となるのだ。陳宮がそう信じるのも納得出来るし、恐らく曹操の信頼も本物だろうと文優は読んでいた。
しかし、己の才を過信する者が大した役職に就けなければ見えない所で不満は積もっているはずである。
もう一押しだ、と文優は直感した。
「本当に信頼されていると思いますか?」
「何度も言わせるな、人事的にも戦略的にも私は陳留に必要とされているのだから、曹エン州の信頼は本物だ」
苛立ちを隠せない陳宮。それはしつこい文優に対してか、それとも己の不遇に対してか。
「それは赴任先が陳留で無ければの話でしょう」
「??」
「陳留太守、即ち張藐殿は曹操殿にいざという時は互いの家族を養うと誓約する程信頼されています。その張藐殿の主簿にわざわざ任じられるという事が一体何を意味するか。さすがに陳宮殿も分かっておろう」
「……」
暫くの間、陳宮は押し黙っていた。
「……文優殿は不思議とここの事情に精通してますな」
陳宮は急に弱々しい調子になった。
「仰る通り、私も急に陳留のしかも太守の主簿なんかを命じられておかしいと感じました。最初は私が張太守の監視役だと思ってました。
しかし、実際は私が監視されていたのです。私の周りに間者の影が見え隠れしました。
しかも曹エン州は古参の私を差し置いて荀或殿を重用しているとか……」
今にも泣き出しそうな陳宮は不平不満全てを吐き出した。
幾ら溢れんばかりの才があろうともまだまだ若輩の徒。根は純粋な所があるのだろう。暫く吐露してから、漸く陳宮は気付いた様に付け足した。
「何者かも判らない文優殿にここまで明かしてしまうとは。どうか此度の事は心の内にしまって頂きたい」
「それには及びません」
「え?」
文優は正体を曝す事にした。
「私は呂布様の配下です」
「!!?」
陳宮は開いた口が閉まらない様だ。
「今……何と?」
「私は呂布軍に所属しているのですよ」
「そんな私は他勢力に情報を……私は何て不忠者なのだ」
陳宮は頭を抱えだした。見ていて飽きない。先程の毅然とした陳宮とまるで別人である。
「まだそんな事を言っているのですか」
「……つまる所、私に裏切れと申すか!?」
さすが知恵者。冷静さを失ってもこういった頭の回転は早い。
「憤慨するのも当然でしょう。しかし、その感情は曹操殿にぶつけるべきではないですか」
「何!?」
「こんなちっぽけな役職を押し付けられてせいぜい出世しても県令止まりですよ。
いいのですか? あなたに志は? 天下を統べる才を持ったまま持ち腐れするのですか?」
一気に畳み込む。陳宮は拳を震わせていたが力が抜けた様に下ろした。
「返答はともかく本日はお引き取りください」
へたり込んだ陳宮はまるで竹簡に埋もれた様だった。
「頭を冷やしてよく考えたい。この事は決して言外しません、安心してください。また後日」
そう言って陳宮はまた竹簡を手に目を通し始めた。仕事でもしていないと落ち着けない程に動揺しているのだろう。
静かに一礼すると文優は室を後にした。陳宮はなかなか決断し切れない様だ。
――最後にきっかけが必要か……。
既に文優の頭の中には次の策が閃いていた。
それから数ヶ月。文優の姿をエン州で見た者はいなかった。文優は徐州にいた。
時勢は丁度、曹操と袁紹の連合軍が陳国で袁術を打ち破った頃だった。敗退した袁術は南陽を捨て、淮南の寿春を新たな本拠地に定めた。これによって天下は袁紹派にとって有利に傾き、曹操も次なる標的・徐州を眼中に軍備を進めていた。
徐州は州城の下[丕β]を中心に治める陶謙と各地に点在する豪族の連合体によって成り立っていた。豪族との信頼関係もそれなりで一致団結すれば侮れない州である。
曹操は本腰いれて戦に臨まなければならなかった。激戦になる事間違いなしである。
そこで曹操は父・曹嵩を迎える事にした。曹嵩は黄巾の乱の際、身の危険を感じて官を辞し徐州の瑯邪郡に隠居していた。父に被害が及ぶのを恐れた曹操は地盤も固まったエン州で共に暮らそうと誘ったのである。
曹嵩は息子の孝行を喜んだ。何せ曹操の青年期は遊んでばかりの放蕩者で曹嵩も将来を心配していたからだ。すぐにでも息子と再会したかった曹嵩は早速、引っ越しの準備に取り掛かった。
しかし、この時既に文優の策が曹嵩に忍び寄っていた。
「本当に約束の物はあるんだろうな?」
「勿論です」
文優は男に宝物の一部を見せた。途端に男の目が卑しく輝く。
「絶対に寄越せよ、いいな」
男は陶謙の部将、しかし山賊上がりで欲深かった。そういった類の者はすぐ分かる。貧相な身なりだろうと、甲冑を身に着けようと常に目は獣の様に怪しく光り、光り物を見せると決まって顔を輝かせた。
曹嵩の護衛の中からそういった者を選別する事など容易かった。
どうして陶謙の部将が曹嵩の護衛をしているかというと、陶謙は袁術を裏切ろうとしていた。天下が袁紹に傾いた事もあり、密かに曹操との親好の証として護衛をつけたのだ。
しかし、それはとんでも無い誤算だった。
――これで天下は大きく動く、私の手に拠ってだ……!
若干己に心酔したように文優はこれから起きるであろう事を思い浮かべた。
「では、そろそろお願いします」
男が兵を引き連れて、夜営の中でも一段豪奢な曹嵩の元へ音も無く殺到する。男達が幕内に消えてからすぐに曹嵩と思われる男の悲鳴が聞こえた。
従者も寝静まった頃、奇襲には最適……というより一方的な殺戮が始まった。
曹嵩の死を見届けると文優はすぐ様エン州に帰った。
エン州はいつもとは異なり、人民もそわそわと落ち着きが無かった。曹操が怒りに委せて徐州平定の軍を起こしたのだ。
総数十万、先年包括した青州黄巾賊より精鋭を選定した『青州兵』も導入された。その異様とも言える軍勢は怒涛の如く徐州に向かった様だ。
今の曹操は正に『盲目の曹操』である。怒りに委せて諸将の反感を買う様な事を何でもするだろう。
そしてエン州は空同然。舞台が整おうとしていた。
文優は最後の仕上げ、陳宮の説得の為に陳留へと足を運んだ。
「はぁ……」
「どしたの廉々?」
白鈴が小さく首を傾げた。思わず漏れた溜め息を感づかれた様だ。
「これからどうなるのかな、僕達」
「奉先様だったらどこでも行けるんじゃないの?」
「それが出来たらどんなにいい事か……」
「?」
呂布軍は冀州を訪れて半年経たない内に放り出されてしまった。
白鈴の言う通り呂布は天下に誇れる武があるのだから、それを売りに渡り歩けそうである。が、そうもいかない。あの呂布なのである。
主殺しを二回犯し、今また袁紹から離れた。いや、全てが真実では無い。偶然が重なった事で偽りが広まった不本意な悪名がほとんどだ。時には呂布自ら偽りを広める事もあったとは言え、天下に於いて呂布は『最強且つ不義』の者として見られていた。
天下は、人というものは理不尽な程、風評に左右されやすい。己の目で耳で肌で、あらゆる感覚を駆使せずとも一度耳にした噂一つで知った気になってしまう。それは成廉一人が否、と叫んだところで聞き入られる事の無い、天下に於いて普遍の理なのである。
そんな天下に幾ら最強の武を備えていようとそんな男を側に置きたいと思い者がいようか。
成廉は腕を組んだまま赤兎を進める呂布に雷音を寄せた。
「これからどこ行くんですか?」
「もう考えてある」
お馴染みの即答に不安を覚えながら成廉はその先を尋ねた。
「張揚の元だ」
「張揚……?」
一拍置いてから成廉は思い出した。
呂布が丁原の元にいた頃の同僚だ。丁原を思わず斬り殺した男である。呂布がその汚名を被った後、故郷の并州に帰り、白波賊と協力して勢力を盛り返した。
今は河内太守の官に就いているらしい。河内といえば冀州に隣接している。行こうと思えばすぐだった。
「奉先!」
河内の城門をくぐるとすぐに張揚は駆け付けて歓迎してくれた。
「しばらく世話になるぞ」
「しばらくなんて言わんでもずっとここにいても良いのだぞ」
屈託無く笑う張揚を見て成廉はホッとした。張揚は呂布に借りがあるとは言え、今は状況が違う。
張揚は袁紹に敵対視されているのだ。それは冀州を荒らす白波賊を匿っているからである。賊を擁する者を放っておくはずが無かった。
状況を考えれば張揚が呂布を刺客と疑っても不思議では無い。正直受け入れて貰えるか心配だったのだ。見た限り『招かれざる客』というわけでも無い様だ。
張揚は早速酒宴を催してくれた。
「奉先に紹介したい者がおる」
そう言って張揚は一人の男を連れてきた。
「私の盟友の様なものだ」
男は堂々とした体格でなかなかの偉丈夫だ。ただ、見慣れない髪の結い方、服装をしていた。どこかで見た事があると思えば、匈奴の正装である。
成廉が男に匈奴出身か尋ねようと口を開きかけた時、呂布が声を上げた。
「於夫羅ではないか」
「久しぶりだな飛将軍」
その様子を見て張揚は目を丸くする。
「知り合いだったのか?」
「ああ、九原にいた頃の友人だ。それ以来全くだったが……。
最後にお前の噂を聞いたのは七年も前だ。於夫羅。確か白波賊を率いていると聞いたが、まだ率いているとは考えもしなかったぞ」
「賊と言うな賊と。これでもれっきとした傭兵だぞ」
「だが賊と言われようとも俺の悪名には勝てまい」
「ガッハッハ、お見それ致した。流石、飛将軍の仇名されるだけある」
酒が入ると三人の会話も更に弾む。愉しそうな様子を成廉はそっと横から眺めていた。魏越は白波賊の連中と意気投合したらしい。そちらはそちらで盛り上がっていた。
「それはそうと奉先、先の私達の約束を覚えているか」
「二人で天下を掴む事か?」
少し眉を上げて呂布が答えた。
「そうだ。見たところ奉先は行く宛ても無さそうだし、共通の盟友が三人揃った。ここ河内で旗揚げでもしないか?」
成廉は呂布が何と答えるのか、その返答を静かに待って耳をそばだてた。本拠地となりそうな土地を捜している張遼らからは全く連絡が無い。答え様によってはここで旗揚げするに至るかもしれない。成廉は固唾を呑んで見守った。
「……ここで旗揚げは出来ん」
「そうか……」
残念な気持ちを紛らわすかの様に張揚は杯を煽った。
「お前との約束は忘れはしない。だが、俺は今旗揚げの地を腹心の一人に選定させているのだ。俺はそいつの努力に報いらなきゃならん」
感心した様に張揚、於夫羅は呂布の言葉に聞き入る。
「俺が旗揚げしてから、同盟して天下を掴むのも悪くはないだろう?
勝手ばかりで悪いとは思うが腹心が本拠地を定めるまでの間だけここに置いてくれ」
張揚、於夫羅は互いに顔を見合わせると愉快そうに笑い出した。
「奉先!部下に報いてやるだなんて、まるで名君にでもなったかの様じゃあないか」
「昔のお前は兵の事など微塵も考えて無かったのに、人とは変わるものだな」
愉しそうな雰囲気に成廉も頬が緩んだ。
これでしばらくは河内に滞在することになるだろう。安心した成廉は隣りで大人しく食事する白鈴に手を回した。
しかし、天下は急速に流れる。
河内滞在がたった一週間で終わってしまうと誰しも予想だにしなかった。
陳留のとある室に四人の人影があった。
三人の意見が一つに纏まっているに対し、窮地の一人は未だその決定に反対していた。
「駄目だ、やはり孟徳を裏切る事は出来ない」
そう答えた窮地の男、もとい陳留太守の張藐は座した体を沈ませた。
それを見た陳宮がすかさず痛い所を衝く。
「曹エン州は張太守よりも袁冀州の方に肩を持つに違いありません」
張藐は一瞬言葉に詰まる。
「兄上、それだけではござらん。曹操殿のあの蛮行を赦しておけるとお考えなのか」
張藐の弟である張超も諭す。
そんな三人を文優は静かに見ていた。計画は全て文優の思い描いた通りに進んでいる。
全てに於いての決め手は曹操の徐州侵攻とそのやり方だった。曹操は怒りに任せたのか、それとも自軍の強さを誇示する為か、虐殺を行ったのだ。
当時、侵攻先で物資を略奪する事はよく行われていた。しかし、普通は住民までも虐殺したりはしない。民力の低下を招くからだ。それに人道的にもそんな事をするのは非難の対象だ。
曹操の陣営からも主の蛮行に異を唱える者が続出した。それには陳宮も含まれていた。
『ただちに軍を退かれたし』
しかし、曹操は全てを却下した。そうしてようやく陳宮は曹操に絶望したのである。文優が改めて陳宮を訪ねた時には既に張超が同志に加わっていた。陳宮は素晴らしい敏腕の持ち主である。
文優は陳宮に目を付けて正解だったと再確信した。
後は陳留太守、張藐だけだった。
曹操の友人であるこの男は今まさに窮地に立たされていた。徐州での虐殺で曹操への信頼は半信半疑。それでも今までの交友を加味すれば裏切るなんて出来なかった。
しかし、実質的な軍権は既に陳宮に握られている。つまり、反対したところで実際は陳宮らに生死を握られているのである。それでも張藐は良しと言わない。
埒が飽かないと感じた文優は静かに退出した。そもそも張藐はエン州各地の諸将を信頼納得させるだけの役割しかない。
呂布の名が広まったエン州各地には陳宮が赴いて、呂布の挙兵を合図に叛旗を上げるように説得してある。
曹操は徐州でエン州は空同然だ。呂布を連れて来れば張藐も否応無しに従うしかない。
舞台は整った。
文優は最近河内入りしたという主に宛てて、一枚の書状を書き出した。
極秘で使者が呂布の元を訪れたのは、何の前触れも無くいきなりだった。
丁度、呂布、成廉、魏越で曹操が徐州に侵攻した報せについて雑談していた時だった。夜も更け、そろそろ寝ようか、という時に従者がやって来た。
「成廉様、文優様から呂布様に書状が届いてます」
「え?」
その事実は従者の長も務める成廉へと最初に伝えられた。
「どうした?」
驚きが伝わったのか呂布が尋ねる。
「文優殿からの書状が来たそうです」
成廉は紙の書状を渡した。直後、廊下から何か重たい砂袋でも倒れた様な音がした。
「??」
従者が滑り転けたのだろうか。成廉は立ち上がった。
「もしかしたら旗揚げ出来そうな土地が見つかったんでしょうか」
「だといいな。さてはて、あいつらはどんな所を献上してくれるのかな」
魏越の問い掛けに呂布は封を開けながら少し愉快そうに答えた。
成廉はそっと戸を開けた。
突然、目の前を何かが掠める。矢が戸に突き立っていた。
次々と目に入る物が最悪の状況を成廉に告げる。廊下に横たわる従者。額に矢が生えていた。既にその眼に光は無かった。
官舎の周壁の上には月光に照らされた一個小隊分の弩が呂布の室に向いている。
――まずい……!!
「二人とも伏せろ!!」
「は?」
成廉が飛び込んで床に伏せた途端に戸や衝立を突き破って無数の矢が飛んできた。音を発てて床や卓に突き刺さる。
一旦矢の雨が止むと室内は酷い有り様だ。弩は弓と異なり連射出来無い代わりに強さが半端では無い。胡床が粉砕されていた。
「何事だ!?」
呂布も魏越も無事だ。と、なると敵の狙いは矢の雨で障害物を除く事。周壁から続々と敵兵が降りてきた。此方は丸見えだ。
「敵襲です。数は三十余り、来ます!」
抜刀しながら成廉が睨む外を見て、呂布、魏越も剣を手にした。
敵兵は暗闇の中、音も無く此方に殺到する。刺客の類だ。かなりの手練れと見た成廉は狭い室内に入ったところを待ち伏せようと考えた。
しかし、障害物が皆無だ。あれこれ考える内に敵兵が一人二人と侵入してきた。室内で剣を振り回すのは得策では無い。突きを繰り出した成廉だったが簡単にいなされる。こんな兵が一個小隊もいるのだ。
呂布は確実に二人程斬っていた。しかし、突然の急襲で三人は平服だ。対して、敵兵は完全に武装している。成廉の斬撃を受けた敵兵は一撃で仕留められない。
騒ぎを聞きつけた従者達を剣を手に加勢してから敵の攻勢に緩みが生じた。すかさず三人は反撃に転じた。成廉が敵兵の鼻に刃を突き立てた。そこしか急所が見当たらないのだ。
一方、呂布と魏越は首を飛ばしていた。
そうした方がいいか、と成廉は考えながら次の敵兵に向かうと突然足を取られた。敵前にして成廉は豪快に倒れ込んだ。脳天まで貫いたはずの敵兵が足を掴んでいた。絶命しているはずなのにその手は離さない。
隙有りと敵兵が襲い掛かる。一人目の足を薙いだが次が届かない。立ち上がる前に敵兵の剣が成廉を捉えんと迫る。
成廉は思わず目を閉じた。
「ぅぐっ」
刃が下ろされる前に敵兵が声を上げた。恐る恐る目を開くとその首には剣が突き立っていた。
魏越の剣だ。
「ごめん、ありがと」
魏越を見上げると恥ずかしそうに言った。
「いいって事よ」
魏越が剣を引き抜く鮮血が迸った。固く握られた手を切り落として立ち上がると室内には静寂が戻っていた。どうやら残りは呂布が刈り尽くした様だ。
三人とも返り血で赤く染まっていたが、目立った外傷は無かった。
ただ、従者の被害が酷かった。五人も死んでしまった。手負いの者も十人を超える。敵兵はどうやら相当な武術の体得者だったようだ。
こんな兵を刺客に出せる余裕が有って、呂布と関わりのある者、恐らく袁紹の仕業だろう。
しかし、特に三人ともそれについて口にしなかった。口に出さなくても分かり切った事であるし、成廉はそれよりも聞きたい事がある。
「これから……どうするのですか」
袁紹に狙われるという事は自分達だけの問題では無い。張揚、於夫羅にもその被害が及びかねない。
「張遼達の元へ行くぞ」
そう言って呂布は血に塗れた手で開いた書状を見せた。
そこには大きく二文字、『陳留』と記されていた。




