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黒山衰退の始まり




「飛燕様、食糧基地はただの兵糧庫の様です。守備兵どころか人の姿すら見えません」

 袁紹軍の食糧基地を占領しに出撃した王当、杜長の伝令が告げた。


「分かった」

 飛燕、と呼ばれる男が答えた。

 その男は熊の皮衣を身に纏い、骨太でがっしりとした体躯、顔面は剛毛に覆われて眼光だけが光っている。

 彼こそが盟友を含めて、袁紹、公孫讚と河北を三分する黒山賊首領、張燕である。


 張燕は元々、姓を[ネ者]、名を燕といった。黄巾の乱の折に賊を率いて挙兵し、当時黒山賊の首領だった張牛角に帰順した。

 しかし、張牛角は敢え無く呂布に討ち取られ、[ネ者]燕はその後継ぎとなり、その際に改姓した。姓を継ぐ事で黒山賊の未来を担う覚悟と責任を自ら課したのである。

 黒山賊を今ある勢力まで指導したのは張燕だ。

 最初は本当に単なる賊の集合体であり、黄巾の乱が終結すれば減衰するのは明らかだった。その天命とも言える必然を張燕は黄巾残党の吸収と移住でねじ曲げた。

 かつてから根城としていた黒山は隘峡が走り、一度に通行出来る兵数は限られる。人の入山を拒むかの様な険しさは移住の際に身を持って理解出来た。まさに天然の要塞である。

 足りない物資を支援しているのは張燕の故郷である常山郡だ。

 張燕は貧しい出自ながらも、同郷の者から尊敬を以て遇される程の人格者であった。黒山賊の軍備面が賊の水準以上の理由はここにある。

 討伐軍が苦戦しなかった事は一度として無い。その要因の一つに張燕の強さがある。張燕は武勇に優れているだけで無く、用兵にも精通していた。

 張燕の率いる軍は険しい山内だろうと平地の如く素速く動けた。『飛燕』の由来である。 戦場を問わない行軍が出来た黒山賊が勢力として勢いを衰えさせる事は無かった。


 しかし、張燕のここ近年の悩みは食糧の確保だった。ただでさえ山の恵みのみでは補えきれないと言うのに、漢帝国は飢饉の最中だった。

 とにかく収穫がほとんど上がらないのだ。各地では支配者が人民から搾取し尽くし、人が人を喰らう様だった。張燕は常山にそんな事出来るはず無かった。

 そうなると、食糧を手に入れる方法は限られてくる。敵対勢力から蓄えを強奪する。それは自然な流れだった。

 そして袁紹軍の食糧基地を占領した今、手に入るのはおよそ十万の兵が二月飢えない程の食糧。上手く配給を調節すれば三月も不可能では無い。


 何が何でも欲しい。いや、既に食糧は手の内だ。肝心なのは本拠地の黒山まで運べるか、である。恐らく食糧基地の陥落は袁紹方に知られているだろう。そして討伐軍を派遣するはずだ。

 そうなれば王当、杜長では撃滅されてしまう。彼らの戦場は得意の山岳戦では無い。平地では袁紹軍の騎馬軍が圧倒的に強かった。しかし、張燕に退く気など微塵も無かった。


 ――袁紹に損失を与えて、兵糧は頂く……!


「常山の騎馬駐屯軍に急使を。袁紹を叩く出撃じゃ!」


 あの袁紹軍である。誰が攻めてきてもおかしくない。文醜か、顔良か。

 張燕は総力戦を覚悟した。




 黎陽から五千五百の兵が出撃した。陣容は呂布の蝗紅隊に張[合β]の五千だ。

勿論、袁紹の命令があるので直接攻撃を下すのは呂布のみで、張[合β]は本陣の守備である。

 これは呂布のみでは黒山賊を釘付けに出来ないからだ。すぐに逃走されては今回の作戦が失敗である。張[合β]の五千をちらつかせて、無策に逃走すれば追撃を受けて、大打撃を受けるかの様に見せなければならなかった。


「白鈴、やっぱり本陣に残っとかない?」

 成廉はまだ白鈴を戦場に同伴させるのに反対だった。

 雷音は相乗りに耐えられる程の馬だが、戦場では何があるか判らない。危険だった。

「いい」

「張[合β]殿なら安心だって、きっと」

「そういう問題じゃないの」

 白鈴は振り返った。

「あたしは一度でいいから廉々達が命懸けで闘っているのを見たいの。……ううん、違う。ちゃんと見なくちゃいけないと思うの」

 そこにはいつもの身勝手なお姫様はいなかった。

「白鈴……」

「廉々が命懸けてんだからあたしだけ安全な所にいる訳にはいかないでしょ」

 言いたい事は解るのだが、と成廉は頭を抱えた。

 白鈴は相乗りの騎乗を勘違いしている。兵が相乗りしても互いに足を引っ張ってしまうだろう。

 成廉からしてみれば命懸けどころか、もう一つの命を護りながら闘わなくてはいけない。


 ――せめて、奉先さんに任せられたらなぁ……。


 呂布ならば可能だろう。

 しかし、呂布の騎乗する赤兎の猛々しさと言えば、相乗りするどころか呂布以外の者に手すら触れさせない程だった。無理な話である。

 そもそも、本陣だって危険なのだ。敵に襲撃されない保障はどこにも無い。食糧基地を占領している軍勢だけで約二万。こちらの四倍の兵力だ。増援がこないとも言い切れない。

 そうなれば五千の本陣など風前の塵に等しい。……と、考えるうちに成廉は本陣に残す方が危険な気がしてきた。傍にいれば己の努力次第で何とかなりそうだが、離れていてはどうしようも無い。

「分かったよ、白鈴」

 成廉が言うと白鈴は硬い笑みを返した。

「ありがと」

「ただ、」

「?」

「兜もしっかり被ってね」

 白鈴は下は甲冑に頭は結い上げた髪を簪で飾りたてた不恰好だった。

 戦場について行きたいと言っているが、舐めている。


 そうこうするうちに目標の食糧基地が見えてきた。

「これより速度を上げる。突撃態勢に移れ!」

 呂布の命令が行き渡ると白鈴の顔が更に硬くなる。それを見て魏越がわざとらしく笑った。

「安心しろ! 一刻後には全員無傷で還れる」

 他の兵達も不敵な面を嬉しさに破顔一笑させた。

 皆闘う事を生きがいとする者達だ。彼らにとって戦場で闘う事は息を吸い、肉を喰らい、睡眠を取る事と全く変わり無かった。日々調練を欠かさなかった蝗紅隊は名実ともに中華最強の騎馬隊だという自負もある。

 負ける訳が無い、と魏越は白鈴に言い聞かせた。

「そもそもよぉ、廉の心配性を真に受けすぎ。廉もいい加減にしろよ」

 成廉も白鈴も小さくなる。

「分かった、みんなを信じるからね」

 白鈴は腹をくくった。

「廉は? 女の子の前だからっておしとやかにしてたら本当に討たれるぜ」

「わ、分かってるよ」

「お喋りはそこまでだ」

 腹に響く呂布の声が遮った。


 目前に迫った食糧基地の物見台から今更、警鐘を叩く音が聞こえる。警戒態勢では無かった様だ。

 討伐軍が来ないとでも思っていたのか。恐らくまだ張燕は出て来て無いのだろう。

 守将が張燕だったら風評は偽りで、よっぽど間抜けな奴なのだろう。

 迎撃しようと基地内から矢が降ってきた。しかし甲冑に当たっても、刺さる事は無い。黒山賊は動揺しているのか、呂布は弾く事もしなかった。

 門は閉ざされている。

 しかし、脆い。

 門は質の悪い木材で作っている。呂布はそれをよく知っていた。


 ――いける……!


 呂布は門に赤兎ごと突っ込んだ。門は呂布が思い描いた通りに粉砕され、飛び散った。

「突撃!」

 蝗紅隊が雄叫びを上げて黒山賊に襲い掛かった。まだ戦闘の準備も出来てない者もいた。それでも抵抗は強固だった。

 一人突き殺すとその死体の死角から矛が繰り出される。黒山賊は味方の死を無駄にしなかった。

 呂布には仲間の生を繋ぐ為に、一度獲得した食糧を守り切る執念とも呼べるものが見えた。

 この軍は修羅だ、と呂布は思った。

 事実、黒山賊の迎撃は混乱状態で全く纏まりが無いのに殺しても殺しても怯む事を知らなかった。

 大抵の軍は先頭の呂布の一振りで陣形に大穴が空き、残りの兵もその光景におの退き隙が出来る。そこに成廉や魏越が突っ込み、兵達が後に続く。それで敵軍は潰走する。

 黒山賊はそうはいかない。突き殺そうが両断しようが吹き飛ばそうが無駄だった。すぐに味方の穴を埋める。死を厭わない、死に兵だった。

「まずいか……」

 何をやっても怯まない相手を斬っても斬っても無駄だ。黒山賊が今の混乱を立て直しでもすれば包囲されてしまう。それでこの死に兵である。下手すれば全滅だ。

 呂布は後方を振り返った。今のところ欠けた者はいない。余裕を見せていた。

 だが――、勝利を獲るには黒山賊と直接、長期に戦闘するのは危険だ。

 呂布の決断は速かった。


「一旦、ここから脱出するぞ。討った首を拾うのを忘れるな」

 袁紹への報告は討ち取った首が多ければ多い程いい。

 兵達は皆戟の矛先に転がる首を突き刺し、侵入した門とは別の門に向かって駆ける呂布に続いた。

 そして、来た時と同じ様に呂布は門を突き破った。




「行くぞ、突撃!」

 呂布の号令と共に蝗紅隊が本日四度目の突撃を仕掛けた。五日目の事である。

 強固な、それでいて人間離れの結束を見せる黒山賊を相手に、呂布がとった戦法は一日に突撃を幾度と繰り返すものだった。

 今、食糧基地に居座る黒山賊は死をも恐れない、ある意味最強の軍である。

 しかし、幾ら戦闘訓練を受けたとは言え、所詮は軍人では無く民である。彼らも日々の営みのある普通の人民だ。黒山賊の凄まじい精神力は呂布も理解した。まともにぶつかれば数の少ない蝗紅隊が敗れてしまう。


 ――だが、果たしてその精神力は長く続くのか?


 精神力が強大になればなる程、その持続は続かない。長期に渡る厳しい鍛錬を行わなければ尚更顕著になる。

 呂布はそこに目を付けた。

 全力を尽くす必要は無い。元々、蝗紅隊は呂布と赤兎の能力に追いつける事を目的として結成、調練している。やろうと思えば三日夜通しで駆け続ける事も可能だ。

 それだけ蝗紅隊と黒山賊には雲泥の差があった。苦戦するのはただ、相手が多過ぎるだけだ。

 更に黒山賊は皆歩兵ばかり。兵科にも差がある。突破力も持久力もこちらが勝っている。

 黒山賊が疲弊するまで突撃を繰り返し、絶え間無く戦闘しているかの様に錯覚させる。求めているのは精神的被害である。神経をすり減らせばすり減らす程、人は肉体の疲労に気付かない。

 呂布が狙っている好機とは疲労の頂点に達した、その時である。

 実際に目で見えない所で度重なる突撃は黒山賊を蝕んでいた。


 成廉は突撃の際、兵達に守られるかの様に周りを囲まれていた。前方を呂布、魏越。左右を屈強な兵達が固める。

 白鈴が同乗しているので仕方無かった。そうなると使える武器は弓だけとなってしまう。

 気付けば成廉は弓の腕前において、呂布に次ぐ実力となっていた。成廉が弦音を発てれば敵の悲鳴が必ず上がる。

 初めて戦場を経験する白鈴はと言うと、躰を震える事は無かったが沈黙して前をじっと見据え、成廉が射殺し伏していく者達を静かに目で追っていた。まるでその光景を焼き付けようとする様に。

 いつからか、成廉は戦に密かな快感を覚えていた。他の誰にも言外した事は無い。

 だが、何と無く蝗紅隊の皆も同じと感じていた。


 戈も相手を刺突した手応えを味わえて良かったが、やはり弓である。

 力一杯引き絞った弓を相手のその眉間に狙い、放つ。矢がゆっくりとその眉間に吸い込まれるかという刹那。そして、一拍置いて小気味良い音を発てて矢は貫通した。

 そうすると、何とも言えない充足を成廉は獲られた。

 昔は人を殺すにもいちいち躊躇っていた。そんな者は戦場にいる資格など本来ならば無い。

 いつ、何が成廉を変えたのか。それとも元々のそういう器質だったのか、成廉には解らない。言えるのは己の求める真の武人、呂布に一歩一歩確実に近付けられている、と言う事である。


 この突撃でも成廉の冴え掛かった騎射が黒山賊に襲い掛かる。

 弦音と同じだけ命が貫かれていく。

 上下する揺れに影響される事は無い。騎上と言う高みから射るのは選り取り見取りだった。どの兵が誰を狙って矛を突き出そうとしているか、馬の脚を引っ掛けようとしているか手に取る様に知る事が出来る。

 そんな時、小さな旗を掲げた一隊が現れた。『王』の文字が見える。将らしき者も見えた。その隊はこちらに向かっていた。

 すかさず成廉は矢をつがえる。

 二人掛かりで作られる弓が音を発てて引き絞られていった。

 将がこちらに斬り掛かってきた。隙だらけだ。

 魏越が首を跳ねようと戟を振りかざした瞬間、成廉は矢を放つ。矢は将の額に突き立っていた。

 それを見て、魏越はあからさまに舌打ちするとその首を斬り飛ばした。




 おびただしい数の物体が食糧基地の四門を塞いでいる。

 近付いてよく見て初めてそれが人の死体と判る。目に付くほとんどに首が無かった。黄土にまみれた甲冑は全て黒山賊の物だ。


 なぜそんな物が門を塞いでいるのか。それは入る者全てを拒んでいるかの様だ。

 張燕は目の前の光景が信じられなかった。


 常山の騎馬軍と手勢の一万を引き連れて、王当と杜長の応援に駆けつけた張燕だったが、こちらの軍は想像以上の被害だ。

「飛燕様、お待ちしておりました」

 出迎えたのは杜長だけだった。

「王当は……?」

「討ち死に致しました」

「……そうか」

 杜長は酷く衰弱している様に見えた。

「被害の詳細は?」

「袁紹軍は日に幾度と突撃して一度の犠牲は百人を超えます。怪我人も含めて五千余もの兵が被害を受けました」

 張燕は深い溜め息を吐いた。

 王当も杜長も無能と言う訳では無いが、戦での多少の被害は覚悟していた。だが、被害は予想を遥かに超えたこの有り様通り、甚大だった。

「申し…訳ございません」

 杜長は跪いて地に額を擦り付けた。

「顔を上げよ。敵はどんな様子じゃ? 率いる将は?」

 顔を上げた杜長は怯えた顔を恐怖に凍り付かせた。

「約五千……」

「五千?!」

 それでは僅か五千程の軍に黒山の精鋭二万が叩きのめされたと言うのか。

「しかも、実際に仕掛けてくるのはたった五百の騎馬隊です。残りは後方支援として待機しているだけでございまして……」

 おもむろに張燕は立ち上がった。


「五百……? 五百だと?」

「しかも敵軍は無傷です。我々ではまるで歯が立ちません」

 張燕の顔中の毛が逆立った。

 有り得ない。二万の兵を五百で破るなど。

「いったい敵の将は誰なのだ!?

袁紹の下に、いや、河北にそれ程の者は居らんはずだ!」


 張燕は思わず怒鳴っていた。

「誰かまでは定かではございません。ただ、黒ずくめに紅い肩当てをした軍で、白装束の将が率いております。旗印は『呂』と」

 杜長がそう告げた瞬間、先程までの怒りは萎んでいた。代わりに恐怖が訪れる。張燕は氷の刃でも突き付かれたかの様に立ち竦んだ。


 ――呂布だ……。


 七年前の黄巾の乱が鮮明に思い出された。

 あの時、張燕は張牛角に従って黒山から并州へと兵を進めていた。始めは州兵より優勢だった。

 それが急に現れた僅か三百余りの一隊により、形勢が逆転してしまったのだ。

それが呂布だった。

 張牛角の軍の後方より奇襲を仕掛けた呂布を見た時、張燕は恐怖よりも畏怖を感じた。常人とは思えなかったのだ。

 と言うのも、河郷の黄巾賊一万が呂布と言う新手の校尉に打ち破られた、との早馬が到着したその日の奇襲だったのだ。

 早馬とほぼ同じ速度で進軍していた事になる。

 奇襲してきた隊は騎兵が五十程度で残りは歩兵だった。要するに彼らは有り得ない進軍をしているのだ。

 可能性としては三日三晩、一睡もせずに駆け続ければ歩兵の足で何とか辿り着ける位である。

 しかし、それからすぐに戦をしているのだ。

 張燕は『呂』の旗印を掲げた一隊が張牛角の本軍を突破するのを見ながら、もしかしたら州の軍に呂姓の校尉が二人居るのでは、とも考えた。

 それだけ目の前の光景が信じられなかったのだ。張牛角はその襲撃で討ち取られた。張燕は何も出来ずに救援にも行けなかった。

 大いなる武を目の当たりにした気がした。足が動かなかったのだ。

 敗軍を纏めるので精一杯だった。


 そして――、張燕の胸に刻み込まれた畏怖が一気に再燃する。

「あの、……あの呂布がどうして……?」

 思わず口からこぼれた。


 ――どうして飛将と名高い呂布が袁紹の一介の将として我々を討伐しにくるのか?


「呂布?!」

 杜長が聞き返す。衰弱した顔に恐怖の色が見え隠れした。

「敵将は呂布だとおっしゃるのですか?!」

「……恐らく」

「そんな……!」


 杜長や従者が息を呑む。あの強さが納得と言えば納得だが、誰も呂布なんかと闘いたくなかった。

 またしても杜長が跪いた。

「飛燕様……撤退を……お考え下さい」

 張燕は力無く腰掛けていたが、その言葉にサッと顔を上げた。

「撤退……じゃと?」

「呂布を相手に策も無くまともにぶつかれば被害が尚更甚大なものになり、」

「黙れ!」

 図らずも怒鳴っていた。

「この基地で保ち堪えたとは言え、貴様は五千もの被害を出したのじゃぞ。偉そうに言える立場か!!?」

「もっ申し訳ございません」

 杜長は小さくなって引き下がった。


「出撃する! 呂布など畏れるな!!」


 過剰に叫ぶのは己の畏怖を吹き飛ばす為か。

 撤退しか道が無いのは張燕も解っていた。

 しかし、二月分の食糧を目の前に、手ぶらで被害だけを出して黒山へ逃げ帰るなど、今の張燕にはしたくてもする事が出来なかった。




 荒野に生温い風が吹き荒れる。空気が重たく感じられるのは単に雨天の前触れか、それともこれから始まる戦の悲惨さを暗示しているのだろうか。

 荒野には二つの軍が対峙していた。

 一方は一万を優に超え、もう一方は僅か五百だ。二つの軍、よりも一軍と一隊が適当だろう。

 端から見れば『黒山』の旗印を掲げる一万が圧倒的に優勢だ。


 しかし、対する白装束に身を包む将と黒ずくめの一隊の旗印は『呂』であり、それは様々な意味を表していた。

 則ち、その隊の将は漢帝国最強の武人・呂布であり、その隊は彼に率いられる最強の騎馬隊であり、彼らに十倍二十倍で対峙したとしても勝算は有り得ないのである。


 それでも『黒山』の旗印を掲げる黒山賊の兵は怯む事無く、ただ呂布を睨み据えた。黒山賊は呂布さえ倒せばよい。一塊の隊に手も足も出ないならば、残されているのは将を討ち取るしかない。

 それが僅かな望みだとしても、彼らは闘い続けなくてはならなかった。背後の食糧基地がその覚悟を確固たるものにする。生きる為に、大切な者の生活の為にその食糧を持ち帰らなくてはならない。黒山賊の士気は静かに、しかし否応無しに上がっていた。

 替わって張燕を始めとする黒山賊の将の瞳には精気が見えない。張燕は兵達の信じる僅かな可能性が在るとは思えなかった。その身を以て呂布の本当の恐ろしさを知っているからだ。

 絶対勝てない――、そんな考えが頭を占める。

「騎兵、前へ」

 張燕は先に動いた。出頭を叩いて、少しでも呂布軍の勢いを削がなくてはならない。


 雄叫びを上げながら黒山賊の騎兵が小さな黒い塊に突撃する。

 中軍に居ながら殺気と共に食糧を護るため、という必死さもひしひしと伝わる。

 この騎兵と対峙すれば、さぞかし恐ろしかろう。

 しかし、小さな黒い塊は慌てる事無く、白い点を先頭に錐行の陣になった。

 滑らかな、少しも乱れる事の無い動きだった。


 まるで一つの生き物の様だ――、張燕はその動きに見入っていた。我に返った瞬間には騎兵と呂布の騎馬隊はぶつかっていた。

 最初の衝撃で最前線から兵が舞い飛ぶ。

 まるで藁人形の様だ。全て黒山賊だった。首だけ、腕だけ、半身だけ、馬までもが一直線の黒い騎馬隊の周囲を赤く彩る。重力を無視したかの光景は現実と思えなかった。

 張燕は茫然と、また見入りそうになった己を見つけて頬を抓る。呂布の騎馬隊が黒山賊の騎兵を抜けるまであっという間だった。

「来るぞ! 弓兵構え」

 後方で控えていた弓兵が呂布ただ一点のみに狙いを定める。

 騎兵の最後尾から白装束を鮮血に染めた将が飛び出した。

 呂布だ。

 続々と湧くように黒ずくめの騎馬隊が出て来る。一人として欠けていない。

「放て!」

 千を越える矢が呂布に襲い掛かった。

 しかし、そのほとんどを呂布とその騎馬隊は叩き落としてしまう。命中したのも幾らかあったが、誰一人として落馬どころか速度すら落とさなかった。

 黒山賊に恐怖のどよめきが走る。張燕は驚かなかった。

 呂布一人が居るだけの軍でも強いのだ。彼と調練を共にする軍に適うはずが無いのだ。

 そしてこの速さ。幾ら数が少なく操りやすいとは言え、呂布の騎馬隊は速過ぎる。

 一直線な為か一本の矢にも見える。一度放たれれば、的目掛けて真っ直ぐ飛んでいく。

 止める術の無い呂布の騎馬隊と全く変わり無い。


 ――我が軍が的なら儂を射止めれば的中か。


 呂布が張燕に向かった迫る。

 親衛隊が主の身を護ろうと必死に壁を作る。

 だが、奮闘虚しく呂布のたった一撃でその壁は消え去った。血飛沫が張燕にも降り懸かる。

 呂布はもう目の前だ。剣を握る手に力が入る。

 呂布の形相はまさに修羅だった。端正な顔を無表情のまま血に濡らす様は神々しくさえも見えた。


 ――もう、いいじゃないか。


 そんな言葉が張燕の頭に過ぎる。


 ――呂布に勝てる者などいないのだ。呂布に殺されるなら本望ってものでは無いか?

どこぞの馬の骨の手で生涯を終える事と比べれば幸いじゃあないか。


 諦めた様に張燕は構えた剣を下げた。

「……さあ、来い」

 死を覚悟した――。

 しかし、呂布は張燕に目もくれず、後軍へと通り過ぎていく。

「どうして……!?」

 と、目の前に巨大な戟を振り上げた校尉が迫っていた。

 戟が唸りを上げて張燕に襲い掛かる。寸でのところで避けた張燕だったが落馬してしまった。見上げると、さっきまで張燕が乗っていた馬に首は無かった。

 それから後に続く騎馬隊もまるで気にも留めない。己が存在しているのか疑わしくなる程だった。




 翌日――。

 散々打ち破られた張燕は最寄りの山内に逃げ込んでいた。

 付き従うのは僅かな手勢のみ。自責の念が募るばかりだった。


「飛燕様、ご無事でしたか」

 そう言って幕内に入ってきたのは共に救援に駆けつけた孫軽だ。

「被害は……?」

「将は杜長が死にました。騎兵隊は千ばかり。歩兵、弓兵は三千を越えます」

「……」

「……それから、食糧基地が袁紹軍の五千に奪還されました」

「そうか」


 張燕は何となく気持ちが楽になった気がした。食糧基地を奪還されたなら、もうここにいる意味は無い。

「退却する、全軍に通達せよ」

「承知しました」

 孫軽は悔しさと張燕への同情を含んだ眼差しで張燕を見て答えた。

 それを見守ると張燕も幕内から出た。

 張燕は退却の支度に勤しむ兵を眺めていた。皆、疲れ切った虚ろな顔をしている。

 絶望感漂うこの陣からすぐにでも立ち退きたかった。兵達が絶望に打ちひしがれているのはその期待が大きかったからだ。

 事実、全くの望みも抱かずに戦に臨んだ張燕は絶望とは別の事を感じていた。


 希望を棄てずに己の可能性を信じた兵達は死んでいった。必死だった者程、死んでいった。

 しかし、最初から負けるものだと諦めた張燕は未だその生を繋いでいる。

 張燕の心を悲しいもので占められていく。希望を棄てなかった者が死に、希望を棄てた者が生き残る。それがとても理不尽で空虚の事に思えた。

 西の空を見上げると一雨来そうな雨雲が垂れ込んでいた。これから帰還する方角である。

 張燕にはそれが何となく黒山賊の行く末を顕しているようで虚しかった。

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