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別に、彼じゃないといけなかったわけじゃない。
たまたま彼が世話好きで、席も隣だったから。ただ、ちょうどよかった。他に理由なんかない。
生まれてからずっと…いや、前世からずっとそうやって生きてきた。今回たまたまちょうどいい人だった彼に対しても同じことをした…それだけだ。
* * * *
「あの、よかったらこれ…」
うっかり傘を持ってくるのを忘れて濡れ鼠となった私にハンカチを差し出す、不健康なほどに真っ白な腕。その先の顔を見たとき、私は完全に硬直した。
腰ほどもある癖のない艶やかな金色の髪、萌黄色と蘇芳色が混ざった不思議な色の鋭い瞳、高い鼻梁に毒々しい青紫色の薄い唇…美しいがどこか毒を感じる美青年。入学式の次の日でありながら、その顔を私はよく覚えていた。
入学式に新入生代表として挨拶をする彼を見たときの感想は「ああ、悪役なんだな。」…ただそれだけ。どこかにそれが書いてあるわけではないが、胸にひりつく嫌悪感でなんとなくそのことを察知した。周りを見れば誰もがうっすらと眉をひそめていて、みな同じような感覚を抱いていることは容易に想像できた。
そんな日の翌日に、まさかその彼に話しかけられると思っていなかった私は、あんぐりと口を開けて、差し出されたハンカチをただ見つめることしかできなかった。
しびれを切らした彼に「返さなくて大丈夫だから」と、手に綺麗なハンカチを押し付けられてもなお、アホみたいにハンカチを見つめ続けた私は、私が座る予定の席の隣…昨日は誰もいなかったはずの席…に彼が腰を降ろすのを見て初めて我に返った。
え、同じクラスってだけでも面倒なのに隣なの…?と。
正直、悪役や主人公と同じクラスになりたい人間なんてほぼ0だろう。主人公側はそもそも学校に来ること自体が稀なので置いておくが、悪役やその子供たちは多くはないが一定数いる。
たしかに彼らは権力者ではある。媚を売るのにちょうどいいじゃない、と思うかもしれないが、彼らは権力を持つというプラスポイントを考慮してもなお、やはりマイナスにしかならない厄介な存在なのだ。性格がゴキブリレベルで悪いことはもちろん、この世界の住人は無意識に悪役に嫌悪感を抱く。その嫌悪感を相手に直接ぶつける人間がいないのは、この世界の住人が優しいからではなく、悪役たちが権力者であるからに他ならない。
そう、この世界はどの物語もバッドエンドで完結する悪夢のような「ものがたりの世界」だ。
パミーナはザラストロを刺し殺して母の元に帰り、ドロシーは元の世界になんか帰れない。ヘンゼルとグレーテルは悪い魔女に食われ、シンデレラは一生継母と義理の姉の奴隷。桃太郎は鬼に敗北し、小町は深草少将に憑りつかれて一生我には返れない。悪役というだけで力を持ち、特権階級に君臨できるふざけた世界。
前世では正義の名のもと勝利をつかみ、優雅に微笑んでいた本の中の主人公たちは、今では現実に存在するだけではなく、悪に屈し泥水をすすりながら生きたり死んだりしている。
だが、この世界でもたしかにそれらの物語は存在して、本の中では間違いなく主人公たちは勝っている。なのに現実は違う。みんな自分の役をしっかり理解しているし、その物語の内容も知っているはずなのに。
__私はずっとそれが疑問だった。
だけど、ある日私は気づいた。それはこの世界が少女漫画の世界で「そうなるように作られているから」だと。幼い頃から前世の記憶があった私だが、忘れっぽい私はこの世界とよく似た世界観の漫画シリーズの存在をすっかり忘れていた。
気づいたときはこの世界の謎が解けたようで本当に嬉しかったし、なんでもできるような気がした。だが、よくよく考えてみればそんな事実を知ったところで意味なんかなかった。だって、その漫画のシリーズのなんとなくの世界観は覚えていても、短編シリーズであったその作品のそれぞれの細かい内容を私はさっぱり覚えていなかった。だから、何か予言じみたこともできるわけでもないし、イケメンだとか金持ちの心の傷…どころかそもそも誰が少女漫画の登場人物なのかすらも覚えてない。つまり、ただ私は治安がめちゃくちゃ悪いだけの世界に生まれただけということだ。まぁ、ここらへんの地域の治安レベルは他の地域と比べればかなりマシな方らしいし、家もある程度はお金があったしまだいい方なのかもだけどさ。それにしたって、前世の知識もなんの役にたたないし…転生して「イェ~イ☆チートォ~~」とはなかなかならないもんだよね。ホント。
と、現実逃避に浸っていた私だが、悪役が隣の席であるという事実はかわらない。
昨日の「隣の人いないけどどんな人かな~!楽しみ~!」と、わくわくしていた私の気持ちを返してほしい。というか、なんで入学式で挨拶してた癖に教室には来なかったんだ?そういうフェイントマジやめて。しかもおしゃれなハンカチーフかりちゃたよ。悪役なのに、どうしてそういう親切な真似してくれちゃうんだよ。これ返されなかったら、後々絶対なんか言われるっしょ。最悪。これ借りたことちゃんと私覚えてられるかな…席についたらペンで腕にかいておこう。
…まぁ、まずは座ろう。ものすごく嫌だけど。
「あ、さっきの」
認識されたくなくて、なるべく気配を消して席まで行ったが早々に気づかれた。そりゃそうだ。隣に人が来たことに気づかない馬鹿はいない。私でもない限りね。
「…ども」
どもってなんだどもって!!おかしいだろ私!!!
いや、落ち着け。冷静になるんだ。悪役でもガチでヤバいやつは学校に来ないはずだ。大丈夫、大丈夫…。
「…へぇ、隣だったのか」
「あ、はい…。偶然ですね…」
「敬語なんか使わないでくれよ。同級生なんだから」
「いや、でも…
__あなた、悪役でしょ?
…言わずともそう訴えかける私の心は伝わったのか、男は自嘲するような笑みを浮かべて目線を下げた。
「…気にしないでいいから」
「…」
「まぁ、無理か」
ぽつり、と呟いて男は寂しげにその長い髪をくるりと指に巻き付けた。
…少し申し訳ない気持ちにもなるが、気にしないでっていわれたってこっちは気にする。いくらこの男が穏やかそうでも、それは偽りかもしれないしいつ逆上されるともわからない。だって彼は悪役だ。
「その、ハンカチは明日…」
「ああ、あれは本当に、
「返すので」
あんな厄介なモノ私はいらない。
これ以上会話を続けたくなくて、私は朝から早々に寝たふりを始めた。隣から小さくため息のようなものが聞こえた気がしたが、それは聞かなかったことにした。
…今はこいつなんかにかまってる暇はないのだ。特に今はすごく大事な時期だ。早く「いい人」を見つけないと…。
+ + +
結局昨日は私が求める「いい人」は上手くみつけられなかった。気のせいかもしれないが、クラスの人はなんとなく私のことを避けているような気がする。
そしておそらくそれはこの男の隣の席だからで…
「あっ」
朝、隣の席で寝ているんだか、寝たふりをしているんだかわからない金色の頭を見て思い出した。
私は昨日あんなに返すと豪語していたハンカチの存在をすっかり忘れていた。そもそも洗濯にすら出すのを忘れて、私のぽっけちゃんの中でくちゃくちゃになって放り込まれている。
…やっぱり私はアホだ。これだから早く「いい人」を見つけないといけないのに…
…こいつ、返さなくていいっていってたし返すのやめよっかな…。それともそのまま返す?このくっちゃくちゃの状態で?あーどれも面倒な未來しか想像できない。
「…その、えっと、
寝ている男に声をかけるが…えっと、こいつの名前なんだっけ?忘れちゃった。つーか、クラスメイトの名前も担任の名前も全然覚えてない。ま、覚えてないつーか覚えられないだけなんだけどさ。
日本では全員上履きに名前を書いていたが、こっちはあいにく校内も普通の靴だから本当に困る。全員名前書いた紙を顔面に張り付けてくれればいいのに。そしたら顔を覚える手間も省ける。
「…どうしたの?」
緩慢な動作で体を持ち上げた男は眠いのか眩しいのか半開きの目でこちらを見上げた。
先ほどまで机にうつぶせで寝ていたのに、眉毛の下でぱっつんと揃えられた前髪はなぜか崩れていない。どうなってんだ?実はこの前髪金属?…いや、そんなのは今どうでもいい。
「その、ハンカチ忘れました。明日もってきます」
「だから、別にハンカチは、
「明日」
今すぐ「ハンカチ」と大きく手に書きたいが、ここにいたら絶対に話しかけられるので、素早く席を離れて退屈そうにしている人に適当に話しかけに行く。
…本当は寝たふりしてたかったけど、はやく「いい人」も見つけないといけないしね。
+ + +
だめだ。なにもかも不調だ。「いい人」も見つからないし、ハンカチもいつまでたっても返せない。学校が始まって二週間もたってるのに、一体私はなにをしてるんだ?
ハンカチに関しては一週間前になんとか洗った。洗って綺麗に袋にいれたはいいものの、忘れたり、少し柄の似た空袋を持ってきたりと散々だ。
今日は前日からせっかく玄関に置いておいたのに、靴を履き替えるときに一瞬だけと思ってその袋を地面に置いたらそのまま忘れた。
…ああ、今日もまた謝らないと…。これにだんだん慣れつつある私が末恐ろしい。
「あの…
今日も今日とて、机の上に扇のように広がる金髪に話しかける。なんで毎朝この人寝てるんだろ。ちゃんと家で寝ろよ。
「今日こそ持ってきたのかい?」
男は長い髪を払いながらむくりと起き上がる。
「…忘れました」
「だろうね。もういい加減、私にハンカチ返すのは諦めたら?」
「今日はおしいところまでいったので」
「おしいってなにさ…」
今日は本当におしかった。忘れたのはあの一瞬だったのだ。家を出て10分後にすぐ気づいた。もし、私が余裕をもって家を出ていたら、きっと家にとりに帰って持ってこれたはずだ。まぁ、私がそんな余裕を持って出てきているわけがないのだが。週2で遅刻しなくなっただけ前世と比べると大成長だろう。
「ところでさ、君の机の中に入ってるプリントなんだけど」
「なんですか?」
「ラウラ先生の授業のやつじゃないかな?」
机の中に手を突っ込むと、なにやら空欄と文章が色々書いてある紙がでてきた。
男は体を乗り出してそれをのぞき込むと、「やっぱり」と言う。いや、なにがやっぱりなんだ。そもそもラウラ先生って誰だっけ?
「それの提出日、今日だよ。やってない人は放課後に先生の手伝い一週間だってさ」
「は?」
は?
さっぱり記憶がない。いや、本当に。マジで私いなかったとかじゃ…
「見たいかい?」
目の前で天女のようにひらひらと揺れる空欄の完全に埋まった紙。それは私の手元にある紙とそっくりなようでいて、価値は全く違う。
一週間手伝いは嫌だ…でも、こいつとさらに関わりを持つのも…
「お願いします…」
「どーぞ」
ああ…今日もまた助けられてしまった…。
ここのところずっとこんな感じだ。私が提出物やらテストやらを忘れると、必ずこの男は手を貸してくれる。手を貸すだけでなく、今日のような先回りみたいなこともしてくれる。初日やここ二週間の行動からして、もともと面倒見のいい性質なのだろう。彼がほかの生徒に手を貸そうとしている姿は何度も校内で見かけた。まぁ、ほかの生徒は私と違って彼に手を借りるほど迂闊でもボッチでもないので、私が見た限りではすべて断られていたが。
「…そこ違う。スペルミス」
「え?」
「ここだよ」
「…ああ、ありがとうございます」
私が彼のプリントを必死に写している間彼はとなりで、私の細かいミスを指摘してみたり、内容を軽く解説をしてみたり、読み上げて私が素早く写せるようにしてくれたりと、世話好きっぷりを見せつけてくれた。私としてはプリントだけ渡して寝ていてほしかった。見られながらやるのプレッシャーだし、こいつと一緒にいられるの見たくないし。
「はい、これで終わり。手伝い回避できてよかったね」
その言葉と共にチャイムが鳴ったので、慌ててお礼の言葉を告げてプリントを返す。
彼は笑顔で「気にしないで」と言って軽く手を振ると、頬杖をついていつも通り教壇の方をまっすぐ見つめた。
…いつも、本当にいつも彼はクラスメイトの誰よりも先生の話を熱心に聞く。絶対大したこといってない学園長の話も、朝礼も、授業も、終礼も。先生の手伝いだって率先してしようとする。もちろん、悪役である彼の手を借りることができるような勇気ある教師はいないから、やっぱりその手伝いの申し出が受け入れられたことはない。
…悪役の癖に真面目で好青年、か。もしかしたら彼が本性を出していないだけかもだけど、もしこれが彼の本性だというのなら…生き辛そう。私と同じで。