見える魂
僕が赤ん坊のとき、お母さんは死んでしまった。そのように、お父さんから聞かされて
いた。
しかし、僕にはそのお父さんの言葉が理解できなかった。なぜなら、お母さんはいつも
僕の傍にいたからだ。
料理や掃除洗濯はしてくれないが、お母さんはいつでも僕の隣にいてくれた。
僕が転んで泣いたときは優しく頭を撫でてくれて、テレビを見て一緒に笑ってくれて、
寝るときは添い寝してくれた。
僕以外の人にはお母さんの姿が見えないのだと明確に悟ったのは、六歳のときだった。
保育園で一番の友達だったヨシヒト君のお母さんが、彼の家でオヤツを食べさせてくれな
がら僕に言った。
「あっくん、お母さんがいなくて寂しいよね?」
それまでも、僕は周囲から同情の言葉をかけられ続けていたが、全く理解できていなか
った。僕のお母さんは、いつも隣にいるのに。その時だって、クッキーを絨毯にこぼさな
いで食べなさいと、ちょっと怖い目をして僕を見張っていたのに。
小学生になった頃には、お母さんは幽霊なのだと僕にもわかっていた。
それでも、僕は悲しくはなかった。もちろん怖くもなかった。
お母さんはいつもニコニコ笑っており、僕をヒステリックに叱りつけることも、怒りに
任せてぶつこともない。
それに普通の生きているお母さんなら、いつも子供の傍にいてはくれない。でも僕のお
母さんは、それこそ四六時中僕と一緒にいてくれる。授業中でも、通学路でも、遠足や運
動会でも、お母さんはずっと僕に寄り添っていてくれた。
お母さんは、僕だけのお母さんだった。
だから、お父さんはずっと仕事で忙しかったけど、僕は寂しいなんて思ったことがなか
った。
その上、お母さんは他のお母さんのように歳をとらなかった。いつまでも若々しく、綺
麗なままでいてくれた。
でも、お母さんは傍にいてくれるだけだった。お母さんが僕の手助けをしてくれること
はなかった。国語のテストで漢字を教えてくれたりはしない。ガキ大将のタモツ君に不条
理に殴られたときも、助けてはくれない。ただじっと僕の目を見て、泣きそうな顔をしな
がら、同時に強い瞳で僕を見守ってくれていた。だから僕は難しいテストも諦めなかった
し、タモツ君に対しても殴り返すことができたんだ。
僕の話をいつでも聞いてくれたけど、お母さんから僕に話しかけてくることはなかった。
なにかを相談しても、お母さんは肯くか首を振るという行為でしか応えてくれなかった。
それでも、お母さんが傍にいてくれるだけで、話を聞いてくれるだけで、僕は幸せだっ
た。
しかし中学生になった頃から、僕はお母さんの存在が少し疎ましくなっていた。何しろ
二十四時間、僕とお母さんは一緒にいたから、他の友達がしているようにエッチな本を見
ることもできなかった。
お母さんはやがて僕の気持ちを理解して、僕がその行為をしたいと考えたときだけは、
どこか他所へと姿を消してくれた。
そんなことでも気遣ってくれるお母さんが、僕は益々好きになった。
虚空を見上げて、いつもなにかを呟いていた僕は、いつしか変人扱いされるようになっ
ていた。からかっていただけのクラスメイト達は、やがて僕をいじめるようになった。
教科書やノートは卑猥な落書きで埋まり、上履きや体操服は隠され、掃除当番は一人で
させられた。そして毎日のように殴られた。僅かなお小遣いも奪われた。
でも、僕が耐えられなかったことは、いじめられたことそのものじゃない。
いじめられている全てを、お母さんが傍で見ていたことだ。これは耐え難かった。
息子がサッカーのゴールポストに縛りつけられ、皆からボールをぶつけられる様子を見
ていたお母さんは、どんな気持ちだったのだろう。パンツを下ろされ、股間をライターで
炙られている息子を見て、どんな気持ちだったのだろう。
悲しかったのかな。怒っていたのかな。悔しかったのかな。
お母さんは言葉にして、それを伝えてはくれない。ただ、僕のことを見守ってくれるだ
けだった。
僕はとにかく、自分自身が情けなくてしかたなかった。
僕はお母さんに助けを求めたりはしなかった。もう十四歳にもなっていたのだから、自
分の問題は自分で解決させねばならない。そりゃ、股間を蹴りあげられて、その痛みに悶
えていたときには、幽霊のお母さんにクラスメイト達が呪い殺されればいいのにとも願っ
たことはある。でも僕の本心は、お母さんに心配をかけない、立派な男になることだけ。
自分自身で、問題に立ち向かい克服すること。それが何より、親孝行になると信じていた。
僕がいじめられている間のお母さんは、ただじっと僕を見ていた。
本当は怒鳴りたかったのだと思う。クラスメイトにではなく、僕に対して。
「男なら立ち向かいなさい」と。
小学生のときはタモツ君に立ち向かうことができていた僕も、中学生になってからは全
く反抗できずにいた。なにしろクラス全員が敵なのだ。どんなに頑張っても勝ち目はない。
直接手を下すのは男子生徒だったが、女子生徒も遠巻きに僕を見て笑っていた。担任の先
生も知っているはずなのに、気づかぬふりをしていた。
僕の味方はお母さんだけ。
でも、そのお母さんは声が出せない。ただじっと、僕を見守ることしかできない。
お母さんは、よく泣いていた。
これは僕の勝手な解釈だけれども、お母さんはたぶん自分を責めていたのだと思う。
息子が酷い目に合っているのに、それをすぐ近くで見ているのに、自分ではなにもして
あげられないことを悲しんでいたのだろう。いじめのきっかけを作ったのが自分だと、悔
やんでいたのかもしれない。
ごめんなさいお母さん。僕が強い子供だったら、そんなふうにお母さんを悲しませるこ
ともなかったのに。本当にごめんなさい。
学校に行かないという選択肢もあった。でも、お母さんはそれを許さなかった。
朝、お父さんが僕を起こしにくるとき、仮病を使い学校を休もうとすると、お母さんの
顔はひどく険しいものになった。お母さんはすべてを見通していた。僕の嘘は一切通用し
なかった。怖い顔をして、僕の眼の前で首を振り続けた。
「ダメよ、逃げてはダメ」
そんな声が聞こえた気がした。
だから僕は、どれほどいじめられた後でも、決して学校を休むことはしなかった。
やがて僕はようやく、クラスメイトたちに歯向う機会を得た。それは、万引の手伝いを
命じられたときだった。クラスメイトたちがスーパーでお菓子を鞄に詰めている間の見張
り役をしろと言われた。僕は首を横に振った。殴られても蹴られても、僕はその命令に従
わなかった。
お母さんが見ているんだ。
お母さんの前で、悪いことだけはできなかった。
僕は頑なに拒んだ。それどころか、クラスメイトたちを注意してやった。そんなことは
やっちゃいけない、と。
その日僕は、普段の三倍は殴られた。結局、万引よりも僕を痛めつけることが面白くな
ったのか、僕の足腰が立たなくなるまで、彼らはその暴力を止めることはなかった。おか
げで、僕は入院することになる。鎖骨とろっ骨にひびが入っていた。
文字通り怪我の功名といえるだろうか。その入院が理由で、僕に対するいじめは終わっ
た。学校側もさすがに隠し通すことができず、僕をいじめていた連中は揃って親を伴って、
僕に土下座して詫びた。
いつもはつっぱって大人ぶっている連中だったが、親が傍にいれば皆素直な子供になっ
ていた。
僕は病院のベッドの上で、お母さんと見つめ合いにっこりと微笑んだ。
いじめが終り、怪我も治り、ようやく僕も平穏な生活を取り戻すことができると思って
いた。
しかし、どうやら神様というやつは僕のことが嫌いなようだ。
僕と入れ違いになるように、今度はお父さんが入院した。
お医者さんは悩んでいたようだけれど、僕に本当のことを教えてくれた。
お父さんは癌で、あと一年も生きられないのだと。
僕は悲しかったが、それ以上に途方に暮れた。
お父さんが死んでしまったら、まだ中学生の僕はどうやって生きていけばいいのだろう
か。
お母さんはいつでも傍にいてくれるけど、僕にご飯を食べさせてはくれない。お父さん
も死んでしまったあと、お母さんと同じように僕の傍にいてくれるかもしれないけど、や
っぱり僕を養ってはくれないだろう。
僕を引き取ってくれるような親戚もいない。僕は施設に預けられたりするのだろうか。
そんな将来を思い描くと、僕は不安で眠れなくなった。
お母さんが見守ってくれていても、恐怖は拭えなかった。
僕は毎日、お父さんのお見舞いに行った。お父さんは、自分の体のことを知らない。薄
々気づいているのかもしれないけど、僕の前では気丈に振る舞っている。僕のご飯を心配
したり、学校の勉強を教えてくれたりしていた。
それでも、日に日にお父さんは痩せていった。
そんなお父さんの姿を、お母さんは僕の隣で、悲しそうに見つめていた。
お父さんはお母さんを見ることができない。だから僕が教えてあげた。お母さんも心配
しているよ、と。早く良くなってと言っているよ、と。お母さんの声は僕も聞くことがで
きないけど、きっとそう言っているはずだった。
僕の話を聞いて、お父さんは泣いていた。僕は、お父さんが泣くところなんか見たこと
なかったから、これには慌ててしまった。お父さんは泣きながら、僕に謝った。なんでお
父さんが謝るのか僕には分からなかったけど、何度も何度も、お父さんは僕に頭を下げた。
お父さんは入院してしまったけど、お父さんの勤め先からはちゃんとお給料が振り込ま
れていた。詳しいことは分からないけど、お父さんの肺癌には労災が適応されたのだとい
う。だから僕は飢えることはなかった。それに、一人じゃない。ご飯を食べるときも、テ
レビを見ているときも、お母さんが傍にいてくれた。だから、寂しくもなかった。
料理の方法は、お母さんが教えてくれた。
言葉では伝えてくれないけど、僕が間違ったことをしそうになると、お母さんは首を横
に振る。上手に作ると、お母さんは笑ってくれた。
お父さんがいなかったけど、僕はいつも二人分の食事を用意した。もちろん、それは僕
とお母さんの分だった。お母さんの前にお皿を並べると、お母さんは呆れた顔をしていた。
食べることなんかできないのだから、食材がもったいないというふうに、少し怒った顔も
するのだが、僕はその準備を止めることはなかった。
僕の家の事情を知っている隣近所の人たちが、いろいろと気をかけてくれた。
温かいおかずを分けてくれたり、家の前を掃除してくれたり、病院にお見舞いに行く僕
の代わりにスーパーで買い物をしてくれたり。僕の誕生日を憶えていたおばさんもいて、
小さなケーキを買ってくれたこともあった。僕はその小さなケーキを更に小さく切り分け、
お母さんと一緒に食べた。
こうした周りの人々の厚意により、お父さんがいなくとも僕はなんとか生きていられた。
しかし、お母さんが僕の支えになってくれるのはあくまで精神的な部分だけ。結局生き
るためには、血の通っている体を持った人々に支えられなければならなかった。
そう僕が悟ったときから、お母さんの姿が薄れていった。
それまでは、普通の人たちとなんら違いがないくらい、お母さんの姿ははっきりと見え
ていたのだけれど、後ろの風景がぼんやり分かるほど、お母さんの体は透けていった。
ようやく幽霊らしくなってきたね、と僕が言うと、お母さんは困ったような顔で笑って
いた。
お母さんと周りの人々の支えにより、僕はなんとか元気にやっていた。
でも、お父さんの病気は進んでゆく。
手術もできず、抗癌剤の効果もないのだと、お医者さんは僕に説明した。
治る見込みは全くなくなっていたので、せめてその痛みだけでも和らげようと、お父さ
んはモルヒネを打たれるようになっていた。だから僕がお見舞いにいっても、お父さんの
意識が殆どないという日が続いた。
そして寒い冬の朝、お父さんは眠るように死んでしまった。
お母さんと同じように、お父さんも僕の傍にいつまでもいてくれることを期待していた
けれど、お父さんは現れなかった。
僕は長い間、白いシーツに頭までくるまれたお父さんの傍に座っていた。
これからどうしたらいいのだろうか。真っ直ぐに立ちあがる線香の煙の前で、僕はただ、
これからの行く末について考えていた。お父さんを追って死んでしまおうかとも考えた。
でも、お母さんが怖い顔で僕を睨んだから、死ぬことは止めた。
長い時間呆然としていた。気づくと僕は、誰かに後ろから抱きしめられていた。
線香とは違う、どこか懐かしい香りが鼻をくすぐる。
お母さんだ。
幽霊のお母さんは、それまでも頭や頬を撫でてくれたりしてくれたが、触感は全くなか
った。匂いもしなかった。でも僕は憶えていた。
お母さんが体を取り戻し、どうしようもなくなった僕を助けに来てくれた。そう思った。
だけど、振り向いた僕の目には、見ず知らずのおばさんが映っていた。
「厚志、ごめんね厚志」
そのおばさんは、泣きながら僕を抱き続けた。
「だれ?」
と僕は短く問う。おばさんは、涙と鼻水まみれたくしゃくしゃの汚い顔でこう言った。
「お母さんよ、あなたのお母さん」
馬鹿なことを言うおばさんだ。僕のお母さんなら、ほらここに居るじゃないか。このお
ばさんには見えないだろうが、お母さんはこれまでずっと僕の傍にいてくれた。ここに居
るじゃないか。
僕はおばさんに抱きつかれたまま、右を向く。そこには壁しかなかった。
今度は左を向いてみる。そこにも壁しかなかった。
「お母さん」
僕は声に出してお母さんを呼んだ。
「そう、お母さんよ。あなたのお母さんよ」
おばさんが嬉しそうに応える。おばさんはなにを勘違いしているのか、自分のことを呼
ばれたと思ったようだ。けど、僕が呼んだのは本当のお母さんだ。
「お母さん」
もう一度呼んだ。けど、お母さんは現れてくれなかった。これまでも一時的に、お母さ
んが姿を隠すことはあったけれども、僕が呼んで出てきてくれないことは一度もなかった。
「お母さん」
僕はしつこく呼びかける。
おばさんはまだ勘違いしているようだ。泣きながら微笑み、僕の体を力いっぱい抱きし
めてきた。
いい加減腹が立ってきたので、僕はそのおばさんを突き飛ばした。
「お母さん出てきてよ。お母さん」
突き飛ばされて床に転んだおばさんは、だらしなく口を開けて僕を見上げていた。
「厚志……」
しばらくおばさんはしくしくと泣いていたが、突然毅然とした顔で立ち上がり、僕の頬
を力強くぶった。乾いた音が部屋に響いた。
「しっかりしなさい厚志。お母さんが迎えに来たのよ。あなたのお母さんはここにいるの」
きょろきょろとお母さんの姿を探す僕を、再度そのおばさんは強く抱きしめてきた。
「ごめんなさい。お母さんを赦して。勝手に出て行ったのはたしかに悪かったけど、私に
も事情があったの。けして、あなたが嫌いになったわけじゃないのよ。お母さん、いつも
厚志のことを思い出していたよ。ちゃんとご飯食べてるかな、いじめられたりしてないか
なって」
僕はもう一度そのおばさんを振りほどき、お父さんが眠る部屋を飛び出した。もちろん、
お母さんを探すためだ。
しかし部屋を出た途端、僕は大柄な男の人にぶつかった。
「厚志、これから一緒に暮らす人よ。新しいお父さんよ」
刺すようなおばさんの声が背中から聞こえた。
「君が厚志くんかい。はじめまして」
男の人はお父さんと同じくらいの年齢に見えた。でもすらりと背が高く、彫りの深い顔
立ちをしていた。
僕はその男の人も無視して、お母さんを探した。
「お母さん、お母さん」
病院の廊下に、僕の声だけが響き渡った。
けれど、やっぱりお母さんは出てきてくれなかった。
半狂乱で走り回る僕を、男の人の大きな手が捕まえた。
「しっかりしなさい。君も男だろう。悲しいのは分かるが、お母さんも悲しいんだぞ」
男の人の力は強く、僕にはとうてい振りほどくことはできなかった。
おばさんも廊下に出てきた。
僕は叫ぶように言ってやった。
「そんな人、お母さんじゃない。僕のお母さんはずっと前に死んでるんだ。でも、お母さ
んはずっと僕の傍にいてくれた。僕のお母さんは、あんな醜いババアじゃない」
おばさんにぶたれた同じ頬を、今度はその男の人の大きな掌でぶたれた。視界が揺れ、
僕は立っていることができなくなっていた。
意識が、遠のいてゆく。
消えゆく意識の端で、僕はおばさんの悲しげな声を聞いた。
「あの人が、そう言って育てたんだわ。おかあさんは男を作って逃げただなんて言うより、
よほど説明しやすかったのでしょうね」
僕の母親は、どうやら死んではいなかったようだ。僕がまだ赤ちゃんの頃に、他に好き
な人ができて僕とお父さんを捨てたのだと、母親は自ら告白した。僕を叩いた男の人は、
当時の母親の不倫相手だった。
母親は僕を引き取り、これから育ててくれると約束した。大学にも行かせてくれるのだ
という。新たに父親となった男の人も気さくな性格で、友達のような感覚で僕に話しかけ
てくれた。
新しい家に連れていかれ、二歳違いの妹にも紹介された。明るい性格の娘で、僕のこと
をすぐにお兄ちゃん、と親しげに呼んでくれた。人見知りする僕は、まだまともに妹の顔
を見ることができない。
お父さんが死んでしまったことは悲しいけれど、僕は安心できる生活を得ることができ
た。母親も父親も、多少ならば僕のわがままを聞いてくれた。二人には僕を捨てた、そし
て捨てさせた負い目があったのだろう。
しかし、僕は不思議でならない。
母親が生きていたなら、僕がこの十五年間一緒にいたあのお母さんは、いったい何だっ
たのだろう。母親の幽霊ではなかったのだ。
その話を新しい父親にすると、一応筋の通った回答を僕に示した。
お母さんがいなくなってしまった僕は、自分の中でその代わりとなる存在を創り出した
のだ、と。
これが正しいならば、僕は十五年という長い間、妄想幻覚を見続けていたということに
なる。
けど、僕はその答えを認めない。
お母さんは確かに存在した。
新しい生活は一見満ち足りていたが、隣にお母さんがいないことが僕を不安にさせた。
本当の母親は、結局僕を捨てた人なのだ。
僕のお母さんは、幽霊のお母さんしかいない。
お父さんの葬式は、母親と新しい父親により、滞りなく済まされた。お父さんが荼毘に
付されている間、僕は火葬場の待合室で母親と父親、そして妹と、火鉢を囲んで座ってい
た。妹が、鉄製の火箸を物珍しげに弄んでいる。
新しい家族との会話もなかったから、僕はただ窓越しに見える曇りがちな暗い空を眺めて
いた。その時、窓の外にお母さんが見えた。灰色の空の下で、お母さんは僕を見て泣いて
いた。
お父さんが死んで以来、久しぶりに姿を現してくれたお母さん。お母さんの姿は、殆ど
消えかけていた。
なんで泣いているのかな。なんで心細い僕の隣にきてくれないのかな。
そうか、お母さんには居場所が無くなってしまったんだね。
本当の母親が出てきたから、お母さんは僕の傍にいられなくなったんだ。
かわいそうなお母さん。ずっと僕を見守ってくれていたのに、居場所がなくなってしま
うだなんて。
僕はすっと立ち上がり、妹が持つ火箸を奪い、勢いよく母親の喉へと突き刺した。
一瞬のことだったので、父親も僕を止めることはできなかった。
母親の喉からは、鮮やかな血液が噴き出していた。
妹の甲高い悲鳴が響くなか、僕はお母さんの姿を探す。本当のお母さんを探す。
お母さん、お母さん、僕のところへ戻ってきて。
けれど、お母さんの姿はもうどこにも見えなかった。
第四回YAHOOJAPAN文学賞応募作です。
応募規定のままの改行となっています。
選考には残れなかったのですが、今後の糧として、読んでいただいた方に批評していただければ嬉しいです。
よろしくお願いします。