6.常識って、何ですか
森から帰ってきたセレナは木で作られた匙で器の中身をぐるぐるかき混ぜていた。
行儀が悪いのは分かっているが、今は何かに集中していたい。
手を止めれば、あの兎の断末魔の叫びを、切り裂かれ噴出した血液を、思い出してしまう。
あんな生き物、異様だ。
そもそも大きさが尋常ではない。セレナは163cmと、女子中学生として少し高めの身長だが、兎はそれを軽々と超えていた。
スライムに至ってはもう何も言えない。
セレナは動いているところを見なかったが、見ていたら一生ゼリーが食べられないだろう。
そして一番衝撃的だったのは、クラウスの使った魔法だ。
非現実的なことばかり。『異世界だから』で納得できない脳が、行きつく思考は───
「帰りたい・・・」
ぽつりと、唇からこぼれた。───こぼれてしまった。
それは、今まで支えてきたものが、折れてしまった音でもあって。
「セレナ・・・?」
クラウスが心配そうに声をかけ、手を伸ばしてくる。
その手を、セレナは振り払った。
傷付いたように瞳を揺らめかせるクラウスを見て、罪悪感がちくりと胸を刺す。
今は、今は駄目だ。
今、クラウスに触れられれば、きっと自分を抑えられない。
良くしてくれたクラウスに、ひどい言葉を浴びせてしまうから。
「放って、おいて」
限界だった。
セレナは小屋を飛び出し、森の中へ入った。
滅茶苦茶に走り、自分がどこにいるのか分からない。
「あっ‼」
木の根に足を引っかけ、セレナは派手に転んだ。
擦りむいた膝から、血が滲んでいる。
立ち上がる気力を失い、セレナは地面に座りこんだ。
ひとり。ひとりだ。
薄暗い森で、セレナはぽつんと座っている。
───物理的なことだけではない。
セレナの気持ちが分かる人など、いない。
だって自分は、別の世界に紛れ込んだ異分子。
セレナは、孤独だった。
初めて、孤独を感じた。
誰も、セレナの話を聞いて、セレナと同じ体験をして、分かるよ、辛いよねと言ってくれる人はいないのだ。
当たり前だ。魔獣がいて、魔法があって、電気なんかなくて、それがこの世界の常識。
おかしいのは、セレナの方だ。
日本の常識は、こちらでは通用しない。
それなら。
常識とは、何なのか。
一般人が共通に持っている、または持つべき普通の知識?
セレナが考えていた『普通』は、簡単に砕け散った。
非常識だと社会生活上に支障をきたす?
世界が変われば、常識人が非常識だ。
『常識』とは何か。
『普通』とは何か。
『当たり前』とは何か。
全て、偏見が作り上げた空虚なもの。
このような状況に陥ったとき、何の役にも立たない。無価値、無意味。というより邪魔。
見たものをすんなり信じることは常識に阻まれ、逃げることは現実が許さない。
普通には裏切られ、セレナの心情なんか無視して当たり前だと教えられる。
戻りたいという、願望すらも叶うことはない。
「ふ・・・ふふっ」
笑いが漏れた。
───これが笑わずにいられるか。
ひとりぼっちで、信じていた常識はまやかしだったと知り、違いに苦しめられるなんて。
笑い声が響くたびに、心がひび割れていく。
それでも、セレナは狂ったように、壊れたように笑い続ける。
───笑い続けた。