3月月末 休日2日目 その3
昔、交通事故の現場を見たことがある。
車が自転車と接触した事故だ。
俺は当事者でもなかったし、幸いどちらにも怪我はなかった。
しかしそれでもあの時は、どうすれば良いのか分からず、ずっと固まってしまっていた。
今回は、それが、自分も当事者に近く。
それでいて死者が出ているという状況だ。
パニックになっても、何もおかしくない。
むしろ、目の前で人が死んで、自分も死にそうな状況では、パニックになるのが普通だろう。俺はそう思う。
けれども、目の前の恐怖が。
恐怖の塊が、それを許してくれない。
体高30cm、体長80cmほどの蟻は、どこからどう見ても生理的な嫌悪感を掻き立ててくる。
そんな存在が自分に迫ってきているのだ、嫌でもパニックになんてなれない。
そして、俺をパニックから引き戻す要因は、もう1つあった。
それは、視界の中に、不自然に引かれた赤い線。
半透明の、赤い線。
マジックで空中に描かれたような、赤い線だ。
普通なら、あまりにも不可解な赤い線が急に引かれたなら、反対にパニックになるだろう。
触ろうにも触れないし、一体なんなのかも分からなければ、眼球がおかしくなったのか、頭がおかしくなったのか。そんな心配をしてしまう。
だから、パニックになっていない俺には、それがなんなのか分かっていた。
直感的にではあるが。
それは、攻撃のラインだ。
目の前の蟻の、攻撃の軌道を描いたライン。
赤い線は、蟻の顎から、俺の足に向けて伸びている。
蟻の顎が、銃弾のように飛んでくるはずはないので、きっとこのルートで向かってきて、俺に噛み付く予定なのだろう。
赤い線はそれを視覚的に示している。
威力や、タイミングすらも。
なぜ、そう分かったのかは分からないが、しかしそう思う。
これは攻撃のライン。
俺は攻撃される。
足の、鉄ではない布のような革のような、そんな鎧部分に、あと数秒の後、噛み付かれる。
そんな事実を、視覚的に示された俺は、嫌でもパニックになることはできない。
「マズイマズイ」
とは言え、なにをすれば良いのかは分からない。
ただただそんなことを言って、うろたえる。
けれどもそれではいけないと、ようやく俺の体は、横に一歩二歩動いてくれた。
赤い線を避けるように。
赤い線は真直ぐ向かってきていたから、これで躱せる。良かった。――っ?
「追尾って!」
しかしどうやら、赤い線はカーブしてくるようだった。
いや、赤い線じゃなく蟻が、だ。
考えて見れば当然のことだった。
人間とて、タックルしようとしている相手が横にずれれば、その方向を変える。
さらに横に逃げたが、噛み付きは避けられない。
ずーっと追いかけられる。ただそれだけだ。
脳裏に、先ほどの光景が浮かぶ。
生きながらに蟻に群がられるあの光景が。
地獄絵図と言っても過言ではないような光景が。
「あ……あ」
俺にあった一粒の冷静さが、吹き飛びかける。
「クレーアントの噛みつきは避けるんじゃない、武器で叩きつけて止めるんだ!」
だが、そこへ、近くにいた冒険者と言われる人の声が届いた。
俺はその言葉に縋るように、体を動かす。
未だ震える手で、とにかく剣を目一杯握り締めた。
そして今にも足に噛み付こうとしている蟻へ、剣を振り下ろす。
いや、違う。
急に見えた、線。
今度は赤ではなく、青色の線。俺の剣から蟻の頭か、首か、その辺りに向かうその線に沿うように、剣を振り下ろしたのだ。
人生で一度も振ったことのない剣。
体育で剣道を1時間2時間くらいしたというだけの俺の初撃。
もちろん頼りない一撃だっただろうが、それでも無防備な蟻の脳天に決まった。
「ギャ!」
「鳴き声あるんかい!」
というツッコミはさておき、切断するというより、ただの打撃のような形だった俺の一撃は、どうやら蟻の攻撃を食い止めることに成功したらしい。
見れば、赤い線は消えている。
蟻も、心なしかよろけているように見えた。
意外と、効いたのか?
確かに手が痺れるほどには強く叩きつけたが……。
俺は、先ほどの声の主に感謝しつつ、反射的に、蟻から出ている半透明のアレを探した。
HPとかが書かれたアレだ。
数値を見たい。
HPの残りを知りたい。
蟻の表情は全く分からないが、効いている……ような気がしないでもない。
一体どれほどのダメージを与えられたのか。
『クレーアント
ジョブ:酸蟻
HP:95 MP:100
ATK:26 DEF:20
CO:--』
……5ダメージか。
……それは、多いのか、少ないのか。
そして、勝ち目があるのか。ないのか。ないかもな。
だが、戦わない、という選択肢はありえない。
剣の一撃から立ち直ったのか、元々立ち直る必要もなかったのか、蟻は、また突撃してきた。
再び俺の目には赤い線。
そして、青い線が見える。
こちらの青い線もまた、俺にはなんなのかが直感的に分かった。
俺の攻撃の線だ。
いや、少しニュアンスが違うか。
ここに攻撃をすれば、当てることができる。もしくは急所に当てることができる、そんな線だ。
だから、赤い線は常に1本だが、青い線は数本見えている。
なぜそんなものが見えるのかは、はなはだ疑問だ。
神様がそんなことを叶えてくれたのだろうか。
一体課金機能が、どのような形で叶ったのだろう。
しかし、今は考える暇もない。
俺はそれをただのラッキーと捉え、赤い線と交差する青い線目掛けて、再び剣を振り下ろす。
「ギャ!」
『クレーアント
ジョブ:酸蟻
HP:91 MP:100
ATK:26 DEF:20
CO:--』
与えたダメージは、4。
鳴き声だけ聞いていれば、痛いっ、と言っているように聞こえるのだが、減らない。
Lv1の主人公でも、1発の攻撃でもっと与えていると思う。
最初の頃は、大体3度か4度攻撃すれば終わるじゃないか。
20回攻撃しても倒せないってどうよ。
現実は世知辛い。
たった5%しか削れないとは。
……いや、もしかすると、死ぬまでの100段階の内の5段階ダメージって、大きいのか?
現実に置き換えたなら、骨折よりも上か? 骨折は死なないしな。
痛いのだろうか。
どうなんだろうか。
蟻の表情を見ても、俺は何も分からない。
蟻の観察を、自由研究でやったこともあるが、流石に表情までは観察していなかった。
巣の作り方なんていくら研究しても無駄じゃないか。
巣が人生に関係することなんて、殺されて運ばれてからの話だ。……嫌なこと考えちゃった。
と、俺がそんなことを考えていたからだろうか。
隙を感じ取ったかのように、蟻は再び6本の足をなだらかに動かして、赤い線に沿って突撃してきた。
今度は止めることができなかった。
蟻は俺の足元へ。
そしてその鋭利な顎が俺の足に噛み付いた。
「いっってえ!」
布か革か、そんなものの上からだが、かなり痛い。
そりゃあそうだ。蟻はこの顎で、獲物を殺して肉を食いちぎる。
俺からしたら、ナイフで刺されたようなもんだろう。
ナイフで刺されたことはないから知らないが。
反射的に、俺は、俺自身を見る。
多分俺にもHPがあるはずで、一体何ダメージ食らってしまったのか、と。
『キジョウ・エト
ジョブ:異世界民
HP:93 MP:100
ATK:20 DEF:20
CO:--』
7ダメージ。
……7か。これで7か。
……痛いな。
いやしかし、俺、弱いな。
蟻の方が強いぞ? ATK分。6も。
というか剣のATK20って、俺のATK分0じゃねえか。
……神様……。
「ていうか離せ!」
俺は右足をぶんぶん振る。
なぜならそこに、未だに蟻が噛み付いている。
けれど長い足を振ろうにも、蟻はかなり重い。ダンベルでもくっついているかのよう。いや蟻だが。
それに、痛い。
俺が離れさせようとしているのが分かったのか、蟻は噛み付く力をさらに強めてきた。
人生で1番レベルで痛い。虫歯より痛い。
だが、HPにまだ余裕がある。
おそらく死ぬわけではない。まだまだなんとかできる範囲のはずだ。
しかし、HPが残っていても、足が食いちぎられるなんてことはあるかもしれない。
それは恐すぎる。ごめんこうむる。
何も知らない異世界で、それは死ぬしかなくなってしまう。
「痛い痛い! こんのおー!」
それに、死んだミリアンさんのように持ち上げられてしまえば、きっと俺も地面に転がされ、顔とかに噛み付かれる。
群がれれば一気に死んでしまうだろう。
だからその前に俺は、噛み付く蟻目掛けて剣を突き刺した。
素人だからか、振って叩くよりも、こうやって体重をかけられる真下ヘの突きの方が威力は高い。
攻撃を意識した瞬間に見えた、青い線に沿うように、俺は剣を走らせる。
すると、全体重を込めたような突きは、偶然にもスッと。
そのまま、青い線の終着点である蟻の頭と体の接着部位、首へと向かい、手ごたえもあまりないまま深々と地面まで突き刺さった。
「ギャ!」
毎度お馴染みの鳴き声を出す蟻。
しかしどうせ大して効いていないんだろう。やはり俺の足をまだ離してくれない。
『クレーアント
ジョブ:酸蟻
HP:86 MP:100
ATK:26 DEF:20
CO:死亡』
やはりダメージは1桁。
たったの5ダメー――。
「死んでる……」
……。
……。
……。
噛み付かれている右足を引く。
蟻もズズズズ、と一緒に動く。
ぺいぺい、と振り払うように右足を動かす。
するとぷりんっと蟻が取れた。蟻はその場に倒れ伏したまま動かない。
『クレーアント
ジョブ:酸蟻
HP:86 MP:100
ATK:26 DEF:20
CO:死亡』
「死んでいる……」
お読み頂きましてありがとうございます。
とても長い1日です。