第十四話 旅路
屋敷を出発してから、すでに一時間くらいは経った気がする。だというのに、景色はさっぱり変化を見せなかった。左手には灰色の壁が後ろへと流れていき、右手には延々と緑の平原が映っている。そして空は薄暗い雲に覆れていて、地面はひたすらに乾いた茶色だ。
「もしかして、眠くなってるのか?」
僕の右隣に座るアヤカが、僕があくびをしたのを見て呆れたようにそう言った。
「少しだけね。全然変わらないから、景色が」
不老不死の魔女をこの手で倒し、西にいる人々を救う。その使命を忘れてはいなかったが、風景の退屈さからくる眠気はどうにも振り払いきれなかった。
「では私が面白い話をしてやろう! あれはだな、私がお城で暮らしていた時のことだ……」
そう話すアヤカは地下室から出てきて以降、その態度を大きく変えていた。痛々しさを感じるほどに。
まるで本物の軍人だとでもいうかのような彼女の言動。それが魔女によるものであるから憤りも感じるが、同時に僕のせいでもある。
このアヤカを元に戻すためにも、必ずや魔女を討たねばならない。そう心に誓い、アクセルを踏み続けることしか今の僕には出来なかった。
「聞いているのか? ミツキ」
「え? うん、聞いてるよ」
にやりと笑ったアヤカの顔が、僕の右からのぞき込んでくる。
「どうだ面白いだろう! しっぽも白いから尾も白い、面白いってことだ!」
そう言って高笑いを始めたアヤカ。彼女の根っこの部分は変わっていなかったことに安心していると、空を覆う暗雲が白く光った。その直後に大きな爆発音が聞こえる。
「雷かな」
ハッチを開けて頭を出したアヤカに尋ねると、彼女は断言した。
「雷だな」
それからすぐに雨が降り始めた。ぽつぽつとだなと思っていれば、今はもう大雨だ。長く鋭い雨脚が何本も何本も落ちてくる。
この一号戦車の中は雨漏りこそしないものの、太ももや左腕といった僕が戦車に触れている部分から、体温が吸われるようになった。そのおかげで景観に飽きた僕の目が覚めるのはありがたかったが、寒すぎるのも困りものだ。
「毛布でも持ってくれば良かったな、すまない」
「それは僕もだよ。すごい雨だね」
ただでさえ太陽が隠れていたというのにこの大雨だ。道を見通すことができなくなってしまった。ライトはどうやってつけるのかと尋ねると、操縦席の方じゃないのかと返ってきた。
体を屈めてそれらしいものを探すと、右手で届く範囲にスイッチが一つあった。それを逆側に倒してみると、宙に無数の雨脚が浮かび上がった。
「あった」
「だな」
直後にアヤカのくしゃみが聞えた。見るとアヤカは身震いしながら鼻の底を擦っている。
「もしかして雨漏りしてる? 砲台とか、覗き穴からとか」
「ああいや大丈夫だ。だがな、ミツキ」
「何?」と言いながら道路に戻した視線をもう一度アヤカの方にやると、そこには彼女の誇らしげな顔があった。
「砲台は砲塔と言うし、覗き穴は覗視孔と言うんだ」
「なるほど」
嬉し気に「ああ」と答えた彼女に、僕は尋ねた。
「じゃあこれは?」
そう言って、僕とアヤカの足元を仕切りのように横たわる機器を指すと「変速機」と。
彼女を囲む砲塔の、その付け根をぐるっと覆う部品を指すと「砲塔旋回装置」だと、ほれ見ろミツキ、このハンドルで動かすんだとぐるぐる回しながら、やはり誇らしげで嬉しそうな顔をしながらアヤカは答えた。やはりアヤカはアヤカだった。
それからどのくらいたっただろうか。昼食だと渡された缶詰を食べて、夕食だと差し出されたパンを齧ってから二時間か三時間は過ぎたような気がする。いつの間にか、雨のためにつけたライトが唯一の光源になっていた。
それでも雨の勢いは止まらなかった。外に出たならば、ものの二秒で全身ずぶ濡れになるくらいの土砂降りだ。
そんな圧倒的な豪雨を覗視孔とやらから眺める僕の視界のその端で、アヤカの顔が前後にふらふらと揺れていた。彼女の眠気がこの豪雨より強いのであろうという事は、僕自身がそうであるために痛いほど分かった。
「先に寝てていいよアヤカ。向こうでは頼むね」
「あ、ああ、分かった」
そのアヤカの返事を聞いて前を向き、再びガラス通して道路を見た。しかし僕の視界のその右端に、またふらふらと前後するものがあった。不思議に思ってアヤカを見ると、彼女は呟くように言った。
「わ、分かってはいるんだが足りないんだ。眠れない」
「足りない? 一体何が」
「分からんか……?」
心当たりは無かった。一体何だろうかと考えていると、それを見かねてなのか恐る恐るアヤカは言った。
「み、右腕使うか?」
「右腕?」
使うか使わないかで聞かれたなら、使わないと言えた。
北から西へと巨大な壁に沿って向かうこの旅の、その道のりはゆっくりと左に曲がるものとなる。最初こそ不慣れから多少右腕を使いはしたが、今はもっぱら左のレバーを動かすのみだった。
「いや使わないね。どうして?」
「だったら貸してくれ。あ、あのな。笑わずに聞いてほしいんだが、人の体温がないと眠れないんだ」
顔を赤らめながらそう言ったアヤカに右腕を差し出すと、彼女はそれを抱えて体を丸めた。そしてすぐに大きな呼吸を始めた。
この右腕を通して伝わる温もりのためにも、絶対に西に向かわなければならない。そう再び心に決めて、左手で頬を一度叩いて、いまだに強く雨の降り続く西へ続く道のりを睨んだ。
……これまでの誓いは本物だし、あの日の光景は忘れもしない。だがそれでも僕の意識を襲ってくる強い眠気を完全に振り払うことは出来なかった。もう何度目になるだろうか、戦車の側面の鉄板に、左の手の平を乗せて体温を吸わせ、同時に頭を天井に打ち付ける。だがそれによる効果も、今ではすっかり薄れてきていた。
出発してから何時間なのか、あと何時間走ればいいのか、まるで見当がつかなかった。激しく打ち付けてくる雨音も、もはや遠くのほうで聞こえる。
何度上げても降りてくるまぶたを、もう一度こじ開けるための左手にもう力が入らなくなってきていた。戦車を操縦しているこの自分を、さらにその中から操っているような異様な感覚が僕を襲っている。
考えてはいけないことだが、思ってさえもいけないことだが、もし眠ってしまったならば、その時は。
……一目見て僕はすべてを悟った。真っ白い風景があったのだ。僕は眠ってしまったのだ。
「頑張るんじゃなかったのか? がっかりだぜミツキさん」
面白がるように言う影に、返せる言葉は一つしかなかった。
「なあ影。僕を思いっきりぶん殴ってくれないか」
「お、いいねそれ。これで貸し借りチャラだ」
嬉しそうに腕をぐるぐると回す影に、僕は続けた。
「手加減するなよ」
「もちろん! あと多分、これでしばらくお別れだろうね。せいぜい頑張ってくれよなッ!」
強い痛みではね起きた。おまけに頭を打ち付けた。
はっきりとなった意識のもとに前方を見ると、この戦車は大きく右にそれていたものの、道路をはみ出してはいなかった。影に殴られた右の頬には、じんじんとした痛みが残っている。天井に思いっきりぶつけた頭の方は、触ってみれば腫れていた。
「ありがとう」
言えなかったその言葉を一つ残して、僕は左のレバーを引いた。
……そして、今はどれくらいだろうか。何時間もたったようにも思えるし、何十分でしかないようにも思える。目を一点に置き、ただ無心で左手を引いているだけなのだ。一つ確実にわかるのは、僕の体力の限界が近いということだ。体の底から震えが来ている。
西の部隊はどこにいるんだろうか。もう雨だってとっくに上がっているというのに、なぜ何も見えないのだろうか。もう朝を迎えていてもおかしくないはずなのに、なぜあたりは暗いのだろうか。
せりあがってくる吐き気を、空気を飲み込むことで何とか抑えている最中だった。僕はすべてを理解した。
そうか、そういうことか。東から上る太陽を、この巨大な壁が遮っていたのだ。それくらいに僕らが西までやって来たという事は。
見えた。北と同じような建物の、その横顔が見えた。まるで僕らを迎える凱旋門かのように、壁をまたいで大きな虹がかかっているのも。
右手をアヤカから引き抜いて、その手で彼女を揺らした。
「……うん? なんだ……」
「ついたよアヤカ。ついたんだ」
それだけ彼女に残してシートにもたれかかると、僕の意識は泥のように溶けていった。